喧嘩
「なぁ、機嫌直せって」
群馬育英との試合に負け、吉岡高校に帰ってきた。空気は重い。
今日は解散し、明日から練習再開、とマサが言う。
足早に立ち去ろうとするヒバリをカズが追いかけた。
「上泉に打たれたことがショックなのは分かるけど、お前がそんな態度だとみんなが気を遣うだろ?」
「上泉君に打たれたから?」
ヒバリのイライラは増す一方だった。
「カズは私が何でこうなっているか分からないの?」
ヒバリは感情を隠さない。
「負けたからだろ。お前はあっちの世界じゃ負け無しだった。負けること慣れてないんだろ?」
「分かってないな。本当に分かってないな!」
ヒバリは怒鳴った。
「私はね、負けて逃げるようなこっちの世界の私とは違う! 私は逃げない! 逃げれば、癖になる。こっちの私みたいに無様で情けない投手になる! 打たれたのはしょうがない、私が怒っているのは…………」
「おい、待てよ」
ヒバリが全てを言う前に、カズの目の色が変わった。
ヒバリは、無意識にカズの地雷を踏んでいた。
「こっちのヒバリが無様? 情けない? 取り消せよ」
カズはヒバリに迫った。
ヒバリは恐怖を覚えたが、引かなかった。
「な、なに? 本当の事じゃない! 直球が通用しないからって、変化球や変則投法になって…………」
「確かにあいつはお前みたいには成れなかった。でもな、あいつは逃げなかった。生き残る道をボロボロになっても考えたんだよ。なんであいつが吉岡高校のエースか、教えてやるよ。吉岡高校はな、少年野球、吉岡ライオンズのチームメイトで構成されているんだ。小学校時代に全国制覇をしたメンバーだ。みんなその時のヒバリを知っている。俺たちの中では、ヒバリは精神的支柱なんだよ。だから、エースなんだ。技術じゃない。お前が甲子園なんて途方もないことを言った時、みんなが同調したのはお前が水沢ヒバリだからなんだよ。今のお前にあいつほどの求心力があるか?」
「そんなの知らないよ。私は私、こっちの私のことは知らない。なんか、言いたいことがあったけど、もういいや」
ヒバリは自転車に乗って帰ってしまった。
「ちくしょう、何が悪かったんだよ」
カズにはヒバリが言いたかったことが分からない。
翌日から、2人の不協和音は全体に伝染する。
練習に覇気は無くなり、練習試合はつまらない負け方を繰り返した。
甲子園、それが遠ざかる。
「さて、こうなると荒療治が必要かな」
五月の半ばを過ぎた頃、キャプテンのマサが決断を下す。
五月の第四週の月曜日。
「今週末に合宿?」
カズが繰り返した。
マサから「合宿を行う」ということを練習の終わりに宣言された。
「そうだよ。ほら、高原学校で使った榛名の宿舎があるじゃん。あそこを使って、合宿をすることが決定したよ」
「ちょっと待てよ。急じゃ無いか?」
「急だよ。無理も承知。だけど、こうでもしないと今のチーム状態は良くならないだろうからね」
マサはヒバリとカズを見る。
2人は練習をサボるようなことはしなかったが、一ヶ月の間、ほとんど会話が無かった。
「それと一日目の練習試合の相手は、大田第一だから」
それを聞いた部員はどよめいた。
太田第一。かつて、甲子園を制したこともある私立の強豪である。群馬育英と前橋大付属の台頭で近年は、甲子園から遠ざかっているが、吉岡高校からすれば格上の相手だ」
部員たちがさらに驚いたのは、練習試合の申し出がこちらからでは無く、太田第一からだったと言うことである。
「群馬育英と延長戦を展開した、というのが注目を集めたんだろうね。甲子園を目指すなら、勝たないといけない相手だよ」
こうして、突然の合宿が開催される。
ヒバリとカズは冷戦状態のままだった。
そして、週末。
渋川総合運動公園内にある球場を使って、太田第一との練習試合が行われた。
前日の雨の影響でグランド整備が遅れた。
一時は吉岡高校側から中止の提案もしたが、太田第一高校が「1試合でも良いからやりませんか?」と返してきたので、グランド状態の回復を待って、午後から1試合だけが行われた。
「相手の監督、ずいぶんと粘っていたな」
試合前、カズが言う。
