229. 勝負にカツ!
[12]
オルヴ侯爵やビスコーテ辺境伯と連絡を取り、1時間から1時間半ほどクランメンバーの大半が戦場より離脱する旨を伝えてから、シズもまたログアウトする。
現実の身体に意識が戻ったあと、時計を見てみると夜の19時40分。
とりあえず21時頃には、再び『プレアリス・オンライン』のゲーム内にログインしたいところだ。
「んんーっ……!」
ベッドから立ち上がった後に、その場で背伸びをひとつ。
13時頃から長時間に渡ってゲームを遊んでいたこともあり、身体が随分と固くなっているような気がした。
簡単な屈伸運動で身体をほぐして。ついでに鏡を見ながら、横になっている間に少し乱れていた衣服も整えた。
別荘の個室を出て、真っ直ぐキッチンへと向かう。
先にログアウトした九重に全て任せてしまうのではなく、夕飯の準備や調理を、少しでも手伝いたいところだ。
「お帰りなさい、ご主人さま!」
「ただいま、九重。面倒を任せちゃってごめんね?」
「とんでもありません! お役に立てそうで嬉しいぐらいです!」
謝罪した雫に対して、満面の笑みを浮かべながらそう答える九重。
なんの裏表もない、素のままの笑顔だと伝わってくるだけに。笑みを向けられた雫の側もまた、つられて自然と笑顔になった。
「勝手ながらもう揚げ始めていますが、大丈夫でしたか?」
「ん、もちろん大丈夫。ごめんね、すぐ準備するから」
キッチン脇に掛けてあるエプロンを身に着けてから、流しで両手を洗う。
漠然と洗うのではなく、隙間なく石鹸を行き渡らせることが大事だ。特に指と爪の隙間などは念入りに洗浄する。
今日の夕飯には、ネットスーパーで『とんかつ用』の豚肉を買って貰っている。
勝負に『勝つ』と掛けた縁起物だから、『魔軍侵攻』イベント最中の夕飯には、ちょうど良いメニューだと思ったのだ。
……まあ、実際にはもう本命のソレット村防衛戦には『勝利』しているんだけれどね。レディバードの防衛戦にも連勝するための、景気づけにはなるだろう。
「あれ、味噌の良い匂いがする。もしかしてお味噌汁も作ってくれてる?」
「あ、はい。揚げている間が暇でしたので作りました」
とんかつは肉の厚みや状態にもよるが、揚げるのに5分から10分は掛かる。
また、普通のフライパンだとせいぜい2枚ぐらいしか一度に揚げられないから、待っている間はどうしても暇になる。
揚げ物の最中に、コンロから目を離すのはいけないこと……と思いつつも、つい他の作業をやってしまうのはよくある話だ。
「あの、ご主人さま。ひとつお願いがあるんですが、構いませんか?」
「うん? もちろん、なんでも言って?」
「その……。これ、カツ丼にしませんか? なんだか急に食べたくなっちゃって」
軽く頬を赤らめながら、そう提案してみせる九重。
そんな可愛い姿を見せられれば、もちろん雫の答えはひとつしかない。
「もちろんいいよ。作りたてのとんかつでカツ丼とは、贅沢だね~」
「どうしても冷めたカツで作ることのほうが多いですからね」
今更だけれど、既にとんかつを揚げている最中だと言うのに、キッチンにキャベツの用意は全くされていない。
食器も丼で使う深底の器しか用意されていないようだし、たぶん九重の中では、調理を始める前から『カツ丼』の気分だったんだろう。
雫にとって、カツ丼は普段から作り慣れている料理のひとつだ。
スーパーの惣菜コーナーが半額になったあとに、売れ残っているカツを購入して作ることがよくあるからね。
「ここって、沢庵はあったっけ?」
初瀬川家の別荘。そのキッチンの冷蔵庫や隣にある食料保管庫には、様々な食料品が備蓄されているけれど。流石にどんな漬物があったかまでは覚えていない。
なので、つい九重にそう訊ねてしまっていた。
「沢庵ですか?」
「うん、とんかつのお供なら漬物はなんでもいいんだけれど。カツ丼のお供だと、私の中だと沢庵が推しなんだよねえ」
「あ、わかります。そういうのありますよね」
雫の発言を聞いて、九重がくすりと笑みを零した。
和食が好きな人なら、大抵は『この料理にはこの漬物』みたいな推しを、持っていると思う。
