魔王様は今日も勇者と対峙する
三年前、人間たちの領域を覆っていた魔術結界が寿命を迎えて消滅した。
人間たちはさぞ慌てたことだろう。なぜなら魔術結界を張った希代の魔術師はとっくの昔に死んでるし、今はもうまともに魔術を扱えるヤツはいないって話だったから魔術結界を張り直すのにも苦労することだろう。そのため、魔族が攻め込んでくるに違いないとか迷惑な事を考えるのは目に見えていた。
大体、資源も豊富、食料生産も十分、国内も至って平和な俺たち魔族が人間たちを襲って何の利益があるって言うんだ。そんな無駄な事に時間を費やすくらいなら更なる国の発展に努めるわ、阿呆が。
どうして人間共はその辺りを理解しようとしないんだ? それとも人間共は、俺たち魔族は知性も理性もない獣だとでも思ってんのか? 失礼な奴らだなホントに。
まあそんなわけで、魔族の王たる俺はまた聖剣に選ばれし勇者とかなんとかいう面倒くさい人間の相手をしなきゃならんのかとうんざりしているのだ。過去にもあったからな、そういう事が。まあそれも魔王の仕事の一つでもあるのだから、仕方がないと言えば仕方がない訳だが。
しかしまあ、五百年くらい生きてきた中で俺は何度か勇者を名乗る人間の相手をした事があり、その都度ちゃんと魔王らしく相手をしてやったのだ。そうして時間を稼いでやらないと人間共はちゃんとした魔術結界張れないからな。全く世話の焼ける奴らだ。まあ、人間の領域にちゃんと魔術結界張ってもらわないと俺たち魔族が迷惑するからな。魔族たちの今後の平穏のためにもそれなりの配慮は大事だ、うん。
まあ正直な話、魔術結界なんか張っても魔族にとってはあんまり意味ないんだけどな。あの魔術結界、三流魔族でも簡単に破れるくらいにペラッペラだし。もういっそ俺が頑丈な魔障壁張ってやるから二度とこっちに来るなと言ってやりたいくらいだ。正直、その方が双方にとっての平和的解決になるんじゃないかと半ば本気で考えていたりする。
とは言うものの、人間たちも理由なく魔族を嫌悪しているわけではないのだ。
何万年か前までは確かに魔族は人間を襲っていたという過去がある。そのせいで今現在俺たち魔族は迷惑を被っているわけだから、自業自得と言われてしまえばそうなのだろうと思ったりもする。
その当時、あまりにも酷い魔族の行動を創生の女神が憂い、人間たちに『聖剣』を授け、その聖剣に選ばれた者に力を与えたらしい。要は魔族に対抗できる武器をやるから後は自分達で何とかしろよっていうスタンスだったわけだ。創生の女神っつっても厄介事には首を突っ込みたくなかったんだろうな。その気持ちはよく分かるが、女神が中途半端に介入したせいで今現在魔族は迷惑している訳なので余計な事をしやがってと文句を言いたい気持ちはある。
まあそんなわけで、魔族は魔術結界がなくなれば直ぐに攻めてくるのだと人間たちは思い込んでいるという訳だ。
だがしかしそれはもう過去の話で、今はそんな単細胞で脳筋な魔族は一人もいないと断言できる。その辺りを人間共にも理解してもらいたい。
確か俺のじいちゃんのじいちゃんのじいちゃん辺りが「これではいかん!」と一念発起し、魔族たちを時に厳しく時に優しく時に肉体言語で教育していった結果、現在のような高度な生活水準を得ることができるようになったと聞いている。当時、魔王と呼ばれる者は魔族の中で一番強いヤツがなるという暗黙のルールがあったらしいが、今はそんな裏路地のリーダーを決めるかのような事はしていない。俺が今代の魔王であることからも分かるように、俺のじいちゃんのじいちゃんのじいちゃんくらいから魔王職は世襲制になった。
まあいろいろと魔族と人間の間には相容れないモノがあることは確かなんだが、女神が人間たちに聖剣なんてものを授けたせいで、魔術結界が消滅する度に聖剣を携えた勇者が魔術結界を張るまでの時間稼ぎ扱いで魔王のもとに送り出されるという行事が人間側に出来上がってしまったのだ。ホント迷惑。
◆◆◆◆◆
人間たちの領域を覆っていた魔術結界が消滅してから三年が経っても勇者は俺のもとに来なかった。同時に魔術結界も張られる兆しは全く見受けられない。これはもしや人間たちも長い年月を経てようやく魔族が攻め込んでこない事を学習したのか、と喜んでいた矢先に勇者は俺の前にやって来た。
「ごめんね。ちょっとだけ我慢してて」
「ふぇええん!」
俺は側近たちと共に勇者と対峙するためだけに作った専用の玉座の間で勇者と対峙しているはずなのだが、目の前には幼子を背負った少年が聖剣を片手に泣き喚く幼子を必死にあやしている姿があるだけだ。
「これが本当に今代の勇者なのか……?」
確かに何度か勇者の相手をした事はあるが、幼子を背負ってやって来た勇者は初めてだった。というか、幼子を背負っている少年からしてまだ年端もいかない子供だ。こんな子供が勇者としてやってきた事も初めての事だった。
前回までは屈強で体臭のキツイむさいオヤジとか、その顔だけで百人くらいは殺せそうな凶悪面の奴とか、問題発言連発で城内の侍女たちにセクハラしまくる奴とか……オイ、待てよ。今思い返してみれば勇者っぽい奴って一人もいなかったんじゃないか……? いやしかし、勇者らしい奴が一人もいなかったかもしれない前回までは確かに人間側には魔王を倒そうとかそんな意思があった気がする(たぶん)。だからこそ、今目の前にいる二人の子供の姿に、人間共はとうとう生け贄を差し出す方向にシフトチェンジしやがったのか!? と人間たちの血も涙もないような非情さに俺や周りにいた側近たちは皆ドン引いてしまった。
「本当にすぐ終わるから少しだけ待って」
「ふえええん」
少年は必死に幼子をあやしているが、幼子の方は一向に泣き止む気配がない。
それはそうだろう。魔族と人間の見た目はそれほど違いがないといっても、魔族ってだけでも人間にとっては恐怖の対象だろうし。何より俺の側近たちはお世辞にも気のいい兄ちゃんとは言えない強面揃いだ。幼子にとってはさぞ怖いに違いない。
「おなかすいたぁ!」
「さっき食べた果物っぽいヤツが最後だったんだ。ごめんね、もっと取ってこればよかったね」
魔族に囲まれてるってのに呑気に飯の話ができるというなら、もう人間たちは魔族の事怖がってないんじゃね? もう勇者を相手にする必要なくね?
