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四 水守の御子

 部屋に横になって、長いこと、暗い天井を眺めていた。隣ではまほろが、父さんのノートをぎゅっと抱きしめている。

 父さんの手記は、二十四年前に七日間、十二年前に七日間の、十四日分しかなかった。それなのにノート一冊が、びっしり、字で埋まっていた。

 時計を見ると、午後の十時。いつもより早いけど、そろそろ寝たい。明日も課外授業があるし。

「……何で、オレって父さんに似てるのかなあ」

 二十四年前。二十歳の父さんは、オレとほとんど同じ感情を抱いていて、集落の人の気持ちを知って、ここを離れないと決めたそうだ。まほろの前のミナモリの巫女を見送ると知って、どうにかできなかったのかと調べているうちに、歴代の手記を見つけた。


『皆から見ればこれも縁だ。断ち切るために燃やすだろう。しかし俺には、ここに、この寂しい連鎖を断ち切る鍵があると思えてならない』


 そして父さんは、手記を弟、つまり嘉仁叔父さんに託した。秘密を守り続ける集落の外に出た、信頼できる人物に。


『俺がもっとも恐れていることは、いつか手記が廃されて、水守とミナモリの伝承が全て途絶えてしまうことだ。口伝はいつかどこかで途切れてしまう。水守の手記だけでも残しておけば、巫女と水守の縁は繋がるだろう』


 こんな田舎の、子どももほとんどいないような集落で、そもそも水守の男子が途切れなかったことすら奇跡に思える。オレは一人っ子だし。


『地区の人達の気持ちは、痛いほどにわかる。縁が切れればいいという気持ちも理解できる。けれども、俺だって、地区の人達のように、皆を家族だと思っているし、家族を守りたいと思っている』


 きっと、その気持ちは、同じだけど平行線だ。

 皆は水守を守りたい。水守は、皆を守りたい。


『水守の役割は皆を守ること。その皆には、世界以前に、この地区の人達が入っている。だから、あと十二年の命でも、役に立てたいと思う』


 オレの気持ちは、父さんと同じだ。

 だけど。


『今年、新しい巫女が来た。名前がないと言うので、私が名付けることにした』


 だけど。


『春はまだ幼いので、私のことを忘れるかもしれない。けれど、次の御子となったとき、嘉仁を通じて、これを読んでくれれば嬉しい』


 だけど!


『人柱が必要ならば、世界のために、それは仕様のないことと受け入れよう。妻と子も、許してくれると信じている』


 エゴだ。守りたいとか死が怖くないとか、だから自分は大丈夫だと笑うなんて、エゴなんだ。

 父さんは、それでいいと思ったのかもしれない。いや、そう思うしかなかったんだろう。けど、父さんがいなくなってから今まで、母さんがどれほど苦労したと思ってるんだ。

 働いて、近所付き合いして、オレの面倒みて。それなのにオレからは、授業参観に来ないなんてと言われて。新しい服の一つも買わないで、趣味を楽しんでいる様子だって見たことがない。高校で毎日弁当が必要になって、謝られながら、五百円玉を渡される日もある。

 それを許せだなんて、言われてはいわかりましたと頷けるか。

「……まほろ」

 ただ、光明は見えた。そのことには感謝しよう。

「明日、また、鴫沼さんのとこに行こう」

 ノートの最後のページ。端が糊付けされていて、袋綴じになっていたそこは、震える字で、十二年前の七日目の言葉が書いてあった。

 誰かに読まれる手記だから隠したかったのかもしれない。前の日までの手記は、淡々と、いかにも役割を悟った大人のような文章だった。けれど、この日は書きなぐるように、父さんの本音が記されていた。

「お前が死ぬのは、オレも、嫌だよ」

 まほろはオレを見上げて、小さく頷いた。


『とうとう最後の日がきた。昨日までの方がよほどおちついていて、今はペンを持つ手もふるえている。昨日の部分を読み返すと、さとったような言葉ばかりだ。このごにおよんで、いやとはいわないが、心残りを指折り数えれば、両手でも足りない。

