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三 祈りを繋ぐ

 水守の御子、つまりオレ達水守の男子と、ミナモリの巫女は、世界が繋がって七日目、嵐とともに、水と風がこちらの世界にやってくる。その世界の繋がりに蓋をするために、命を落とすらしい。その役割を次の世代に伝えるために、巫女と男子は交互にその役割を負う。

 二十四年前は、まほろの前の巫女が。十二年前は父さんが。今回は、まほろが、蓋をするために、命を落とす。

「……………………」

 父さんのノートを閉じて、オレは、いっとう古い手記をスクール鞄に入れた。

 十二年前父さんが死んだのが、そういう理由なら、まほろは全部知っているはずだ。その上でオレに手記を読めと言ったのか。

「だって、ハルはわたしの言葉を信じないでしょう?」

 バスの後部座席、オレの隣に座って、まほろは困ったように笑った。

「人間ってそう。他人の言葉より、身内の言葉を信じるの。わたしが何を言っても、アキヒコの言葉には敵わない」

 それを言われると、その通りだから困る。

 まほろは二十四年より前のことは知らないそうだし、父さんの二十四年前の手記にも、爺さんの手記以前のことは分からないと書いてあった。オレが気がかりなのは、本当にずっと、この命がけの周期を繰り返してきたのかってことだ。

 家の神棚の下には、先祖の遺影がしまってある。額に入れられた白黒写真の中の男達は、どう見てもニ十歳かそこらじゃなかった。勿論男兄弟がいっぱいいたとも考えられるし、巫女を迎えるのが長男だけだとは限らないが。

 長男が必ず、三十代やそこらで死んでしまうとしたら、そもそも水守の家がここまで繋がっている方が不自然だ。そういう役割の家だから、不思議な力で守られてる、とか、そんな理屈にもならないような理屈なんだろうか。

「あ」

 まほろが声をあげて、オレは窓の外を見る。朝はよく晴れていた空が、どんよりと墨色になっていた。



 課外授業を終えて、オレは、クラスメイトの一人を捕まえた。

「なあ、確か、古典同好会だったよな?」

「……そうだけど? 悪いけど、今日はサッカー部が忙しいんだよ」

 文化部には、古典だとか音楽だとか演劇だとか、部にできない程度の人数が集う同好会がある。そのほとんどが、別の部活との掛け持ちをしていて、オレが声をかけた新島もそんな一人だった。

「五分だけ! 五分だけこれ見てくれ。読めるか?」

 オレは、持ってきた昔の手記を開いて見せる。日本語なんだろう、ということしか分からない、よく言えば達筆、悪く言えばまるで読めない字が、古い和紙の上にのたくっている。新島は顔をぎゅっとしかめて、オレが開いたページを見せた。

「お前、これ読めんの?」

「えっ……いや。でも古典同好会ならどうかなーって」

「教科書の古典だって、図書室にある古典だって活字にされてんだろ。ただの高校生がこんなもん読めるわけねえじゃん」

 言われてみれば当たり前なんだが、確かに、古典が好きって人間は、活字だとか現代語に一度訳されたものを見ているわけだ。図書室で見る古典本だって、まさか当時の字そのままじゃない。

「古典のー……村上先生ならどうだよ。うちの顧問」

「ありがとう!」

 新島に頭を下げて、オレは鞄を引っ掴む。

 滅多に入らない職員室は、冷房が効いていた。村上先生は、いつもと同じ眠そうな顔で、分厚いレンズの向こうからじっと手記を見つめた。

「駅の西口に、バスターミナルがあるでしょう」

 村上先生が、パソコンでインターネットを開く。

「水守君は、バス通学ですから、慣れていますね?」

「あ、はい」

「何番かはちょっと分からないんですけど、郷土資料館に行くバスがあったと思います」

 郷土資料館。ショッピングモールよりちょっと向こうの山沿いにあったかな。小学校の時に社会科見学で行ったっきりだ。

「そこに、先生の知り合いの、古文書に詳しい学芸員さんがいます。私はいち教員ですので、専門家に見せるのがいいかと」

 村上先生のパソコンに、郷土資料館のホームページが出る。駅のバス停からニ十分、そこから徒歩七分。

「今日は木曜日ですから、その、古文書に詳しい方もいるでしょう。今日行きますか? 電話で連絡を入れておきますが」

 オレは今日行くと決めて、村上先生にお礼を言った。高校から駅までは徒歩で十分もかからない。けれど、息苦しいような夏の湿気と日差しは、冷房が効いた室内から出るとえらくこたえた。午前中に降った雨のせいで、湿度が上がってむしろしんどい。