今回の勇者はもともと子供だから今までのように肉体言語での話し合いをするつもりは最初からなかった訳だが、もういい加減ここいらでこの行事やめろよ人間。
「すみません。妹がお腹を空かせていますので早々にお相手願います」
「え、あ、ああ。分かった」
時間稼ぎのために用意したとんでもなく長い前口上の出番がなくなってしまった。いや、それは仕方ないだろう。妹が腹を空かせて泣いているのだから兄ちゃんとしてはさっさと終わらせて何か食べさせてやりたいよな。俺にも妹がいるからその気持ちは分からなくもないぞ。
今回は致し方ない。話し合いという名の食事の場を設けて時間稼ぎをする事にしよう。
勇者の訪問は人間共が魔術結界を張るための時間稼ぎにすぎないのだから、要は理由など何でもいいから勇者をこの場に長居させればいいのだ。そうすれば人間共はちゃんと自分たちの領域に魔術結界を張る事が出来るわけだからな。
人間側が魔術結界張り直している気配は未だに感じられないが……、ちゃんとやっていると今は信じておこう。
「勇者よ、感謝するがいい。今回はこの俺様が直々に慈悲を――」
慈悲をくれてやるから食堂に行くぞ、と続けようとしたところ、周りにいる強面の側近たちが示し合わせたかのようにそれぞれ懐へと手を伸ばし始めた。皆一様にその眼光は鋭く、いつにもまして険しい。しかもその視線の先にいるのは幼子たちだ。
待て待て、お前たちは一体何をしようとしているんだ。いつからそんなに非情な心を持つようになってしまったんだ。
レイトン。お前は昨日妻が懐妊したと叫びながら俺を殺す勢いで喜びのタックルをかましてくれただろう。
ジョルジュ。お前は栽培が難しい品種の植物に花が咲いたとか言ってそのごつい強面にぞっとするような不気味な笑みを浮かべて俺に報告してくれたじゃないか。
ローグ。お前は先日遂に千体目のカスタムドールが完成したと言ってお前が作った少女趣味全開のフリっフリのドレスを着た人形をみせてくれたじゃないか。お前のそのでかくてふっとい指から繊細な刺繍が施されたレースのドレスが出来上がる事は未だに信じられないが……。
とにかく、見た目は歴戦の狂戦士もビックリな程の強面野郎たちだが、その心は優しくて慈悲深いと俺は信じていたというのに!
そんな俺の心の声も空しく、側近たちは懐から獲物を取り出し始める。俺は慌ててそれを制しようとしたのだが、すぐ近くにいるレイトンが懐から取り出したものを目の当たりにして動きを止めた。
レイトンが懐から取り出したのは小さな布袋だった。状況からして魔術道具か何かを連想するのが普通なのだろうが、如何せん、俺はその中身を知っている。
その布袋に入っているものは、レイトンの嫁さんが作った甘い焼き菓子だ。
コイツはいつも嫁さんの作った菓子を持ち歩き、「これ、嫁が作ってくれたんですよ」とか言って惚気話を披露しながら大事そうに一つ一つを食べるのだ。因みに、その菓子を勝手に食べようものなら明日の朝日は拝めないという制裁が待っている。
一度小腹がすいた時に勝手に食べてしまった事があるのだが、俺は確かに翌日の朝日は拝めなかった。というか、レイトンの制裁のせいで三日間意識不明になっていた。コイツは普段は温厚なのだが怒らせると怖いタイプなのだ。
それはさておき。レイトンは大事な嫁さんの菓子を泣いてる幼子にあげようとしているのだろう。レイトンの顔がちびりそうなくらい険しく凶悪になっているは、おそらくどうやってその菓子を与えようかと悩んでいるからだ。
そうだよな。お前はもう父親になるんだもんな。子供相手にひどい事する訳ないよな。少しでもお前を疑った俺をどうか許してくれ。
とか考えながらも、レイトン以外の奴も獲物を仕留めんばかり迫力で懐に手を忍ばせている事を思い出す。レイトンは大丈夫だと確信したため、後の二人を止めるために口を開いた。
「お前たち。俺の許可なく手を出してはならん」
ハッとしたようにジョルジュとローグが俺の方を向く。その手にはそれぞれに獲物が握られていた。
ジョルジュの手には、子供たちに絶大な人気を誇る『ニャボテン』という猫型獣にそっくりな手のひらサイズのサボテンが。
ローグの手には、女児を持つ親たちからの注文が殺到しているというローグお手製のウサミミプリンセス人形が。
……すまない、お前たち。俺は多大な誤解をしていたようだ。お前たちは勇者を仕留めようとしていたのではなく泣き叫ぶ幼子の心を射止めようとしていたのだな。
お前ら普段からそんなもん持ち歩いてんのかとか野暮な事は聞かないさ。心の底から聞きたくないからな!
