偽善の目撃者
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時は昼まで遡る。
用事があると出ていったゼロに、どうせロクでもない用事だと決めつけ、ハヤトはルエと共に執務室へと向かっていた。
午後からナズナと勉強をするというものだから、それならば、そちらで執務をこなしても問題はないはずだと、執務室へ書類を取りに行く途中である。
「あらん?王女サマ、ご機嫌いかが?」
執務室に入ろうとしていたユンシャルと出会ってしまった。彼女は唇をぺろりと舐め、ルエの全身をあますことなく見つめている。
間に入ったハヤトが、ユンシャルの代わりに扉に手をかけた。するとユンシャルは、それを待っていたかのようにその手を取り、そして自分のほうへとその身体を引き寄せた。
壁に背を預けるようにすると、ユンシャルはそのまま身体をハヤトに纏わりつかせる。ハヤトは離れようとするが、悲しいかな彼の力は彼女には及ばず、唇を合わせる形になってしまう。
「……っ」
ハヤトの頭に回された腕が離れることを許そうとはせず、嫌々ながらも深く口づける結果になってしまう。
「んっ、盾の騎士サマは、キスがお上手なのね。物足りなくなっちゃう」
「こちらは最悪の気分だ、変態騎族め」
ハヤトの脚に自身の脚を擦りつけ、ユンシャルは、堪らないとばかりに小さく声を上げる。ちらりとルエを見ると、彼女は円卓の間で見た時と同じように、ただただ薄く微笑んでいた。
もう少し狼狽えるか、もしくは悲しむかと思ったのだが、彼女はどうやら成長したらしい。先程のあれは、ただのハッタリではなかったというわけだ。
「盾の騎士」
薄く微笑んだまま、小さな唇から言葉が漏れる。
「ご挨拶、済みましたか?なら書類を取りに行きましょう」
「……承知しました」
忌々しくユンシャルを睨みつけ、ハヤトは執務室へと入る。残されたユンシャルもまた、つまらないとばかりに執務室へ入ろうとし。
「ユンシャル様」
そう距離を詰めてきたルエによって、それは出来なくなり。
「返してもらいますね」
何を、と聞く前に、ユンシャルはルエの小さな唇によって言葉を発せなくなってしまった。息さえも忘れるような深いそれに、ユンシャルは自身の身体が痺れるのを感じる。
やはり、この王女に誓いを立てたのは間違いではなかったのだ。
「あぁ……、ルエ、様ぁん」
離れた彼女を追おうと手を伸ばすが、それをひらりとかわしてみせ、ルエは何事もなかったかのようにふわりと笑う。
丁度出てきたハヤトに、行きましょうと歩き始めた背中を見つめ、やはり彼に言ったのは間違いではなかったのだと思う。あの王女は、可愛い顔をして、存外手段を選びはしないのだと。
少し時間に遅れてしまったが、ナズナの待つ部屋の前まで来ることが出来た。時折すれ違う騎士やメイドたちには、ルエは朗らかに笑ってみせるが、少し後ろを歩くハヤトにそれが向けられることはない。
やはりユンシャルとのことだろうか。いや、自分はあんな変態なぞ眼中にないし、それはルエが一番よく知っているはずだ。
「……王女」
扉を開けようとしたルエに、思わず声をかける。
彼女は振り返りはしたものの、ハヤトを見る視線は冷たいままだ。
「……ルエ、さっきは、その、悪かった」
「怒ってないです」
ならばなぜ、こんなにもツンケンしているのか。普段ならルエ相手にイラつくことはしないが、次第に腹が立ってきた。こちらはしたくもなかったことをされ、確かに悪いとは思ったが、だからこそ謝ったというのに。
そう思った瞬間には、身体が動いていた。
両手を壁に追い詰めるように勢いよくつく。持っていた書類の束が派手に床へと散らばる。ルエの表情に恐怖の色が浮かんだが、そんなものはどうでもよかった。
「ハ、ヤトく……」
「黙ってろ」
ハヤトを押しのけようとした手を、頭の上でひとまとめにし、氷づけにして壁に張りつける。自分に向かって、術を使われたことなどないルエの表情から、血の気が引いていくのがわかる。