 校庭では、小麦色をはるかに超えて焼けた肌を光らせる奴らが走り回っていた。熱中症注意情報というか、運動するなって気象庁が言ってるっていうのに。

「暑くないのかな?」

「暑かろうよ」

 思わずじじくさい答え方をした。いや、実際、これほど暑い日は自分の体の重さが倍に感じる。中学生くらいの体験実習で、老人ホームで体中に重しをつけられた時みたいな、ああいう倦怠感だ。

「さっきの人がいるね」

「新島な」

「ニージマ。暑そう」

 まほろは、校庭の端の水飲み場に近付く。

「ニージマはいい人だよね」

「ん……まあ。そんなにそんな、悪い奴っていうのはクラスにいないと思うけどな……」

「じゃ、お礼しなくっちゃ。ね、ハル。祈ってくれない?」

 オレは手を合わせて、水飲み場の上に立つまほろに祈りをささげた。

 ……五分後。

 真夏の青空がにわかに曇って、雨が降り始めた。



 傘を持ってなかったことを思い出して、教室に折り畳み傘を取りに戻ると、新島と、他に数人が荷物を取りに来ていた。

「にわか雨だからすぐ止むだろうって監督言ってんだけどさ」

 新島はシャワーを浴びたみたいにずぶぬれになっていた。

「水守は、先生のとこ行ったのかよ」

「ああ、うん。それで、郷土資料館に行くことにした」

「……ふぅーん……」

 新島はタオルでがしがしと頭を拭いて、それから、オレの左肩のあたりに視線を向けた。そこにはまほろがいて、まほろはオレの耳元で「目が合ったよ」と驚いたように言った。

「神社の息子も大変だな」

 新島はそれだけ言って鞄を担ぐ。オレはまほろと顔を見合わせた。

 教室から出た直後、新島は「そうだ」と、ドアから顔だけ出してこっちを見た。

「お前、祈ったら雨降らせられるのか?」

「えっ」

 ああ、五分も祈っていたら、そりゃあ誰かには見られてるか。ましてあの炎天下、日陰にも入らないで突っ立ってるだけでも目立つっていうのに。

「いや、えーとあれは何て言うか……オレはそのぉ……」

「何でもいいけど気をつけろよ。俺みたいに、中二病に理解あるやつばっかりじゃないんだからな」

「ちゅっ……」

 違ぇよ!



 (しぎ)(ぬま)と名乗った学芸員さんは、オレが差し出した手記を、真っ白な手袋をした手で受け取った。

「四ツ目袋綴じですね」

「はあ」

「保存状態が大変よろしい。江戸時代後期のものと考えられます」

 頭の中で歴史の教科書をめくる。江戸時代後期って何年前だ?

「内容の解読にはしばらく時間をいただきたいのですが……これはどちらに?」

「あ、ウチに。神社で」

「一般家庭でこの保存状態というと、相当大切なものでは?」

 鴫沼さんは、フレームのない眼鏡をついっと持ち上げた。何歳なんだろうかこの爺さん。

「何か、ご先祖の手記らしくって。何が書いてあるか知りたいんです」

「ご先祖……失礼ながら、お名前は?」

「水守春です」

「ミズモリ……」

 じっくりと反芻して、鴫沼さんは眼鏡の奥の目を丸くする。

「あの水守の!」

「えっ!?」

 オレと鴫沼さんの大声が、わんわんわん、と響いた。鴫沼さんは咳を一つして、「失礼」と声を落とす。

「この地方の伝承を研究する上で、水守、はキィワードなのです」

「はあ」

「しかし、昔は神社があったといいますが今はなく、周囲の人も口を閉ざすばかりで……水守、いな、かつてミナモリと呼ばれた神社があり、水と風を司る神を祀っていたとは知っているのですが」