「……とりあえずそれらはしまっておけ」
そう告げると、ジョルジュとローグは言葉に従って手に持っているモノを懐にしまった。若干残念そうに見えるのは気のせいだという事にしておこう。
「レイトン。お前の嫁さんの焼き菓子は子供に渡してやれ」
「ですが陛下。私では、その……」
「……ああ、そうか。じゃあ俺が代わりに渡そう」
レイトンは自分の強面具合をちゃんと把握しているようで、自分が近付けば余計に泣かせてしまう事になるだろうと考えているに違いない。現に「もっと優しい顔にならないと生まれてくる子に嫌われるかも……」とか何とか呟きながら肩を落としている。
心配するなレイトン。お前の優しい心はきっと生まれてくる子供にも伝わるさ。男だったら剣術でも教えながら信頼関係を築いていけばいいし、女だったら……ローグお手製のウサミミプリンセス人形を購入するといい。
そんな訳で、レイトンから焼き菓子入りの布袋を受け取り少年のもとに向かう。少年は妹をあやす事に必死で俺が近づいている事に全く気づいていなかった。
「おい」
「え、あ!」
俺の姿を認めた少年はびくりと肩を揺らすと俺から一歩後退った。明らかに怯えていることが窺えるため頑張って笑顔を作ってみたのだが、少年はさらに三歩離れていった。
俺は背後にいる側近たちに比べたらとんでもなく平凡な顔なんだがなぁ……。
「陛下。相手は魔族の子供ではないのですから、そんなドスのきいた声で話しかけたらダメですよ。それから上から見下ろすのもやめてあげてください」
「目線、合わせてあげた方が、いいと思う」
「……主よ、子供を怖がらせてはいけない」
一定の距離を保ちつつ助言という名のダメ出しを浴びせてくる側近たちの言葉にハッとする。
普段接している魔族の子供たちが悪ガキばかりだからか、ついいつもの調子で声をかけてしまった。いかんいかん。
「怖がらせてすまない。俺はただこの菓子をお前たちに渡そうとしただけだ」
その場に片膝をついて目線を合わせてやると、少年は俺の顔と差し出した布袋を交互に見つめていた。すると泣き続けていた幼子も少年の後ろから顔を出してくる。
「お菓子食べたい!」
「で、でも……」
涎を垂らさんばかりに布袋を見つめている妹とは裏腹に、兄である少年は受けとることを躊躇っている。
それはそうだろう。少年は仮にも勇者としてこの場にいるのだから、魔王である俺からの施しを受けることはそのプライドが許さないのかもしれない。
「それを僕らが貰ったら魔王さんのおやつが無くなっちゃうし……」
そんな事を言う少年も俺の手にある布袋を見つめながら、くう、と腹を鳴らしていた。目頭が熱くなった。
よく見れば、少年も幼子も俺が触っただけで死んでしまうのではないかと思えるほど痩せており、髪もバサバサで顔色も悪い。着ているものもボロ布と言っていいほどの粗悪なものだし、履いている靴などはすり切れて穴が開いていた。背負われている幼子の方も同じような格好だ。
もうその姿だけで泣けてくる。
「俺の事は気にしなくてもいいから受け取れ」
「でも……」
なおも渋る少年に痺れを切らし、俺は無理矢理少年の手に布袋を持たせた。
「子供が遠慮などするものではない。ほら、妹もおろして二人で食べろ」
「でも、その……、妹をおろすと剣が持てなくなるので……」
「は?」
俺も側近たちも少年の言葉に首を傾げる。むしろ年端もいかない少年が幼子を背負ったままゴツイ剣を振るう事の方が無理があると思うのだが……。
確か、聖剣は勇者であれば羽のように軽く扱えるが、勇者以外が持つととんでもなく重たいただの鉄の塊と化すらしい。
少年はその小さな体には不釣り合いなごつい聖剣を軽々と持っているのだから勇者である事は疑いようもない。
「お前は勇者なのだろう? 妹がいようがいまいが剣を持てなくなる事はないと思うのだが」
「いえ、あの、僕は勇者ではないので」
「え? は!? 何を言っている!? お前はその聖剣を軽々と持っているではないか!?」
「はい。妹を背負っていれば持てるみたいなんです」
「んん?」
待て。ちょっと待て。
それはつまり――。
「待て待て。まさか今代の勇者は……」
「僕の妹です」
魔術結界が消滅してから三年間も人間側から音沙汰がなかった理由が、今この時にとんでもない形で判明した。
◆◆◆◆◆
少年曰く、少年は妹の面倒を見ながら日々を過ごしていたらしいのだが、ある日腹違いの兄に呼び出されてあれよあれよという間に神殿に安置されている聖剣の元まで連れて行かれ、それを抜けと強要された。しかしどう頑張っても聖剣を抜けなかった少年は、異母兄やその取り巻きからひどく非難されたのだという。
それを見ていた幼い妹は兄を苛める大人たちに怒りを覚えたのか、その小さな体で台座に刺さっている聖剣に手をかけた。すると三年の間誰も抜けなかったその聖剣が呆気なく台座から離れてしまったらしい。
少年は聖剣を抜く事の意味をちゃんと理解していたため妹を必死に守ろうとしたが、異母兄をはじめとした大人たちはまだ三歳の妹を勇者として魔王の元に送り出す事を決めてしまった。
そして何を思ったか、妹が勇者になるのは無理だと訴え続けていた少年を護衛と称して妹と共に魔族の領域に連れていき、そのまま二人を魔族の領域に追いやったのだという。
さて、この話で登場する少年とその妹は俺の元にやって来た子供たちだという事はもう分かるだろう。ではその異母兄とその他の大人たちとは誰かと言えば、人間側の王子とその側近たちなのだという。
もうお分かりだろう。
少年とその妹は人間側の王子と姫だったのだ。
この話を聞いて分かった事は、少年の兄はベスト・オブ・屑の名に相応しいクズ野郎だという事だ。
「こらこらルーナ、そんなに急いで食べたら喉を詰まらせてしまうだろう。全く、口の周りがソースまみれだぞ。おいルート。料理で非常食を作るのはやめろ。ここにある料理は今食べろ。全部食べろ。明日も明後日も食べるものはちゃんとあるから心配するな」
勇者である妹のルーナは、俺の膝の上で口の周りをベタベタにしながら「いっぱい食べれてうれしい!」と喜んで料理を食べている。そのかたわら、兄であるルートは俺の隣で焼き立てのパンにせっせと料理を挟んでは膝に乗せている籠に入れて今後の食糧を確保しようとしている。
そんな光景を目の当たりにした俺の側近や使用人たちは涙を堪えるのに必死だ。
「お兄様、もういっそのこと人間の国は滅ぼした方が今後のためだと思いますわ。私が一個師団を率いてパパッと片付けて参ります」
「待て待て。お前はどうしてそうも血の気が多いんだ。剣ばかりでなくもっと淑女の嗜みとやらも身に付けないと嫁の貰い手が……」
「女性の影すら見えないお兄様に言われたくありません」
「ぐぬぬ……」
お腹を空かせた兄妹のために食堂へ移動した後、事の次第を聞きつけた俺の妹、デルタも食事の場に参加している。
剣の稽古をしてきた後なのか、俺の妹は幼い兄妹たちと一緒になって料理を平らげている。
「君が作っているそれも美味しそうですね。一つもらいます」
「あ! これは……っ」
「おや、やはり美味しいですね。これは私が貰いますから、君は目の前にある料理を食べなさい」
