二 よく晴れた日に
学校の屋上は、当然ながら、鍵がかかっている。けれど、屋上に続く階段はいつでも昇れるし、その先、三階からも他の場所からも死角になる階段の先は、いつも静かで、日の光が差し込んで、学校で一番明るい場所だ。
オレが階段に座って時間を潰している間、まほろはドアをすり抜けて、屋上にいた。まほろは、晴れた青空が随分気に入ったらしい。学校の屋上は、何にも遮られない青空を好きなだけ見上げていられる。
今日で、まほろが来て三日目になる。昨日、雨を晴らせた時に見えた鯨が、まほろの世界のいきもの、水と風でできたケモノだそうだ。
「色々いるんだよ。鯨も、イルカも、魚も、鳥もいる」
まほろはこちらにいる間、そのケモノ達を呼べるんだと、得意げに胸を張っていた。
「晴れ女? それとも、雨女なのか?」
「どっちでも。水と風は天気の全てだから」
つまりまほろは、天気を操れるわけだ。そんなすごいものと繋がりがあるなんて、ウチはどんな家系なんだよ。
昨日、まほろの所業に腰を抜かして、出かけるのを忘れてしまった。なので今日はバスを降りないで、隣町まで行こうと思う。
隣町には、同じ水守の姓を持つ親戚がいる。あっちもあっちで御神体がある、とか、そういうわけではないが、どういうわけか、本家らしいうちより色々と資料が残っている。まほろについて、何か分かるかもしれないんだ。
「まほろ、帰ろう」
オレの周りをふわふわとしていたまほろに声をかけて、オレは階段を降りる。オレの高校は東西に二棟あって、それが連絡通路二つでつながっている。どこにでもあるような高校だ。西棟は美術やら家庭科やら、専門授業の教室が多いので、夏休みは特に静かだ。足音が特別響く。
南昇降口から出れば、かっ、と夏の日差しにさらされた。広い第一グラウンドで砂が舞い上がっていて、サッカー部が水を撒いている。
「ハルお好みの、青空だよ」
まほろがオレの肩に両手を乗せた。確かに、ずっと恋しかった、かぁんと晴れた青空だ。夏の濃い青空は、どうしてか、すぐ手が届きそうに感じる。
「わたし、ハルと一緒でよかった」
眩しい青空に手をかざして、まほろはふわりと浮き上がる。
「ミナモリの巫女に生まれてよかった」
ぽつり、とこぼした呟きの意味を、まだオレは知らなかった。
通された客間で、熱い緑茶を飲んで待っていた。こっちの水守の家に来るのは久しぶりで、少し緊張する。まほろは神棚を眺めたり、天井の向こうに顔を出したりしていた。
「やあ、春君。本家の君が一人で、珍しいね」
「嘉仁叔父さん。忙しかった?」
「いいやぁ。ほら、もうすぐ兄さんの命日だからね。今年は十三回忌だから、法事もやるんだろう?」
「あ、はい」
「それで、早めに休みを取ったんだよ。八月のー……七日、だったね。色々と準備があるだろう」
オレの父さんは、十二年前に死んでいる。法事に関しては、叔父さんがほとんど取り仕切ってくれている状態だ。もう十二年になるのかと記憶をたどっていると、がん、と叔父さんが湯呑を置いた。
「わっ」
「……そうか……十三回忌か……」
「叔父さん?」
叔父さんは視線を落としたまま、口をわなわなと震わせていた。
「春君、君は長男で、弟はいないね」
「え、はい」
「最近、変わったことはないかね」
オレは思わず、横で逆さまになっているまほろを見る。それから叔父さんに視線を戻すと、叔父さんは真っ青になっていた。
「春君」
「はい」
名前を呼んだっきり、叔父さんは黙ってしまった。まほろはオレの真似をして、オレの隣に正座する。けれど、三十秒もすると飽きたのか、またふわふわとどこかに行ってしまった。
「君のお父さんの話をしてもいいかな」
オレの父さん、つまり叔父さんの兄だ。
オレは、父さんの記憶がほとんどない。十二年前なら、オレは四歳か。そのころの記憶なんて曖昧なものだ。
叔父さんと父さんは、仲がいい兄弟だったと聞いている。父さんとオレは四年間しか関りがないし、オレは顔も覚えていない。けれど、叔父さんは生まれてから十二年前まで、ずっと兄弟だったわけだ。
「君のお父さんは、雨が好きな人でね」
叔父さんも、雨が好きだったそうだ。だがあるときぱたりとその気持ちがなくなって、間もなく大学で家を出た。父さんは地元で就職して、一度も家を離れなかったそうだ。
