209. 防衛戦当日の朝(前)
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―――翌日の28日。雫は大体いつも通り、朝の5時半頃に目を覚ました。
昨晩は普段よりもずっと早い時間に『プレアリス・オンライン』のゲームからはログアウトしている。
何故なら、ソレット村には錬金術師ギルドのような施設が用意されておらず、霊薬の調合作業を行うための『工房』が利用できなかったからだ。
この世界では『錬金術』を行える場所が、制限されているのが一般的だ。
錬金術は失敗すると、結構な規模の爆発を引き起こすリスクがある。
だからその被害を避けるために、人が住む集落の中では錬金術師ギルドが用意する『工房』の中か、もしくは『自宅』の内部でしか錬金術が許可されないのだ。
もしこれ以外の場所で錬金術を行えば、それは普通に『罪』になる。
具体的には、都市や集落から即刻追い出されることになるのだ。
だからソレット村に滞在した昨晩は霊薬の調合が全くできなくて、いつものように深夜までログインしている理由も無かったというわけだ。
とはいえ―――ゲームから早めにログアウトしたからといって、早々に就寝したかといえば、これは『否』だったりもする。
昨晩は友梨たちと、その……色々と盛り上がったからだ。
『強化遠征』イベントに参加していた間は、ひたすらゲーム内でだけ何日も過ごしていたような感覚だったし。
久々に現実に戻ってきた一昨日の晩は精神的な疲労からか、夜には何もせずに、みんなでただ就寝してしまっていた。
その反動が、昨晩は凄く溢れてしまって。みんなと久々に『現実の身体』同士で愛し合う嬉しさに酔いしれて、随分と熱い夜を過ごしてしまったのだ。
だから……眠ったのは結局、深夜の25時頃だったように思う。
「今日も良い天気―――」
自室で着替えた後に、リビングに移動して窓の外を覗き込むと。
いかにも夏を思わせる強い陽射しが、今日も空から降り注いでいるのが見えた。
まだ夜明けからそれほど経っていない筈だけれど……。
この様子だと今日もあと1時間もすれば、すぐに気温も上がってくるだろう。
ジョギングに出かけるなら、そうなる前に済ませたいところだ。
「おはようございます、雫姉様」
「あ。おはよう、一心」
雫がそんなことを考えていると、程なく一心が起きてきた。
それに2分程遅れて、九重もまた目を覚ましてリビングに顔を出す。
2人とも下着だけを身に付けた格好だったので、一度別荘内の自室へと戻って、走りやすい軽装に着替えてきてくれた。
「今朝もご主人さまに、ご一緒させて頂いてもいいですか?」
「もちろん」
九重が問いかけた言葉に、すぐに笑顔でそう応える。
訊かれるまでもなく、雫としても一心や九重と一緒に出るつもりだったからだ。
ジョギング用の靴を履いて外に出てから、2人と手を繋いで箱根の住宅街をのんびりとしたペースで走る。
相変わらず、この時間にはペットを散歩させている人が多いみたいで。なんとも可愛らしいペットたちの姿を楽しみながら走っていると、自然と両隣にいる2人と交わす言葉の数も増えていた。
早くも気温が上がり始めているのか、それなりに汗をかいていたけれど。
少しでも風が吹いていれば、心地よい涼しさが感じられる程度でもあったので、このぐらいならまだ走るのにも悪くはないだろうか。
「やっぱり朝に一度、ちゃんと身体を動かしておきたいですね」
「ホントだよねえ……」
一心が告げた言葉に、雫もしみじみと同意する。
何しろ、日がな一日ゲームばかりしているのだ。その間、現実の身体はベッドの上からずっと動かないわけなので、不健康的にも程がある。
食後の度に軽くストレッチはしているけれど、それだけでしっかり身体が解れるものでもないから。やっぱり毎朝この時間に、ジョギングで全身を動かしておくというのは、結構大事なことのように思えた。
