序 在りし日の夢
大きな手で、頭を乱暴に撫でられた。
『いいかぁ、春。男にはな、カッコつけなきゃならねえ時があるんだ』
顔も覚えていないその人が、父であることは知っていた。
『だから、まあ……何だ。恨むなよ』
無茶な話だ。
無茶な話だというのに、夢の中の自分はいつでも、行儀よく頷くのだった。
雨の中を歩くのが好きだった。
ランドセルを揺らして、傘を振り回して、雨を全身に浴びる。くつ下までぐっちゃぐちゃになって帰って、祖母に苦笑される。そんなことを繰り返した夏があった。夏の夕立は、雨臭くて「来る」と分かって、生暖かい風と雨が、ざあっと向こうからやってくるから、なお好きだった。
かぁんと晴れた青空は、くらくらするくらいにまぶしくって、嫌いじゃないけれど、夏はとにかく雨が好きだった。そんなオレを、母親や祖母は、水守の子だからね、なんて言っていた。水守というのはオレの名字で、なんでも、ずっと昔に、裏山にあった神社の家系だとかなんとか。全然知らないんだけど。
中学校に上がったくらいから、雨を浴びると風邪をひくようになってしまって、オレは、雨の日に傘をさすようになった。安いビニール傘にぱたぱたと雨が当たる音も、これは、これで。だけど、傘ごしの空は面白くなくって、雨の日がだんだん嫌いになった。
日差しで焼けた縁側に座って、ガラス戸越しに庭を見ていると、雨の日はますます気が滅入っていった。なのに夏ときたら雨が多いんだから、本当に、嫌になる。
オレの住んでいる集落は、駅のある街の中心部から山を二つ越えた場所にあるのだけれど、その山のせいで雨が多いそうだ。田舎特有の、近所はみんな顔見知り、みたいなノリで、回覧板を持ってきたオバちゃんが、
「もう雨の日に外で遊ばないの? 水守の子なのに」
なんて聞いてくる。オレはもう何年も前から、雨の日は外で遊んでいない。いつになったら、情報を更新してくれるんだろう。
今日も雨。長い夏休みは始まったばっかりだ。こんなことなら、しつこく誘われた部活にでも入っていればよかった。自称進学校のオレの高校は、夏休みも普通に課外授業があるのだけど、それも午前中だけだ。午後になればバスで十五分で帰ってきてしまう。
部活に入っている奴らは、今日も練習だとぼやいていた。そこは流石の自称進学校で、自称文武両道校らしく、部活の指導にもそこそこ熱が入っている。文句を垂れながら素直に部活に行く奴らは毎日楽しそうで、結局、疲れるだの先輩が怖いだの言いながら、今日も青春活動に精を出す。
今日も雨。きらきらしい青春を謳歌する高校生を鼻で笑いながら、オレは庭を眺めている。生産的じゃないこの時間も、哲学的には何か意味があるに違いないとか、言い訳をして。
課外授業があるのに出ている夏休みの宿題を、とりあえず忘れないようにと積み上げた山を振り返って、オレは立ち上がる。時計を見ると、午後二時半。麦茶でも飲んで、宿題に手をつけよう。
そろそろ、かぁんと晴れた青空が恋しくなってきた。
宿題を少し片づけた後、オレは縁側で、相変わらずの雨天を見上げて寝転がっていた。夏は、何はなくとも体がだるい。時計を見ると、もうすぐ夕焼け小焼けの放送が聞こえてくるくらいだった。
何だか、不思議な夢を見た気がする。けれど昼寝の夢というのは本当にあっという間に消えていくもので、ハッキリした意識でこうだった、と覚えているつもりでも霧散していく。
「はるー、はるー?」
敷地内の隠居から、ばあちゃんの声が聞こえる。俺は縁側から庭に降りて、車庫併設の隠居に向かった。
「ああ、起きとった?」
「起きたよ。何だよばあちゃん。飯はまだだよ」
「いや、ほら、八月だからねえ」
オレはカレンダーに目をやって、「ああ、うん」と生返事をする。
