表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

room

作者: 雛田あざみ

 私がいつもその部屋に入ると、ふわっと独特な匂いに包まれて、ああ、彼の部屋に来た、と思う。

 そこは私が来るときはきれいにしてあった。―いや、よく見てみたらテレビの裏にごちゃっといろいろなものが置かれていたから、来る前にいつも慌てて片付けていたのだろう。何でもっと普段からきれいにしようとしないのかな、いつもは汚いんだろうなと思っていたし、実際彼に笑い交じりで言ったこともあった。だけど、最後には決まって、絶対に彼に言うことはなかったけれど、嬉しくなるのだった。

 私が、彼にとってちゃんと招かれている客だと認識されていると感じたから。

 本当に不思議だ。もう会うことのない、友人だった彼の顔や声やしぐさはもう忘れかけているのに、部屋の匂いは決して忘れない。彼の部屋には芳香剤は置かれていなくて、服は、私が部屋に行った時にはクローゼットにしまわれていた。あの何とも言えない、少し柔らかな花のような匂いは何だったのだろう。

 あの匂いは、彼の後姿を思い出させる。部屋に入るとき、彼は常に何かしていて、背中から私にあいさつした。レポートの追われながらの時は何度でもあった。テレビを見ているときもあった。その時は、私も並んで一緒に映画を見た。本を読んでいるときもあったし、メールをしているときもあった。

 「ねえ、テレビ見ていい?映画何かあってるかな」

 「うん、いいけどさっき番組表見たらなんも面白いやつなかったよ。今日はハズレだなあー」

 その日はレポートの日だった。日曜日の昼下がり、月曜日提出のそれに追われて彼はのんびりしてもいられないはずなのにテレビはしっかりとチェックしている。さすが余裕があるな、と少し茶化していったらあっかんべされた。テレビをつけて、バイト終わりに持ってきた廃棄の冷めた弁当を食べながら、映画を見る。ちょっと昔のスパイ映画だった。ハラハラしてちょっと日曜日には合わないかな、とも思ったけれどそこで出てくるカップルが実は敵同士だったというストーリーは切なくて、面白かった。彼も面白いやつない、とは言っていたがレポートが進まないのもあるのだろう、ちらちらとテレビを見て「おー」とか「やめろよ、危ないだろ」なんて茶々を入れる。映画に思わずのめりこむ私を見てくすくす笑いながら。そうだ、彼の笑顔は部屋の匂いと同じくらいリアルに覚えている。彼は笑うと、目じりがきゅんと上がる。人を卑下するわけでなく、ただ単に面白いなこいつ、という感じの彼の笑った表情は見ると何となくほっとした。

 ―思い出そうとすれば、結構思い出せるものだ。大学を卒業して、彼も私も就職してから部屋に行くことはおろか、会うこともなくなった。卒業後、私は会社の同僚だった夫と結婚した。今、娘が一人いる。風の便りで、彼も高校の同級生と結婚したと聞いた。もう四半世紀もたつのだ、良くも悪くも気ままでいられたあの頃のままではいられない。もちろん、大学生だったころは彼女がいないと知っていたから彼の部屋にお邪魔していた。だけど、あの部屋に入ったからどうこうなんてことは一度もないし、起こるはずもなかった。

 大学のサークルの三人でちょっと集まってご飯でも食べようやと呼びかけたのは彼の友人で、ムードメーカーだった子だった。いや、もう子じゃなくておじさんだが。そのおじさんの学生時代は、部屋の彼と学部が一緒で、基本二人でいた。私を含めた三人の中で部屋の彼の家にしかテレビがなかったので、ムード―メーカーの家に行くことはなかった。ゆえに彼に比べるとあまり交流はなかったが、いい人だったことは覚えている。

 私は、正直迷っていた。行くべきか、行かざるべきか。

 テレビではお笑い芸人たちが、同窓会での話をしていた。高校時代かっこいいと言われていたあの子も、すっかりはげていたと言って周囲の笑いを誘っていたが、私は笑わなかった。そりゃ、四半世紀過ぎたら変わるよね、とぼうっと思った。でも私の記憶のうちにその話が残ったということは、まあ自分ももとの同級生の変化に対して過敏になるところがあるのだろう。

 ムードメーカーからお返事くださいと急かしのメールがきて、ずっと考えた。部屋の彼に淡い思いを抱いていたことも、考えた。外に目を向ける。ベランダで干していた洗濯物が、風で揺れた。私は部屋の空気を吸い込んだ。お昼に作ったチャーハンの匂いが、わずかにした。

 彼の、部屋の匂い。

 ダメだ。

 私は、もう独り身ではないのだ。

 家族がいる。夫と、子どもがいる。

 なのに、ふと考えたら止まらない。心が傷んだ。過去の記憶は、結局さよならすべき「思い出」だ。

 忘れよう。

 私は、ムードメーカーに断りのメールを入れた。そうだ、私は正しいことをした。

 さて、買い出しにいかねば。今日の夕ごはんは何にしようか。洋食でもいいし、鍋でもいい。パスタもいいかもしれない。

 私はバックを手に、ドアを開けて外に出た。外のつんとした、寒い空気を体に入れる。

 あんまり寒いから、涙がにじんだ。

 

 

 


まずは、読んでいただけたことに感謝します。小説を書き、評価していただけたのがとてもうれしく、(評価を)見た後すぐに続きを書いてしまいました。これからもちょっとずつ続きを書いていくと思うので、覗いてくださったらこれ以上の喜びはありません。


 匂いって、不思議なものだと思います。最近部屋に置くアロマとか欲しいなあと思っているのですが、なかなか買えません。お好きな匂いがありましたら、アロマでもなんでも、教えていただけたら嬉しいです。


2019/12/8 書き終わりました。今私がかける分を書いたつもりです。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