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五 あした天気になあれ

 ホテルの一階のレストランから、高くなる波を見ていた。海が見下ろせる一等地のホテルだけあって、広いレストランだけれど、今日は見事なまでに人がいない。当たり前か。海岸線から多少離れているといっても、こんな日にわざわざ海が見える場所に来ようなんて思わない。

「わたし、こんなに食べたことない」

 オレの向かいでは、まほろが、オレが取ってきた皿を前に困った顔をしている。端から見れば、誰もいない席に料理と水を用意しているんだろうか。

「でも、食べられるんだろう」

「まあ……うん」

「じゃあ食べればいい。嘉仁叔父さんのおごりだよ」

 くしゃくしゃの一万円札で怪訝な顔をされて、更に一人で二人分用意して怪訝な顔をされて。海がこの荒れようだし、自殺志願者とか思われるだろうか。実際は死ぬ気はこれっぽっちもなくって、むしろ生きるために全力なんだけど。

「ハル」

「ん?」

「手、出して」

 まほろが差し出した右手に、オレは右手を重ねる。まほろはきゅっとオレの手を握って、目を伏せた。

「ミナモリの巫女は、この世界のいきものじゃない」

 うん、とオレは口の中で返事をする。

「だから、水守の御子に繋いでもらわないと、祈りをもらえない。……ありがとうね、ハル。こっちに来てから今まで、ずっと、楽しかったし……わたしも、この世界を、みんなを守りたいって、本当に、思った」

 まほろが笑う。本当に、屈託なく。

 ありがとうと言いたいのは、こっちだ。

 オレは本当は、ずっと不安なんだ。その場の勢いとテンションだけでごまかさないと、立ってもいられない。アップした動画の通知は怖くて見られなかったし、新島の意見を突っぱねないとやってられなかった。

 それでも、まほろが、何にも怖いことはないみたいに笑うなら。オレは少し頑張れる。平々凡々な自分を無視して、みんなのためと笑って死地に行く。バカだと罵られて嗤われて怒られるような、今時流行りの世間知らずなクソガキみたいに。

「……最後まで、繋ぐからな」

 オレはまほろの手を握り返した。

「最後まで。まほろがちゃんと向こうに帰るその瞬間まで、オレは、お前のための御子なんだから」

 言ってから、少しクサかったかな、と後悔した。まほろを見ると、真っ白な頬に少しだけ赤みが差して、視線を落として微笑んでいた。繋いでいる手が、ちょっと熱くなった気がする。

「ずるいよ、ハルは」

 消えそうな声で、まほろはそう言った。



 雨の音で叩き起こされたのは、朝の四時過ぎだった。まほろはまだ、天井のあたりをふわふわしながら寝ている。オレは枕元の携帯を取った。

 夜中に、新島からメッセージが来ていた。動画をアップしたアカウントの通知を見ろと言う。昨日は丸一日開いていなかったアプリを起動すると、五桁のリツイートのほか、大量のリプライがずらっと通知欄を流れて行った。