 春。春。いちばん、おまえが気がかりだ。

 水守が短命になったのはそれほど昔のことじゃない。わたしにもう少し時間があれば。たったの十二年で何が残せただろう。春がこれを読んでくれると信じることしかできない。手記の一つでも解読できていればよかったろうに、そのツテも知識もなかった。せめて貯金を残そうと、働いてばかりで、春と遊ぶ時間もなかった。帰ってねるばかりの父をどう思っていただろう。父親が聞いてあきれる。

 なにもできなかった。

 なにもできなかった。

 許してもらえないだろうが、わたしは、それでも、家族を愛していたと、ゆえにこそ人柱になるのだと、せめて、知っていてほしい。      わたしは 』



 昨日の夕方から降り出した雨は、今日の昼になってもやまなかった。少し涼しくなると期待したが、そんなことはなく、ただただ湿度が不快だ。

 ほとんどぼうっとしたままで課外授業を終えて、駅まで行って、バスに乗って。まほろはほとんど話さなかったし、オレも傘を差したまま、不機嫌な顔で歩いていた。

 そういえば。まほろは、自分の瞳の色も知らなかったと言っていたし、この世界全部が珍しそうだった。けれど、十二年前に七日間、まほろは父さんと一緒にここにいたはずなんだよな。

 道すがらにそう聞くと、まほろはちょっと寂しそうに微笑んだ。

「ハル、こっちの十二年が、向こうだと、どれくらい長いと思う?」

 ただでさえ、まほろの世界は色がない。水と風のケモノはいても、言葉を話せるのはまほろだけ。そんな世界での十二年は、どれほど長いだろう。昼夜があるのかも分からない。

 バスに揺られながら、目を閉じて、まほろの世界を想像した。

 幼い頃に、真っ白な夢を見ることは何度かあった。真っ白な中に自分だけがいて、真っ白な張りぼての家があって、そこに登って、窓から落ちる。ただそれだけの夢だ。あんな、白くて眩しい世界に一人放り出されたら。

 水の鯨やら風のイルカがいたとしても、それを綺麗だ珍しいだと思うのはオレの感覚で、こっちの世界に置き換えれば、犬や猫がいるようなものだろう。話せる相手もいないで、十二年。どれくらいのことを覚えていられるだろう。

 バスから降りて、傘の中に入ってきたまほろを見て、少し物思いにふける。少なくとも、こんなに屈託なく笑えるままでいられる気はしない。

「……何?」

「いや」

 まほろの世界に、空はあるんだろうか。色がないなら、青空はないだろう。

 まほろが好きな青空は、こっちの世界にしか無いんだ。



 鴫沼さんは、難しい顔をして、パソコンの画面をオレに見せた。

「つい、ほとんど徹夜をしてしまいました。信じられないことばかりが書いてあります」

 爺さんなのに無茶するなあ……。

「この世界の内側にある異世界……いえ、昔のものですから、鵜呑みにはできませんが。そこからミナモリの巫女がやってくるとは……」

 まあそれは事実なんだが。

「そして、最も興味深いのは、この記述です。水と風がこちらに運ばれる際、大災害ともいえるほどの水害が起きる。それは放っておけば国を飲み込みかねないので、みなもりの御子達が、人々の祈りを以てしてそれを鎮める、と」

「……祈り」

「ええ。抽象的な表現なのか、それとも文字通り、祈りを力にできるのか……何にせよ、あまり科学的ではありません。伝承とはそいういうものでしょうが」

 まほろが、ずいっとオレの前に出た。

「いのり……そうだよ! ハル、祈りがあればいいんだ!」

 ぱっと顔を明るくして、まほろはくるくると回った。

「ハルが祈れば、わたしは雨を降らせられる。この国全部が祈ったら、わたしは、嵐だって止められるんだよ! 祈りがたっぷりあれば、わたしは嵐にだって負けないんだから!」

