02. 『第4世代』って凄い(後)
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―――白石雫は同性愛者だ。
女性でありながら、生まれてから一度として男性を好きになったことはない。
まだ小学生だった頃から、気付けばいつも目で追う対象は同性の女の子であり、心を惹かれる相手もまた同性の女の子ばかり。
中学生になってもその性的指向は変わらないままで。高校に入り16歳になった今でも、変化が訪れることは無かった。
私は女の子だけを好きになる人間なんだ―――と。
今ではもう、雫自身そのことをしっかりと自覚し、そして受け容れている。
心が自然と求めてしまうのなら、どうしようもない。
いっそ認めてしまう方が楽になれるのは、考えるまでもなく自明のことだった。
自覚したとはいえ、雫にそれをカミングアウトする勇気は無い。
性的マイノリティへの社会理解と配慮が進み、同性結婚を筆頭に、多様性のあるパートナーシップの構築が認められるようになった昨今だけれど。
それでも、世の中の人の大半が異性愛者である以上は。同性愛者は少なからず、周囲から奇異の目で見られやすい部分がある。
雫には、そうした視線に晒される勇気が無かった。
だから現実では一切、自身の性的指向について誰かに告げたりはしない。
友人はもちろん、家族にさえ打ち明けたことはない。
きっと雫の本性を知る人は、まだ誰も居ない筈だった。
とは言っても、雫が自身の性的指向をカミングアウトせずにいるのは、あくまでも『現実』に限った話だ。
匿名性のある場所―――インターネット上に関しては、その限りでは無い。
むしろネット上に設置された同性愛者向けのコミュニティには積極的に参加し、同じ嗜好を持つ人達と関わりを持ち、情報交換を行うようにしていた。
現に雫には、入り浸っている掲示板やチャットルームが幾つもある。
VRチャットルーム『リリシア・サロン』もその1つだ。
新しく貰ったVRヘッドセットの使い心地を早速試そうと思い、手早く初期設定だけを済ませてから。雫は『第4世代』の機器でいつもの部屋へとログインした。
*
(………⁉ うわあああ……‼)
ログインすると同時に視界一杯に広がった、貴族向けの社交場を模した室内の光景に、雫は驚きを露わにする。
豪華なシャンデリアに彩られた空間は、とても華やかで眩く。ふかふかの絨毯で埋め尽くされた床は、靴の上からでも心地よさが感じられて。
なんというか―――再現された世界の解像度が、今までとは全く異なっていた。
雫が昨日まで使用していたのは『第1世代』の没入型VRヘッドセットだ。
その機器で表現されていたVRの世界だって、雫からしてみれば充分に現実感の伴うものだったわけだけれど―――。
(こ、これはもう、仮想じゃ無いよ……⁉)
『第4世代』の機器が再現するのは、もはや『現実感の伴う世界』ではない。
完全な『現実』だ。実際の世界と一体どこが違うのか、雫には全く判別ができなかった。
「ごきげんよう、シズ。今日はインして早々、随分と表情が豊かなのね?」
そんな雫の姿を見て、既に社交場の中に居た女性のひとりが、くすくすと楽しげに微笑みながらそう声を掛けて来た。
『シズ』というのは、雫がネット上で名乗っているHNだ。
「こんばんは、アキさん! 聞いて下さい凄いんですよ!」
「はいはい。ちゃんと聞くから、まずは座りなさいな」
やや呆れたような表情をしながら、宥めるようにアキはそう告げる。
アキは大人の女性で、以前本人から聞いた話によると年齢は30歳手前。現在は化粧品の販売店に勤務している社会人らしい。
この社交場にログインする人達は、基本的に場の雰囲気に見合ったドレスを身に付けている人が多いんだけれど。アキはパンツスーツを着用している姿しか今まで見たことがなく、実際に今日もその格好だった。
丁寧でありながら、はきはきと喋る言葉遣いも徹底されている辺り、おそらくは分身の見た目通り、現実でも仕事が出来るキャリアウーマンなんだろう。
