七 弱くて強くて
灯された数多の蝋が、煌びやかな大広間に良い香りを満たします。
柱に梁に彫られた百花は柔らかな光と影に彩られ、その中央では色とりどりのドレスが、まるで本当の花のように咲き誇っておりました。
女学校の頃ならば、憧れに胸を高鳴らせたことでしょう。
心臓はどきどきと脈打って、けれど今は、高揚するどころか張り裂けてしまいそう。
翡翠の如き艶やかな女性と仲睦まじく踊られるお姿を、私、これ以上見続けられません。だのに私の目は、亜麻色の髪に吸い寄せられてしまうのです。
軍曹さん。
涙がにじむ前に、お水をいただきに参りますと、その場から逃げ出しました。
私の弱虫。
社長の元を離れることは、こういった事態を引き起こすと予想しておりました。
「ほら、あの子よ。ウィアヌス様の」
「あんな子を連れていらっしゃったの?」
「一時の気の迷いでしょう?」
刺すような視線に、揶揄の嗤い、どんと背中を押されることも仕方がないのです。私のような身分では、本来立ち入りを許されない高貴な場なのですから。
進行方向につま先を差し出されては、ええと、足を引っ掛けようとなさってのことでしょうか。どうしよう、手には社長にお運びするお酒がございますのに。
零してしまうのはもったいないし、綺麗な床をお汚しする訳にも参りません。
「挑まれたならば、受けてこそ。乙女の掟よ、セシカ」
こんな時には。
きゅっと口角を上げて、薔薇の微笑みを浮かべる大事な友を想いました。争いは苦手な私に、相対するとは何かを教えてくださいましたね。
「あなたなりの方法を考えること」
はい、ミレイ様。
小さく呟いて、私なりに頑張ることに決めました。宝石がはめ込まれた靴先に、こつん、躓いたのです。えい。
ぴょんと飛び跳ねて、とん、着地成功です。
「あ」
お酒は、やっぱり杯から飛び出して、手袋をぐっしょり汚してしまいました。ゆ、床は無事です。良かった。
「ま、飛び上がるなんて、無作法だわ」
「本当。これだから下々は」
「早くお帰りなった方が宜しくてよ」
大丈夫、私は対処できる筈です。汚れた手袋できゅっと握り締めて、おみ足に躓いたことを謝罪いたしました。
「やはり君はウサギだね。こっちにおいで」
穏やかな風のお声がいたしました。
「イレフ、様」
「まあウィアヌス様」
「君たちに謝ることを、僕の大事なウサギはしたのかな?」
「そ、それはその」
「ならば、僕が謝罪しよう」
「けっ、結構ですわ、失礼いたします」
私を取り囲まれた皆さまは、慌てて、床までの長いドレスの裾を翻されました。まるで冷たい風から逃れるかのよう。
「手袋が汚れたみたいだね。おいで、取り換えよう」
広間に垂らされた分厚い仕切り布の奥には、小部屋がございまして、私の身支度をお手伝いくださった侍女様が、お一人、控えていらしました。
水差しとボウルをご用意くださった上、繊細な刺繍が施された白手袋を替えにと差し出してくださる。
「ありがとうございます」
一筋の乱れなくきちんとお結いになった髪の下、侍女様の瞳がかちりと光りました。
「僭越ながら、申し上げます」
「は、はい」
「お嬢様は余りにも気弱過ぎます」
正された姿勢。
それは、私をお育てくださった伯母様にとても似ておりました。セシカっ、とお小言をいただく時の雰囲気と同じです。う。
背筋がぴんと、自然に伸びます。
「広間でのご令嬢方へ、また、身支度時の侍女への対応は、まるでなっておりません。毅然と注意なさらなければ、侮られるだけです」
伯母様。
「毅然となさい、セシカ」
母を亡くした私は、兄様とマツさんをお頼りする大変な甘ったれでした。伯母様はそんな私を〈武〉に相応しくあれとお育て下さいました。
「セシカっ、そんな軟弱で〈武〉が名乗れますかっ」