 結構知ってんなこの爺さん。

「伝承って、どんなのがあるんですか?」

「君は知らないのですか?」

「ええ、全然……ばあちゃんからちょっと、昔神社だったことと、御神体のことを教えられたくらいで」

 あとファンタジーみたいな事実を、今天井から首だけ出して遊んでる奴に教えられたくらいで。

「よければ、資料館へいらしてください。お時間が許す限り、私の研究結果をお伝えします」

 鴫沼さんはそっと手記を閉じて、背筋をしゃんと伸ばした。

 資料館には、この地方の歴史とその資料が年代順に並んでいた。その中の一角、大きな絵が描かれた屏風が、熱のない灯りの下にあった。大和絵だか浮世絵だか分からないが、いや、多分後者ではないけど、鮮やかな青が特徴的だった。

 館内は薄暗いので、必然、ガラスの向こうの屏風がより鮮やかに見える。青と白のうねりは、水だろうか。金縁の立派な屏風の中にあるのは、恐らく、嵐の風景だった。

「あの青は、瑠璃……ラピスラズリという石から作った絵具です。とても高価なものをこれほどふんだんに使って……」

 ほう、と鴫沼さんが息を吐く。飛沫の一滴まで白の点が細かに描かれた水流は、確かに綺麗だ。けれど、綺麗だと思えばそれだけ、恐ろしくも感じる。木っ端みたいに描かれている船の上で、もろ手を挙げている人間の悲鳴が聞こえるようだった。

「これは、水守神みなもりのかみ疾風鎮図(はやてしずめのず)と言います。左の端に、石鳥居があるでしょう」

 左端の見切れそうな場所に、確かに、灰色の鳥居が描かれていた。

「風雨に負けない、巨大な石の鳥居。昔は多かったそうですが、地震が多いこの国では……崩れてしまって、再建できないなんてこともあるそうです」

 うちの神社も、そうだったんだろうか。左端の鳥居は屋根みたいな部分までついた立派なもので、高い丘の上から嵐を見下ろしていた。鳥居の下には人影もあるが、小さすぎてよく見えない。

「こちらに回って、右端をご覧ください」

 オレは鴫沼さんの隣に移動する。折り返されていた右端には、石鳥居と対になる場所に、女っぽい人が描かれていた。他の人よりよほど大きくて、昔の絵によくある、構造がよく分からないふわふわした服を着ていて、両手を広げている。

「……ミナモリの巫女」

 これほど鮮やかに色が残っている中で、その女の人は、線だけで描かれていた。

「君はそう呼ぶのですね」

 鴫沼さんは、ふっと笑った。

「その白は、下地の白ではないのです。全てを描いた後に、白を何度も重ね塗りして、書き足されたのですよ」

「えっ」

「君がミナモリの巫女と呼ぶその女性は、どのような手記にも登場しません。ただ、この地方には、水守神社があり、その神社はかつて、大規模な水害を鎮めた伝承……いえ、伝説とすら言えるものを持っています」

 自分の苗字で伝説と言われると、少しこそばゆい。いや、きっとよくある神話のような話ではなくて、本当に、事実なんだろうけど。

「この屏風図以外は、口伝を集めた手記程度にしか残っていませんが。……近代に入ると、その口伝もぱたりと途絶えてしまっています。私自身実地調査として、水守神社、つまり水守の本家がある集落にお邪魔したのですが、有功な話は聞けませんでした」

