それは春の終わりの頃
静かに、とても静かに一日が始まります。
それはいつもと何も変わらない朝。窓から入り込む心地よい陽光が、僕の顔を照らしてくれました。
ぼーと窓の外を眺めて、胸の前で組んだ両手を頭上に持って行く。
伸びが終わり、かぶっていた布団を畳むと、頬が少し濡れていることに気づきました。
寝ている間に泣いていたのでしょうか。
洗面台で顔を洗ってから、いつものように台所に向かいます。
され、今日も朝食を作りましょう。
「おはよ……」
目玉焼きを焼いていると、台所に姉さんがやってきました。
いつもなら僕が起こしに行かないと布団から出てこないのに、自分で起きてくるなんて珍しいです。季節外れの雪でも降るのでしょうか。
姉さんは寝ぼけ目をこすりながら、すでにできあがってお皿に盛り付けられている卵焼きをひとつまみ。
お行儀が悪いことですけど、言ったところで姉さんは聞かないので僕は何も言いません。
きっと今日はお腹がすいていたんでしょう。昨日はどうしてか体調が悪かったらしく早く寝てしまい、夕飯も食べていませんでしたから。
だからできたての料理の香りに誘われて起きてきたと考えれば、なんだか悪い気はしません。
二つ目の卵焼きを食べつつ「おいしい」と言ってくれていますし。
さて。
ベーコンを下地にして焼いた目玉焼きに軽く胡椒をまぶして、フライパンからお皿へと滑らせます。
お味噌汁は昨晩の残りを温めておいたので大丈夫です。
姉さんを起こしに行かなくて済む分、いつもより少し早いですけど、ご飯をよそって朝ご飯にしましょう。
「ねぇ、幸憂?」
白米をお椀によそっていると、姉さんが不思議そうに聞いてきます。
僕は両手が塞がっているので、姉さんに『どうかしました?』と瞳で聞き返します。
すると姉さんは目玉焼きを指さして言うのでした。
「なんだか数が多くない?」
朝食を作るのは僕の当番です。それはもう何年も前からずっとのこと。
なので、ほとんど意識しないで料理を作ることができます。
そのせいか、僕も姉さんに指摘されるまで気がつきませんでした。
どうしてか、僕と姉さんの分以外にも、あとひとり分の朝食がそこには並んでいました。
お弁当を作って姉さんを学校へと送り出し、それからどうしようかと思いました。
もうひとり分の朝食。
どうして作ってしまったかはさておいて、せっかく作ったのに食べないというのはもったいないです。
ただ、僕も姉さんも自分の分だけで十分ですし、もったいないからと無駄に多く食べてしまうのもちょっと考え物です。
そう考えた時、一色様の顔が思い浮かびました。
そうです。せっかくなので一色様に食べてもらいましょう。
僕は朝食をお盆にのせて、一色様のところへ向かいました。
お社の中で一色様は目をつむって座っていました。お勤め中のようです。
お邪魔しては悪いですし、僕は待っていることにしました。
障子を締め切っていて風もないはずなのに、一色様の艶やかな紅い髪が揺れる。
その姿は幻想的で、だからこそ一色様が僕らとは違う存在なんだということが実感できました。
「……幸憂、か」
しばらく待っていると一色様が静かに目を開き、僕の方を見ました。
僕は頷くと、一色様の前へお盆を運びます。
『朝食をご用意致しました』
「そうか。感謝する」
一色様は淡々とした声でそう答えます。
ただ、食事には手をつけず、どうしてか僕の目を見つめてきました。
「外に出られたようだな」
一色様にそう微笑みかけられて、初めて気づきました。
僕はどうして、家の外に出ているんでしょう。昨日まで、あれだけ、玄関の扉が開くのが怖かったはずなのに。
特にこれといって障害にも思うこともなく、自然に外に出ていました。
そして、その事実に気づいても呼吸が荒くなることもありません。
いったい、なにがどうして。
「外に出られたのなら、そのうち声も戻ってくるだろう。おめでとう」
『一色様が何かしてくださったのですか』
理由として真っ先に思い浮かんだのは一色様が神の力で何かをしたということ。
でも、それを一色様は否定しました。
僕が自分で乗り越えただけだ、と。
もしも何の憶えもないというのなら、それだけ取るに足らないことだっただけだ、と。
「だが、そうだな。夢でも観たのかもしれないな」
その後、一色様はまたお勤めを始めました。
料理は後でしっかりと食べてくれるようです。
それと、可能であれば毎日食事を持ってきて欲しいと言われました。
