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6  Stay with me

大変遅くなりました。


 やはり、あの男は別人だったのだ。


 セロが奏でる情感豊かな前奏曲。

 大広間に灯された蝋と共に、隅々にまで満たされた音の調べは、演奏会から舞踏会へと変わる合図だった。

 礼儀としてまず主催者が中央へと進み、実際には兄の車椅子を母が押して一回転しただけであったが、招待客は惜しみない拍手を送った。

 それからようやく、数名の男女が手を取り合い、優雅な舞踏を始めたのだった。


 ニダカ トエルフ リーク。

 練国特有の亜麻色の髪をした男もその中にいた。大胆に胸元の開いたドレスを着た女と、隙間なく身を寄せ合いながら。その親密ぶりは、貞淑な光護国ならば顔を赤らめるほどである。

 招待客の大半、それも特に女性の視線を攫うあの男は、到底、アサツキが待ち望んでいる相手だと思えない。

 やはり。

 あの男はアサツキの婚約者ではない、全くの別人なのだ。


 左後方に控えるアサツキに聞こえないよう、サージェットは息を静かに吐き出した。


 それは安堵のため息だったと、彼自身は理解していない。ただ、これで彼の腕の中から彼女を奪う奴はいなくなったと感じただけだ。

 青いドレスに身を包んだ、可憐な花のようなアサツキは、今まで通りに彼の傍に。

 これからもずっと、ずっと傍にいる。


 アサツキは、俺の。


「あの、お水をお持ちいたしましょうか。それとも別の物がよろしいですか?」

 首を傾げながらアサツキが問う。

 細い肩に、くるりと巻かれた後れ毛が跳ねて、化粧を施され髪を結われた姿のアサツキを直視できないサージェットは、ああとしか答えられなかった。

 だから、ほのかに笑う彼女の長い睫毛が、震えていたことも気が付かなかった。

「行ってまいります」

 ドレスの裾を翻して彼の元を離れる彼女に、踊ってくれと誘いの文句は、口内に留まってついに言い出せなかった。


「ウィアヌス様」

 アサツキの姿が人影に紛れた途端、名を呼ばれる。遠巻きからこそこそと視線を送っていた女たちが、にじりにじりと距離を詰めていたのだった。

 くそ。

 一気に不機嫌になり、近寄るなと威嚇を込めて睨みつける。怯んだ素振りを一瞬見せたが、女たちは、集団で獲物を狩る作戦にでたらしい、束になってサージェットを取り囲んだ。