「ああ……非常食が……」
ルートがせっせと作っていた非常食をその隣に座っているデルタが問答無用で没収して食べている。デルタなりにルートにも早く食事をさせたいと思っての行動だという事は分かるのだが、如何せん、ルートは自分が作った非常食を次々に口の中に放るデルタを泣きそうな表情で見ているから俺としては心が痛む。
「こんなものを作らなくても食料はたくさんあります。その辺にいる誰かに言えばいつでも何か食べさせてもらえますから、今ここある料理は今食べればいいのです」
「いつでも食べれるの? そんなに食料があるの?」
「ええ。いつでも食べられるくらいの食料は保持しております。ついでに保存食もありますし、災害用に非常食も備えてあります。我が国は食糧事情に困っておりませんから心配せずとも大丈夫ですよ」
「本当……?」
ルートの表情は疑問に満ちている。
何故そこまで疑うのかと不思議に思いながらも俺は口を開く。
「魔族だからと言って農業や酪農をしていないわけではないんだぞ。だからここにいる間は食事の心配はしなくていい。お前たちさえよければ好きなだけここにいるといい」
人間側に戻ったところでこの兄妹に幸せがあるとは思えない。異母兄の話を聞いた後では尚更だ。一国の王子と姫であるにもかかわらず貧困街の孤児のような姿をしているこの二人は、このままこちらで保護した方がいいだろう。たとえ勇者として魔族側に来ているとしても、今にも飢えて死にそうな貧相な子供を問答無用で送り返すことなど俺にはできない。
「ありがとう。魔王さん」
下を向き、膝の上できゅっとその小さな手を握るルートは、次の瞬間には決意したように顔を上げ俺を見る。
「魔王さん、お願いがあります」
「何だ?」
俺と対峙していた時よりも真剣な顔のルートに少々目を見張る。
魔王との対決よりよほど重要な要件らしい。
「お願いです。食べ物を少しだけ分けてください」
「いまさら何を言っている? 食べ物なら目の前にあるだろう。ほら、冷めないうちに早く食べるといい」
「そうじゃなくて」
ルートは拙いながらも一生懸命に説明を始める。
「僕たちの国、全然食べ物なくて……。みんな、いつもお腹すいてて。だから食べるものがいっぱいあるなら、分けてください。少しでいいから。お願いします!」
その言葉に一度デルタと顔を見合わせてから、更に詳しく話を聞いてみる。
ルートの話を簡単にまとめると、ルートたちの父親、すなわち国王であったその男はルーナが生まれる少し前くらいに病に倒れ、そのまま息を引き取ったらしい。そして次の国王には第一王子(ベスト・オブ・屑)が就いた。しかし第一王子はとんでもなく腐った人間だったようで、この王子が即位してすぐに国が傾き始めたようだった。
しかしそんなことはお構いなしの第一王子……もうコイツの事は屑でいいだろう。このクズ野郎は国を傾けるほどに国家資産を使い倒し、国庫が枯渇しそうになれば税を増やして民たちを苦しめ、税が払えない者たちを厳しく処罰した。そこに干ばつという自然災害が重なり、近年ではほとんど農作物が収穫できていないそうだ。そうであるにもかかわらず、クズ野郎は後宮にこもって贅沢三昧の日々を過ごし、苦言を呈してくる者は文字通り躊躇いなく切り捨てるような下劣な行為を繰り返しているのだという。
「僕たちは母上と一緒に城下に追い出されちゃって。少しして母上が病気になって……でもお金がないから薬が買えなくて。食べ物も、なくて……っ。母上、死んじゃって……っ」
母親と何があっても妹は守るという約束をしたというところまで話して、ルートは目元を腕で覆って泣き出した。それを見たルーナもつられるようにして泣き出してしまった。
「辛かったですね。もう一人で背負わなくてもいいのですよ」
デルタがハンカチを取り出してルートの涙を拭っている……だと!?
手を洗っても近くにいた俺の服で手を拭くような妹がハンカチを持っていたなんて! お兄ちゃんはビックリだぞ!
「お兄様」
「分かっている」
デルタの言葉に短く返して、俺は膝の上にいるルーナの涙をナプキンで拭うついでに口の周りについたソースも拭き取っておく。
「ルート。お前の願いは叶えよう」
「ほ、本当?」
「ああ」
俺がルートに短く返事をするとデルタが席を立つ。俺もルーナをちゃんと椅子に座らせてから席を立った。
「では後のことは俺たちに任せておけ。お前たちはちゃんと腹いっぱい料理を食べるのだぞ」
それだけ告げて、俺とデルタ、そして側近三人は食堂を後にする。
デルタと並んで長い廊下を歩きながら、俺は背後の側近たちに告げる。
「直ちに各部隊の将軍に伝えよ」
今まで面倒だからと人間の事は無視していたが、先ほどの話を聞いてしまえば考えも変わる。何より、これは魔王にとっても好機だ。
「進軍の準備をせよ、と」
人間共よ。
魔王が勇者と対峙するのは、今回が最後だ。
◆◆◆◆◆
「おい! 女子供が先だといっただろうが! さっさと連れてこい!」
「何出し惜しみしてやがる! あるもの全部出しやがれ!」
「あら、わたくしに楯突こうとはいい度胸ですね。よろしい。ではこちらも全力で行かせていただきますわ」
怒号が飛び交う中、俺は少し離れた場所でその光景を見つめている。
あちらこちらで魔族と人間が入り乱れ、最早誰が魔族で誰が人間なのかも分からない状態であるが、部下たちはよくやってくれている。むしろこの場では俺が一番役立たずな気がする……。
俺が魔王の座に就いてから一度も大規模な戦闘はしたことはなかったが、日々の訓練は確実に今の状況に生きている。さすがは優秀な部下たちだ。
だが、お前たち。もう少し言葉を選んで話してくれないか……。
「それくらいの事で野郎がビービー泣いてんじゃねえ! ほら見ろ! こっちの嬢ちゃんだってつらいのに気ぃ使って笑ってんだろが! 少しは見習え!」
「テメェふざけてんのか! これっぽっちの薬と包帯で足りると思ってんのか!? ため込んでるお偉方脅してこれの十倍は集めてこい!」
「あらあら、これくらいで音を上げますの? だらしがないですわね。これくらい蚊に刺されたようなものでしょうに。おほほほほ」
今俺がいる場所は人間の領域にある大聖堂だ。現在この大聖堂は臨時の医療施設となっている。もう一度言う。この場所は医療施設だ。断じて、殺戮と略奪で満たされた戦場ではない。むしろ人間同士で諍いを起こして怪我人を増やしていたのだから、俺たちが来なかったらそう遠くない未来に人間たちは滅んでいたことだろう。
「も、もう少し優しくしてやれんか?」
暴れている人間の男を涼しい顔で押さえつけながらその傷を麻酔なしで縫合している魔族の女医にそっと声をかけてみたが、女医は涼しい顔のまま俺の言葉を一蹴する。
「お言葉ですが陛下。これくらいで人間は死にません。むしろこれくらいで悲鳴を上げるようではこの先生き残れませんわ。それに現在薬が足りていない状態ですので、薬品の使用はお年寄りや女性、子供たち優先です」
そう言って再び悲鳴を上げる人間の男の治療に専念し始めた。
「ぎゃーーーーーーー」
「うるさいですよ」
悲鳴を上げる男に冷たく返す女医。
可哀想だから少しくらい麻酔薬使ってあげて!