寒中の滝壺に投げ入れられたり、全て真剣を使用した稽古であったりと少々厳しくも感じましたが、今では良い思い出です。
だから、つい、へらりと笑顔になってしまったのです。
「…淑女はお顔を引き締めるものです」
ああ、何て懐かしいお言葉。
散々いただいたお小言、その時には俯いて小さくなることしかできませんでしたが、今の私はとても嬉しく思うのです。
こうしたお小言も。
それに、侍女様からのお言葉も、高貴なお嬢様方のお言葉も。全ては。
私の為、なのです。
「叱ってくださって、ありがとうございます。嬉しいです」
こうして真摯に向き合ってくださるお方には、真摯でもってお返ししなければいけません。侍女様、それからイレフ様のお顔をしっかりと見つめました。
「お恥ずかしいことですが、私、とても鈍いのです。言ってくださらないと分かりません。なので、私に聞こえぬ場所での陰口よりも、耳に届けられることはありがたく思います」
だから、侮られたと思えません。
「そのようなお言葉をいただく時は、反省し、自分を改める機会だと思っております」
にっこりしました。
耳に痛いお言葉でも、逃げ出さないで。
俯かないで、顔を上げて。
昔、兄様とお約束した通りに、笑顔で。
「…そう思っていても落ち込むことも、できない時もございます。お恥ずかしいです」
小さく白状いたしますと、イレフ様と侍女様は同時にため息を吐かれました。
「君って人は」
「サージェット様にはお似合いかと、イレフレート様」
「ウサギさん」
穏やかなお声でイレフ様は、厳しくとも優しいご助言を、再びお与えくださいました。
「君は弱くて、強い。けれど、今の自分で満足してはならない。より高い位置へ、自身の手で変えてゆきなさい」
社長の元に戻れば、う、眉間の皺が深く刻まれて大変不機嫌なご様子です。だのに手袋を交換したことを目敏く指摘されてしまいました。
それに、うう、舞踏をご一緒することにもなりました。
以前ミレイ様に褒めていただいたこともあり、舞踏だけは、私が唯一人並みにできる課目です。こうして踊ることで、社長の防波堤という役割を果たせるなら、が、頑張ります。
神様。
ほ、本当は、軍曹さんと踊りたい、です。
舞踏の基本は、姿勢。
指先まで神経を通わせて、強弱をつけて、飛び跳ねても殊更気を付けて着地を。余計な音はしないように、綺麗な音だけが耳に残りますように。
表情も、柔らかく。
にこりとすると、社長の眉間は少しだけ緩みます。
本日のヴィオロン奏者は国外に留学なさっただけに、巧みで、どんどん曲調が速まります。なのに、社長は余裕たっぷりなのです。
こんなにも華麗ですと、うう、ちょっぴり悔しいです。
ヴィオロンはきらきらした余韻を残し、社長と私は互いに、終了の礼をいたしました。合わせた掌に触れ合いませんでした、ほっ。
わっと歓声があがりましたが、え、どうして皆さま壁際にいらっしゃるのでしょう。踊っていらしたのでは?
「素晴らしい。次の曲は、ぜひ、私と」
「いえ、私と踊ってください」
「ウィアヌス様、天女をお一人占めとはあんまりです」
次々と真っ白な手袋が目の前に降り注いだのですが、え、私をお誘いくださっているのでしょうか。な、何故。
「断る」
にべもなく社長はお断りの言葉をお口にされますが、そうおっしゃらずにと食い下がられる紳士方に、辟易されたお顔をなさいました。
「お前は露台に行っていろ」
広い露台には、もう夕闇が迫っておりました。
瞬く星と、登り始めた月と、灯篭の灯り。人の背丈より大きな壷には花々が活けられて、密やかな影を作り出しておりました。
大広間よりも親密に会話なさる方々が多く、その中に、翡翠のお方もいらっしゃったのです。
「あら、天女。保護者はどうなさったの?」
て、天女?