20分ほど走ってから、再び別荘へと戻る。
3人とも結構な量の汗をかいていたので、すぐに浴場のほうへと移動して、温めのシャワーを浴びて一緒に汗を流した。
折角なので、今回も温泉の湯温が低い場所に入る。
10分ほど浸かって身体がほっと落ち着いたあたりで、湯から上がった。
「おはようございます、雫お姉さま」
「おはよう友梨」
もう少し湯船に浸かっていたいらしい一心や九重よりも、一足先に冷房が効いたリビングへと戻ると。そこでは今日も友梨が既に待っていた。
友梨から差し出された麦茶のグラスを受け取り、その場で頂く。
わざわざ冷蔵庫から出しておいてくれたみたいで。冷たさが程よく和らいでいる麦茶は、心地よく喉を通って体の中を潤してくれた。
「ありがとね、友梨」
「いえ。お疲れでしたら、朝食の用意は私が代わりましょうか?」
「ううん、それは大丈夫。大した距離は走ってないし」
暑気のせいで汗はそれなりにかいたけれど、別に疲れてはいない。
むしろ、ちょうど身体に熱が通って、やる気が出てきたぐらいだ。
お代わりした麦茶を楽しみながら友梨と歓談していると、程なく九重もリビングへと戻ってきた。
ちなみに一心はまだ浴場に残っているらしい。彼女は別荘に泊まっている6人の中で最も『熱い風呂』を好むところがあるから、おそらく今頃は熱い部分の温泉にも浸かっていることだろう。
「そういえば雫お姉さまと九重ちゃんに、訊きたいことがあったのですが」
「お、どしたの?」
「少し欲しいものがありまして、今日ネットスーパーを利用しようと思っているのですが。何か食材などで一緒に注文するものはありますでしょうか?」
ユーリが言う『ネットスーパー』とは、簡単に言えばネット上で注文を受け付けて自宅まで商品を配達してくれる、スーパーマーケットのサービスのことだ。
この別荘の近くには、ちょうどネットスーパー事業を精力的に運営している店舗があるみたいで。午前中に注文すれば、当日中の夕方には届けてくれる。
友梨がわざわざ訊いてくれたのは、この別荘で主に料理をしているのが、雫と九重の2人だからだろう。
スーパーで取り扱われているような食材なら、ほぼ全てがネットスーパーで注文可能だから。今夜や明日以降に欲しい食材があれば、一緒に何でも注文してくれて構わないというわけだ。
「うーん、急に言われてもちょっと、判断が難しいかな……」
「そうですね、大抵の食材は揃っていますし……」
この別荘には初瀬川家に勤める使用人の人達が数日おきに訪れて、いつも様々な食材を補充してくれている。
なので現在のところは、別荘に用意されている食材だけで困ったことがなくて。だから他に欲しい食材を問われても、なかなか回答に困るものがあった。
「あ、じゃあ良かったら、豚ロースの厚切り肉を人数分頼んでも良いかな?」
「承知しました、では6枚ですね。ちなみに何を作られるのでしょう?」
「豚カツだね。だから『とんかつ用』として売られてる豚肉があればそれで」
「なるほど……縁起担ぎですね?」
「そういうこと」
すぐに首肯した雫を見て、くすりと友梨が小さく笑ってみせた。
折角、今日は『魔軍侵攻』イベントが開始する当日なわけだし。夕飯には縁起を担いで『勝負に勝つ』で知られる豚カツを、みんなで美味しく頂くというのも楽しそうだからね。
ちなみに、この別荘の玄関前には一戸建て向けの宅配ボックスが置かれていて、それは『冷蔵』の機能まで備えた高級品だったりする。
なので『プレアリス・オンライン』のゲームに没頭している間にネットスーパーの商品が届けられても、応対に出る必要はないらしい。
(お金持ちの別荘って、ホント凄いなあ……)
―――その話を友梨の口から聞かされた時に。
庶民気質の雫がしみじみとそう思ってしまうのは、もう仕方ないと思うんだ。
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