「お兄様、こんなところにいたのですね」
女医に傷を縫合されている男を青ざめながら見ていると、デルタが俺のもとにやってきた。
「全く、ここにいてもお兄様にできることなんてなーんにもないのですから、少々私についてきてください」
「結構直接的に俺の事役立たずだと言ってるな、それ」
妹よ。そういう事はもっと遠回しに言ってくれ。
「お兄様に会いたいという人がいるそうですから、早く行きますよ」
そんな言葉と共にデルタに腕を掴まれた俺はそのまま妹に引きずられた。
◆◆◆◆◆
ルートの話を聞いた後、俺は急いで救援物資をこれでもかと持って人間側に進軍という名の救援へと向かった。
まあ、デルタみたいに少々血の気の多い奴は進軍と聞いて人間を攻め滅ぼすのかと勘違いしたやつもいたが、俺がそんな極悪非道なことをするわけがないだろうと全力で否定しておいた。
そんな話はさておき。全速力で人間の領域まですっ飛んでいくと、目の前には悲惨な光景が広がるばかりだった。
干ばつの被害が思いのほか酷く、畑と思しき場所のほとんどは干からびて草の一本も生えていない状態だった。王都へと向かう途中の村々は、村民同士で争ったのか、はたまた盗賊などに襲われたのかは分からないが、どの村も生き残っている人間はほとんどいなかった。
そんな状況にも関わらず、クズ野郎(人間の王)は年々税を増やし、今なお王城で贅沢三昧の日々を過ごしているという話を聞いた。
この話は王都へと向かうさなかに出会った行商をしているという人間の男に聞いた。
この男、最初は魔王軍の進行に腰を抜かしていたが、行商をしているだけあって度胸だけはあったようで、冷静に話をしてみればなかなか話の分かるやつだった。
「行商仲間にも話通しておきますね。そうすれば俺がつけてるこの帽子と同じ帽子を被ってる奴はみんな魔王軍の味方になりますから」
どうやら行商人たちが所属している商会があるようで、そこを通して各地の情報も得られるよう手配してくれた。
人間にも結構使える奴がいるようで安心する。皆が皆、クズ野郎みたいな阿呆ばかりだったらどうしようかと思っていたからな。
しかしながら。俺たちは行商人の男の計らいで逐一情報を手に入れることができたばかりか、俺たちに協力してくれた人間たちは、なんと城を落とすお膳立てまでしてくれたのだ。
王城に内通者を忍ばせ、裏で暗躍し、些細な情報も速やかに魔王のもとに持ってくる。その行動力の凄まじさにはさすがの俺でも血の気が引く思いがした。
もしかしたら人間が本気出したら魔族の方が存続危機にされるのではなかろうか……。
自分たちの王をあっさり見捨てたばかりか、敵である俺たち魔族にここまで協力してくれるなんて……逆に怖いわ!
まあそんな事を考えてはいたが、すぐにクズ野郎に人望がなかっただけの話だったのだろうと魔族みんなで納得し、俺たちの進軍は人間たちにとっては渡りに船だったのだろうという事にしておいた。
そんなこんなで、あっという間に城を落とした後は言うまでもなく救援活動で皆が走り回る日々が始まったのだ。
「貴方様が魔族の王なのですか?」
意外だとでも言いたげな表情でそんな事を言う目の前の男は、人間側で長年宰相を務めていたという初老の男だった。
この男は人間の王がクズ野郎になった途端に罷免され、遠くの地に幽閉されていたのだという。今回、俺たち魔族が人間側に進軍という名の救援に来たことで、商人の男の仲間たちがこの機に乗じて宰相を救出したようだ。
最初に会った商人の男も含めたこの商人たちは、実は特殊工作員か何かなのではなかろうかと本気で疑っている今日この頃だ。
まあそんなわけで、この宰相が魔王である俺に会いたいという事で、最初に出会った商人の男がこの男を連れてきたのだという。
「すまないな。俺は魔族の中でもとんでもなく地味な容姿なんだ……」
「い、いえ、そのような! 魔族の方々は屈強な戦士然とした方や美男美女ばかりでしたので少々身構えておりましたが、貴方様のような人間により近しい容姿の方が魔族の王であるのなら親近感が湧くといいますか何といいますか……」
「あ、それ分かります。俺たち人間にとっては魔王様が一番親しみやすい容姿ですからね。俺も魔王軍に遭遇した時は、この人は人間だと思って助けを求めてしまったくらいですから。あはははは」
宰相の隣で商人の男がからからと笑う。
商人の男に出会った当初、この男は屈強な魔族たちを前に腰を抜かさんばかりに驚いた後、俺の存在に気付いた瞬間縋り付いてきたのだ。
最初は命乞いかと思ったが、こいつは俺に「貴方も捕虜にされたんですか!? 仲間がいてよかった!」とのたまった。
部下たちの可哀想なものを見るような目に晒された俺の気持ちを少しは考えろ、商人よ。
「妹さんはとんでもない美人さんなんですけどね」
商人から止めの一撃が飛んでくる。
商人が言うように、俺の妹であるデルタは血のつながりがあるのか疑わしいほどに整った容姿をしている。身内の贔屓目をなくしたとしても、デルタは魔族の中でも五指に入るほどの美人だと思う。ちなみに両親も美男美女として名高いのだが……俺は一体どこをどう間違えてこんな地味な容姿になってしまったのだろう?