まさか私のことだとは思えませんが、足を止めてしまいました。
「その先は暗がりが多いわ。そのように無防備では、怖い目に合いますよ」
しっかりと夫の腕に手を絡められ、くすりとお笑いになられる翡翠のお方。こうして近くでお話しして初めて、私より年上なのだと気が付きました。
「天女って、あの、何のことでしょう?」
「あなたのことよ。子どものような天女さん」
「え、私、普通です」
ぷっ。
吹き出すお声がして、翡翠のお方の後ろで軍曹さんが、お身体をくの字にされながら笑っていらっしゃったのです。
『可愛い人だ』
がんと頭に衝撃を受けました。
子どもだとお笑いになるなんて、ひ、酷いです。
「軍曹、さん」
メネリック家のお屋敷をご出立なさったあの朝は、昨日のことのようですのに、きらきら光る亜麻色の髪は随分伸びておりました。
柔らかい風に揺れて、はらり、痛々しい頬の傷が顕わになりました。眼尻の下には、ほくろがあった筈ですのに。
小さな呼び声に、ご夫妻は目と目を合わせてお笑いになられる。
「どなたかとお間違えよ。いいえ、責めている訳ではないの。私の夫は、どなたかと似ているみたい。別の人にも間違えられたわ」
しっとりとしたお声で翡翠のお方は、子どもに諭されるように教えてくださいました。
私の夫、ニダカ トエルフ リークは光護国と縁があって、血縁者の中に、この国の男性と結婚した女性がいたのよ。
その女性は身体を壊し練国に戻ったけれど、一人息子をこの国に残したの。その子は、トエルフの証である亜麻色の髪をしていたらしいわ。
もしかして、あなたが間違えたのは、その方なのかしら?
このお方は、軍曹さんの血縁?
だから似ていらっしゃるの?
では。
やっぱり、報告書の通り、軍曹さんは。軍曹さんは。
『私にお名前をお教えくださいますか、可愛い天女』
白い手袋が闇に舞う蝶の如く、ひらりと、社交服の胸に押し当てられます。
瞳の色も、お声の甘さも思い出と同じですのに、どことなく違和を感じるのは、やはりこのお方が軍曹さんではないからでしょう。
天女だなんて、軍曹さんならば、こんな風にからかわない筈です。
どうしよう、泣きたい。
『お、お耳に残すほどの名前ではございません…失礼いたします』
ああ、私の弱虫。
露台にはいくつか階がかけられており、その内の一つを駆け降りると、お庭へ出ました。葉陰は闇よりも暗くて、ざわりと音をたて、ひっくと私の嗚咽を隠すのです。
無人に、心置きなく泣けると思いました。
でも神様は意地悪で、いやだわ、と歌うようなお声が響いたのです。
「こんなところに虫けらが。不快だわ」
夜を払う白いドレス、ふんだんにあしらわれた蒲公英色のレースも真珠の装いも、ご身分の高さを表しておりました。
白い頬。
複雑に結い上げられた髪。
余りにも美しくて、香り豊かな白百合の花の精のようなお方を、ぽかんと眺めることしかできません。服に虫が着いたのなら取って差し上げるべきでしょうか?
「帰れと耳にしたでしょう?」
真っ直ぐに私を目にされたまま、ドレスの袷に手を入れて、え?
何故、その手に小刀を握られているのでしょうか。すっと鞘を引き抜かれると、銀の切っ先が向けられました。
…え?
「虫に言葉は理解できないのにね、わたくしったら。駆除は速やかにしなくては、ね?」
お読みいただき、ありがとうございました。
セシカの思い違いを一つ。
軍曹さんは、セシカをからかうことが好きです。