「育英と良い勝負をした無名の高校、夏の脅威になるか、知っておきたんじゃ無いか?」
「強豪校の監督はしっかりしているな」
「ところで、ヒバリは?」
カズは少しムスッとして、ブルペンを指さした。
「大久保とキャッチボールしているよ」
「全く、どっちも意地っ張りだな」
「俺は違う。そもそも、育英とのあの試合だって、上泉を敬遠していたら勝ってたと思ってる。それをあいつはムキになって…………」
「違うと思うな」
「何がだよ?」
「ヒバリの不機嫌の原因は試合の勝ち負けじゃ無いと思うよ。仮にあそこで上泉君を打ち取ったとしても、今と同じになっていたと思うよ」
「意味、わかんね」
「その意味がこの合宿中に分かると良いね」
悪い雰囲気のまま、試合は始まる。
そして、試合は大田第一が五回までに七点を奪った。
ヒバリは育英との戦いの後、精細を欠いていた。後出しで、相手の裏をかく投球は精神面に大きく依存する。カズとの関係が修復しない限り、ヒバリの復活は難しい。
「次の回からピッチャー、それからキャッチャー交代。祐輔、大久保、頼んだよ」
5回の守備が終わった後、マサが宣言する。
ヒバリは何も言わなかった。
「おい待てよ。なんで、俺まで…………」
カズが抗議する。
「連帯責任って言葉好きじゃ無いけど、今回はそれだね。君たち二人が試合を壊したんだ」
「二人、ってお前も知ってるだろ。ヒバリはサイン交換をしない。俺をボール受けてるだけだ!」
「ボールを受けてるだけ、そんな発言をする奴がいつまでも正捕手をやっていられると思うなよ」
「な…………」
マサはほとんど怒らない。
しかし、怒った時の怖さはみんな知っていた。
全員が黙って、マサの決定に従う。
「ごめん。僕まで空気を悪くした」
マウンドに上がった祐輔に、マサが声をかけた。
「マサ先輩が気に病むことじゃないと思います」
「大人げない先輩たちで悪いね。君は気にせず、思いっきり投げると良い」
「そのつもりですよ。もし、このままヒバリ先輩が復活しなかったら、夏は背番号1をくださいね」
「考えておくよ。僕としては、ヒバリが復活して、二枚看板で夏に挑みたいけどね」
「そうですね」と祐輔は返した。
6回以降、祐輔はヒット1、無失点で太田第一打線を押さえ込んだ。
結果は2-7の大敗だった。
「ちょっと待ちなよ」
試合後、バスに乗ろうとするヒバリとカズに、マサが声をかける。
「君たちは走って帰りな」
「「は?」」
「ちょっと頭を冷やすと良いよ」
二人は問答無用で置いて行かれた。
「今日のあいつはなんなんだよ!」
カズは怒鳴った。
ヒバリは無言で振り返る。
「おい待てよ! どうするつもりだ!?」
「どうするって、走って合宿所まで帰るしかないんじゃない? 別に走って帰れない距離じゃないよ」
それは久しぶりの会話だった。
「おい、待てって!」
カズは追いかける。
「ごめん、話しかけないで。結構距離あるから、呼吸が乱れるのは避けたいの」
「ああ、そうかよ」
カズはヒバリを抜かした。
ヒバリが抜き返す。
また、カズが抜き返す。
しばらくはそんなことが続いた。
「おーい、ペース落ちてるぞ」
三分の二を越えた辺りでヒバリのペースが落ちた。
「先に行けば…………」
「もう暗くなってる。こんな所に女の子一人、置いていけるか。なんだか雨も降って来そうだしな」
「こんな時だけ女の子、扱いして…………いいから、先に…………」
大きな雷の音がした。
そして、突如、雨が降り出す。
「降り出したか。おい、ヒバリ、いったん避難だ!」
カズはヒバリの手を掴む。
「ちょ、ちょっと」
カズはヒバリの意見を聞かずに近くのキャンプ場へ入った。
時間と天候のこともあり、人気はなかった。
椅子とテーブル、屋根のある休憩所を見つけ、二人は腰掛けた。
「びしょ濡れだよ…………」
ヒバリは服の端を絞る。
「なぁ、ヒバリ、これも羽織ってくれないか」
カズはユニフォームの上を渡した。
「えー、嫌だよ。びしょ濡れだし、汗臭そうだし」
「はっきり言うな! けど、羽織ってくれると助かる。その、目のやり場に困るから」
言われて、ヒバリは自分の状態を把握した。水分でユニフォームが体にぴったりと密着して、体のラインがくっきりと出ていた。