「お兄様の地味さは個性です」
隣にいる妹に視線を向けるとキリッとした笑顔を向けられた。
地味が個性って何だよ。
「俺の容姿のことなどどうでもいいだろう。ところで、貴殿は俺に話があったのではないのか?」
妹がわざわざ俺を呼びに来たくらいなのだから、それなりの話があるのは予想できる。
「実はこの国の今後についてお話ししたいことがございます」
宰相曰く、彼は三日前には王都に着いていたようだが、現状把握を優先したため俺との対面が遅れたのだという。そしてその三日間で集めた情報によると、人間の前王には十人の王子と十三人の姫がいたというのに、そのすべてが王位に就いたクズ野郎(第一王子)のせいで命を落としてしまったという事だった。そのせいで現状王家存続の危機なのだという。
「末の殿下たちは共に魔族の領域に追いやられてしまったと聞きました。彼らはまだ幼い子供だというのに。そちらの領域には凶暴な魔物が生息しているという話ですので、あの子たちはもう……。魔王様のもとに辿り着けていたら生き延びることができたでしょうに」
そう言って宰相は悔しそうに俯いてしまった。
しかし俺とデルタは思わず顔を見合わせる。
連日の慌ただしさで忘れていたが、ルートとルーナは人間側の王子と姫だ。しかしながら二人の生存を人間たちに伝えていいものか迷っていたのもまた事実。俺たちのもとに来た時の事を思い出すと、このまま俺たちのもとにいた方が幸せになれるんじゃないかと思っていた。しかしここに来て少しでも二人の事を思う人物に出会えた事はよかったと思う。
ルートとルーナは人間なのだから、人間側で暮らせるならその方がいいだろう。
「貴殿が言っているのはルートとルーナの事だな。あの二人は俺たちのもとで保護している」
「ほ、本当でございますか!?」
「ああ。二人とも城で元気に過ごしていると連絡が来ている」
二人の様子は定期的に連絡用の鳥を使って報告をもらっている。
ルートは最初こそ戸惑いを見せていたが、最近では笑顔も増えているようだ。ルーナに関してはとんでもないお転婆のようで、何事にも動じないその性格のせいで使用人たちが手を焼いているとか。
そんな話を宰相に聞かせてやると、目の前の男は目頭を押さえながら「そうですかと」と震える声で返してきた。
「王家の人間はもう地下に捕らえられている第一王子しかいないと思っておりましたので、末の殿下方が生きておられというのは嬉しい限りでございます。王家の血を残すためとはいえ、あの男の血が残るのは反発を招きかねませんでしたので」
この王都に進軍し、王城に攻め込んだ時分、玉座でふんぞり返っていたクズ野郎は一発ぶん殴ってから地下牢にぶち込んでやった。デルタには「あの人間に生きている価値はないです」と言われたが、俺はあのクズ野郎をいまだに生かしている。それは人間の事は人間が裁くべきだと思うからだ。
その考えはちゃんと宰相にも伝えた。
「魔族の皆さまは長年貴方たちを敵だと思っていた我々人間を助けてくださった。ですからあの男の血を残すくらいならいっそ魔王様にこの国をお任せした方がいいのではないかと考えておりました」
「悪いが面倒だから辞退する。そもそもルートがいるのだから俺に任せずとも人間たちはやっていけるだろう」
「そうですね。ルート様がご存命であるのなら、次代の王は彼がなるべきでしょう。もう王家の血を継いでいるのは第一王子以外では末王子と末姫のみですから」
現状そうなるのが必然だろう。王家の血を継いでいるのだから最早その運命からは逃れられない。しかしルートもルーナもまだ王族の責務を担うには幼なすぎる。
俺は一度デルタに視線を向けると、我が妹は何も言わずとも俺の意思を理解し頷いてくれた。
それを認めてから俺は宰相に視線を戻す。
「いずれルートが王位に就く事に異論はないが、あの子たちはまだ幼い。それなりに成長するまでこちらで預かることはできないだろうか? こちらはこの状況だ。満足に教養も身に付けることができないなら、地下牢にいるあの男の二の舞になるやもしれん」
この国の民のために倒すべき相手であった魔王に泣きながら助けを求めた優しいルートがあのクズ野郎と同じことをするわけがないのだが、そんな優しいルートだからこそ、最高の教育を受けさせてやりたいのだ。
「それは願ってもない申し出でございます。おっしゃる通りこちらはこの状況ですから、まだ幼い王子たちを利用しようとする者や害そうとする者も出てくるでしょう。それならば、魔王様のもとでお育ちになった方が王子たちにとっても良い事だと思います」
「預かりたいと言っておきながらこんなことを言うのは何だが、本当にいいのか? 俺は一応魔王だぞ?」
「何をおっしゃいますか。貴方様のおかげでこの国は救われたのです。魔王であろうがなかろうが貴方様のような慈悲深い王の側にいられるのなら、きっとルート様も良き王になられる事でしょう」
今回の救援活動により、人間たちの魔族への認識はガラッと変わったらしい。そのおかげで魔王に対する認識も恐怖の対象から気のいい近所の兄ちゃんくらいになっているようだ。
一応魔王なのに、俺は近所にいそうなのか……。
「ルート様が即位なされるまでの間は私が責任をもってこの国を守りましょう。ですから、ルート様とルーナ様をどうかよろしくお願いいたします」
宰相はそう言って俺に深々と頭を下げた。それに俺もしっかりと返す。
「分かった。では責任をもって預かろう」