「すっげ……」

 そこにある言葉は千差万別だ。良くも悪くも、SNSっていうのは人間の言葉が剥き出しになるから。

 けれど、昨日の午後からのリプライは、ほとんど同じだった。


『今こそ晴らせて』


 オレは窓の外の、大荒れの景色を写真に撮る。それに、「#あした天気になあれ」とタグをつけた。

「……頼む」

 祈ってくれと祈る気持ちで、送信する。動画以来の投稿に、すぐ反応があった。

 風で窓がガタガタと鳴る。まほろはその音で目を覚まして、オレの横に降りてきた。

「……ねえ、ハル」

「うん?」

「もう一押し、する?」

 まほろは携帯の画面を覗き込んで、両手の指先を合わせた。

「いいよ、撮っても」

「……何か、話すのか?」

「みんな、心配なんでしょう? わたしは今日だけ、水と風のかみさまなんだから」

 オレは、窓際に浮かぶまほろにカメラを向ける。まほろは両手でピースサインをした。

「前のを見てくれた人、晴らせてって言ってくれた人、ありがと」

 少しぎこちなく笑って、まほろは両手を合わせる。

「わたし、頑張って嵐を晴らすから。信じて、祈っていて」

 窓に当たっていた雨の音が遠ざかって、まほろの周りに、淡い光が漂い始める。

「雨が嫌なら、こっちの人は祈るんでしょう? かみさまに。明日、天気になあれって」



 避難勧告が出ている海辺は、当然、人っ子一人いなかった。役に立たない傘はとっくに吹っ飛んで、安いコンビニのレインコートに当たる雨の音で、耳がおかしくなりそうだ。

「まほろ、大丈夫か?」

「ハルこそ」

 まほろはオレの肩をつかんでいる。手を離したらすっ飛んでいきそうだった。

 ホテルから徒歩で二十分、ただ曲がりくねった道路を下るだけで、開けた視界が広がった。

「海だ」

 昔、夏の地域の行事で来た以来だったけれど、案外記憶は正しいもので、海沿いの道までは迷わなかった。電車も高速道路も通らない、少し寂れた漁村だ。あの観光ホテル以外は、貸しボートの店くらいしか、観光客向けの場所がないんじゃないだろうか。高い防波堤を越えれば砂浜が見えて、夏の間だけ、海の家ができていたことを覚えている。

 海沿いの道を、まほろが指差す方へと走っていく。まほろが目指しているのは、嵐の中心部に最も近い場所だ。

 既に嵐は上陸している。このままだと被害が大きくなるばかりだ。

「もうすこし……ハル、あそこ!」

 まほろが指差した先を見て、オレは、思わず足を止めた。

 海に大きく張り出した岩をくりぬいて、短いトンネルができていた。沿岸部ではよく見るものだし、昔通ったこともある。

 オレの足を止めたのは、その先だ。景色がずっと続いているはずの場所が、白く塗りつぶされていた。

「あそこが嵐の真ん中。あそこなら、一番わたしの力が強い」

 まほろが先にトンネルを抜けて、オレを振り返る。ぞっ、とオレの背中を悪寒が這い上がった。

 この世じゃない。そう直感で分かる。あの嵐の中心は、まほろの世界だ。

「ハル、大丈夫だよ」

 まほろがオレに手を差し出した。

「祈って」

 ……ああ、そうだ。

 嵐を鎮めることと、蓋をすることは、同じ。水と風は、嵐とともに向こうの世界からやって来る。

 だから、当然。この嵐は、こっちの世界のルールの外にある。

 オレはレインコートのフードを下ろして、一歩を踏み出した。ぱしゃん、と水音が響く。やがてトンネルの中程まで進むと、足音は硬く乾いた音になった。短いトンネルの中で、足音が何度も反響する。雨の音はずっと遠くになっていて、出口で待っているまほろが、白い世界に溶けてしまいそうだった。

 まほろの手に、オレの手を重ねる。手のひらとひらの間で、何か、見えないものが熱を持っていた。

 いつ、誰に教わったわけでもない。けれど、その熱の正体を、オレは知っていた。オレの手のひらにあった熱を、ゆっくり、まほろの手に押し込んでいく。

「「……あした」」

 どちらともなく言った言葉が、重なった。

「「天気になあれ」」

 オレの足が、真っ白な地面を踏む。

 その足元から、風が、空へと吹き上がった。



 かぁんと晴れた青空を、そろって見上げていた。隣に座っている大きな影が、自分ではない誰かと話している。

「なあ。うちの御神体は、どうして海からこんなに遠いか知ってるか?」

 ゴシンタイ、という言葉の意味も知らなかったオレは、知らないよ、とすねたように言った。

「昔は、この近くまで海があったんだ。ずぅっと昔。この神社は、海を見下ろす立派な石鳥居があったんだとさ」

 海を見下ろす、石鳥居。

 そうおうむ返しに呟いて、オレは、あの屏風絵を思い出した。

 そうだ。水守神疾風鎮図。鴫沼さんに教えられた、嵐の絵だ。

「……父さん」

 そう呟いた途端、オレは、その大きな影を、父さんを見下ろしていた。父さんのそばには、小さいオレがいる。父さんの後ろには、ミナモリの巫女がいる。今よりずっと小さいけれど、あれは、きっと、まほろだ。

「海が遠い今が正しいのか、それとも、水に満たされた過去が正しいのか……そんなのはどうでもいいか。世界の姿は流転する。人間にとって住み良いのが今で、それを守るのが、俺たち水守なんだ」