 まほろはオレの手をつかんで上下させる。そうか、とオレも呟いた。

 まほろが天気を操るとき、オレは祈っていた。雨を晴らすときに少し、雨を降らせるときには五分近く。

 オレはまほろを見上げて、はは、と笑う。

 答えは最初っから、目の前にあったんだ。



「嵐を鎮めることが、世界の繋がりに蓋をすることだったんだよな」

「うん。アキヒコの時まではきっと、巫女が嵐を鎮められなくて、その代わりに人柱を立ててたんだ」

「じゃあ、命の代わりになるくらい、たくさん祈りを集めれば……」

「わたしも、ハルも死なない!」

 オレはまほろとハイタッチをする。隣の机の上には、鴫沼さんがプリントアウトしてくれたさっきのパソコン画面と、屏風絵がある。A3サイズの屏風絵を指差して、オレはまほろを見上げた。

 ちょっと離れたソファで、鴫沼さんが、ヤバい奴を見る顔でオレを見ているのはこの際気にしない。

「この巫女が、まほろのご先祖様だよな?」

「うん、きっとずぅっと昔の巫女様だよ」

「そうか、嵐が来たから神様に祈るなんて、近年そんなにないもんな……時代が変わって、祈りが足りなくなったんだ」

「ちょっと雨を降らせたり止めたりするのは、一人の祈りでもできるけど、嵐と戦うならとってもたくさん必要だよ?」

 きっとそれが集めきれなくなって、人柱の制度ができて、その前のことが伝わらなくなったんだ。全国民、とは言わなくても、結構な人数が祈らなくちゃいけない。集落のみんなに伝えれば祈ってくれるだろうけど、それで足りたら、人柱なんて要らないんだから。

 一学生が声をかけて、神様に祈ってくれと言って、それを実践してくれる人なんてそういない。大体祈れなんて言う時点でヤバい奴確定だ。

「……雨乞いなら現代でもあるんだけどなああ」

 少雨で本気の雨乞いをしたら洪水になったなんて、近年の話だ。

「雨が上がりますようにって……たくさんの人に祈ってもらうには……」

「てるてるぼーずっていうの、作る? アキヒコはたくさん作ってたよ」

 何してんだ父さんは。

 いや、手記は解読できなかったと書いてあったけど、父さんも、祈りが欲しいとは分かっていたのかもしれない。そしてきっと、オレと同じ課題にぶち当たったんだ。

「てるてる坊主……」

 オレはまほろを見て、似てるな、と思った。まっ白だしふわふわしてるし。

「てーるてーるぼーうずーてーるぼーうずーって、こっちの子どもは歌うんだよね。アキヒコも私に歌ってくれたよ」

 まほろは両手を合わせて、目を閉じる。

「あーしたてんきになーあれー、だっけ?」

「あーしたてんきにしておくれー、だな。混ざってる」

「そうだっけ」

 そういえば、明日天気になあれって、あれは何かのセリフなんだろうか。靴吹っ飛ばして天気を占う時によく言っていたが。

「鴫沼さん、何かアイディアありますか?」

「……いや……その……話がよく……」

「ああすみません、えっと、今日はもう帰ります、ありがとうございました!」

 さすがに今のはマズすぎた。鴫沼さんは完全に架空の伝承だと思っていたわけで。

 今日を含めて、三日しかない。どうにか、祈りを広めるアイディアが欲しい。鴫沼さんにまほろが見えれば、説明が楽だろうに。

「……ん?」

 そういえば、昨日、まほろが電話でばあちゃんに呼びかけていて、オレは公民館に行けと言われた。まほろはオレに触れるし、オレもまほろを触れる。ただ、他の人の目には見えないだけで。

 もしかしてまほろは、カメラには映るんじゃないだろうか。

 まほろに携帯のカメラを向ける。まほろは首を傾げて、両手でピースサインをした。

「鴫沼さん、何が見えますか?」

 オレじゃ、見えちまうからしょうがない。鴫沼さんを呼んで携帯の画面を見せると、鴫沼さんは目を丸くした。

「……何が見えますか?」

「白い……女性が」

「よっしゃ!」

 オレは片手でガッツポーズをした。



 バスで駅に戻る道中、オレは、青い鳥のSNSを起動した。いつも使っているアカウントから、ずっと前に、作ってそれきりのアカウントに切り替える。アカウントの名前は決めていた。