アキに言われた通りに雫は―――もとい『シズ』は、アキと同じテーブルの座席に腰を下ろした。
同じテーブルには別の少女、ユーリの姿もあった。
「こんばんは、ユーリちゃん。相変わらずユーリちゃんは可愛いねえ」
シズがそう話しかけると、ユーリは嬉しそうに微笑んだ。
ユーリはいかにも幼い貴族令嬢といった姿をした、分身の少女だ。
分身の容貌は自由に設定できるため、もちろん実際にユーリの中身もまた少女かどうかは、判らないわけだけれど。
それでもシズはユーリのことを、きっと分身の見た目通りの年齢の子なんだろうと思っている。
会話する際のユーリの言葉遣いなどに、どこか子供っぽさがある語調というか、やや拙さを感じさせる抑揚が含まれているからだ。
VRでは姿は簡単に偽れるけれど、声の抑揚まで偽るのは容易ではない。
もっとも、語調に多少の子供っぽさが見られる一方では、ユーリはとても子供には思えないような慇懃な話し方をしたり、豊かな語彙を好んで喋る節がある。
だからシズはユーリを『幼い少女』だと思いながらも、同時に『とても頭が良い女の子』なんじゃないかと思っている。
それこそ幼い貴族令嬢姿の分身とも、よく似合うみたいに。
「ありがとうございます、シズお姉さま。現実はともかく、こちらの世界の身体は自分の好きな見た目に出来ちゃいますからね」
柔らかな表情の笑顔を浮かべながら、ユーリがシズの言葉にそう答える。
外見を褒められるたび、ユーリはいつもこんな風に謙遜してみせるんだけれど。シズはなんとなく、ユーリは現実でも凄く可愛らしい女の子じゃないかと思う。
ユーリとはもう、この『リリシア・サロン』で1年ぐらいの付き合いがあるのだけれど。彼女は幼いながらも大変に誠実で、そして優しい少女だ。
心根の綺麗な女性は、見た目も同じぐらい綺麗なことが多いと。まだ大して長く生きているわけでもないけれど……シズは今までの人生経験から確信している。
その判断が正しければ、ユーリの中身もまた可愛らしい少女に違いない筈だ。
「それで、シズは何に驚いていたのかしら?」
「聞いて下さいよ! 『第4世代』のヘッドセットが凄いんです!」
「ああ―――なるほど。以前ラギが送ると言っていたものがシズの元へと届いて、今は新しい機械を使ってこの場にログインしているということかしら」
「……あ、はい。そうです」
ただヘッドセットが凄いと告げただけで、こちらの状況を全て完璧に言い当ててきたアキの理解力の高さに、シズは言葉の勢いを失う。
頭の回転が良すぎる人との会話は楽だけど、ちょっと戸惑うところもあった。
「ではシズお姉さまも、これで『第4世代』仲間ですね」
「あ、ユーリちゃんもそうなんだ?」
「はい。私もアキお姉さまも、発売直後に『第4世代』に買い換えましたので」
「おお……。みんなお金持ちなんだねえ……」
40万円以上ものお値段がする第4世代の没入型VRヘッドセットは、シズには買おうという考え自体を持つことが出来ないほどの、高級品なわけだけれど。
どうやらアキやユーリにとっては、普通に買えちゃうものらしい。
やっぱりアキはキャリアウーマンらしく充分な稼ぎがあり、ユーリは両親におねだりすればプレゼントして貰えるような、本物のお嬢様なんだろう。
「シズ。もう知っているかもしれないけれど、最新の機種では『味覚』も再現できるようになっているわ」
「あ、はい。聞いたことがあります。『味覚』と『嗅覚』の2つは『第4世代』で初めて再現できた感覚なんですよね?」
「ええ、その通りよ。―――というわけで、まずは飲んでみると良いわ」
そう告げたアキは、どこからともなくティーカップをひとつ取り出して。テーブル上に置かれていたティーポットから、カップにお茶を注ぐ。
それからカップを、シズが座っている側へと差し出して来た。
「おお……。そっか、お茶の味が本当に楽しめちゃうわけですね?」
言うまでもなくシズが昨日まで使用していた『第1世代』の機種では、『味覚』の再現なんて全く行われていなかった。
だからVRチャットルーム内で『お茶を飲む』という行為をしていても、それにポーズ以上の意味は全く無かったわけだ。