 父さんの独白が、反響するようにオレの耳に響く。小さい頃のオレは、聞いているのかいないのか、ぼうっとした顔をしていた。

「……ごめんなぁ。春。ごめんな。まほろを、よろしく頼むよ」

 オレは何かに引っ張られて、その、過去の光景から引き離されていく。白いもやに飲み込まれて消えていく中で、父さんの声だけがよく聞こえた。

 今のは、誰の記憶だったんだろう。

 ああ、でも、やっぱり、オレは父さんの息子だと痛感する。顔も覚えていないのに。育てられた記憶なんてなかったのに。

 恨むなと言った、いつかの夢の中のあの人は、やっぱり父さんだったんだ。

「ハル」

 まほろがオレを呼んでいる。右も左も、自分の体がどっちを向いているかもわからないような真っ白な世界で、オレは、その声を頼りに振り返った。

 見えていないはずの景色が、開いた目の裏側をすり抜けるように、頭の中に流れ込んでは消えていく。嵐の空を見て不安そうな顔をする人。ニュースで顔を曇らせる人。携帯を見ている人。てるてる坊主を軒下に吊るす人。避難所で身を寄せ合う人。風にあおられながら実況する人。車を飛ばす人。

 ああ、これは。オレに見えているのは、祈りだ。まほろに、雨を晴らしてほしいと。明日はいい天気になってほしいと、祈っている。

 まほろへの祈りが、オレに集まっているのが分かる。まほろに唯一繋がる、水守の御子のオレに。繋いだ手を通して、まほろに、祈りは届いている、きっと。

「ハル!」

 澄んだ色の瞳が、オレを見つけた。

 繋いでいた右手の感覚が戻ってくる。風が、オレを包んでいた靄を晴らせた。開けた視界、足元は真っ青で、見上げた先、遥かな下に、煌めく水面があった。

 繋いだ右手の先に、まほろがいる。まほろは満面の笑みで、左手を広げた。

「ほら、晴れた!」

 まほろの声が、風に乗っていく。見上げた水面が海だと気付いた。じゃあ、この青は、空。

 まほろを見て、その笑顔に引っ張られて、オレも笑う。

 ああ、晴れた。守れたんだ。みんなの祈りのお陰で。あの、数えきれない、まほろに祈った人達のおかげで。

「……守ったよ、父さん」

 繋いだ右手が熱い。体が落ちていくのが分かって、それなのに、恐怖はなかった。かぁんと晴れた青空が眩しくて、目の奥がぐっと痛くなった。

 それは確かに、今まで見たどんな青空よりも、きれいな空だった。



 風の中を落ちていくうちに、だんだんと、体の重さが戻ってきた気がする。さっきまでの自分は、吹けば飛ぶ霞のようなもので、肉体があるのかすら定かじゃなかったのに。

「ハル、わたしは、蓋が閉じる前に帰るから」

 まほろがオレを引き寄せる。

「またあの泉に来てね。いつだって、あそこの向こうにいるからね」

 額が重なって、オレは目を閉じる。まほろの指の感触が薄れて、頬に雫が当たる。

「まほろ……」

 目を開く。オレはまた、あの真っ白な世界にいた。落ちていく感覚はもうない。柔らかい感触に着地して、オレは、もうないまほろの感触を握りしめた。

 ここはきっと、オレの世界と、まほろの世界の間。透明な水と風のケモノたちが、オレの背後、青い空だけがぽっかりと見える方向へ飛んでいく。

 まほろだけが、そのケモノたちと反対に泳いでいく。振り返って手を振ったまほろに手を振り返して、オレは、顔が緩むままに笑った。

「じゅーにねん後にねー!」

「ああ、十二年後に……今度は、何にも忘れるなよ!」

 まほろが見えなくなるまで手を振っていたオレの横に、誰かが並ぶ。それが誰か分かって、オレの口元が引きつった。

「……頑張ったなあ」

 ああ、その声も、今はよく知っている。

「頑張ったなあ。みんなを守るために。……まほろまで、守って。頑張ったなあ。春。頑張ったよ」

 振り返れば消えてしまいそうで、オレはただ俯いた。

「俺もようやく、お役御免だ。……元気で」

 さっき雲が晴れたように、白い世界が消えていく。気付くとオレは、防波堤の上に立っていた。ふっと背中を押されたように感じて、オレは俯く。一歩を踏み出した足の裏に、びっくりするほど硬い感触があった。

 穏やかな波が打ち寄せて、空には青い空が広がっている。水平線に近い場所には真っ白な雲が浮かんでいた。

 オレは手を握って、開いて、空に向かって伸ばす。現実だ。白い世界も過去の記憶も、あの、青い空から落ちたことも。

 ひとつだって夢じゃない。オレは確かに、繋がった向こうの世界を見た。空が晴れる瞬間を見た。まほろが元気で、あちらの世界に帰っていくのを見た。こちらとあちらの世界の境界で、蓋をしていた父さんに会った。