「まほろ、駅に着いたらさ、ちょっとでいい、晴らしてくれ」

「いいけど、どうするの?」

「まほろがカメラに映るんなら、まほろが雨を晴らす動画を撮るんだよ。合成と思われてもいい、まほろを、雨を晴らすかみさまにするんだ!」

 偶像でいい。ネタでもいい。ただ、明日天気になあれと、ちょっとでも祈ってくれればいい。今の時代、インターネットさえあれば、全国どこだって情報が届くんだから。

「ほんのちょっとの間でいいから、まほろに、明日天気になあれって、願ってもらうんだよ。この国には一億人も人がいるんだから。塵も積もればだろ?」

 オレはまほろの手を引いて、バスターミナルからエスカレーターを上がった。

 駅のコンコースから繋がっている、ペデナントカデッキは、雨でも通行人が多い。いつもならパフォーマーとかがいるが、雨の中には流石にいない。

「カメラ……うまいこと濡れないようにしたいんだが」

 太陽がある南の方を向いて、鞄から携帯を出す。まほろは手すりの上にしゃがんで、オレを見下ろした。

「カメラで撮りながら、祈れるの?」

「……うーん……」

「ねえ、本当にうまく行くのかな。いかないなら、わたし、カメラに撮られるのはちょっと恥ずかしいよ」

「……ごめん。でも、出来ないことはないと思うんだ。十人でも二十人でも。三日しかないけど、三日もあるんだから。インターネットに賭けよう」

 祈ってくれるかなんて、結局信じるしかない。命か、賭けかだったら、オレは後者派だ。

「……ねえ、ハル。あれ」

 まほろがオレの後ろを指差して、オレは振り返る。

「手伝ってもらう?」

「……ああ!」

 渡りに船とはこのことだ。

 オレは新島を呼び止めた。



 下手な深呼吸より長い溜息を吐いて、新島は手を差し出した。

「携帯。よこせよ」

「信じるのか?」

「祈って雨降らせた奴が、祈って晴らせるって言ったら、信じてなくても見てみたいだろ」

「……びっくりしないでくれよ」

「無茶言うな」

 案の定、カメラ越しのまほろを見て、新島は十秒ほど固まっていた。

「じゃあ、祈るから。オレの顔はできれば映らないようにしてくれ」

 新島はオレの斜め後ろでカメラを構えて、固い顔で頷いた。

 オレは傘を閉じて、全身で雨を受ける。こうして全身に雨を浴びるのは、随分久しぶりだった。学生服がだんだん冷たくなって、肌に張り付いてくる。

 まほろがオレを見下ろして、頷いた。オレは両手を合わせて目を閉じる。

 湿気でふわっとしていた髪が垂れ下がって、つう、と頬を雨粒が伝う。傘ごしじゃない、近い雨の音が、ざあっとオレを包んだ。

「……明日」

 目を開いて顔を上げると、まほろの足元から、丁度、透明な鯨が立ち上ったところだった。

「天気に、なあれ」

 鯨が昇っていく。ぐらりと傾いだその巨体が、オレの方へと倒れてきた。雲の切れ間から差し込んだ日の光が、まっすぐに、まほろとオレを照らす。

 どこかからシャッター音が聞こえてきた。録画開始の音もする。雨の中、傘もささずに祈っている奴がいれば、目立つだろう。

 まほろを見上げると、目が合ったまほろは、にっ、といたずらっぽく笑った。日の光が当たる場所がどんどん広がって、雨に濡れたデッキが鮮やかに照らされる。ガラス張りの駅ビルが、痛いくらいにまぶしく光った。

 まほろは両手を前に出して、振り上げる。と――――下から吹き上がった突風が、一斉に、デッキの傘を吹き飛ばした。カメラを構えたままだった野次馬達の、色とりどりの傘が飛び上がる。