きっと九重にも、少なからずそういうものはあるんだろう。
「僕は野沢菜のお漬物が好きなんですが、お豆腐がメインの料理にはいつも一緒に並べちゃいますね」
「あ、わかるわかる。相性良いよね。なんなら冷奴にそのまま乗せたりも」
「それもよくやりますね。あとは意外なところだと、グラタンのお供にも」
「……グラタンに、野沢菜の漬物を?」
「はい。これがなかなか相性が良くって」
「へぇー。ちょっと想像が難しいなあ……」
グラタンの味も、野沢菜の漬物の味も、どちらとも頭の中で明瞭に思い出すことができるのに。けれど、それを組み合わせた味わいというのは想像ができない。
けれど九重が勧めるぐらいだから、それはきっと美味しいんだろう。近いうちに一度、グラタンを作って試してみたい気がする。
幸いなことに、別荘のキッチンには大型のオーブンがあるから。6人分を一度に調理することもできそうだしね。
「……って、話を逸らしちゃいましたね、すみません。沢庵のお漬物ですが、僕の私物のぬか床に今ちょうど入ってますので、よろしければ是非どうぞ」
「へっ?」
九重の言葉に、たっぷり5秒ほど雫は言葉を失う。
言われた言葉の意味が、判るけど、判らなかったのだ。
「えっ……? え、ぬ、ぬか床を、持ってきてるの?」
「はい。いまお出ししますので、揚げ物の番を代わって頂けますか?」
「あ、うん。それはもちろん」
九重から菜箸を受け取り、彼女の代わりにコンロの前に立つ。
とんかつは既に4枚が揚げ終わっており、現在揚げている2枚で最後のようだ。
「よいしょっ、と」
アイランドキッチン下部の収納から、九重が何かを抱きかかえて取り出す。
それは蓋が付いている陶製の甕だった。九重の身体が小柄なこともあり、傍目には結構大きく見えるけれど。内容量的には4~5リットルぐらいの物だろう。
「本当にぬか床じゃん……!」
蓋を開けた瞬間、わずかに香る、ぬか床独特の発酵臭。
一般的にはあまり好かれない匂いかもしれないけれど。料理をする人間なら、この匂いを嫌う人なんて、そう居ないだろう。
「す、凄いね。九重はぬか床を自分で育ててるんだ?」
「はい。大して手間が掛かるものでもないですし」
「いやいや、常温のぬか床を管理できるのは、普通に尊敬するよ……」
ぬか床は、冷蔵庫や涼しい場所で管理する場合なら、数日から週に1度ぐらい混ぜれば良いものだけれど。この九重の甕のように、常温の場所で管理するものの場合だと、ほぼ毎日のように混ぜる必要がある。
作業量的にはそれほどでなくとも、毎日となるとやっぱり気後れしてしまうものだから。少なくとも雫は、自分でぬか床を育てようと思ったことがなかった。
「こちらでよければ、すぐにでもお召し上がりになれます!」
しっかりと手を洗浄した後、九重がぬか床の中から掘り出した丸々の沢庵。充分に漬かっていることがよく判るもので、見るからに美味しそうだった。
自分のぬか床を持っている。それは雫には、とても魅力的に映るもので。
「わあ……。九重、私と結婚しない?」
「―――ふぇ⁉ します‼」
ほぼ無意識のうちに、雫が告げた言葉に。
心底驚いた表情をしながらも、そう即答してみせる九重。
思わず求婚してしまう雫も雫だが、それを即受け容れる九重も大概だ。
二人きりのキッチンで交わした、ちょっとお間抜けなやり取りに。雫と九重は、どちらからともなく、ほぼ2人同時に吹き出した。
「っ、ふふ……! う、受けちゃうんだ、それ……!」
「あはっ! ご主人さまからの求婚でしたら僕、いつでも大歓迎ですから!」
2人で笑い合いながら、まったりとしてしまったせいで。
揚げていた最中のとんかつは、うっかり少し焦がしてしまった。
……まあ、軽く焦げてるぐらいなら、問題なく美味しいんだけれどね。
仄かな苦味も、卵で閉じちゃえばほとんど気にならなくなるし。
ちなみに九重お手製の沢庵は、言うまでもなく絶品だった。
思わず食べた後に、もう一度改めて求婚しちゃうぐらいにはね。
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