けれども―――どうやら、今日からは違うらしい。
「ええ、その通りよ。早速初めての『味』を体感してみると良いわ」
「―――いや、それでは勿体ないだろう?」
不意に、シズの背後からそう声が掛けられる。
驚きながら振り向くと、そこにはシズの元へ最新のVRヘッドセットを送ってくれた当人である、ラギの姿があった。
「ラギさん!」
「贈り物は無事にシズの元へ届いたみたいだね。よかった」
「はい、今日の午前中に受け取りました。ありがとうございます、ラギさん。今までのものとは現実感が違いすぎて、びっくりしましたよ!」
「はは、そうだろうそうだろう。弊社の製品を気に入ってくれたなら嬉しいよ」
ワイドネックのシャツにデニムパンツという、社交場の雰囲気を気にも留めない男性的なコーデを身に付けたラギ。
彼女は服装に見合うやや男っぽい口調で、楽しげに笑ってみせた。
「―――シズ。この『リリシア・サロン』の参加条件は何だったかな?」
「参加条件……ですか? 同性愛者であることと、機器の生体認証による性別証明ができること、だったと思いますけれど……」
今シズ達が居るこのVRチャットルーム『リリシア・サロン』は、誰でも自由に入室できる公開部屋ではない。
参加するためには2つの絶対条件がある。1つはログインに使用している端末、没入型VRヘッドセットの側でユーザー登録と生体認証を済ませており、ユーザーが本当に『女性』である事実が証明できること。
そして、もう1つは同性愛者であることだ。
『リリシア・サロン』は女性の同性愛者によって設置され、同じ嗜好を持つ女性のためだけに運営されている部屋。
だから原則として、条件に該当しない人の参加が許可されることはない。
「そうだね。シズの言う通り、私達は同性愛者だ。
―――だから同性愛者らしい方法で『味覚』を確かめてみるのが良いと思うよ」
「えっと……。どういう意味ですか?」
「そこに、今までお茶を飲んでいた人が2人も居るじゃないか」
「………?」
ラギの言葉の意味が理解できず、思わずシズは首を傾げてしまうが。
「なるほど?」
「あはっ、それも楽しいですね」
アキとユーリの2人はそれぞれに軽く笑いながら、そう告げていた。
どうやらシズとは違い、同じテーブルに座るアキとユーリの2人には、ラギが言わんとすることがすぐに理解できたらしい。
「だが、私はポリアモリーだからな……。唇を触れ合わせるだけならばともかく、味を共有するような口吻けをするとなると、事前に恋人の許可を得ていなければ都合が悪い」
「では今回はアキお姉さまよりも、私のほうが適任というわけですね」
「そうなるな。ユーリ、頼めるか?」
「はい、喜んで♡」
嬉しそうにはにかみながら、アキの言葉を承諾するユーリ。
それからユーリはおもむろに椅子から立ち上がり、シズの傍に近寄ってきた。
「シズお姉さま」
低身長のユーリから上目遣いに見つめられ、思わずシズはどきりとする。
「えっと……。何かな?」
「どうぞ♡」
その体勢のまま、ユーリはゆっくりと瞼を閉じる。
流石にそこまでされれば―――彼女がどんな行為を促しているかは理解できる。
「……いいの?」
「シズお姉さまが、お嫌でないようでしたら」
「ユーリちゃんが相手で、嫌なわけ無いんだよなあ」
シズは同性愛者だ。そして、据え膳をわざわざ断るほど酔狂ではない。
だからゆっくりユーリの唇に自分の唇を重ねて、シズもまた瞼を閉じた。
現実ではまだ、一度もキスを経験したことがないシズだけれど。仮想世界にあるこの『リリシア・サロン』では、それなりに豊富な経験を積んできていた。
ここは同じ嗜好の持ち主だけが集まる場所なので、キスを交わす相手には事欠かないからだ。
それでも―――この日にユーリと交わしたキスは、まるで初めて同性とのキスを経験した時のように、シズにとって鮮烈な体験となった。
『第4世代』の機器が伝えてくる触感は、今までの『第1世代』の機器で得られていた感覚と、何もかも違っていたからだ。
ただ唇を重ね合わせるだけでも、つやと張りを伴う唇の質感や、互いの息遣いまでもがつぶさに感じられて―――徐々に理性が溶かされていく気がしてくる。