「あははっ!」

 驚いたような声と悲鳴を聞き流して、まほろは心底、楽しそうに笑った。



「お前らほんっとバカだと思うわ」

 水にぬれたベンチにタオルを敷いて、新島は腕を組んだ。オレはもう全身びしょぬれなので、ベンチにそのまま座る。日の光で、髪の毛はもう乾いていた。

「でも、信じてくれただろ?」

「……見た物を信じられなかったら流石にバカだろ」

「で、動画は?」

「もうアップした。顔は映ってねえから」

 マジかよ聞いてねえよ。

「……お前最近独り言多かったけど、こういうことだったんだな」

「え、気付いてたんじゃなかったのか?」

 まほろは、目が合ったと言っていたけど。

「……お前がちらって見る場所に、何かいるんじゃないかって思ってただけだよ」

 まほろはオレの体をべたべた触って、雨を乾かしていた。「風邪ひいちゃうよ」とか言いながらやってるが、正直、乾くのが速すぎて、気化熱で今めちゃくちゃ寒い。

「で? アップしたこれは、宣伝でもするのか」

「ああ。アカウント名も……よしよし、これで……頼む、拡散されてくれ」

 オレは膝の上に携帯を置いて、ぱんぱんと手を合わせる。

「……水守さあ」

「ん?」

「何のためにこういうことしてんの?」

 オレはまほろと顔を見合わせる。まほろは黙って首を横に振った。そうだよな、とオレも同意する。

 七日目が無事に過ぎたら、さっきのアカウントごと、動画は消すつもりだ。皆がずっと水守を守ってくれていたんだから、今更、大っぴらにすることじゃないし、一時の冗談か、悪ふざけってことで、忘れてもらおう。人の噂も七十五日だ。

「ネットに上げた以上、二度とその動画完全には消せねえからな?」

「………………」

 くぎを刺すように言われた。

「まあ……うん、分かってるよ、分かってるぜー? それくらいさ!」

「分かってねえ返事だろそれは……」

「明後日まで本当ってことになってればいいんだ。明後日過ぎたら、悪ふざけだとか、合成だとか、そういうことにすればいい。だろ?」

「そう単純なもんかね……」

 新島は呆れたように言った。

「明後日まで。明後日まで、まほろが、雨を晴らせるかみさまになればいい」

「……まあもうリツイートされてたし、取り返しはつかねえよな」

 新島は、お礼に買ってきた缶コーラを開けた。

「なあ水守」

「うん?」

「お前の撮影してるときさ。晴れはじめて、結構周りで、撮影してる奴いたんだ」

「……ああ」

「どうなっても、俺知らねえからな」

 その時は、その時だと思う。

「まほろは悪い奴じゃないから、きっと大丈夫だと思う」

「……お気楽」

「何でそんなにネガティブなんだよ?」

 オレは、まほろに「もういい」と言って立ち上がる。

「全部うまく行くとは言わないけどさ。悪いことにはならないって、オレは思うよ」

 ……少なくとも、そう、信じたい。



 一晩経って、土曜日になってもまだ、雨は止んでいなかった。まほろが晴らした十数分後にはまた雨が降ってきていたし、上を見れば、雲の流れも速くなってきている。

「春、おそよう」

 たっぷり寝坊して、ジャージのままで一階に降りると、母さんが食後のコーヒータイムだった。

「あれ? 今日、仕事は?」

「明日は法事でしょ。早めに休み取ったの。天気も、荒れそうだしね」

 母さんは窓から外を見る。

「春」

「うん?」

「……春」

「何だよ」

 頬杖をついて、母さんはオレを見上げる。その笑顔が何となく居心地が悪くて、オレは台所に逃げ込んだ。みそ汁を温め直している間にご飯をよそって、小さなお盆に乗ってるおかずをリビングに持って行く。