「俺が大学に出てすぐだから、君のお父さんが二十歳の頃かな。八月の頭、早く帰って来いって言われてね。親父の命日がそのあたりだから、何かあったかと思って行ったんだ」
叔父さんの親父なら、オレの爺さんだ。随分前に、ばあちゃんを残して死んだらしい。
「お父さんは、巫女様がまた来たよ、と言って、誰もいないところを示して俺に紹介したんだ。それが、丁度二十四年前」
また、という言葉に、オレは思わず視線を落として計算する。二十歳で二回目なら、一回目に父さんと巫女が会ったのは、八歳の時だ。
「八月の六日だった。君のお父さんは、怪訝な顔をする俺に、古びた箱を一つ押し付けて、お前はこの家から出てくれ。これを守ってくれ、と言われた」
叔父さんの湯呑が空になったので、叔父さんは立ち上がって急須を取りに行った。まほろは、電気ポットから出てくる熱湯をしげしげと眺めている。
「それは、水守の御神体と、水と風の巫女のことが書いてあった。歴代の水守の男子が書き残した、手記だ」
叔父さんは急須に蓋をして、神棚に手を伸ばす。神棚の端から取ったのは、几帳面に折り畳まれた紙だった。埃をかぶった紙を捨てて、中から出てきた鍵を、オレに差し出す。
「うちの二階の奥に、物置になっている部屋がある。階段を上がって右の部屋だ。着物やら娘のオモチャやらいろいろあるが、左の押し入れの左の下段に、木の箱が入っている。すのこの上に置いてある。それの鍵だ」
オレの掌に鍵を乗せて、叔父さんは胡坐をかいて座った。やや濃い緑茶を湯呑に注いで、ああ、と絞り出すような息を吐く。
「保存状態には気をつけているが、随分古い手記もある。取り扱いには気をつけてくれ」
「え、見ても?」
「ああ。君のお父さんの手記もある。……春君。君のお父さんは、きっと、死んでしまうと分かって、俺にそれを預けたんだろうな」
叔父さんは、大窓から外へと目を向けた。目を細めると、目尻にしわが刻まれる。叔父さんと父さんはよく似ていたそうだから、もし父さんが生きていたら、こんな顔だったんだろうか。
「春君」
「はい」
「君は、雨が好きかい?」
そう言った叔父さんの向こうにまほろが見えて、オレは言葉に詰まる。
「……昔は、好きだったけど」
「そうか」
湯呑を傾けて、叔父さんは優しく笑った。
「君も水守の子なんだね」
それはきっと善意も悪意もない、ただの所感なんだろうけど、オレには不快な言葉だった。オレが雨を好きなのには子どもながらに理由があって、それを、家系で片付けられるのは嫌だった。
「……そう言われるのは、嫌かい?」
思ったより不機嫌な顔になっていたらしくて、叔父さんが困った顔になる。オレは湯呑をつかんで、少しぬるくなった緑茶を流し込んだ。
「例えば」
飲み込んだ勢いのままで、オレは吐き出す。
「例えばオレが、まほろのせいで死ぬんなら、オレは自分でその選択をしないと納得しない。父さんが死んだのは二十四年前じゃない。生きることを選べたってことだ」
まほろが、「呼んだ?」とオレの後ろに来る。
「水守の男だとか、そういう、オレがどうしようもない、最初っから決まっていることでオレの行動を説明されるのは、嫌だ」
それじゃまるで、オレが意志のない人形みたいだ。
「雨が好きだったのにはちゃんと理由があるし、ここに来たのだって、オレが、オレの意志で来たんだ。まほろがいるのはオレの家系のせいかもしれないけど、オレがどうこうするのに、誰か、何か外付けの理由付けは要らない」
「……そうか」
叔父さんはまた湯呑を空にした。
「そこにいる巫女は、まほろというんだね」
オレははっとして顔を上げる。叔父さんは、厳しい顔をしてこっちを見ていた。いや、多分、まほろを見ている。
「春君」
「はい」
「君に不快な思いをさせたことは謝ろう。けれど、君が水守の子で、その水守の男には、厄介な役割があることも事実なんだ」
叔父さんは、机の上の手を強く握った。
「俺は、兄も父も、その巫女に殺されている」
叔父さんの声が冷たくて、オレは身震いをした。
「君はまだ若いから、未来のことはあまり想像できないだろうけど……春君。その巫女は化物だ。ゆめゆめ、飲まれないように気をつけなさい」
叔父さんの真面目な顔の横で、まほろは頬を膨らませて拗ねた顔をした。
畳に寝転がって天井を見ていると、まほろが顔を覗き込んできた。
