長ぐつについて
「なぁ、あれってなんだと思う?」
何も考えずに空を見上げていた俺は我に返った。隣に座る雄一を見ると、彼は前方を指差していた。
俺は初め、彼が何を指しているのかがわからなかった。デパートの屋上広場。遊具やらゲーム機が置かれていたのは今や昔、殺風景な屋上にはいくつかベンチが並べられていて、あとはゴミ箱と自動販売機が二つ、喫煙スペースに灰皿ボックスがあるのみだった。
気付くまでには少しかかった。網目状の鉄柵の手前に、並べられた長ぐつが一対。
向こうを向いて、置かれていた。
「長ぐつだ」
少し間があった。「うん。そうだよな」
長ぐつが、なんでここに? そう考えるのは自然だった。恐らく雄一も考えただろう。
安易に考えつくのはーー屋上という場所。柵の前に並べられた靴と言えば……
「自殺?」
俺の頭の中にもあった答えを、雄一は言葉にした。
「んー」
なぜだかしっくりこなかった。それが長ぐつでなく、革靴であったなら自殺しか考えられなかっただろう。
「なんで長ぐつ?」
「なぁ」
俺は考えながら言った。
「長ぐつ……一昨日雪が降ったから履いていた人は多かった。まだ雪も積もってるし、路面が凍結している所もあるから今日履いている人がいてもおかしくはない。とはいえ、これから自殺しようって人が、長ぐつ履いて外出るかね?」
「そうなぁ」
「長ぐつって滑らないようにとか、普通の靴じゃ濡らしちゃうから履くもんだろ」
死にに外出る人がそんなこと気にするのだろうか……。俺は自分だったら、と脳内でシミュレーションする。いざ柵を乗り越えようとする前に、脱ぐのにモタモタと時間を取られそうだ。
「最初は自殺する気なんかなくって普通に外出て、そんで衝動的に『あっ、死のう』みたいな」
なるほど、それなら長ぐつを履いた自殺願望者もあり得る。
「でもなんであれって靴を脱ぐのかね」
雄一は根本的な疑問を口にした。
「別に靴履いてたっていいだろ」
「……旅立ち、っていうかさ。あの世への。日本人って室内入る時靴脱ぐじゃんか。だから、あの世行くから現世の靴は脱いでおじゃましまーす、みたいな」
「じゃあ外国の人は飛び降り自殺する時靴脱がねぇのか」
……知らねぇよ。見たことねぇし。口にはしなかった。
「あれが、自殺者の残した靴だとして……」
黒い、一対の長ぐつを見ていた。
「てことは柵の向こう、下見たら、人が死んでんのかな」
わからない。それが本当に自殺者の残した靴なのかどうか。そうでないのだとしたならなぜそこに向こうを向いて並んで立った一対の長ぐつがあるのか。一昨日、昨日にここで自殺者が出たという話は聞いていない。とはいえ、自分が知らないだけで、聞いていないだけで実はあったのかもしれない。屋上には俺たち二人しかいなかった。
本当にそれが自殺者の残した長ぐつだったとしたならば、柵の向こうの、下を見たら、真っ白な積雪の上に、真っ赤な、落としたトマトのように爆ぜた遺体が、あるのかもしれない。
「見てみるか」
「いや」
俺は言った。腕時計を見た。
「もしあれが自殺者の残した長ぐつだったとして。柵の向こう、下を見たら遺体があったとして……」
雄一を見た。
「そしたら俺たちは第一発見者になるわけだ」
「うん」
彼は頷いた。
「したら俺たちはここの人たちに報告しなきゃならない。だって見て見ぬフリなんかできないだろ、そんなショッキングなもの見せられて。そんでここの人たちが警察を呼ぶ。警察の人たちがやってくる。『第一発見者は?』『あそこにいる二人です!』。そっからは署に連れていかれて事情聴取、現場検証……」
「映画観れないな」
「だろ?」
俺たちはそもそも、この後観る映画までの時間つぶしで屋上に来ていた。
「もうチケット買ったのに……」
「楽しみにしてたのにな」
「でも……そこで死んでる人がいるかもしれないってのに……それを無視していいのか?」
確かに。実は俺はもう既に、その柵の向こうの下がどうなっているのか、とても気になっている。見てしまいたい自分がいる。
「見ていいのか」
雄一は黙った。
「そこで人が死んでいたとして、それ見て俺たちは普通でいられるか。そんなもの見せられて、巻き込まれて……。何にも良い事ない。キモチワルイもん見せられて、気分悪くして、時間まで取られる。そもそも誰のために見つけてやるってんだ? もう死んでんのに!」
彼は少しして言った。「……生きてたりして」
揺らいだ。もう絶対見ないまま屋上を後にして、俺たちは暖かい室内に入って、映画を観、ファミレスで飯を食いながら感想を言い合ったりするんだと決めていたのに。
「……見るか」
頷いた雄一が立ち上がったのを見て、俺も立った。冷たい風が吹いて、俺は肩をすぼめた。コートのジッパーを一番上まで上げて、歩き始めた雄一に続いて向こうへ歩いた。
黒い長ぐつが、すぐそこにある。その横に並んで立って、俺と雄一は目を合わせた後、ほとんど同じタイミングで下を見た。
……
下には雪が降り積もった、真っ白な道路があった。
「……ねぇな」
「ない」
少しの安堵があった。「何にもない」
俺たちは向かいあった。
「じゃあ、この長ぐつはなんなんだ?」
「知るかよ!」
俺は長ぐつを見下ろし、その片っぽを思い切り蹴った。