「春」

「何? ……いただきます」

「うん。昨日ね、動画、見たよ」

 みそ汁でむせた。

「どっ……えっ、かあさ……」

「通知切ってる? たくさん、たくさん拡散されててね、ネットニュースになってたの。集団幻覚か、合成映像か、パフォーマンスか、それとも……」

 母さんが、手元にあった携帯を持ち上げる。まほろがさっとオレの後ろに隠れた。

「……本物か、なんてね」

「母さん、あれは、その……えっと……怒ってる?」

「呆れてる。ずっと秘密にしてきたものを、こんなに簡単に広げちゃうなんて」

 母さんはコーヒーを飲んで、また頬杖をついた。

「それで? 何のために、あんなことをしたの?」

「その……ミナモリの巫女は、祈りが力になるんだ。だから、まほろが有名になって、みんながまほろに祈ってくれれば、まほろは死なないで済むんじゃないかって」

「……そう」

 母さんを振り返ると、もうオレの方を見ていなかった。手元の本に視線を落として、母さんは長いこと黙っていた。オレは遅い朝食を食べ終えて、食器を片付けてコーヒーを淹れる。少し前に買ってきていたお客さん用の煎餅を一つ、掌の中で砕いた。

 雨雲越しの、夏の午前十時の日の光は、窓の際をぼんやりと明るくしていた。母さんの読書灯以外に灯りがない室内は薄暗くて、天気の悪いはずの外が、やたらと明るく見える。半開きの障子が光に透けていて、今年は張り替えないとな、と年末のことを考えた。

 年代物の時計の針が、かっちんと鳴って一分進む。オレは向かいの母さんの手元を見ていて、さっきから、一ページも進んでいないと気付いていた。けれど母さんが黙ったままなので、オレも口を開かないで、細かくなった煎餅を口に運ぶ。

「お父さんもね」

 コーヒーが半分ほどなくなった頃に、母さんがぽつりと、独り言みたいに言った。

「私に、怒ってないかって聞いたの。ずるいよね。そう言ったら、怒ってないよって言うしかないじゃない」

 少しだけ零れた、母さんの笑みが疲れていて、オレはきゅっと唇を噛む。

「本当に……許してもらえると信じて行っちゃうんだから。皆を守るヒーローって勝手」

 母さんは立ち上がって、テーブルに手をついて身を乗り出してきた。オレはきゅっと首を縮める。

 口調は静かでも、分かるんだ。母さんは、父さんに怒ってる。どうしようもないって分かっていて、誰にもぶつけられないような怒りだ。

「だけど、春」

 母さんの手が、頭に乗った。

「忘れないで。あなた達が皆を守るヒーローなら、私達が、あなた達を守るからね」

 頭を撫でられて、オレは、テーブルの上に視線を落とす。オレの頭を撫でる母さんの手の感触は、いつぶりだろうか、随分懐かしくて、涙が出そうになった。

 けれど、テーブルの上で握られてる母さんの左手が、震えていて、その小さい手から、オレは、目を逸らせなかった。

 オレにもきっと、母さんは怒っている。それを片手で握りつぶして、守るって、言ってくれているんだ。

「海に行くんでしょう。電車、止まらないうちに行きなさい。泊まる宛てはあるの?」

「うん、大丈夫だ」

「隣組の人達には、うまく言っておくから。無事に帰って来なさいね」

「うん」

「明日は、昼過ぎから法事だからね。息子のあなたが留守なんて、ダメだからね」

「うん」

「……絶対に、帰って来なさい」

「……うん!」

 絶対に。

 頷いたオレの後ろで、まほろがきゅっと、オレの服の裾をつかんだ。



 昼過ぎから、雨が強くなってきた。街角のテレビで、気象予報士が焦った声で、異常気象だと言っている。

『この時期としては異常な強さの熱帯低気圧です。しかも、北太平洋上で発生したものではありませんので、異例としか言いようがありません』

『今夜から明日の朝にかけて、ますます雨や風が強くなる予報です。北関東の沿岸部を中心に、本州の広い範囲で、強く長い雨に警戒を――――』

 北関東の沿岸部。ここだ。

「ハル。早く。嵐は海からやってくる」

 まほろに引っ張られて、オレは駅の切符売り場に急いだ。

 明日が七日目。明日、まほろは向こうの世界に帰る。この世界との繋がりに蓋をして。

 明日になったら電車が動かないかもしれない。上陸前に嵐を止めるなら、今日、急がなければ。

 正確な通知は見ていないが、昨日アップしたまほろの動画が、ネットニュースになるくらい拡散されているなら、少しは希望がある。通知を見ていないというより、ちょっと怖くて見られないっていった方が正しいんだが。新島にメッセージで連絡をしたら、まあまあ拡散されている、とだけ返ってきた。まあまあってどれくらいだ。何千とか、そういう数の人間に見られていると思って良いんだろうか。