 確かに、その集落で生まれ育った、そして当事者のオレがこんなに知らないんだから、もう残っていないと言えば、そうなのかもしれない。

「でも、」

「ええ、手記が残っていた」

 鴫沼さんは、視線を落として目を細める。

「口伝には残さず、絵の隅に、そして手記にだけ残した理由……火事でもあれば手記は燃えてしまいます。確実に伝えたい物事だったら、どちらにも残すはずですが」

 顔をしかめて、うーん、と鴫沼さんは唸った。

 オレは、鴫沼さんが目を閉じている間に、まほろを小声で呼んで手招きする。ガラスの中で展示品を食い入るように見ていたまほろは、ぱっとオレの隣に飛んできた。

「どう思う?」

「どうって?」

「……その……」

 鴫沼さんがいるから、長々とは話せないんだが。

「この絵? 綺麗だよね。何代前のわたしなのかな」

 まほろはガラスに手を当てて、屏風を見つめる。

「たくさん祈りをもらって、嵐にだって負けない巫女様だったんだろうね」

「……?」

 祈りを、もらって。その言葉が引っ掛かって、オレは視線を巡らせる。

「水守春さん」

「えっ、あ、はい」

「先ほどの古書のほかに、何か資料はお持ちですか?」

「あー……ええと」

「それとも、家系にのみ伝わる口伝があるとか」

 鴫沼さんが目を細める。オレより一回り小さい体なんだが、そうじっと見られると怖くてたまらない。

「先ほど、全然知らないとおっしゃいましたが、ミナモリの巫女、とも言われましたね」

 全然知らないのは事実で、オレは、ウチのことは本当に知らないんだ。まほろから聞いた、水と風の世界の話も、ミナモリの巫女と水守の関係も。まほろから聞いて、父さんの手記で確信しただけしか知らない。十二年周期の巫女との関係がずっと続いてきたにしても、オレには、その詳細を知るすべがない。

「教えられてこなかったのは本当です」

 オレは、まほろをちらりと見て、慎重に言葉を選ぶ。

「だから、御神体が何かは知っていても、本当は何を祀っているのかとかは、風と雲の巫女、としか。ばあちゃんに聞いても、大したことは……」

「風と雲の巫女。水と風の神ではないのですね」

 確かに言われてみればそうだ。

 雲と水は近いと言えばそうだけれども、まほろは水と風の世界の巫女と言ったし、ウチの名前は水守だ。

「まあ、わたしは確かに、水で雲を作るけどね?」

 まほろがオレの顔を覗き込んで付け足した。

「伝承には、巫女って出てこないんですか?」

「先ほども言った通り、手記や口伝には、水と風の神を祀るのがみなもり神社である、としか。そして口伝は途絶えています」

「……もしかして」

 血の気が引いて、足元がふらついたように感じた。

 そうだ。ばあちゃんは巫女のことを知っていた。ただの決まり文句として唱えていた祝詞の中の、風と雲の巫女。それが泉に現れることを知っていた。

 十二年前に父さんが死んで、その二十四年前に爺さんが死んだんなら、ばあちゃんは巫女のことを知っていたっておかしくない。夫と息子のことなんだから。

 じゃあ、母さんは? 全部知っていて。全部知っていて、オレが何も言わないからって黙ってたのか?

 オレが十二年後に死ぬって、二人とも、知ってたのか?



 手記を鴫沼さんに預けて、オレはバス停でバスを待っていた。さっきから家に電話をしていて、もう三回目の留守電メッセージを聞いている。

 バスに揺られている間、汗で画面が曇った携帯を鞄に入れて、オレは目を閉じた。しかめっ面をしていると思う。まほろが、オレの前でひらひらと手を振っているのが分かった。

 ただでさえ、昨日から情報過多なんだ。整理する時間が欲しい。

 水守の御子とミナモリの巫女は、十二年に一度、世界が繋がって、離れるまでの七日間を共に過ごす。

 そして世界の繋がりに蓋をするために、交互に人柱となる。

 十二年前はオレの父さんが。今回はまほろが、次はきっと、オレが人柱になる。

 世界と人の命にかかわるような大きなことだ。なのに、水守の神社はもうなくて、口伝も途絶えている。残っている明確な資料は、随分昔の口伝を書き留めた手記と、あの屏風絵、そして、叔父さんが管理していた、御子達の手記。