さて。こうして俺は人間側の王子と姫を預かることになったわけだが、この二人のうち一人は聖剣に選ばれた勇者だ。進軍という名の救援を決めた当初は、幼い勇者を手元に置いていいように教育してしまえばもう二度と聖剣に選ばれた勇者は魔王を討伐しに来たりはしないだろう……とかチラッと思わなくもなかったが、こうして正式に預かることになった以上、あの二人はちゃんと俺が面倒を見ると誓おう。
その先で、魔族と人間の関係もいいものへと変えあればいいと、俺は密かに思っている。
◆◆◆◆◆
俺たち魔族は半年ほど人間側で国を立て直す手助けをしていたが、多少国に活気が戻ってきたと判断した後は魔族の領域に戻って通常通りの生活に戻っていった。もちろん人間側に残って人間たちを手助けする者たちを残し、何かあればすぐに援護することを約束した。
そうやって人間との関係が変わっていくにつれて今までの険悪な関係は一体何だったのかと思わせるほどに、魔族と人間の関係は良好になっていった。
幼い勇者と対峙したことから始まった人間たちとの交流は、いい意味で互いの認識を変えてくれたのだ。
◆◆◆◆◆
勇者と対峙してからすでに十五年が経った。
幼かった二人の子供はビックリするほど見目麗しく成長し、兄のルートが人間の王として即位した三年前に妹のルーナと共に人間側へと戻っていった。
二人が自分たちのいるべき場所へと帰ってしまってからの城内は、それはもう明かりが消えてしまったかのようにしんみりした空気になった。
それはそうだろう。魔王である俺にはいまだに伴侶がいない。当たり前だが子供もいない。というわけで、俺の結婚及び俺の子を待ち望みすぎて干からびそうになっていた側近及び使用人たちは喜び勇んで二人の幼子の世話をしていたのだ。本日のお世話係争奪戦が秘密裏に開催されていたくらいなのだから、どれだけ彼らが子供たちの存在に狂喜乱舞していたかお分かりいただけるだろう。
しかしまあ、二人はもう俺の子供みたいなものだったからな。俺も二人を可愛がったし、デルタもこれでもかというほど二人を構いまくっていた。
そうやって皆で可愛がっていた二人の子供がこの城から巣立って行ってしまったのだから、皆の落ち込みようは凄まじいものだった。
かくいう俺も、今日はルートと剣の稽古だ! と気合を入れて寝台から起き上がった直後に二人がもういないことを思い出して虚しさのあまり再び寝台に沈んだり、草陰がカサカサと鳴るだけで「ルーナが驚かしに来た!」と思って嬉々として振り返っては、そこから出てきた小さな獣を目で追って肩を落としたりする毎日を送った。
デルタも俺と同じような毎日だったようで、ある日「かわいい子供、どこかにいないでしょうか」とかブツブツ言いながら歩いている妹を目撃してしまい、このままではどこかから子供を攫ってきてしまうのではないかと本気で心配したりもした。
そんな日々を過ごすこと三年。俺は目の前に現れたその人物に頭を抱えていた。
「どうしてこうなった……」
手にした一枚の書状の内容に、俺は重苦しい溜息しか口から出てこなかった。
「議会にて満場一致で可決されたので、これは国民全員の総意です! 私もずっとこちらに戻って来たかったので喜び勇んでやって参りました!」
「俺の意思を無視するところは変わらんな人間め!」
ようやく勇者制度もなくなったと思っていた矢先にこれか!?
『友好の証として姫を嫁がせます』ってなんだ! 俺は何も聞いてないぞ!
「お兄様も了承してくださったのよ! これで心置きなく魔王様のお嫁さんになれるわ!」
「だから俺の意思ぃ!」
今、俺の目の前には三年前人間側に戻ったルーナがいる。三年前よりさらに美しく成長したルーナには驚きもしたが、如何せん、この娘は中身が全く変わっていなかった。
「魔王様はまだ独身でしょう? 妃候補の一人もいないんだからいいじゃない私で!」
「よくない! それに、妃候補の一人や二人」
「え、いるの? そ、そっか。そうだよね。魔王様は強いし格好良いし優しいし面倒見もいいからから女の子はみんな放っておかないよね……。そっか……候補者いたんだ……ううっ……うわーん!」
「ちょ、ま、待て! すまない! 少々見栄を張っただけで候補者など一人もいない。いないから泣くんじゃないっ」
目から大粒の涙を流し始めるルーナに慌ててしまったが、この娘は俺の言葉を聞いた瞬間にピタリと泣き止んだ。
「やっぱりいなかった! よかった!」
満面の笑みで俺を見るルーナ。
女の涙は八割が嘘だから気をつけろ、という父の言葉を思い出してしまった……。
「あのね! 私もやっと成人したから魔王様のお嫁さんになりたいって宰相様に相談したらいいよって言ってくれてね! 反対意見をねじ伏せてくれたの!」
おい待て。満場一致じゃなかったのかよ!? 反対意見をねじ伏せたって……あの爺何考えてんだっ。
「ルーナ、ちょっと落ち着こう。落ち着いて、冷静に考えてみよう」
「何を?」
「俺はルーナとルートの保護者だ。それは分かるな」
「ええ」
「という事は、だ。俺はお前たちの親代わりも同然という事で」
「親じゃないわ」
「何?」
「親じゃないわよ! 魔王様は私の夫でしょう!」
「夫になった覚えはないわい!」
ルーナの脳内ではすでにいろいろなことがすっ飛ばされている。由々しき事態だ。
「いいか、ルーナ。あのな」
「お兄様だってデルタお姉さまと結婚するんだから、私も魔王様と結婚したい!」
「ルートとデルタが結婚しようが俺たちは……って、ちょ、え、何だと!? ルートとデルタが何だって!?」
待て待て待て。何をどうしたらそんな超展開に発展すると!? 自らの意思で婚期を逃しまくっているあのデルタが結婚!? そんなまっさかぁ!