「い、いや、です……」
身体をよじるが全く動かず、ルエはせめてもとハヤトをきつく睨みつける。もちろん、それくらいでハヤトが怯むわけもなく。
襟元をはだけさせると、首に唇を寄せきつく吸い上げた。はっきり残る痕と、涙目になるルエに気が昂るのを感じ、自分もユンシャルのことを笑えはしないじゃないかと自嘲した。
「お前が怒らせたんだろ」
「ち、ちが……。私はそうじゃなくて」
「言い訳はいい」
「んんっ、ぁ……」
煩わしい口に指を差し入れ何も言えなくする。指を伝う涎と漏れる吐息が、ハヤトの思考を乱しては、さらにもっとと追い立てていく。
髪を上げてやり耳に舌を這わせる。ルエは逃げようとさらに身体をよじるが、最早それさえもハヤトを煽るひとつでしかない。ルエ本人は無意識なのだろうが。
耳元で響く音がルエの中で反響する。同時にそれは、ルエにとって恥ずかしさを何倍にも高め、しかし彼に触れられた箇所が熱を持つことが憎らしい。
ハヤトはルエの足の間に、自身の足を入れ閉じられないようにした。そして唇を離し、口内を犯していた指でルエの小さな唇を撫でてやる。
「いい格好だな、ルエ」
目立つ朱も、羞恥で歪んだ顔も、知るのは自分だけでいい。歪んだ感情だと言われても構わない、のに。
「私、は……、自分が許せなくて……」
「……ルエ?」
意味がわからず、その涙で濡れた顔を覗き込んだ。
「王女、だから。貴方に、我慢ばかりさせてて、満足にキスも、出来なくて……。私のせいなのに、貴方に八つ当たりしてしまう自分が、許せなくて……」
「……っ」
「ほんと、は、ユンシャル様のことも、私は王女だから、それらしく振る舞おうと……でもやっぱり私は」
ほろほろと零れる涙に、ハヤトは息が止まる感覚がした。
氷に手をかざし溶かしてやる。赤く、霜焼けになってしまった手首が目に入り、ハヤトは申し訳なさそうに視線を反らした。
「……ごめんなさい。私、先に入ってますね」
赤い手首を隠すようにし、ルエは足早に部屋へと消えていく。中からナズナが、服ぐらい正せと言っているのが聞こえ、入ったらまず説教が飛んでくるだろうと思わずにはいられなかった。
書類を束ねてから入ると、呆れた表情のナズナがハヤトを睨んできた。なるべく気にしないように、ハヤトもまた空いている席へ座ると、書類の束を広げ始めた。
ルエのことは見るに見れなかった。本当は、腕につけた痕も、首につけた朱も術で治せるのだが、今それをするのは気まずかった。
「……ではルエ様、本日は南大地についてのお話を致しましょう」
「はい。お願いします、ナズナ様」
書類に走らせていた手が止まる。目ざとくも、それを見たナズナがわざとらしく咳払いをし、ハヤトにうやうやしい笑みを向けた。
「ハヤト様もお聞きになられますか?故郷に当たるお話ですよ」
「聞くも何も、ここにいれば嫌でも耳には入るだろう。勝手に進めればいい」
「そうですか、では始めましょうか」
ルエが手元の本を広げる。ちらりと見ると、そこには南の命名規則が書いてあった。自分にも、そういえばそんな名前があったなと記憶を手繰り寄せ、いやもう名乗ることはない名だと書類に視線を落とした。
「……ハヤトくんは、名前、ないんですか?」
「え?」
驚きと共に顔を上げると、少し不安げな、何か話題を繋ごうとしているルエと視線が絡み合った。
「……ある、が、団長から、お前はウィンチェスターの人間だから名乗るなと、昔言われて」
今にして思い返せば、きっとあれは父親なりの意地でもあったのだろうか。もちろんそれを聞いたとて、答えてはくれないだろうし、何より、ハヤト自身が昔の名に固執をしていない。
ルエが安心したように笑うのを見て、ハヤトは黙って書類にペンを走らせ始める。ナズナが言葉を形にしていくたびに、ハヤトの頭の中に、あの村の記憶が映し出されていった。
微かに写る記憶のそれは、いつも自分を冷たく、しかし期待に満ちた目で見る、嫌な大人たちの姿しかなかった。




