暗がりと自転車
階段を降りた俺は鳥居に寄りかかって待っていた。勝手にひとりで歩いて帰ろうとも思ったが、やはり足が痛むことと、なによりあいつが怒るだろうということで仕方なく待っていることにした。
あいつが怒ったところでどうってことないが、すれ違う度に嫌味を言われるせいで非常に鬱陶しくなる。だから極力怒らせない方がいい。
そう心得ていてもちょっとしたことで怒ることもあるせいで、考えるだけ無駄かもしれないが。
十分ぐらい経ったころだろうか。すっかり暗くなってしまった街の中から一筋の光が見え始めた。それはフラフラと揺れながら少しずつ俺の方に向かってくる。
最初は何者かと思ったが、こんな時間にこんな所にやってくる奴なんてそうはいない。だから必然的にあいつだろう。
しかしやけに早いな。家から結構離れている場所だからそれなりに時間がかかるはずだ。確か、俺は歩いて一時間はかかった。
たとえあいつがやけに足が速くてもこんなすぐには来られないはずだ。
いったいどうなってるのかわからなかったが、光が近づいてきてすぐにその理由を理解した。
かなりの勢いで走ってきた光は俺の目の前で止まる。キキーと、甲高いブレーキの音を響かせて。
「迎えに来てやったわ」
ソレから降りた在希は息を整えるとそう言い放った。そういえば家の裏にあったな、使ってない自転車。なるほど。これに乗ってきたのならこれだけ早く着いたのにも納得だ。
つーか、それ使えたのか。遠出するのに便利そうだと前々から目を付けていたんだが、整備してなさそうだから心配で触ってなかったんだよな。
こいつが当たり前のように乗ってきたのを考えると問題なさそうだ。明日からは俺が有効活用してやろう。
「さて、とっとと帰りたいから乗って」
乗れって……どこにだ。
当たり前だがこの自転車には二人分のサドルはない。こいつが座っているやつの後ろには荷物を括り付ける用の金属の柵みたいなのだけだ。俺はこれを椅子とは認めない。
「ほらさっさと乗りなさい。願い事ってことにしたっていいから」
だが、俺の足が絶賛悲鳴をあげているところであるのも事実。尻の痛みを我慢して仕方がなく跨いで乗ることにした。
ちなみに願い事にはカウントしていない。どう考えても俺が施しを受ける側だからだ。
俺が完全に座ったのを確認すると在希はペダルを強く踏みしめ、自転車が前に進み出した。
おお。楽ちん。俺が足を動かすことなく家に向かっている。
けど、結構揺れるな。それになんというか、収まりが悪い。街の端っこの方となるとあまり整備されていない道が多いんだが、そのせいで若干でこぼこしている。そこをタイヤが踏みつける度に衝撃が直接かかってくる。
まだ走り始めて何分も経っていないのにすでに降りたい気持ちでいっぱいだ。
「あんた、自転車に乗るのは初めて?」
俺が痛みと戦っている中、在希がそんなことを聞いてきた。おそらくずっとペダルをこいでいるだけでヒマなんだろう。仕方なく俺も話に乗ってやることにした。
「ああ。後ろに乗るのも初めてだ」
俺は自転車に乗った記憶はない。だが、その辺のガキンチョが乗っているのは何度も見ている。あんな子供が当たり前のように乗れるものだ、俺に乗れない道理はない。
「なんだ。運転するの代わってもらおうかと思ってたのに」
「そうかそうか。それは残念だったな」
俺が乗れるかどうかはさておき、俺は楽させてもらうとする。一応怪我人だしな。しっかり甘えさせてもらおう。
自転車は夜風と暗闇を切って走る。しばらくすると痛みにも慣れてきて余裕が生まれてくる。
しかし、夜では周りの景色を楽しむことはできない。だから俺は必然的にすぐ目の前でペダルをこいでいる在希を見ることになる。
「なぁ」
俺が声をかけるとこいつは「うん?」と返してくる。自転車はあまり速く走っていない。無理のないペースでこいでいるんだろう。だから話す余裕はまだあるはずだ。
「聞かないのか?」
「何? 主語がないとわからない」
くそっ、こいつ……わかってて言ってるだろ。
「俺がなにしてたかってことだよ」
行ったことのない、普通なら行く必要もない、街の端。