 アサツキを傍に置く。確かに効果もあったが、反面、女性嫌いを払拭したと女たちは踏んだようだ。諸刃の剣だった。

「踊っていただけますか」

「わたくしも、お願いしますわ」

「連れがいる。間に合っている」

 冷たく言い放つものの、前に回り込んで進路を断たれ、場を離れることもできなかった。くすりと癇に障る笑う声がする。

「あら。だって、あの人」

「ただの相伴者、でしょう」

「あのような人、ウィアヌス様のお相手になりませんわ」

「それに、ふふっ、しばらく戻って来きませんわ」

 きゃいきゃいと甲高い声。

 強過ぎる香水。

 何もかもが気に入らないが、女たちの言葉や目配せの端々に漂わせる優越感は、ただ生まれ落ちた場の幸運による根拠のないもので、サージェットは今にも叫びそうになった。

 不愉快だ、と。


 甘い響きの声に邪魔されなければ。


『このように美しい淑女方に囲まれて、羨ましい限りですね』

 亜麻色の髪をした男が、そこにいた。

『トエルフ、殿』

 男も羨む、恵まれた体格。

 いかにも女性が好みそうな線の細い、柔和な顔立ち。華やかに微笑みながら優美な杯を掲げていれば、異国語が通じずとも、その場にいた全ての女性の顔を赤く染める。

 サージェットの右眉は、ぴくりと跳ね上がったが。

『この国の女性は慎ましいと伺っておりましたが、貴方は特別なのですね。数多の花に囲まれておいでだ』

 〈貴〉やそれに近い身分にあろうとも、異国語に明るいとは限らない。アサツキのように女学校で厳しい教育を受けない限り。

 深窓の令嬢たちが、流れるような発音に恐れをなすのは当然のことだった。

「し、失礼いたしますわ」

「また後程」

 赤らめた顔を扇で隠し、女たちはそそくさと立ち去る。それを目にしながら亜麻色の髪の男は、逃げられてしまいましたと苦笑した。

『皆、行ってしまわれた。どうも異国人は倦厭されるようです』

『…慎み深い、からだろう』

『貴方のお楽しみを邪魔してしまったのなら、申し訳ないですね』

 謝罪しますと、柔らかい響きで口にした。だが、むしろ。

『楽しんでいるように見えたのなら、貴公の目を疑うな』

『はは。私は異国人ですからね、この国の常識が分かりません。ご容赦を』

 むしろ、挑む光を鳶色の瞳に湛えているのは気のせいだろうか。単に揶揄する以上の思惑を、亜麻色の髪の男からサージェットは感じた。

『私に教えていただきたい。可憐な花をお連れでしたのに、他の花を侍らす事はこの国の流儀なのでしょうか』


 この男。


 ほんの僅かな間ではあったが表情から甘やかな微笑みを消し去った異国人と、サージェットの間に、ばちり、火花が散った。 

『お気を悪くさせてしまったようですね。ただのやっかみですよ』

 再び刷いた笑み。

 サージェットには、もう、嘘くさいものにしか見えなかったが、大広間に灯される蝋の揺らぎにトエルフの瞳は巧みに隠された。

『貴公こそ、人の羨む細君を連れていただろう。やっかまれる謂れはない』

『ええ、彼女は素晴らしいですよ』

 つっと動いた顎先を辿れば、広間の中央に、男に全身を預けて踊る女の姿。しどけない髪やたわわな胸元を彩る翡翠より艶やかで、蠱惑的な笑みを湛えていた。

 夫以外の男、にも関わらず。

『彼女は人気があります。この国、に、おいても』


 ご存知ですか。

 そう続く言葉に、鳶色の瞳に光が瞬く。

『真珠色の肌に艶やかな髪。この国の女性は、秘められた宝石だと評されていることを』

 亜麻色に輝く髪は、空に輝く月と同じ色をしていた。

『世界中が欲する宝だと、貴方はご存知ですね?』



 あの男は何者なのか。

 真実、アサツキの婚約者であるのか、そうでないのか。

 だが、と、サージェットは思った。何か含みを持たせた言葉も、あの視線も、何もかも気に食わない。そうであっても、そうでなくとも、もうどうでもいい。

 あの男はアサツキには相応しくない。

 アサツキが何と言おうとも、あの男とは関わらせない。近づかせない。



「遅くなりました」

 杯を手にしたアサツキが、ようやく、彼の元へと戻った。その頃のサージェットの機嫌は言うまでもなく悪化していたが、その原因を彼女に伝える気は僅かもなかった。

 当然、決意も。

 本心では、今すぐに、南区の邸に連れ帰りたいくらいだ。そう言ったならば、アサツキは驚くだろうか。

「こちらをどうぞ」

 にっこりと微笑まれては、サージェットと言えど、切り出しにくい。あの男との接触を、アサツキは望んでいることも理解していた。

 だが、あの男の元へ行かせるものか。

「手袋を替えたのか?」

 ふんわりとした青いドレスに映える白い手袋には、確か、貝の飾りボタンがついていた筈だった。

 杯を受け取るふりをして、どこにも行かないよう、刺繍された手袋ごとアサツキの手を握りしめる。柔らかな感触。

 温かくて、小さくて。


 きゅっと、胸が痛む。

 握られたのは、結局、彼の心の方。


 この手は、俺の。


「踊るぞ」

 その辺りにいた使用人に杯を渡し、アサツキの手を引いたまま中央へと進み出る。かつんと床を鳴らす音は軽快に響いた。

「あ、あのしゃ」

「社長呼びは禁じた」

 立ち位置が決まると、困り顔をしていたアサツキも抵抗は無駄だと分かったのだろう、息を小さく吐き出す。

 ゆるやかにドレスの裾を揺らして一礼するその姿は、彼の、サージェットの為にほころんだ、花、そのものに見えた。


 サージェットの息は、またも、止まる。


 このような可憐な衣装に包まれた彼女に、一体何を言えば良いのか。兄のイレフレートは似合っているだとか可愛いだとか、簡単に言葉にしていたが。

 そんな文句では、到底、追いつきはしない。

 この胸の高まりが口から飛び出さないよう、噤む事で精一杯だと言うのに。

 だが。

 アサツキの手を放さざるを得なかった。

 何故なら、セロからヴィオロンに、ゆったりとした流れから弾むような調べへと変わったからだ。

 苦々しい思いに、ちっ、サージェットは舌打ちする。掌を合わせ合うのに、この曲は、僅かな間を互いに保ち合い、触れてはならない特別な舞踏なのだ。

 目の前にある小さな手、細い腰。己の手を当ててアサツキの熱を感じたいと思って、何が悪い。白い頬や髪にも触れたい。

 それに。


 あの男より、俺を見ろ。アサツキ。


 やりきれない思いは、直ぐに消え去った。

 くるりと一回転した彼女が、ふんわりと笑うから、つい口元が緩んでしまう。

 彼女が傍にいれば、彼は、いつでもこうして笑うことができる。


 彼女の情報は、ウィア版元で働き始めたその日に収集し、身分や学歴もサージェットは知っていた。

 〈武〉を冠する家柄に生れ、自身も〈身分試〉を受け、名乗りを許されている。だと言うのに、アサツキは武術の成績は何故か良くなく、寧ろ、語学や算術で優秀賞に輝いている。

 特に舞踏は。


 指先も。

 睫毛も。

 踵の音も。

 揺れる後れ毛でさえも、優雅で、軽やかで、美しい。

 

「あのお二人、すごい…」

 奏者が演者の舞踏技量を試すかのように、曲は速まる。足捌きが覚束なくなった組や、指先が触れ合った組が、次々と踊りの輪から抜け出して行った。

 今や、サージェットとアサツキだけが残された。

 ほう、と賛辞のため息が広間に満ちる。サージェットさえ、内心、彼女の技量がこれ程だと驚いていたのだから。

 漏らされた声は皆の思いを代弁していた。

「…まるで、天女が舞っているみたい…」


 天女、か。


 その感嘆は、サージェットの耳にも届いた。

 もしも。

 アサツキが、天から舞い降りた姫だとしたならば。そんな莫迦なことある訳ないと、以前なら一笑に付してしただろう。

 けれど、今では。

 とても嗤うことができない。

 昔語りにあるように、俺も。

 羽衣を取り上げて、どんなに強請られても返さなかった男のように、きっと、俺もなるだろう。

 天にかえすことなど、できない。

 そらを想い悲しんだとしても、できない。

 この身の傍に、そう願うことだろう。どんな手段を使っても、願うだろう。


 サージェットが願うのは、ただ、それだけ。

 それだけだと、彼は、思っていた。


 アサツキ、俺の傍に。




社長 対 軍曹さん。別視点となりました。

 連れ帰り…危うく回避。

お読みいただき、ありがとうございました。

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