 水守の神社に祀られていたのは水と風の神だと伝わっていて、なのに、祝詞には風と雲の巫女、と伝わっていた。

「……くそ、何なんだよ」

 最後の一つさえなければ円満解決なんだ。最後の一つが、オレの頭の中をぐちゃぐちゃにしている。

 駅でバスを降りて、乗り換える。あと十五分だ。

「ねえ、ハル」

 バスを降りるときに、まほろがオレの肩に手を乗せた。

「みんなが全部知っていたって知ったら、ハルは怒る?」

「……まあ、何で教えてくれないんだっては思うよな」

 正直、まほろが全部知ってるなら今すぐ教えて欲しいところだ。けれど、まほろだって、昔のことまでは知らないだろうし。

 バス停から家に向かう途中で、着信があった。まほろに手を叩かれて、サイレントマナーで鳴っていたことに気付く。

「……もしもし?」

『はる、何回も電話して、どうしたの』

 ばあちゃんだ。オレは足を止めて、視線を落とす。地面に落ちた影が、やたら濃く見えた。

「……あのさ、ばあちゃん」

 いざ電話越しになると、どう言ったものか、まるで言葉が出てこなかった。巫女のことを知っているか? まほろのことを知っているか? どう切り出せって言うんだ。

「ミナモリの巫女を知ってるでしょう」

 オレが言葉に詰まっていると、まほろが携帯に向かってそう言った。

「えっ……ちょ、まほろ……言っても聞こえないんじゃ」

「やってみなきゃ分からないよ。人の耳には無理でも、機械には聞こえるかもしれないでしょ?」

 確かに、幽霊も肉眼よりもカメラに映るけれども。

『はる?』

「あっ、ごめんばあちゃん、もうすぐ家着くからさ、そこで話そう」

『はる』

「はい」

『公民館に行きなさい』

 静かにそう言われて、どっと、心臓が跳ねた。



 公民館は、バス停のすぐ近くだ。裏に地区長さんの家があるから、そこで鍵を借りて、焼けた畳の部屋で待つこと十数分。ばあちゃんが来た。

「おかえり、はる」

「ただいま……」

 ばあちゃんの後ろに、隣の爺さんがいた。その後からもぞろぞろと、隣組の爺さんばあさん、オッサンオバちゃんが、狭い公民館に入ってくる。農作業のあとらしくて、土臭いむっとした匂いがした。誰かが窓を開けて、首を上下に振る扇風機のスイッチが入れられる。

「お茶、淹れんとね」

「すぐすむけ、気にせんで」

「やあ水守のとこのせがれさんか。大きくなって」

「あらあ保田高だったの。優秀ねえ」

「それで、」

 オレが正座して黙っていると、ずらり、とオレの前に顔が並んだ。厳つい農家のオッサンがこうも並ぶと、威圧感がすごい。

「巫女さんはそこにいるのかい」

「……やっぱり」

「そう」

 ばあちゃんがオレの隣に座って、ぽん、ぽんと背中を叩いた。

「うちの地区の年寄り衆も、若いのも、大人はみぃんな、知っとったよ」

「……ミナモリの巫女のこと?」

「詳しくは、教えてもらえなくってねえ」

 隣のオバちゃんが、顔に手を当てた。

「でも、水守の男の子が、大きなものを背負ってるってことは、みんな知ってるのよ。天気を操る巫女様がいるってことも、勿論知っているし……ほら、春君は雨が好きだったでしょう。水守の子だからって、皆に言われたんじゃない?」

 確かに言われた。というか、このオバちゃんが一番よく言ってた。

「……水守の家が背負ってることを、地域全部で肩代わりすることができればいいが、それは出来ん。だから、俺らは水守を、いろんなものから守ることにしている」

 隣組の組長が、胡坐をかいて腕を組んだ。

「頑張らんでええよ、春。古い伝統なら人柱もやめられるが、そうも行かないそうじゃないか。必要な犠牲として決まってるんだったら、せめてそれ以外の人生は、好きに、気楽に生きなさい」

 きっと、父さんも同じことを言われたんだろう。

「なあ、春。世界のことなんて大きなもの、小さい一人の人間が背負っていいことじゃない。ワシらは、ずぅっと水守の氏子だった。……ウチの爺さんの、そのまた爺さんから聞いた話だとな。水守の家の男子が早く死ぬようになって、どうにか、水守を守りたかった。先祖代々、世話になってる神社だからな」

 組長は、古い記憶をたどりながら、ぽつりぽつりと教えてくれた。

 昔は、水守の男子が早く死ぬなんてことはなかったそうだ。けれど、その昔というのも、ずっと、それこそ、何百年って昔のことだ。

 水守の男子は生まれつき雨が好きで、十二年に一度、夏になると、見えない巫女を迎えていた。それを信じているか信じていないかとかではなく、そういうものだ、と教わってきたそうだ。

 水守の長男が早死にするようになって、このままじゃ神社の家系が途絶えるとなって、水守を守るために、巫女と水守の縁を切らせようとしたそうだ。

「今より隣組の繋がりは強かったから、それこそ、身内を守りたいという一心だったんだろうよ。世界が云々なんて大きな話より、家族だ、家族」

 組長の言葉に、まほろは大きくうなずいた。

「アキヒコもそうだったよ。世界より家族が大事なのが人間だって、さ」

 まほろはオレと組長の間に、逆さまになって浮かんでいる。

 つまり、世界の繋がりや、人柱としての役割よりも、水守の家を守ろうとした。人柱がいなくなったらどうなるかなんて、オレもまほろも、勿論昔の人達も知らなかっただろうけど。想像もできないものと目の前の人間を天秤にかけるなら、きっと、後者を選ぶのがほとんどだろう。