我慢できずにシズの側から舌先を差し入れると、ユーリの身体が小さく震えた。
(ああ―――紅茶の味がする)
なるほど『味覚』が再現されるというのは、こういうことなのか―――。
そう思いながら、シズはユーリの口腔の中に差し挿れた舌をねっとりと絡めて、彼女がつい先程まで味わっていた紅茶の味わいを楽しんだ。
また、紅茶の味だけでなく、それに加えて―――自分ではない唾液の味わいまでもが、明瞭に感じられるというのが凄い。
無機質だけれど、生々しくて。僅かに温くて、仄かに甘い。
そんなユーリの唾液の味わいが、シズの頭に痺れにも似た酩酊感を覚えさせる。
途中で息が苦しくなって、濃厚な口吻けをこれ以上続けることができず、2人の唇がようやく離れた後には。
ユーリの表情は、幼い少女のものとは思えないほどに蕩けきっていた。
「あぁ……。シズお姉さまぁ……♡」
どこか恍惚とした声色で、そう言葉を漏らすユーリ。
唇を触れ合わせるだけのキスなら、今まで仮想世界で沢山経験していたけれど。互いの舌を絡ませるディープキスは、今回がシズにとっても初めての経験だった。
だから上手く出来ているかは全く自信が無かったんだけれど……。
ユーリの表情を見る限り、少なくとも『下手』では無かったみたいだ。
「……あれ? 今までは確か、普通のキスは出来てもディープキスは出来なかったような気がするんですけれど……?」
シズはふと、そんな疑問を抱く。
欲求を我慢できず、つい勢いのままにユーリとディープキスを交わしていたシズだけれど。よくよく考えてみると―――それはVRヘッドセット上で禁止されている『セクハラ行為』に該当するものであるように思えた。
「シズが昨日まで利用していたような市販品の『没入型VRヘッドセット』では、他者に対するセクハラ行為が出来ないよう機器側で制限が掛かっていたからね」
「………………じゃあ、なんで今は出来たんです?」
「そんなもの、私が予め制限を解除しておいたからに決まっているだろう」
何を当たり前のことを訊いているんだい? ―――とでも言いたげに。
ラギが堂々とそう口にするものだから、思わずシズは混乱する。
……ラギの話によると、開発メーカーに勤務する人間からすれば、ヘッドセット端末に仕掛けられた制限プログラムを取り除く程度のことは、造作もないらしい。
少なくとも自社製品なら『第4世代』のものでも、あるいはそれより古い機種であっても。本体機器に触れる必要さえ無く、オンライン・メンテナンスに偽装してネット経由で製品に任意のコードを流し込めば、簡単に解除できてしまうそうだ。
なので実際に、この『リリシア・サロン』に入り浸っている常連の人達が使用している端末は、ラギの手によってほぼ全てが制限を解除されているらしい。
そしてシズが今使っている製品は、発送前にラギの手によって実に様々な改造が加えられているらしく。当然その制限などは真っ先に排除されているそうだ。
「えっと……。それならどうして、今まで私が使っていた端末のほうは制限を解除してくれなかったんですか?」
今までシズが使っていたVRヘッドセットも、確かラギが勤務しているメーカーから昔、販売された製品だったように思う。
シズがそう問いかけると、ラギは「ああ……」と嘆息してみせた。
「それはシズが使っていた機種が、あまりに骨董品過ぎたからだね……。
『第1世代』の没入型VRヘッドセットは、ソフトウェアではなくハードウェアの側で制限が掛けられているから、解除が凄く難しいんだ。少なくとも実物に触らない限りは、絶対に解除できないと思ってくれていい」
「な、なるほど……」
シズが使っていたものは5年ほど前に中古で購入した製品で、その時点でも既に発売から10年以上が経っていたように思う。
確かに―――それは『骨董品』と言われても、仕方がない物かもしれなかった。
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お読み下さりありがとうございました。