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一 水と風の落とし子

 夕飯前に熱いシャワーを浴びて、オレはバスタオルを持って玄関に向かった。そこには、目を閉じたまま座っているあの女の子がいる。背負って連れてきたのだが、ばあちゃんに言ったら見えないと言われた。白い女の子、と言うと、ばあちゃんは「それは巫女様だねえ」と笑った。

 巫女様、と言えば、祝詞の風と雲の巫女だと思う。けれど、ばあちゃんは詳しく知っているわけではなくて、とにかく、あの御神体の泉に白い女の子がいたら、それは巫女様だそうだ。

 水気を拭こうとバスタオルを持ってきたのだけど、その女の子は濡れていなかった。水に浮かんでいたのに、連れてきたときはたしかに濡れていたのに、五分もしないで全身乾いている。

「……巫女様って……なんだ……?」

 相変わらず、目は閉じたまま、口も閉じたままだ。長い睫毛まで真っ白で、ともかく、普通の人間じゃないというのは分かる。ばあちゃんに見えないっていうんなら、幽霊、とか?

 オレが女の子の前にしゃがんでいると、母さんが帰ってきた。母さんは、水浸しの玄関とオレを見比べて、怪訝な顔になる。

「何を見てるの?」

 ああ、やっぱりこの子は見えていないらしい。



 自分の部屋に女の子を運んで、オレはその前に座った。オレにしか見えなくて、見た目より軽いけどたしかに重さがあって、輪郭もはっきりしている、女の子。ばあちゃん問い詰めれば少しは分かるかもしれないけど、そもそも、オレが白い女の子を今連れているっていうのを、ばあちゃんが本気で信じているのかも分からない。冗談半分で、巫女様だねえ、なんて言ったのかも。

 少なくとも、オレは巫女なんて聞いたことがないし、白い女の子の話なんて聞いたことがないし、今この子がオレにしか見えていないっていうのも、半信半疑だ。

 ……けれど、どこかで。

 どこかで、この子を「知っている」と思うオレがいる。初めて見るはずのこの子を、昔、どこかで見たような気がするんだ。

「……おーい」

 オレは呼びかけながら、髪に触れる。さらりとしていて、あっという間に手の中から滑り出ていく。指を撫でる感触は、水に似ていた。

「……やっぱり、生きてないのか?」

 それは困る。ただでさえキャパシティギリギリなのに、死んでるなんて言われたらどうしたらいいか分からない。

 そう思いながらもう一度髪に触れると、女の子のまぶたがぴくりと動いた。

 ゆっくりと、まぶたが持ち上がる。見えた瞳は、左右で色が違った。右が冴えた蒼色で、左は、透き通るような緑色だ。真っ白なまぶたの下から現れた双眸は、オレを見て、それから一度、長い瞬きをする。

 オレとその子は、長いこと、黙って見つめあっていた。オレは一歩引いて立ち上がり、大きく息を吸って吐く。

「名前は?」

「まほろ」

 女の子は、消えそうな声で呟いた。



 まほろは、ミナモリの巫女、と名乗った。オレ以外に見えないのも、泉から出てきたのも、コケの生えた石がなくなっていたのも、夢じゃないらしい。

「水守の御子は、十二年に一度、ミナモリの巫女を迎えるの。危険なことはないから、安心してね」

 オレの部屋のあれこれを物色しながら、まほろは懇切丁寧に、オレに説明する。

「この世界の裏側にはね、風と水の世界がある。十二年に一度、ここはその裏側の世界と繋がる。大きな歯車と、その中を回る小さな歯車のような感じ」

 まほろがくるんと指先を回すと、輪と、それより一回り小さな円盤の形をした水が現れた。

「この外の輪が、この世界。内側が、わたしの世界。わたしの世界は、ゆっくり内側を移動する。水と風を、外側に運ぶために」

「……水守の神社は、そのゲートってことか?」

「うん」

 異世界とか言われても、目の前でふわふわ浮いている白い女の子以上に不思議なものはないから、ギリギリ、納得できる。

「七日間、こちらとあちらが繋がる。その間、大きな問題がないようにって、ずっと昔に決めたんだって。こちらの世界からは、水守の御子。あちらの世界からは、水と風の巫女。ミナモリの巫女」

