フェンリル
ガムド妻子は、僕達に改めて礼を言ってから、元ガムド子爵領に戻っていった。僕は、久しぶりに屋敷へと戻ってきていた。エリスやマグ姉、リードの温かい出迎えを受け、恥ずかしながらそこで緊張の糸が切れて、倒れてしまったのだ。どれくらい寝ただろうか。夢で父上がこちらを見て笑っていたような気がする。
目が覚めると、すっかりと辺りが暗くなっており、今が何時なのか全く分からなかった。居間に行くと、皆が集まり、食事を取っていた。どうやら、夕食時のようだ。僕が目覚めたことに気付いたエリスが僕に近付いてきて、体の心配をしてくれる。ようやく日常に戻ったのだとホッとする瞬間だった。ただ、心配してくれるのはエリスだけで、ミヤ、マグ姉、シェラ、クレイはすでに宴会をしていたようで、酒に夢中になっている。クレイだけ、酔いつぶれていて、テーブルに顔を伏せている。リードは、目の前の料理に夢中で、ひたすら、手と口を動かしていた。まぁ、これもいつもの景色だ。
僕は、エリスに食事を用意してくれるように頼み、僕も席に着いた。すぐに出された温かい食事を摂りながら、マグ姉が抱えている米の酒を拝借して、久しぶりの酒の味に舌鼓を打った。そんな食事をしながら、僕は明日から始める魔の森の開拓についてずっと考えていた。僕が夢中になって考えて、ふと気付くと目の前にエリスの顔があった。僕は驚いて体を仰け反って、椅子から落ちそうになる。
「ロッシュ様。食事中にそんな思い詰めた顔をしてどうなさったのですか? 戦場で嫌な思いをしたのですか?」
どうやらエリスに心配をかけてしまっていたようだ。僕が言い出そうとすると、ミヤが代わりに話し始めた。
「ロッシュはね、魔の森を開拓しようとしているのよ。きっと、それについて考えていたんだと思うわ。道中に亜人と会ったって話をしたわよね? その人たちを助けるために、どうしても食料がすぐに必要なんですって。でもね、魔の森の開拓って誰もやったことがないから、難しいわよね。それに失敗すれば、亜人達、路頭に迷っちゃうしね」
そんなことが、とエリスが心配そうにつぶやいた。ミヤは、僕が寝ている間に、今回の救出については大方話していてくれたみたいで、エリスもマグ姉、リードもすぐにミヤの言葉の意味をすぐに理解した。
「確かに難しいかもしれないが、出来ないことはないだろう。僕の魔法で畑を広げることは難しくない。なんとか、その間に魔獣を確保して、畑の警備をしてもらえば、かなり成功に近づくと思う。まぁ、まだ何も始まってもいないのだから確かな事は何も言えないんが。エリスもそんなに心配しないでくれ。必ず、亜人達を救ってみせるよ。なんといっても、ここに女神がいるんだからな。なぁ、シェラ?」
シェラは、急に話を振られて、飲んでいた酒でむせてしまった。涙目になりながら、僕の方を向いた。
「何言っているんですか? 私はとうに、女神の力を失っているんですから、そんな加護みたいなことなんてありませんよ。本当に、何も出来ないですからね!!」
「分かっているよ。シェラ。ちょっと軽口を言っただけだ。こんなことに一々神様を持ってくる必要はないだろう。ミヤ、眷族を借りるから、よろしく頼むぞ」
ミヤは酒を飲みながら空いた手で了解したと手を振っていた。その日の夜は、そのまま皆で露天風呂に浸かり、僕がいなかった二週間の間を埋めるように、マグ姉は僕に甘えてきた。ベッドに入ってからは、ミヤとシェラ、クレイが加わり、共に夜を過ごした。次の日、遅めに目覚め、僕はすぐに行動に移すことにした。
畑を管理する人たちは、ゴードンが集めてくれている最中だろう。その間に僕がやるべきことは、場所の選定、区画整理、耕運、さらに、魔獣の確保、必要があれば使役魔法を使って魔獣を隷属化するところまでを短期間で行わなければならない。また、必要に応じてだが、壁を設置することも重要だろう。超大型の魔獣には意味がなさそうだが、小型や中型ならそれで防ぐことができるだろう。
僕はミヤと共に魔獣飼育実験施設に向かった。ここの施設は、僕がいない間に随分と建設が進んだようで、獣舎や人が住み込みが出来るほどの家が作られていた。そこには誰もいなかったが、しばらくすると、ミヤの眷族達が集まり、フェンリルに跨った、ここの管理者のククルが森の方からやってきた。その後ろには、フェンリルと同じような狼が三頭従えられていた。
「ククル。さっそくだが、魔獣を使った仕事を頼みたいのだ。この近くに畑を作ろうと思うのだが、その畑を魔獣を使って守ってほしいのだ。できるか?」
ククルは、急な話に頭をひねり考え込んでいた。
「ロッシュ様。その話をお受けしてもいいですが、問題があります。どれくらいの面積を想定しているか分かりませんが、おそらく、魔獣の数が足りないと思います。今、四頭いますが、その十倍は欲しいです。それを調達し、調教するとなると、一年はいただかないといけませんね」
