52. 向き合う覚悟を決める
[8]
一夜明けて、7月8日の日曜日。
雫が目を覚ましたのは、午前2時過ぎのことだった。
早起きしすぎた理由は考えるまでも無く明らかで―――。
単純に昨晩、それだけ早く眠ってしまったことが原因に違いなかった。
昨晩は―――ユーリ達と一緒に入ったお風呂で湯あたりして、のぼせた状態のまま寝室のベッドに身体を横たえて、そのままゲームからログアウトした。
現実の身体へと意識が戻った時刻は、まだ8時半頃だったように思う。
当たり前だけれど、ゲームの中で体調を崩したからといって、その影響が現実の身体にまで及ぶことはない。
だから現実側に意識が戻った時点で、湯あたり特有の気分の悪さからは、すぐに解放されたわけだけれど―――。
……それでも、昨晩は。
ゲームからログアウトした後にはもう、何をする気にもなれなくて。
そのままベッドに突っ伏し、すぐ眠ってしまったのを覚えている。
(私の理性、いつまで持つかなあ……)
ユーリのことが、怖い。
プラムやイズミのことが、怖い。
彼女達と一緒に居ると……すぐにでも一線を超えてしまいそうな、自分が怖い。
どうしてあんなにも、彼女達は無防備なんだろう。
どうしてあんなにも、彼女達は積極的なんだろうか。
(どこかで理性が持たなくなって、半端な気持ちで手を出してしまうぐらいなら)
ちゃんとした意志で向き合い、彼女達に自分から触れるほうがずっと良い。
その為の努力と覚悟を、ちゃんと雫の側からも示すべきだろう。
(……次に3人に会ったら、ちゃんと自分の気持ちを伝えよう)
これからの行動の指針を、シズは自分の心に『意思』として刻む。
何かをしたいと思った時には、まず心のなかで強く念じることが大切。
それは意思操作が可能な『プレアリス・オンライン』から学んだことだ。
ベッドから身を起こして立ち上がると、軽く身体がふらついたけれど。これは昨晩、夕食も摂らずに寝てしまったのが原因だろう。
とりあえず早急に、何かをお腹の中に入れた方が良さそうだ。
めんどくさい朝に最強なのは、何と言っても冷凍うどん。
冷凍庫から取り出したカチカチの冷凍うどん1食分を電子レンジに入れ、温めている3分40秒の間に、雫は洗面台の前へ移動して口の中をゆすぐ。
寝て起きたばかりの口の中は、お世辞にも清潔ではない。なので朝食を取る前に必ず、洗口液を使って綺麗にするように雫は心懸けている。
着替えも済ませたあたりで、ちょうど電子レンジが調理の完了を告げた。
温め終わったうどんを皿の上に開けて、希釈しためんつゆを掛けてから混ぜる。
全卵を1個落としてから更に混ぜて、冷凍庫から出した刻みネギを散らす。
こんな感じの適当な味付けでも、ちゃんと美味しくなるから凄い。
朝食はごはん派かパン派か、みたいな問答がよくあるけれど。雫の場合に限って言えば、圧倒的に『うどん派』だと言えた。
「わっ」
カーテンを開けて窓の外を見て、初めて雨が降っていることに気付く。
しかも結構な雨量のようだ。近くのコンビニまで歩くのさえ、ちょっとためらいを覚えるぐらいの。
雫が暮らしているマンションは『全室防音』を売りにしているから、このぐらいの勢いで雨が降っていても、窓を開けない限りは部屋の中まで雨音が聞こえてくることはない。
そのせいで、今の今まで全く気が付かなかった。
スマホで天気予報を確かめると、今日は1日中雨が降り続くらしい。
学校がある平日に雨が降るよりは、まだマシだろうか。
「今日あたり、カーテンを洗いたいんだけどなあ……」
雫は大体年に2度、夏と冬の時期にカーテンを洗うようにしている。
そろそろ夏の分の洗濯を済ませておきたかったんだけれど……。この天候だと、今日のところは素直に諦めてしまうほうが賢明そうだ。
出来ればカーテンは陰干しで済ませず、天日に当てて干したいしね。
(……ま、今日はゲームに没頭する日だと割り切ろう)
現実の天候がどうであっても、仮想世界には関係が無い。
日付はもう7月8日になっているけれど、ゲーム内では今日の夜明けを迎えるまでは『七夕イベント』が開催されている筈。
