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五  俯かずに

 

 軍曹さん、早くお会いしたいです。


 願って、願って。

 とうとう、今日という日がやってまいりました。頭上に広がる青い天に、今にも舞い上がるような心地でしたが、落下いたしました。

 すとん。

〈貴〉の紋章が打ち出された馬車の中で、終始、ご不機嫌そうだった社長のせいではございません。

「サージェットと呼べ、社長呼びは禁止だ」

 そうおっしゃったせいでも、ございません。ええ。多分。


 停車した先の社長のご実家が、光護国伝統の壮大なお城、だったからです。


 勾配を利用したお庭は美しく剪定され、白い敷石にさえも紋様が打ち出されて、空の青がどれ程眩いことでしょう。その中で、重厚に佇むお城。

 め、目眩がいたします。

 磨き抜かれて艶々と黒光りする廊下を、本当に、私が踏んでもよろしいの?

「古臭いだけだ。さっさと来い」

 背丈よりも遥かに大きな扉に、壁や梁、あらゆる所に施された精密な彫刻。何て素敵でしょう、つい、きょろきょろしてしまいます。

「本当の花蓮が咲いているみたい、とても可愛いです。ね、社長」

 う。

 はしゃぎ過ぎました。反省しておりますから、そんな憮然となさらなくとも。

 天井まである大きな引き戸を開けて、先に、社長が入室なさいました。お部屋には車椅子に座られたイレフ様がいらっしゃり、やあとご挨拶くださいます。

「堅苦しい挨拶はよそう、ウサギさん」

 膝を折って挨拶を述べる私に、優しくおっしゃいました。

「時間がないよ、女性の身支度には時間がかかるからね」


 イレフ様のお言葉と共に、数名の侍女様に取り囲まれました。戸惑う間もなく、がしり、二の腕を拘束されるのです。えっ。

「お支度はどうぞ、わたくし共にお任せを。さ、お嬢様、こちらへ」

「あ、あの、自分で」

「抵抗なさいますな、さあ」

 別室へと引きずられて、し、失礼にも私の脳裏に拉致という不穏な単語が浮かびました。

「さあ、取り掛かりますわよ」

 ひ。

 ふふふ服を脱がさないでください。下着までも剥ぎ取るのは、お、おやめくださいぃ。

 侍女様方は、そんな私に構うことも無く、花や果実の浮かべられた湯船へと、放られました。どぼん。そして丁寧に全身を擦られ、香油を塗り込まれ、頭からつま先までお手入れくださる。

 勿論、乙女の敵コルセットもぎゅううっと絞めてくださいました。

 ひい。


「イレフレート様より、こちらをお召しになるようにと」

 広げられたドレスは、わあ、細かな縦縞の勿忘草色でした。膨らんだ袖とふんわり広がるスカートがとても可愛らしいです。

 襟と袖先は、腰のリボンと同じ白色。貝で出来た飾りボタン。それに、肘丈の白手袋と花飾りのついた靴もございました。

 膝下丈に、控えめな装飾。イレフ様、私の意向を取り入れてくださって、嬉しく思います。


「…いくらサージェット様ご本人がお連れしたと言ってもね。これじゃあ」

「全然釣り合わないわ、もっと大人っぽい方だと思っていたのに。こんな」


 侍女様方のささやかなお声は、しっかりと私の耳に届いてしまいました。

 確かに。

 社長は背がお高くて、低い良いお声をなさって、落ち着かれた雰囲気のお方です。その隣に控えます女性は、皆さまが思われますように、美しくて気品に溢れていなければ。

 私では、いけないのです。


「お嬢様、お化粧は少し艶のあるものでもよろしいですか」

「髪も華やかにいたしましょうか」

 居たたまれなくて、ただ、はいとしか言えません。ただ、リボンを持参しましたので、そちらを使いたいとだけお伝えしました。


「さ、できましたわ。いかがでしょう」

 華奢な踵の靴を履いて、姿見の前に立った時、本当は、ちょっぴり期待していたのです。こんなにも可愛いドレスを着て、丁寧にお化粧していただいたら、私だって少しは綺麗になれるかもと。