「ハル」

 券売機にお金を入れようとしたところで、まほろがオレの襟を引っ張った。

「電車、止まってる」

「えっ、もう?」

 オレは電光掲示板を見る。風雨の影響で、運転を見合わせ……。

 ここから海までは、電車で片道一時間近くだ。まほろが焦ったようにオレの肩をつかむ。

「どうする?」

「沿岸部をぐるっと回るバスがあったはずだ」

 オレはバスターミナルに降りる。が、電車が急に止まったせいで、人でごった返していた。駅員さんが大声で、代行バスの案内をしている。

「沿岸部のバス……えっと……」

 人だかりの向こうの掲示が見たい。使ったことのない路線だから、バス停の名前も確認しておかなくちゃ怪しい。

「ホテルの近くのバス停、分かんないの?」

「向こうで乗り換えなきゃいけないんだ。駅からだったから、電車で行ければ楽だったのに」

「……計画性なーい」

「うるせえな!」

 第一、きのうの夜にいきなり「海に行かなきゃ!」って言い出したのはお前だろうが。

「お母さんに送ってもらうとかはどう?」

 まほろの提案を、オレは首を横に振って断る。

「あんまり巻き込みたくない」

「そう言ったって、どうするの? バスを待つ? 自転車で頑張る?」

 自転車は流石に無理だ。

「うーん……」

 雨が吹き込むバスターミナルからコンコースに戻って、オレは携帯を見る。時刻はもうする昼の一時だった。

「なあ、まほろ。嵐ってまだでかくなるのか?」

「うん、まだまだ。十二年前とおんなじなら、大体夜中の十二時くらいに上陸する。それから、明日のお昼に一番強くなって……前は、上陸する前にできるだけ弱くして、弱くして……」