やはり、そう甘くはないか。しかし、一年は待っていられない。魔獣を確保するだけならどれくらいかかるか聞くと、フェンリルの群れが近くにいるので、確保だけなら数日で出来ると言う。もっとも、眷族達が協力してくれれば、数時間で済むというので、僕は眷族を引き連れ、すぐにフェンリルの群れがいる場所に向かうことにした。ククルの案内によって、すぐに、フェンリルの群れを遠目で見れるほどの距離に近付いた。僕はククルにフェンリルの特徴を聞いた。
「フェンリルは、リーダーを頂点とする家族社会なので、リーダーを落とせば、家族はそれに従ってくれます。しかし、リーダーはその群れでは最強の存在ですので、落とすのは容易なことではないです。私が調教したフェンリルは、はぐれと言って、群れに属さない最弱の存在なんです。リーダーは比べ物にならないくらい強いですね。ですから、私達でなんとかリーダー以外を引きつけますから、そこからは、ロッシュ様とミヤ様でお願いします」
僕は頷き、ミヤに顔を向けると、とても好戦的な笑みを浮かべ、楽しそうに体操をしていた。この余裕があれば、ミヤ一人でも十分にリーダーと渡り歩けるだろう。僕はミヤに役割を聞くと、風魔法で牽制だけしていてくれればいいと言っていた。僕はそれに従うことにした。
眷族達の動きは早い。何やら合図をお互いに出し合うと、まるで平地を走るように森の中を駆け回っていく。僕もミヤと共にフェンリルの群れの方に向かって走っていく。しかし、とても追いつけるものではない。ミヤの背中がどんどんと遠ざかっていく。僕の周りには、ククルと従っているフェンリルが囲っている。
早くミヤに追いついて、せめて僕の役目を果たして、援護をしてやらないと。僕は全力で森の中を走り抜け、息を切らせながら、群れがいる場所までだどり着き、魔法を発動する態勢を整えた……のだが、すでにフェンリル達は地面に這いつくばって虫の息になっている。どうしてこうなった?
ミヤに近づくと、フェンリルのリーダーの近くに佇んでいてじっと手を睨みつけていた。僕は、普段見せない姿のミヤに少し恐れを感じ、恐る恐る声をかけた。すると、意外にも明るい声音で返事をしてくれた。
「不思議ね。フェンリルのリーダーってもっと強いものと思っていたけど、こんなにも弱いなんてね。どうしたのかしら? 私が強くなってしまったのか、それともフェンリルが弱くなったのか。考えてもわからないけど、眷族たちも同じ気持ちのようね」
僕には強さの次元が違いすぎてわからないが、とにかくミヤに怪我なくてホッとする。側にいたククルにリーダーであることを確認してもらい、ミヤの近くで倒れているフェンリルで間違いないようだ。フェンリルは、歳を重ねるごとに強くなる種族で、強さに比例して頭に生えた一本角が大きくなるのが特徴らしい。なるほど、この個体も大きな角があった形跡があるな。形跡というのは、ミヤに折られてしまったからだ。
僕は、リーダーのフェンリルに使役魔法を使い、隷属することに成功した。僕は、すぐに回復魔法をかけ、フェンリルの傷を癒やした。それでも、角だけは治らなかった。ククルが言うには、フェンリルは毎年、角が生え変わるのであまり気にしなくていいらしい。フェンリルは、よろっとしながらも立ち上がり、僕の方を見て、服従の仕草である腹を見せ始めた。僕が、腹を撫でるととても気持ちよさそうにしていた。
ククルは、その光景を見て、一言凄いと言っていたが、僕にはよく分からないので、聞かなかったことにした。僕はフェンリルのリーダーに、ハヤブサという名前を与え、他の仲間も治療するから付いて来いというと、小さくアウッ、と返事をして付いてきた。一頭一頭を回復魔法で治療をしていき、ハヤブサがその度に説得しているかのような仕草をし、治療したフェンリルが必ず腹を見せてくるのだ。
とりあえず、全部終わったかな。結局、ハヤブサをいれて、30頭のフェンリルを従えることが出来た。といっても、直接はハヤブサだけ隷属しているだけで、他の29頭はハヤブサに従っているだけだけど。言うことは聞いてくれそうなのでこれで良しとしよう。
早速、僕はハヤブサの背中に乗り、魔獣飼育実験施設に戻ることにした。毛が太く、固いのだが、座ると柔らかさを感じる不思議な毛質で、体は馬と同じくらい大きく、足の速さは馬よりも早く、必死に捕まっていても振り落とされるのではないかという恐怖を感じることほどだ。しかし、フェンリルはスピードの強弱を付け、背中に乗っている僕が快適に乗っていられるように調整してくれていることだけは感じた。フェンリルという魔獣は、僕が思っている以上に賢いのかもしれないな。
あっという間に、実験施設に到着した。眷族たちもフェンリルの背中に乗って来たのだが、皆、楽しそうに乗っていたのを見て、僕は死に物狂いに掴まって、楽しむ余裕なんてなかったのに。ショックだ。フェンリルを放牧し、最初の目標である警備役の魔獣を手に入れることに成功した。