ウチは古い神社の家系だったそうなのだが、そのせいか、変な習慣が残っている。神社の家系と言っても名ばかりで、不思議パワーもないし、そもそも家が普通の田舎の家だし、鳥居とか社もない。氏子もいなくなって随分になるけど、御神体だけはひっそり守っていかなきゃいけない、とかで、毎年二回、御神体の所に行く。八月の頭と八月の末、二回だけ。一昨年まではばあちゃんの付き添いだったけど、去年からはオレだけで行くことになっていた。
「ほら、神酒。もうすぐ夕暮れ時だからね、雨だけど、気をつけていってらっしゃい」
「……はーい」
オレは、小さい徳利に入れられたお神酒を持って玄関に戻る。
御神体は、裏山にある。山と言っても大した高さはないし、石を置いただけでも道は作られているから、滑らないように気をつけるだけでいい。鬱蒼と茂る森をずっと歩くと、なんて仰々しいこともせず、玄関を出て十数分で頂上だ。
頂上には小さな泉があって、泉の中心に、コケだらけの石が見える。池と言うか大きな水たまりくらいの感じなんだが、不思議なくらい、いつも水は澄んでいる。
オレは、持ってきたお神酒の徳利を置いて、靴を脱いだ。
「かけまくも……」
昔から教えられている祝詞を唱えて、オレは池に入る。夏でもひんやりとした水は、あっという間にオレの足首を冷やした。上ってきた寒気に身震いして、オレは池の中心まで進む。昔は腰まであって、入るたびに泣きそうだった池も、今や膝より少し上までしかない。体は成長しているんだなあ、なんて年寄りじみた感想を抱いて、オレは徳利の蓋を開けた。
「風と雲の巫女に捧ぐ、キヨクアレ、ヤスクアレ、キヨクアレ、ヤスクアレ……」
透明なお神酒が、オレの前に落ちて池に波紋を作った。最後の一滴まで落としたら、おしまいだ。家に帰って、夕飯を作ろう。
そう思っていた。
最後の一滴が落ちた直後、ピチョン、という音がやたら大きく聞こえた。だいいち雨なので、水面は一度だって凪いでいないし、田舎の夕暮れというのは色々な音がする。それなのに、雫が落ちた音ははっきりと、オレの耳元で聞こえたように大きく聞こえた。
「?」
オレは徳利に蓋をして、首をかしげる。ただ音が大きく聞こえた以外は、変なところもない。オレは踵を返して、池から上がった。濡れた足を軽く拭いて、靴を履き直す。
視界の端で何かが光った気がして、オレは振り返った。そして、「え」と思わず声を上げる。
池が、ほんのり光っていた。陽の光に照らされているとか、そういうんじゃない。池が、池の水が、淡い緑色に光っている。
そして、その池に、白いものが浮いていた。さほど強くない光の中で、ゆっくり上下に揺れている。
「……はっ?」
人だ。
そう気付いた時には、オレは徳利を投げ捨てて池に飛び込んでいた。飛んだ飛沫が顔まで飛んでくる。冷たかったはずの水は、ほんのり温かくなっていて、抵抗がほとんどなくなっていた。
浮かんでいたのは、女の子だった。白い。髪も肌も、病気なんじゃないかというくらいに白い女の子だ。触れた手首があまりに細くて怖くなる。まぶたはぴたりと閉じていて、息をしているのかも分からなかった。
オレは、びっくりするほど軽いその女の子を引っ張って池を出る。引きずるようにして地面に乗せると、ふっと池の光が消えた。その時に気づいたんだが、池の中心にあった、コケだらけの石がなくなっていた。光がなくなると同時に水はまた冷たくなって、オレは池から出て膝をつく。
息を整えると、どっと汗が噴き出した。暑いからじゃない。光が消えて、それなのにこの女の子が目の前から消えないからだ。白昼夢じゃなくて現実なんだと思い知って、オレは女の子の横に座る。
「白い……」
ただ真っ白な女の子は、眠っているようだった。けれど、口と鼻の近くに手をかざしても、息の感触はしない。かといって、触れた手首が冷たいわけでもない。
「生きてる……のか?」
どこから出てきたのかとか、何者なのかとかはとにかく置いておいて、まず、生きているのか。オレは手を伸ばして、女の子の肩を揺すった。触れている感触も温かさもあるのに、気持ち悪いくらいに、触れている、という実感がない。
「どうしよう……」
オレはその女の子を前に、途方にくれた。