「ちょっと待ってくれ。デルタは自分より強い奴じゃないと結婚を申し込むことすら許さないような奴だぞ? 何がどうなってルートと結婚だなどと……」
「だって今頃――」
そうルーナが言いかけたその時、勢いよく部屋の扉が開かれた。
「納得いきません!」
「でも約束は約束ですから」
やいやいと言い合いながら部屋の中に入ってきたのはデルタとルートだった。
ルーナだけかと思いきやルートも来ていたとは。もう嫌な予感しかしない。
「お兄様! これはどういうことですか!」
一旦ルートとの言い合いをやめたデルタが、手に持っていたそれを俺の顔面に向かって投げつけてくる。俺はそれをちゃんと顔面で受け止めた。紙だけど痛かった。
「私は聞いていませんよ!」
「何の話だ」
と言いながら、デルタが投げてよこしたそれに視線を落とす。
「『デルタに勝ったら嫁にやる。by魔王』って何ですか!?」
「俺はこんなもの知らんぞ!」
「言い逃れができるとでも思っているのですか!? それは確実にお兄様の字ですよね!」
「は!? そんなわけ――」
と言いかけて書面をもう一度検めてみる。
『デルタに勝ったら嫁にやる。by魔王』という一文に加え俺とルートのサインが書かれている。それを見ていると、何故かこの書面に見覚えがあるような気がしてくる。
「デルタさんをお嫁さんに欲しいと言ったら魔王様が分かったと言ってその書面をくれたんですよ。もちろん憶えていますよね?」
にこやかな笑みを向けてくるルートの言葉で思い出してしまった。
ある日、ルートがいきなりデルタを嫁にしたいと言い出したことがあった。それを聞いた俺は何をトチ狂ったことを言い出すのだとドン引きしてしまったが、ルートがあまりにも真剣だったため、正気に戻す意味も込めてデルタに勝ったら嫁にやってもいいと言った。それを聞いたルートはじゃあそれを書面にしてくれ言い出したので、それくらいお安い御用だと一筆書いてやったのだ。
あれは確か、ルートが十歳の頃の出来事だったと思う。
「やっぱりお兄様が書いたものではありませんか!」
「待て。確かにこれを書いたのは俺だが、これを書いたときルートはまだ十歳だったんだぞ!? それを今更使うなど予想できるわけがないだろう!?」
「でもこれは確かに魔王様が僕にくれた契約書ですからね。今更なかったことになんてさせませんよ」
ルートの笑みがそれを反故にすることは許さないと言っている。それはもう凄まじい威圧感と共に。
俺は子供の言う事だと思って甘く見ていたようだ。まさか本当にデルタを嫁にしようとするなんて……なんて猛者だ。
「お兄様のせいでややこしいことになってしまったじゃないですか!」
「す、すまない。確かに俺のせいではあるが、要はお前がルートに勝てばいいだけの話で……」
「勝ちましたよ、僕」
「……は?」
そんな馬鹿なというようにデルタを見れば、我が妹は射殺さんばかりに俺を睨みつけていた。
…………嘘だろ。
「この子が魔術を使えるなんて聞いておりません! どうせお兄様が秘密裏に指導していたのでしょう!?」
「待て待て待て。俺も初耳なんだが!?」
「今更しらばっくれようとしても遅いです!」
「いやいや、本当に知らんぞ!」
真偽を確かめるようにルートに視線を向けると、この王子はその事実をしれっと口にする。
「実は人間側に戻ってから魔術師の素養がある事に気づきまして。向こうに戻ってからの三年間で魔術は大方習得してきました」
その笑顔を見るに、もっと前から気付いていたのに俺たちには黙っていたのだと思う。
外見はとんでもない美人でも中身は野生のゴリラみたいな我が妹をそこまでして嫁にしたかったとでもいうのか。ある意味感心してしまう。
「私は剣のみで戦ったというのに、魔術を使うなど卑怯ではありませんか!」
「それでも勝ちは勝ちです。それに試合前にちゃんと貴方とも約束したはずです。戦い方は自由でいいと。そして僕が勝ったらお嫁さんになってくれると」
「う……それは……」
自らも約束しているではないか我が妹よ。
「というわけでデルタさんは僕がもらっていきますね。代わりにルーナは魔王様に差し上げます」
「自分の妹を物みたいに差し出すんじゃない!」
俺はお前をそんな子に育てた覚えはないぞ。
「もともとルーナは魔王様に嫁ぎたいと言っていたので問題ないです。ね、ルーナ……って、あれ? あの子どこに行ったんだろう?」
ルートの言葉で部屋の中にルーナがいないことに気づく。
俺たちの話に飽きてどこかに行ってしまったんだろうか、と考えていると、またもや部屋の扉が勢いよく開いた。
「話はもう終わった? じゃあ今度は私と魔王様の話ね!」
そう言ってニコニコしながら部屋に入ってきたルーナの手には何故か聖剣が握られている。確かその聖剣はこの城の物置部屋でほこりを被っていたはず……。
何故そんなものを今さら取りに行ったのか。
嫌な予感しかしないのは気のせいだと思いたい……思いたい……。
「魔王様。私をお嫁さんにできないと言い張るなら、お兄様たちみたいに勝負しましょう。私が勝ったらお嫁さんにして!」
ルーナが嬉々として聖剣を構えて俺の前に立つ。
嫁にしてくれと言いながら殺る気満々なところが恐ろしい。
「待てルーナ! 部屋の中で剣を構えるんじゃない! それにお前は剣など扱えないだろう!?」
「大丈夫よ! 私だってちゃんと戦えるわ! ここで勝負するのがだめなら訓練場に行きましょう!」
「やめろ! 腕を引っ張るな! 俺はお前と勝負などしないからな!」
「じゃあお嫁さんにしてくれるのね! 嬉しい!」
「どうしてそうなる!?」
この娘は勝負をしようがしまいが、何が何でも俺の嫁になる気でいるらしい。
ああ、頭が痛い……。
「いいじゃないですか。ルーナが魔王様に嫁いでデルタさんが僕に嫁げば人間と魔族の関係はより良好になると思います」
「いきなり国家間の話に持っていこうとするのはやめろ」
「私たちみんなで家族になるのよ。それってとっても素敵な事だと思うの。私、お父様の事もお母様の事も覚えてないから、魔王様たちと本当の家族になりたいの……」
「情に訴えてくるのもやめてくれ……」
どうにかして俺とデルタを懐柔しようとする目の前の兄妹には最早ため息しか出ない。
本当に、何がどうしてこうなってしまったのか……。
「いいか、二人とも。少し冷静になろう。茶でも飲みながら落ち着いて話を」
「あ、私いい事思いついた!」
「話を聞けぇい!」
ルーナよ。お前は少々奔放すぎやしないか?
「一応私って勇者でしょ? だから一度魔王様を倒しちゃえば魔王様たちは私たちの言う事を聞かざるを得なくなると思うの。そうすれば、私は魔王様のお嫁さんになれるし、お兄様もデルタお姉さまをお嫁さんにできるんじゃないかしら! お兄様、コレいい考えだと思わない?」
「ああ、最高の解決策だね。じゃあ僕がルーナのサポートをするから、二人で魔王様をサクッと倒してしまおう」
やる気満々の勇者とその兄。最早俺たちが何を言っても止まりそうもない。
「サクッと倒されてたまるかああああ!」
それからの日々は言わずもがな。
ようやく人間たちとの関係も良好になったというのに、一体いつになったら勇者と対峙しなくていい日々が訪れるのだろうか。