 まほろは、オレの襟をきゅっとつかむ。

「それでもわたしは勝てなかったから、アキヒコが蓋になった。蓋ができれば嵐はこっちの世界に吸収されて消えるの。人間にとって害がない、水と風になる」

 まほろはふっと視線を持ち上げた。

 この駅のコンコースには、大きな天窓がある。いつもは日の光が落ちているそこからは、今はどんよりとした空だけが見えていた。

「昔の巫女様ができたんだから、わたしにもきっとできる」

 十二年前、まほろは嵐に負けた。それは、祈りが足りなかったのだろうとは思うけど。

 ……いや。言わない気持ちを勝手に推し量って同情するのは、ちょっと失礼だ。

「春君」

「はい?」

 声をかけられて顔を上げる。まほろがさっとオレの横に降りてきた。

「足がほしいんじゃないかな」

「……えっ?」

 嘉仁叔父さんが、傘を持って立っていた。



 叔父さんのハリアーの助手席で、オレは携帯で地図を起動する。

「宿の宛てはあるのかい」

「ネットでギリギリ予約ができた。けど、台風の影響をかんがみて、チェックインは五時までだって」

「少し急がないといけないかもしれないな」

 雨が強くなってきたのもあって、道はすいていた。オレは携帯のナビを、叔父さんから見える場所に置く。

 水たまりにタイヤが入って、派手に水しぶきが上がった。後部座席で、まほろが上下に跳ねている。

「叔父さん、こんな飛ばして大丈夫?」

「道が荒くなったら遅くするよ」

 叔父さんにとって今の道は荒くない判定なのか。

「……今朝のニュースは見たかい」

「え? いいえ」

「ナビは大丈夫だから、調べてみるといいよ。天気を操る幽霊、SNSで拡散中……ってね」

 うわ、と思わず声が出た。ナビでちょっと熱を持っていた携帯を取って、ニュースサイトを開く。

「祈る少年と、天気を操る少女……合成映像か……目撃情報相次ぐ……」

 オレの顔が出ていないのが奇跡みたいだ。

「で?」

「はい?」

「それを拡散して、どうするんだ」

「……まほろが嵐を止めるには、祈りが必要で……知名度稼ぎだよ」

「俗っぽいなあ、随分」

 叔父さんはちょっと笑った。

「ああ、うん。けど、神頼みなんて、元々俗っぽいか」

 昼間だと言うのに、どんどん空が暗くなっていって、叔父さんが車のライトをつけた。

「これで春君も有名人か」

「……みんなに怒られる……」

「ああ、義姉さんもちょっと怒ってたなあ。準備の手伝いに行ったんだよ。明日は、俺が取り仕切ることになっていたから」

 叔父さんは少し車のスピードを落とした。

「電車が止まっているだろうから、助けてくれ、ってさ」

「………………」

 オレはシートに体を預けて、ふう、と長い息を吐いた。こわばっていた体から、力が抜けていくのが分かる。

「大人ってすごいなあ」

 ぼんやりした感想だった。けど、叔父さんは笑ってハンドルを切る。

「今更気付いたのかい」

 あと山を一つ越えれば、海が見える街だ。



 茶色よりもまだ濃い濁流が、まほろの胴ほどの流木を、あっという間に押し流していく。叔父さんは橋の前で車を停めて、外に出た。濁流は橋の上まで達していて、絶えずしぶきを上げている。

「参ったな……ここが通れないってなると下流の小さい橋は全滅だ。大きい橋まで行くと、ずいぶん遠回りになるが……」

 運転席に戻って、叔父さんは腕を組んで唸った。オレは携帯の画面に地図を出す。

「ぐるっと回って戻ってきて……あと一時間くらいでホテルに着くかねえ」

「叔父さん、ここでいいよ。あとは一本道だから」

 オレが荷物を出そうとすると、叔父さんが大慌てで服をつかんできた。

「車で危ないんだから、歩くなんてもっとダメだ。安全な場所まで連れていくから、乗ってなさい。チェックインなら、ホテルに連絡して、遅らせてもらえばいい」

「大丈夫。叔父さんこそ、ここから帰るんだから、早い方がいい。ここから先は、まほろが送ってくれるってさ」

 オレは、後部座席のまほろを振り返る。まほろは、両手を握って何度もうなずいた。

「重い水は苦手だけど、大丈夫だよ。ハル、いっぱい祈ってね」

「大丈夫だってさ。叔父さん、母さんによろしく。本当に、ありがとうございました」

 シートベルトを外して、鞄をビニール袋に入れる。まほろがするりとオレの隣に来た。オレは両手を合わせて、目を閉じる。

「いくよ、ハル」

 まほろの声が遠くなる。多分、車の外に出たんだろう。

 隣で、叔父さんがはっと息を飲む音がした。

「もーいいよー!」

 まほろの声で、オレは目を開ける。橋の欄干に立って、まほろはオレに手を振った。

「……春君」

「はい」

 叔父さんが、オレの手に何かを握らせる。オレは視線を落として、手の中にあった一万円札に驚いた。

「明日は大変だろうから、美味しいお店で、ちゃんとしたご飯を食べなさい。あの巫女さんにも、食べさせてあげるように」

「……叔父さん」

「……すまなかったよ、化物なんて言って」

 まほろに急かされて、オレは橋を渡る。まほろが作った濁流のアーチは、オレが通り過ぎると崩れ落ちて、橋をまた飲み込んだ。橋の向こうで、叔父さんの車のライトが点滅する。

 濃くなる濁流の向こうに、オレは頭を下げた。

「行こう、まほろ」

 もう後戻りは、しようとしたってできやしない。

「みんなを守らなきゃ」

 まほろとオレは手を繋いで、ますます暗くなる道を走り出した。

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