 社交界の薔薇と謳われる、私の大切な友、ミレイ様みたいに。


 でも。


「…全然、だめね。どんなに手をかけても元が、ねぇ」

 くすりとお笑いになられたお声は、私が抱いた感想そのもので、どうしようもなく気持ちが沈んで行きました。

「お手数、おかけいたしました」

「では、若君たちの下へ。お待ちになられています」

 

 イレフ様も社長も、すでにお支度を整えられて、ゆったりとした椅子に座られておいででした。質の良い社交服がとてもお似合いです。

 そのように素敵なお二人が、大きく目を見開かれたのです。

 恥ずかしくて、俯いて、視線から逃れました。に、逃げ出せるものなら飛んで帰ります。


「とても似合うよ。可愛いね、ウサギさん」

「あ、ありがとうございます」

 卒なく褒めてくださるイレフ様。本当にお優しい。

 正直に、似合わないとおっしゃってくださっても大丈夫ですのに。社長は、ほら、ご覧ください。氷像のようにかちかちに固まっておいでです。


 社長。


 その瞬間に、思い出したのです。

 私の役割を。

 苦手な女性を遠ざける為に、私は、壁となって社長をお守りしなければなりません。社長はその為に私を保護してくださっているのですから。

 受けた恩に報いなくては。

 それに。

 幼少の頃は伯母様から、女学校では下級生から、私は嗤われ続けていたではありませんか。今更、侍女様に嗤われても、何を落ち込むことがあるのでしょう。


 俯くな、私。


 俯かずに、背筋を伸ばして、真っ直ぐに前を向かなくては。

 軽やかに礼を。

「素晴らしいご衣裳、ありがとうございます。本日はよろしくお願いいたします」

 

「…サージェ」

 咎める色を乗せられたイレフ様のお声に、社長は、はっと身じろぎなさいました。

 口元の歪みは、何かおっしゃいたいのでしょうか、でも結局一言も発せられませんでした。無言のまま、上等な白い手袋に包まれた手を差し出してくださいます。

「大丈夫です、後方に控えますので」

 お身体に触れないこと。

 適切な距離を保つこと。

 しっかり気を付けて、私、頑張ります。


 淑女はお顔を引き締めるべきとの女学校の教えを、すっかり忘れてしまった私は、ついにっこりしてしまい、社長をご不機嫌にさせてしまいました。

 …上手く行かないものです。


「どうして、似合っていると言わないのさ。サージェ」

「…先に言うからだ」

「可愛いと褒めたら良かったのに」

「それも先に言った」

「僕のせいにするな」

「俺に、何を言えと」

「綺麗だとか花のようだとか、あるだろう。そんな事も言えないようでは、彼女は隣に立ってもらえないよ」


「今日は逃げ出さなかったのね、サージェット」

 本日の交流会のご主人は、お仕事で不在の父君様に代わってイレフ様、そして社長の母君様です。

 まず、母君様にご挨拶申し上げました。とても洗練された美しい女神のようなお姿に、胸がどきどきしてしまいます。

「この子が貴方の?」

 ちらりと向けられた瞳が、印象的でした。

「貴方にはもっと相応しいご令嬢がいるわ、今日、招待してあるのよ。紹介しましょう」

「結構。俺には他の女など必要ない、こいつで十分だ」

 あ、余りにも素っ気なく言い放たれて、さっと身を翻される社長。慌てて後を追いましたが、よろしかったのでしょうか。


「母が、すまない」

「え?」

 聞き直ししようとも、次々と挨拶のお声がかけられ、機会を逃しました。

 広間には、ご身分高き方々ばかりいらしています。そのような方々をお相手に、社長は堂々とされておいででした。

 社長の後方、一歩と半分の距離に控える私を、皆さま、興味深げにご覧になられるのです。けれどもお声をかけられるのは男性の方々だけで、女性のお方は近寄ってまいりません。