 全部全部、現実だ。

「まほろ」

 オレは、まだ熱が残る右手を差し出した。

「雨上がりの空は、綺麗だな」

 次にこの手が繋がるのは、十二年後。オレにとっては、少し長い。まほろにとってはきっと、もっとずっと長い。

 それでも、何も怖くないと思う。



 突然現れて突然消えた嵐のことは、世間をしばらく騒がせる話題になっていた。同時期にSNSに現れていた、『風と雲の巫女』というアカウントも、その騒ぎの一因だったらしい。けれど嵐が消えた日の昼にはアカウントは削除され、その正体へのさまざまな憶測が飛び交っていた。

 オレはというと、こっそりとホテルのロビーに戻って時間を潰してから、バスを乗り継いでのんびりと帰ってきた。駅には母さんが迎えにきていて、無言のまま帰宅した後、五分ほどじっくり抱きしめられた。

 雨に散々濡れたおかげで、ばっちり風邪をひいたオレは、父さんの法事が終わった後から三日ほど寝込んだ。ただの風邪だって言ってるのに、近所の人達と叔父さんが、血相を変えて見舞いに来た。

 ようやく起き上がれるようになって、オレは、裏山の御神体に行った。

「まほろ。今日も、お前の好きな青空だ」

 泉の中心には、苔の生えていない石がひとつ現れていた。オレは澄んだ泉を覗き込んで、口の両端をぎゅうっと引っ張り上げる。

 オレは、寂しくない。まほろは水と風で、こちらの世界のどこにでも、まほろの影がある。

 ……まほろは、向こうの世界で、オレや父さんの影を見つけてくれるだろうか。

「また忘れてたら、全部、思い出させてやるから」

 オレが守りたい『みんな』には、まほろだって入っているんだから。

 きっとそのために、水守はいるんだと思う。こちらの世界のみんなを守るためにくる巫女を、守るために。助けるために。

「……いや」

 違うな。きっと。それはオレにとって都合がいい解釈で、オレが世間を巻き込んだ大騒ぎを起こしたことへの言い訳になる。

 オレは、オレの意志で動いた。家系だとか水守の御子としての役割だとか、そういう外付けの理由ではなくて。それは、胸を張らなきゃいけないことだろう。

 オレは、まほろを守るために、みんなからの祈りをまほろに繋いだ。

 それだけは、オレが偽っちゃいけない事実じゃないか。



 課外授業を終えて帰り支度をしていると、新島に呼び止められた。

「あの子、もういねえのかよ」

「ああ、帰ったんだ。……色々ありがとな。新島がいなかったら大変だった」

「小っ恥ずかしいこと言うなよな……」

 事実なのに。

「ああ、そうだ。新島。一個聞いていいか?」

「何だよ」

「……まほろ、って、どういう意味だと思う?」

「まほろ……」

 まほろをまほろと名付けたのは、父さんだ。手記には由来までは書いていなくて、ただ、巫女に似合うとだけあった。

「古語なら、似た言葉があるけどな。ほら、ヤマトタケルの」

 新島はおもむろに鞄に手を突っ込んで、文庫本を取り出した。題名は『古事記』だ。そんなもんいつも持ち歩いてるのかよ、と言いたくなったが、何だか新島の視線が痛いのでやめた。

「……ヤマトタケルの、何だよ?」

「いや……いーや、自分で調べたらどうだ? 古典同好会はいつでも会員募集中だ。あと三人で部活に昇格できるんだよ」

「……こんにゃろ」

「やならいいぜ、今は便利なグーグル先生がいるんだから」

「分かった分かった入ってやるから、ヒントくれヒント!」

 どうせ帰宅部だし、だらだら過ごすのにちょっと飽きてきたところだし、古典ができたら受験に有利だし。と自分に言い訳を重ねて、オレは新島に手を差し出した。新島はにいっと笑って、オレの手に古事記を乗せる。

「お前も、活字だらけの青春活動の仲間入りってことで」

 お前はサッカー部もやってるだろうが、という文句を飲み込んで、オレは古事記を受け取った。

 人がいなくなった教室はすぐに冷房が切られたので、オレは窓を開けてから席につく。吹き込んできた風が、本のページをぱらぱらとめくった。

 校舎の間から空を見上げると、かぁんと晴れた青空に、ぽっかりとひとつ、白い雲が浮かんでいた。



(了)

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