つまりゲーム内の天候はまだ『快晴』が保証されているのだ。
*
ログインすると、そこはふかふかのベッドの上だった。
昨日から泊まっている、高級宿の寝室だ。現実世界のものよりも明らかに寝心地が良さそうなベッドの感触に、シズは少しだけ複雑な気持ちになる。
左右を見ると―――そこにはユーリとプラム、イズミの3人の姿があった。
湯あたりしたこともあり、シズは昨晩ひとりで早々にベッドへ入り、ログアウトした筈なんだけれど……。
どうやらシズが占有したベッドに、彼女達も後から入って来たらしい。
ベッド自体はひとり1台ずつある筈なんだけれど。それでも同じベッドが良いと彼女たちが思ってくれたことが、シズにはとても嬉しく思えた。
とはいえ……なぜか3人とも裸なのが、ちょっと気になるところだ。
もっとも、シズ自身は普通に服を着ているので、別に『事後』というわけでは無いんだろうけれど。
「ふふ、もったいないなあ」
嬉しさに思わず顔が緩みながらも、シズはそう独り言を零す。
寝室が2部屋あり、セミダブルのベッドが合計4台もあるっていうのに。結局はパーティ全体で、ベッドを1台しか使っていないわけだ。
「大好きだよ」
シズはベッドから上体を起こして―――ユーリ、プラム、イズミの順に、彼女達の首元にそっと唇を付ける。
吸い付くようなキスが、3人の柔らかな首元に淡い痣を残した。
彼女達が目を覚ますまでには自然に消えてしまうかもしれないし、あるいは残るかもしれない。
どちらにせよ首の付け根の部分なので、服を着れば隠れるだろう。
3人を起こしてしまわないよう気をつけながら、ベッドから出る。
まあ、ログアウトしている限りキャラクターに意識が戻ることは無い筈だから、特に気をつけなくても大丈夫そうではあるんだけれどね。
「こんな時間にお出かけですか?」
泊まっていた部屋を出て、宿のフロントのほうへと向かうと。
まだ深夜にも拘わらずスタッフらしき人が1名常駐していて、シズの姿を認めると同時にそう声を掛けて来た。
流石は高級宿だ―――と内心で感嘆しながら、シズは笑顔で応じる。
「すみません、目が覚めてしまったもので……私だけ先に宿を出ようと思うんですが。宿代の精算をいま行うことって、できますか?」
「もちろんです。お客様は6号室でしたね」
「はい」
フロントで全体の宿泊料金として12000gitaを支払う。
お値段はかなり高いけれど、その分ちゃんと良い宿だったと思う。
……できれば次の機会には体調を崩さないよう気をつけて、この宿の良さを余すところなく堪能したいところだ。
支払いを済ませて宿から出ると、予想通り天気は快晴だった。
星空を眺めて目抜き通りを歩きながら、シズは『配信』をオンにする。
《ヒャッハー! 配信の時間だあああ!》
《また凄い時間に配信開始しますね……!》
《ゆうべはお楽しみでしたね!》
《ゆうべのお楽しみが見たかった!(血涙)》
「おはよー、みんな。……ふふ、ゆうべのことは絶対見せてあげない」
《ちくしょおおおおお!》
出現した妖精が読み上げ始めたコメントに、シズはそう答えて微笑む。
お風呂で見た3人の可愛らしい姿は、断じて他の誰にも見せたくはない。
《こんな時間から配信やるの?》
《夜更かしはお肌の大敵でございましてよ!》
「あ、ううん。昨日早めに寝ちゃったせいか、実はさっき起きたんだよね。
目が覚めちゃったなら、どうせ錬金術師ギルドは24時間営業だし、この時間から『工房』を借りて生産するのも良いかなーと思って」
《深夜3時から労働……。これは社畜の鑑ですよ》
《おお、もう……》
《労働してないと不安になるんだね……わかるよ……》
《完全に心をやられておられる……》
「待って。そういうのじゃない、そういうのじゃないから」
妖精が読み上げる憐れみのコメントを聞き、思わず苦笑してしまう。
まあ……実際、病的なぐらい『工房』に入り浸ってる自覚はあるんだけどさ。
-
お読み下さりありがとうございました。




