針のない時計
その日も彼は、彼の住む街の映画館にいました。
彼の住む街は、非常に寂しく、彼が毎日訪れるその映画館は、今にも泣き崩れそうなほど寂しそうに建っていました。
彼は、毎日かかさず適当な昼食を作っては、その古びた寂しい映画館で一人映画を観るのでした。
そう、まさしく彼は映画観に一人きりで、どのようにその映画が流されているのかについて考えたことがありませんでした。
ただ、壁の中の人々が自分と同じ人間ではないこと、そして生きている時代が違うことを彼は知っていました。
しかし、生まれてからずっと一人だった彼にとって、そんなことはどうでもいいことでした。
それよりも、彼は彼の家で見つけた手のひらサイズの小さな時計を見ては
「時間だ」
と言って映画館に出かけることが好きなのでした。
彼は『時間』というものを知りませんでしたが、毎日流れる様々な映画を観ているうちに、人々が時計を見てはそう言うことを知ったのでした。
壁の中の人々と、彼の持っている時計は、ガラスの中に針のような細長い棒がないこと以外、ほとんど同じでした。
彼は、映画が終わって部屋がしんと静まると、一人暗闇の中
「時間だ」
と言って家に帰るのでした。
※
ある朝早く、彼はまた簡単な昼食を作って映画観に向かっていました。すると、道の途中で壊れかけた小さな家から—ここは、街の中でも『中心』と呼ばれていたため、小さな家が沢山あった—ガチャガチャと、何かを漁る音が聞こえました。
彼は初め、「サカナ」かと思いました。彼の古いが、屋根のある家には、家のほとんどを閉める大きな本棚があり、世界中の本がしまってありました。
そこで読んだ本の中に、「サカナ」の説明が琥珀色の万年筆で丁寧に書かれていました。
その本によると、「サカナ」は「かわ」や「うみ」にいるものだと書いてあったのです。
彼はずいぶん前に、一度だけ「かわ」というものを橋から見たことがあり、そこには白くてふさふさとした生物が浮かんでいました。
彼が石を投げると、バシャバシャと水しぶきを立てて空へ飛んでいったため、彼はそれを、「白いサカナ」と呼んでいました。
しかし、家の中の瓦礫から出てきたのは「黒いサカナ」でした。それはひどく痩せこけていて、寂しそうだとかれは思いました。
彼は、茶色い紙袋から固いパンをちぎって黒いサカナの足元に投げてやりました。
少し様子を窺いながらも、それはパンを一口で飲み込みました。彼は、
(明日もここを通って行こう)
と思い、映画館へ向かいました。
※
「あっ」
思わず口に手を当ててしまいましたが、彼以外にその声を聞く者は誰一人としていませんでした。
そうと分かっていても、彼には人生で2番くらいに驚くべきことがあったのです。
毎日流れる映画は、ないようは違っても、みんな白か黒色をしていました。しかし、今目の前に流れているのは、赤や青い、黄色や緑といった、『時計の街』の色でした。
彼はそこでやっと思い出したのです。彼が住んでいる街がその「時計の街」であること、彼にはかつて友人がいたということ、そして彼はすでに年老いた白髪の老人になってしまっていたことです。
何よりも驚いたことは、彼が白髪の老人になるまで観ていた映画は、若い頃映画監督を夢見ていた彼が撮ったものだったということです。
「ああ...」
彼は持っていた紙袋に入っている固いパンの間にジャムとマスタードを塗っただけのサンドイッチを取り出し、一口頬張りました。
すると、堰を切ったように涙が溢れ出し、と同時に、沢山の忘れていた思い出が溢れてきました。
彼はずっと長い間一人だと思っていましたが、この街には沢山の人々がいて、みんな幸せでした。彼は壁の中の人々と、彼の時計を見比べて、彼のひび割れた時計を昔見たことがあると思いました。
彼は、自分にも父親がいて、父親が時計を修理する仕事をしていたことを思い出しました。
彼は、彼の針のない時計を見て、
(こんなにも時間が経ってしまっていたのか....)
と思いました。
彼は急いで彼の母親が好きだった固いサンドイッチを食べ終え、家路を急ぎました。彼は、何故だか、自分にはもう時間がないように思えました。
途中でまた、壊れかけた小さな家を通りました。、
今度は音はしませんでしたが、さっきの黒いサカナよりも大きな人のような影が見えませんでした。近づいてみると、彼よりも頭一つ分小さい若い男の人が、キッチンに向かってただていました。
「こんにちは」
彼は数十年ぶりに誰かに話しかけましたから、上手く声が出ているか不安でした。
「誰だ、そこにいるのは」
暗闇からはっきりとした声が返ってきました。続いて
「ワンッ」
と甲高い声が家の中で響きました。
奥から出てきたのは、痩せて子供のようにも見える若い男の人と、さっきの黒いサカナでした。この時、彼はそれが、「イヌ」であることを思い出しました。
怪しむ様な目でこちらを見ていた男の顔が、洗濯物を伸ばした時の様に、突然パッと明るくなりました。
「父さん」
というと、顔をくしゃくしゃにして、彼の母親とよく似た青く澄んだ瞳から、次々に大粒の涙をこぼしました。
ようやく彼は、彼の本当の家に帰って来たのでした。
今までその男—つまりは彼の息子—に会わなかったのかというと、彼らが毎日、同じ時間に、同じ映画を観ていたからでした。
彼らは長い間、同じ時間を同じ場所で過ごしていたのでした。