赤椿
二歩で距離を詰められる、そんな間合い。
相手は一歩も踏み出そうとしない。だから彼も踏み出さない。
握った刀の柄。慣れ親しんだその柄が、戦慄のせいか、いつもより硬く思える。
相手の足が土を踏む。右へ、半歩ずつ半歩ずつずれていく。…こちらの隙を窺うためだ。
彼も同じように半歩ずつずれ、一切隙を見せなかったが、ここで動きを止め、刀を下段に構える。
――さあ、来いよ。
中段に構えた相手の刀が煌く。ざっ、と砂を蹴り、相手は一歩踏み込んでくる。
一直線の光になって、こちらに向かってくる刃。彼はそれを下段から、刀をすくい上げるようにして受け止める。
ギッ、と刃と刃のぶつかる音。
刃の表面の削れた音。
相手を力で弾き飛ばして踏み込み、上段に構えて上から斬りかかる。隙は多いが、弾き飛ばされて一瞬怯んだ相手には威力ある出方だ。相手は刀の背を手の平で支え、なんとか刃を受け止めたものの、力は彼の方が上。
また、弾き飛ばす。
この喧嘩に、意味など無かった。
どちらが正義だということもなければ、悪だということもない。
ただ、お互いが気の立っている状態で、偶然夜道で出会った――ただ、それだけだった。
猛然と斬りかかってくる相手の刃をかわし、その背に深く刃を食い込ませる。
紅蓮の花火が、地上で炸裂した。
一瞬だけ、相手は動きを止める。…現状把握ができていないのだ。それを機に、今度は腹を裂く。腹から、鎖骨へ。
相手はひとつ咳き込んだ。刃が肺を傷つけたからだろう、その咳には血が混じる。
その赤色が、頬へ散った。
倒れていく相手の体躯を冷めた目で見つめ、気づく。彼の右肩を、相手の刃が貫いていた。肩に刺さる死んだ相手の刀。肩から引き抜いて、彼は呆然とその刀を見つめる。
傷の少ない刀だった。
練習で藁俵を斬っただけの刀。誰かを斬ったことの無い刀。
自分のとは、大違い。
そんな彼に、声が掛かった。
細い、震えた声。小綺麗な格好の町娘が、そこに立ち尽くしていた。
「肩の、怪我……」
その言葉に、彼は自分の右肩から血が噴出しているのに気づく。痛みが、痺れを伴って襲ってきた。
「…………っ」
意識が遠のく。町娘が悲鳴を上げそうになり、自分で口を塞ぐ。
――気づけば、畳の部屋で手当てをされていた。
傷の熱にうなされる目が見つけたのは、必死で自分の看病をする赤い着物の小綺麗な町娘。血の色とは違う、赤色。
器用に結われた髪に差された、赤玉のかんざし。
何故か助けずにはいられなかったのだと、町娘は言った。
あんまりにも透明な目をしていたから。
手を掴んでおかないと、飛んでいきそうな気がしたから。
「変でしょう?」
町娘は笑う。
その笑顔と共に、かんざしが揺れる。
心が揺れる。
戦に行く前の日に、町娘にかんざしを手渡した。散々迷って買った、梅の花のかんざし。…町娘は、赤色が好きだから。
「ありがとう」
ちょっと遠慮して、それでも嬉しそうに、町娘ははにかんだ笑みを浮かべる。
初めて見せる笑顔。彼は思わず顔を逸らす。――その顔は、耳まで真っ赤。町娘は可笑しそうに笑う。
戦は怖くない。
死に直面する場面は何度もあった。
そもそも、町娘が助けてくれなければ、この命はなかった。
今は、町娘にこうやって笑いかけてもらえるから、命が惜しいと思う。
活けるのにはちょうどいいと思った。
なんて言って、手に持っていた花を渡す。
赤い、真っ赤な椿の咲いた枝。
匂いはなく、静かに佇んでいて、存在主張はしないけれど、大きくて華やかな椿の花。
赤色の好きな町娘は、ただ見事に咲いたその花に目を奪われている。その花の意味を、花言葉を知らぬまま。
『我が運命は君の掌中にあり』
君がここで生きているから、自分も生きようと思う。
君がここに居るから、自分もここに居ようと思う。
だから、戦で自分が帰ってくるのを、ここで待っていてはくれないだろうか。
生きていてほしいと、願っていてはくれないだろうか。
そうしたら、自分は何があっても、生きて戻ると誓うから。