「変態」
ヒバリは両腕で体を隠しながら言う。
「不可抗力だ! だから頼む」
「嫌だよ」
「なら、このままか?」
「それも嫌だな~~。そうだ、お互いにこのテーブルの上に座って、背中合わせになってよ」
「お前がそれでいいなら…………」
二人はテーブルに座った。背中合わせになる。ランニングのせいでお互いの体はとても火照っていた。
「で、私たち喧嘩していたよね?」
「このタイミングで言うか?」
「このタイミングでしか言えないよ。そうしないともう言い出せない気がする」
「そうかよ。だけど、ここで『俺の方が悪かった、ごめん』なんて言えるほど、人間出来てないからな」
「うん、知ってる。カズの言うとおりにしていれば、勝てたかもしれない」
「かも、じゃない。勝っていた」
カズは断言する。
「お前は上泉以外には打たれない。あの厄介な新田だって、お前には勝てなかったんだ」
「それだよ」
ヒバリは感情的にならない。淡々と言う。
「私はね、打たれたことも、負けたこともショックじゃなかった。私がショックだったのは、カズに信じてもらえなかったこと」
「俺に信じてもらえない?」
「カズに、私じゃ上泉君に勝てない、って遠回しに言われたのがショックだった。カズには信じて欲しかったなぁ…………私が勝つって」
「ヒバリ…………」
「背中合わせのままね」
思わず、振り向こうとしたカズに、ヒバリが言う。
声が少しだけ震えていた。
「チームのことを考えなかった私が悪い。キャッチャーの指示に従わなかった私が悪い。打たれた私が悪い。負けた私が悪い。全部私が悪い。それは分かっている、つもりだよ。でも、私は我が儘なんだ。勝ちたかった。カズに信じて欲しかった。二人で上泉君に勝ちたかった」
カズは突然動いた。
ヒバリの正面に回る。
ヒバリは、両手で咄嗟に隠した。
しかし、それは雨で濡れて透けた体ではなく、顔だった。
「体、隠さなくて良いのかよ」
「もっと隠したいものがあるんだよぉぉ…………」
「なぁ、ヒバリ、俺はあの時、勝ちたかった。それは認める。けど、それ以上にお前が傷つくところを見たくなかったんだ。こっちのヒバリは中学の途中から全く通用しなくなって、ボロボロになって、それでも野球が好きで止められなかった。今のお前は、ヒバリのもう一つの可能性だと思った。生き生きているし、自分が負けるなんて思っていない。強い頃のヒバリそのものだ。お前にはこっちのヒバリみたいに傷ついて欲しくない。いつまで一緒に野球を出来るか分からないけど、絶望して欲しくないんだ」
「カズが信じてくれれば、私は絶望なんかしないよ。こっちのカズは優しいね。けど、それは私が弱いと思っているからでしょ。脆いと思っているからでしょ」
「否定はしない」
「お願い。カズとは対等でいたい。笑いたいし、喧嘩もしたい。育英との試合のあの場面、カズが勝つための安全策として、上泉君との勝負を避ける、って言うなら私は従ったと思う」
「俺はあの時の判断を間違ったと思ってない。だから、やっぱり謝らない。けど、お前のことを考えなかった。それに関しては素直に謝る。もう逃げろなんて言わない。夏の大会は正面から強豪校に勝とうぜ!」
「その言葉、信じるよ。破ったら、絶交だからね」
ヒバリはまだ潤んでいる瞳で笑った。
そして、夕立は去り、夕焼けが辺りを照らした。
「さて、暗くなるまでには帰るぞ!」
「うん!」
二人は走り出す。
合宿は土・日曜日の二日間の予定だったが、ヒバリとカズの合宿は一日目で終わった。
理由は簡単である。二人とも風邪を引いた。
「まぁ、あれだけびしょ濡れなら無理もないかな」
「誰のせいだと思っているの?」
「誰のせいだと思っているんだ!」
発熱で顔を赤くした二人は、マサに文句を言う。
「けど、仲直りはしたみたいだし、意味はあったんじゃないかな? 二人とも良い顔してるよ」
マサは笑いを堪えて言う。
「風邪なのにいい顔な訳あるか…………けど、ありがとな。おかげできっかけは作れた」
「そう言ってもらえると助かるよ。もう少しでヒバリのお母さんが来るから。カズも乗せていくって」
二人は合宿を早退した。