 少しは壁として、私、役立っているのでしょうか。


 どうか、社長の恥となる事だけには、なりませんように。


 執事さんでしょうか、良く通るお声で、到着なさった招待客のお名前を呼びあげられております。意識せずにはいられません。

 そして。

 ようやく、そのお名前が響きました。

「遠津国 練よりいらっしゃいました、ニダカ トエルフ リーク様。並びにティルニ様。ご到着にございます」


 軍曹さん。


「演奏が始まる。行くぞ」

 う。

 何と間の悪いことでしょう。

 案内いただいたお席は、当然社長のお隣で、後方にいらっしゃる軍曹さんのお姿を見ることも叶いません。か、悲しい。

 奇しくも、留学なさり腕を磨かれた奏者のヴィオロンとセロは、物悲しい旋律を奏でました。

「今日のお前は、その」


 社長、せっかくの美しい演奏ですので、私ではなくそちらをご覧ください。


 盛大な拍手でもって奏者を称え終えると、大勢の使用人さんが現れました。椅子を壁際にお寄せしたり、飲み物や軽食をお配りしたりと、手際良く働かれます。

 寄木作りの床を埋めるように、大広間のあちこちでご歓談が始まりました。

「シュン殿、そちらの貴人を紹介願いたい」


 恰幅の良いご夫妻にお声をかける社長。男性は、港で見たお方でした。

「おお〈貴〉のウィアヌス様。お久しぶりにございます」

 そうおっしゃる後方に。

「貴き方にご挨拶をと、こちらのお方からも願われていたのです。ご紹介しましょう」


『お初にお目にかかります。ニダカ トエルフ リークと申します』


 丁寧な異国語は、私の耳でも聞き取ることができました。

 我が光護国は島国ですので独自の言語ですが、西国を含め陸続きである列強は、各地方による特色はございますけれども、共通した言語を用います。

 夢でしか聞けなかった、甘いお声。

 白いシャツが映える織の良い上着、同色の光沢のあるタイをお締めになられておりました。左の腕には、白い手袋で包まれた女性の手。

 絡みつくように。

 ざっくりと結われた豊かな黒髪に、大きく胸元の開いたドレスに合わせられた翡翠が光ります。妖艶な魅力を持ったお方。

「妻のティルニですわ」


 つ、ま。


「長く異国の地に居りましたが、この度、こちらに戻ってまいりましたの」

 ねえ、と、甘える響きのお声。

『私の妻です』

 腕に絡められた手、それに軍曹さんの右手を重ねて、とんとんと宥められるお姿。情熱を込められた視線は、常にお互いに向けられておりました。

 思い、思われる、完璧なご夫婦。


 わ、私は何て。


 女性を伴われていたと、以前、社長はおっしゃいました。新婚旅行でこの国を訪れたとも報告くださいました。

 でも。

 この国に帰る為の偽装だと、思っていたのです。

 何て、莫迦な私。


 軍曹さんの鳶色の瞳は、もう、この女性のもの。

 一欠片だって、私には、お向けにならない。


 どうしよう。

 足元がふわふわして、雲の上にいるみたいで、立っていられません。

 どうしよう。

 息が、できな、い。


「あら、あたくしの好きな曲だわ」

 セロの柔らかな音色が響いてまいりました。

『話しは後にして、あなた。あたくし、踊りたいわ』

『そうだね。では失礼』


 軍曹さん。

 一緒に踊る約束をくださいましたね、遠い昔のことなので、もうお忘れになりましたか?

 一度もご一緒できなかったことを、私はどれ程後悔したでしょう。意地を張らずに、あなたの手を取っていたならば。

 軍曹さん。

 どうして。

 その美しいお方の手を握り、身体をぴったり寄せ合って、視線を絡めて踊りになるの。どうして私の目の前で。


 どうして、軍曹さん。




お読みいただき、ありがとうございました。

もしも。

 ドレス姿を見た社長が、誉め言葉を口にしたならば。

 …真っ赤になってお礼を言うアサツキを、社長は強引に連れ去る監禁ルートに進みます。

 …危うく回避。

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