 まほろが空中でターンすると、長い髪が水の中で揺れるみたいに、ゆっくりと弧を描く。そういえば着ている白い浴衣も、空中にしては不自然にふわふわ揺れている。

「だから、七日間よろしくね? ええと……」

「春」

「ハル」

 まほろが差し出した握手の手を握る。

 こうして、オレの奇妙な日々が始まった。



 まほろは本当にほかの人間には見えないし、声も聞こえない。オレの後ろに浮いている背後霊みたいな姿は、もし見える人がいたとしてもホラーな絵面だろうと思う。

 空中を泳ぐように、まほろはオレの周りをうろついている。見るものすべてに目を輝かせて、バスに乗るだけでも一苦労だった。オレが置いて行こうとすると、まほろは大慌てでオレの袖をつかんでついてくる。

 学校の教室の中を飛び回るのは正直やめて欲しいが、オレにしか見えないから大っぴらに注意もできない。

「あの人が、先生? 何で頭に黒い帽子乗っけてるの?」

 やめろ、あの先生のヅラは意識したら笑っちまうんだ。

 まほろの世界には、色らしい色がないらしい。無彩色の白と黒、光と影の色しかない。水鏡にも何も映らないので、まほろは自分の瞳の色も知らなかったそうだ。いきものはまほろと、水と風でできたケモノだけ。言葉を話せるのはまほろしかいない。

「そんなに全部に感動して、疲れないか?」

 バスを待つ間に、ぽつりと言う。まほろはオレの前に来て、首を横に振った。

「七日しかないんだから。七日でうんと、この世界の綺麗な所を見ておかないと」

 七日も、寝ても起きても白い女の子に付きまとわれるオレの立場はどうなんだろうか。

 家に帰ると、狙ったように雨が降ってきた。出かけようと思った矢先にこれだ。

「雨は嫌い?」

「嫌いだ」

「じゃあ、晴らしてあげる」

 縁側に座ったオレの膝を蹴って、まほろはするりとガラス戸をすり抜けた。

「ハル、祈って」

 まほろは爪先だけを地面に付けて、くるりと回転する。と、地面から、水の珠が浮き上がった。まほろの掌より少し小さな水の珠は、まほろの回転に合わせてゆっくりと上がっていく。

「祈るって?」

「雨が嫌なら、こっちの人は祈るんでしょう? かみさまに」

 水の珠はまほろの周りを回りながら、上へと落ちていく。下から風が吹き上がるように、まほろの浴衣の袖が上へはためいた。

「明日、天気になあれって」

 例えば、遠足の前の日にてるてる坊主を作るように。神も仏も、誰も本気で信じちゃいないこの時代じゃ、笑われそうな祈りだ。

 けれどオレは、自然と、両手を合わせていた。

 オレが手を合わせると、まほろの足元で、水が円を描く。上へと落ちる水の珠はますます増えて、代わりに、見覚えのある光がまほろの足元から立ち上った。まほろが現れたときの泉と同じ光だ。

 ぱしゃん、とどこかで水が弾ける音がした。

 まほろが両手を掲げて、ぶわっ、と半透明の大きななにかが、まほろを包むように地面から飛び出した。空気の屈折で輪郭が見えるような、ぼんやりとした、巨大な――――

「鯨だ」

 それは確かに鯨だった。

 地面を水面にして、飛び出した鯨が、ゆっくりとその全身をあらわす。そのまま反った鯨は、姿を消しながら倒れてきた。思わず目をつぶって、瞼の裏にまぶしい光を感じて顔を上げる。

 空が晴れていた。差し込んできた日の光を全身に受けて、まほろは得意げに両手を掲げてみせる。さっきまで降っていた雨が、日の光を反射してきらきら光っていた。

「ほら、晴れた」

 いつの間にか、水の珠は無くなっていた。まほろはまたガラス戸をすり抜けて、オレの前に来る。

「雨上がりの青空は、綺麗だね」

 そう言って屈託なく笑うまほろが、美少女なんだとようやくオレは気が付いた。

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