一色様のお世話になっているのは僕らなので、それぐらいのことだったらいくらでもやります。
僕が運んでこられるようになったので、これからは姉さんの手を煩わせることもありません。
それに、僕が外に出る練習にもなります。家の外には出られても、まだ神社の外まではいけませんでしたから。
でも、いつかはちゃんと外に出たいと思っています。
家に戻った僕は、縁側で外を見ながら本を読んでいました。
ずっと考えていると同じ疑問がループするばかりで、それならいっそ別のことで気を紛らわそうと思ったんです。
ですが、本の内容は頭に入ってこず、疑問の解決もできないまま夕方になっていました。
洗濯をこんでいると、玄関の扉がガラガラと音を立てて開きました。ちょうど姉さんが帰ってきたようです。
「ただいまー……って、どうしたの!?」
玄関まで歩いて行って、姉さんを出迎えます。
そうです。いつも通り。何もおかしなところはありません。
なのに、どうしてでしょうか。
当たり前のように笑って帰ってくる姉さんの姿を見ると、涙がこみ上げてきました。
そんな僕を見かねた姉さんが駆け寄ってきて、そっと頭をなでてくれます。
温かいその手に、安心する。
どうして泣いているのかはわかりません。
ですけど、きっと悲しいからではなく、嬉しいからなんでしょう。
ただ、それだけではなくて、頭に触れるその手に、ほんの少し寂しさを感じていました。
ぐずりかけていた僕は数分後にはなんとか落ち着いていました。
姉さんにどうして泣いているのか理由を聞かれましたけど、僕自身よくわかっていないことをちゃんと答えることもできず、わからないとだけしか言い様がありませんでした。
「甘えちゃって……もう、怖い夢でも観たの?」
夢。
そう、夢。
一色様もそんなことを言っていました。
今日の僕はなんだかおかしい。
その理由が夢だとしたら、僕はいったいどんな夢を観たのでしょう。
姉さんの言うような怖い夢? 恐ろしい夢? それとも……。
『姉さんも夢を観るんですか?』
「んー、あたしに聞く? まぁ、いいけど」
姉さんは少し困り顔で言いました。
「あたしもね、変な夢を観たんだ。ちゃんとは憶えていないけど、本当に変としか言い様がない夢」
変な夢。おかしな夢。
そういえば、姉さんが夢のことを話してくれるのはいつぶりだろう。
昔はよく聞かせてくれていたのに。
そんな姉さんが言う変な夢だから、きっと本当にヘンテコな夢なんだろう。
「ただね、悪い夢ではなかったことだけは、はっきりしてるかな」
夢から醒めると、夢の中の出来事は忘れてしまう。
たとえどんな大冒険をしても、命の危険に陥っても、それらは全て忘却の彼方へと消えてしまう。
それでも、残るものがひとつだけ。
それは、夢を観たという感覚。
そう。僕は夢を観ていたんです。長い、永い、醒めない夢を。
今僕の中にある違和感は、きっとそのうちなくなっていくんでしょう。
夢も記憶も、時間が経てば経つだけ忘れていくんだから。
今日はどんな夢が観られるのかを想像して、布団を用意します。
素敵な夢でなくてもいいです。ただ、悪い夢でさえなければ。
布団を敷き終わって、部屋の明かりを消そうとした時、ふとタンスの上にあるものが目に入りました。
本棚に入りきらない小説が、積み重なっているタンス。
その上に、見覚えのない銀時計が置かれていました。
開いて時計盤を確認すると、針がしっかりと今の時刻を刻んでいました。
いったい、いつからここにあったんでしょう。
姉さんが持ってきた? それとも一色様が?
……違う気がします。
けど、僕は確かにこれを誰かから受け取った。
その人の顔はわかりません。
その人の名前もわかりません。
思い出も、交わした言葉も、なにひとつ憶えていません。
けど……これを渡された僕はすごく嬉しかったんです。
そっか。ようやくわかりました。
僕が今日、何度も抱いていた違和感の正体が。
泣いてしまいたくなるその夢は、ただの悪い夢ではなくて。
怖いことも、悲しいこともあったけど、嬉しいこともあったんです。
それは、ある人が関わっていました。
忘れられたその人は、僕にこの時計をくれた。
いなくなったその人は、僕を外に出してくれた。
そんな夢の続きが、今なんですね。
「………っ。………っ!」
声はまだ、出せません。
どれだけ息を吸っても、まだ。
けど、いつか。
いつか、貴方が帰ってきたその時に、ちゃんと「おかえりなさい」と言えるように。
僕は、がんばります。
だから。
絶対に帰ってきてくださいね。