「わたし、バケモノに見える?」
「少なくとも人間ではないかな」
「……そっかぁ」
そう困ったように笑われると、オレも困る。だって事実を言っているだけなのだから。
「まほろ、お前と一緒にいるとオレ死ぬのか?」
「……んーん。そうだったら、水守はもうとっくになくなってるんじゃない?」
まほろはオレの隣に横になって、両手に頭を乗せる。
「きっと、水守の人は、昔から優しいんだね」
オレの顔を見て、まほろは眉根を寄せて笑った。
優しい。多分、オレには似合わない形容詞だ。
「じゃあ、オレは死なないんじゃないか」
「そーお?」
まほろはくるんと回る。オレは、叔父さんのところから借りてきた、古い大学ノートと古文書みたいな本を見て、うつ伏せになった。大学ノートには、ばあちゃんの口からしか知らない、父さんの名前が書いてあった。
ノートを開く。汚いくせに几帳面な、小さい字がずっと並んでいた。一ページ目の日付は八月一日。例年通りに御神体の泉に行って、ミナモリの巫女を連れて帰った、と書いてあった。
「……ん? えっ」
思わずもう一度日付を確認する。二十四年前の八月一日。
……二十四年前だ。
「まほろって、何歳?」
「女性に歳を聞くなんて」
まほろが頬を膨らませる。見た目はオレとさして変わらない。
「なあ、オレの父さんのこと、まほろは知ってるのか」
「……うん。知ってるよ」
まほろはオレの隣に寝転がって、オレ達はそろって父さんのノートを見る。
「まほろ、まだオレに言ってないことがあるだろ」
七日間、繋がる世界の番人が、オレとまほろなら、死ぬ要素なんてないはずだ。手記を読めば書いてあるんだろうけれど、できれば、まほろの口から聞きたい。
「あるよ」
まほろは頬杖をついて、にっ、と笑う。至近距離でも息遣いが感じられない。ただ、何処か懐かしいような、水の匂いがした。
「でも、それはわたしが言うより、お父さんに教えてもらったほうが、いいんじゃない?」
まほろの指が、手記をつつく。
「……なあ。何で嘉仁叔父さんは、あんなキツいこと言ったんだろうな」
「それも、お父さんに教えてもらったら」
叔父さんの名前を出すと、まほろは露骨に不機嫌になった。確かに、化物、と言われればオレだって不機嫌になる。でも、事実、十二年前に父さんは死んでるし、その命日と巫女が来る時期は重なっている。もし父さんが詳しいことを叔父さんに話していないんなら、巫女に殺されたと思ってもしょうがないし、家族を殺されれば、大体、恨む。
「……父さんは」
オレは起き上がって、まほろを見下ろす。
「父さんは、恨まなかったのかな」
自分の父親が死んだ原因が、目の前にいたら。オレは幼かったから実感がないけど、父さんは、小学生になってから父親、つまり爺さんを亡くしてる。
「……恨んでたんじゃない?」
まほろは足を上下させる。オレは、生ぬるい畳に手を置いて、視線を持ち上げた。
この部屋の隅には、父さんが使っていた書斎がある。壁に据付の本棚があって、その下に据付の木のテーブルがあるだけの、狭くて小さい書斎だ。母さんが時々掃除をしているのを見たことがある。西日がよく当たるから、本の背表紙はほとんど日焼けしてしまっていた。
父さんは、随分熱心な学生だったらしい。ばあちゃんからたまに聞く学校の成績は上の上だし、大学に行かないと言ったときには親戚が反対したくらいだから、相当だろう。家から通える場所に大学はないし、それも仕方ないのかもしれないが。
そうまでして、父さんはこの家を離れなかった。この家を、というより、きっと、あの泉を。
「……ハル」
「何だよ」
「人間はさ。家族と、世界全部を天秤にかけても、家族の方が重くなるいきものなんだよね」
うつ伏せで、指で父さんの字をなぞりながら、ぽつりとまほろが言った。
「アキヒコもそうだった」
アキヒコ。オレの父さんの名前だ。
「ハル。水守とミナモリは、昔同じみなもりだったんだって」
まほろは、オレの手の甲に手を重ねてくる。
「みんなを守るから、ミナモリ。わたし達はね」
まほろの、色の違う瞳にオレが浮かぶ。
「この世界のみんなを守るために、いるんだよ」
どうして、とか、どうやって、とか、そんな疑問は浮かんでこなかった。
ただ、すとん、と。顔も知らない父親が、命を懸けたことに納得した気がした。