 けれど、オレまで御神体のことは受け継がれてきたし、ミナモリの巫女はここにいる。

 ミナモリをミズモリにしても、神社がなくなっても、ミナモリの巫女との縁は切れなかった。だから、死ぬまでの短い人生を守るために、大人達は秘密を共有した。口伝が途切れたことにして、世界のための人柱が、穏やかにその時を迎えられるように、包み隠してきた。

 全ては、水守の御子のために。

「……ごめんなあ、春。若いお前が背負う荷を、少しも手助けできないなんて」

 そう言われてしまうと、喉まで出かかった文句だって引っ込む。

 家系で決まっているとかは勿論、いやだ。だけど、この人数の大人が、全員、神妙な顔をしてこちらを見てくると、そんなオレの主張が、子どもの駄々に見えてならない。

 あと十二年しかオレが生きられないと、みんな知っている。それを受け入れて、きっとオレより悲しんでいる。今日までオレに伝えなかったのは、せめてもの優しさってやつなんだろうか。知らぬが仏とはよく言ったもんだ。

 ……ああ、本当に。知らぬが仏とはこのことだろう。この人達は、水守の男が、代々手記を残していて。それほど、断ち切りたかったミナモリの巫女との縁を、より強く結び続けていることを、きっと、知らない。

「おじさん、そんなに謝らないでくださいよ」

 オレ達は嘘吐きだ。まほろがみんなに見えないのをいいことに、みんなの努力を水の泡にする。

「今の時代、長生きすることばっかりが幸せじゃないですし。この命一つが誰かのためになるなら、それって最高にカッコいいじゃないですか」

 思ってもない嘘を吐く。

「……オレは、幸せ者ですよ」

 それは本音だった。

 ばあちゃんも、叔父さんも、集落の大人みんなも、オレのために心を砕いてくれる。こそばゆいくらいに。

 だから。だからこそ。命を投げ捨てなければいけない場面になったら、きっと、オレもそうする。怖いって言葉を飲み込んで、へらへらしながら死にに行く。そんな馬鹿を、きっと演じるんだろう。

 通夜みたいな空気のまま、みんなが帰って、オレは公民館に一人残った。外でばあちゃんが待っている。この天気の中であんまり待たせたくないので、オレは、浮かんでいたまほろをさっさと捕まえた。

「まほろ。十二年前のこと、全部教えてくれ」

 そう言うと知っていたみたいに、まほろは唇を尖らせる。

「信じるよ」

 オレがそう言うと、まほろは視線を巡らせて、それからオレの隣に立った。

「ハル。優しくっても、嘘は嘘だよ」

「……分かってるよ」

「アキヒコもそうだった。平気だって笑って私の頭を撫でて、そのくせ、本当は全然平気じゃないんだ」

 ああ、まほろは、父さんを見送ったんだ。オレと同じように、何も分からないままで巫女になって。見たこともないような世界で、父さんは拠り所だっただろう。

「アキヒコのノートを読みながら話そう。ハル、少し休んだ方がいいよ」

 首筋に触れたまほろの手がひやりと感じて、オレは、体が随分と火照っていたことに気がついた。学生服のボタンを一つ外して、ぱたぱたと風を送る。少し気持ち悪いのは、熱中症の兆候とか、だろうか。

 オレは、共有の冷蔵庫に入っていた麦茶を飲んで、外に出た。むっ、と、さわやかさの欠片もない風が全身を撫でていく。湿度が異様に高い。

 ばあちゃんが乗ってきたオンボロ自転車を押して、帰路につく。荷台の上に立って、まほろが、空を見上げていた。夏の夕暮れの空は、夕立が来そうな雲が重く垂れこめていた。

 明日も郷土資料館に行くつもりだ。けれど、鴫沼さんに、どこまで話そうか。それとも、話さない方がいいんだろうか。

「はる、ちょっと急がないといけんかもねえ」

「えっ?」

「洗濯物、干しっぱなし」

 ばあちゃんが言って、オレはスクール鞄を自転車カゴに放り込んだ。荷造り用の紐でばあちゃんをオレにゆるく縛って、重いペダルをこぐ。

 ざあっ、と、雨が、後ろから迫ってきていた。

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