そんな場所で何をしていたのか。どうして足を怪我したのか。他にも聞きたいことは色々あるはずだろう。
なのになにも聞いてこないというのが違和感しかない。せっかく迎えに来たんだからなにか聞くもんだろ。
「どうせろくでもないことしてたんでしょ」
俺をどんな奴だと思っているんだ。俺はろくでもないことなんてしないぞ。やったとしてもそれは時計を使って時空の狭間に置いていっている。
「俺はちゃんとしたことしかやらない」
「へぇ。じゃあ説明しなさいよ」
「秘密だ」
一色のお遣いをやっていただけだとは言えない。怪我をしたのもただ転んだだけというのも情けないしな。
「言う気ないなら最初から話を振らないで」
冷たい声でそう言われる。
そうは言ってもな、何もないと少し寂しいものだろう。ちゃんと聞いてくれ。それに答えるかどうかは別だが。
自転車は暗い夜道で前だけを照らしながら進んでいく。たまに曲がったり、フラつくことはあっても、ペダルをこぎ続ける限り、進んでいく。
この街の夜は暗い。それは街灯がほとんどないからだ。夜にうろつく人はまずいないから街灯の設置も最低限なのだと聞いたことがある。
どうして夜に誰もうろつかないか。それはこの街の人々が闇を嫌うからだ。闇を嫌って、夜になると家に籠もり、明かりを灯す。
しかし、どの家も窓にカーテンをかけ、その光を外にこぼすことはない。光はただ、自分だけを照らすためのものだからだ。
最初にそれを知った時はなんて自分勝手な連中なんだと思ったものだが、こうして真っ暗な夜に空を見上げてみたらその考えは変わった。
街から明かりが消えれば、代わりの光が空に上る。
もしかしたら光を出さないようにしているのは、他人が得られる光を奪わないようにするためかもしれない。
ただそれを口にするのは恥ずかしいから、誰もが天邪鬼になっているだけ。
そう考えると案外この街の人々も捨てたもんじゃないのかもしれない。
「なぁ。明日ってどうやって見つけるんだろうな」
俺がこぼしたその言葉に在希は「さぁね」と小さく返した。
夜空に瞬く満天の星に手をかざす。
どんなに手を伸ばしても届かないそれが放つ光は小さなものだ。それだけでは夜を明るく照らすことはできない。
けど、どんなに小さくても、それは決して消えることはない。今日が終わって明日がやってくるように、当たり前と言われることだ。
「明日を見つけるのを手伝って」
在希が言ったその願い事が何度も頭の中を木霊する。一色にも聞いたが、意味はまだよくわからない。
けど、なんとなくそこにはこいつの本音が隠れている気がする。いつも人をおちょくるばかりの癖して、今みたいに対価を求めず人を助ける。
そんな人物が在希だ。
何を考えてるのかわからない。面倒だけど、放ってはおけない。
俺はまだこいつのことをよく知らない。けど……だからこそもっと知りたいと思っている。
自転車のすぐ後ろ。手を伸ばさなくても触れられる距離。長い髪が風に揺さぶられて肌をくすぐってくるほそ近い距離。
けど、きっと心はそれほど近くはない。それが今の俺たちだ。
俺はもっと対等な関係になりたい。どうすればなれるかを考えた時、俺は恩返しをすることを考えた。
きっと恩があるうちは対等とは言えないからだ。
今日のことでまたこいつに恩ができた。もっとこいつの願い事を聞いてやろう。それでこいつが満足したら、そうしたら……どうなるんだろう。わからない。
まぁ、それはその時になったら考えるとしよう。今はまだ、この場所に甘んじて、明日はもっと近づいてみせるんだ。
「あんたが帰り遅かったからあの子怒るだろうね」
「マジか。粘ついたものは勘弁してくれ」
明日の食事のことを考えただけで憂鬱になってきた。けど、心配させた俺が悪いわけだしなぁ。
とりあえずできるだけ早く機嫌をなおしてもらえるよう努力するとしよう。もしかしたら明日は今日より大変かもしれないな。
と、そうだ。すっかり言い忘れてたことがあった。
「ありがとな。迎えに来てくれて。助かった」
「ん。どういたしまして」
幸憂『明日の朝食は納豆にしますね』
七詩「勘弁してくれ」
在希「ざまぁね」
幸憂『姉さんの分はキノコ尽くしです』
在希「勘弁してよ……」