四 理由を分かるべき
大変遅くなりました。
「あの方は軍曹さんに間違いございません」
「今の報告のどこに疑う余地がある。別人だ」
おそろしい程低温のお声が返ってまいりました。むう。
「ぐ、軍曹さんのお母様は遠津国 練のご出身です」
以前伺ったお話を思い出しました。
練国の名家の姫君だったのよ。
軍曹様のおばあ様、マァヤ様は可愛らしくふふっとお笑いになりました。雪の妖精のように綺麗な人だったわ、留学中だった息子の心を一目で射止めてしまう程にね。
いつしか互いに思い合うようになって、反対もあったけれど、二人は結婚したの。まるでお伽話のようね。ニイタカさんが生れて、家族三人でこの国に戻って来た時のことを、今でも夢に見るのよ。
けれども。
ご家族の幸せは長く続かなかったのです。
この国の風土が合わなかったお母様は、一人、練に帰国なさいました。
幼い軍曹さんを置いて。
鍵は、練国。
遠津国 練は、西国と陸続き、です。
身勝手な想像なのでしょうか。
軍部命令に従って西国へと出兵なさった軍曹さん、けれど、あらぬ疑いをかけられ軍部に追われる身となってしまわれた。命からがら遠津国 練へと逃げられた、と。
そして彼の国で、お母様や親族のご助力を頼まれたのだとしたら。
身分も名も、新しくされて帰っていらしたとしたら。
ああ。
あのお方は、やっぱり、軍曹さんです。
ずっと眠っていた小鳥が目覚めます。
こつこつと揺れて、とうとう私の胸で孵った小鳥。恋しいと名の小鳥。
羽を広げて、今こそ、軍曹さんの下に飛んで行きたい。
「お前はあの男を信じるのか…俺よりも」
ぽつんと雨が海面に落ちるような静けさでした。
今まで大変お世話になりました、心を込めて、ご挨拶いたします。すぐにでも軍曹さんの傍へ行くつもりでしたのに、え、痛たた。
な、何故頭を掴まれるのですか、社長。
「ここを出て行くだと、この莫迦。させるか」
ど、どうしてお怒りになられたのでしょう。は、放して。
「〈商〉シュン家に行くだと、莫迦め。身元不明のお前にどんな伝手がある。そう簡単に会える訳がない」
う。
「第一、帝都への入都許可証を持っているのか」
うう。
ごもっともなお言葉にしゅんと項垂れてしまいました。伝手も許可証もございません…と呟いて、社長を見上げることが精一杯です。
「…そんな目で見るな」
大きな手でお顔を覆われてしまいました。
「あいつが別人だと証明してやる。お前の婚約者は死んだのだと」
「ぐ、軍曹さんは生きていらっしゃいます」
「…お前に認めさせる。必ず。だから、大人しく俺の傍にいろ」
証明するとおっしゃった通り、社長は、軍曹さんと面会する為の手配に動き出されました。
「やあ、やっと会えたね。可愛い姫君」
目をぱちぱちしてしまいました。
振動の少ない特別製の馬車から、異国製の車椅子に移られたのは、社長のお兄様でいらっしゃいます。お身体が少し不自由なのだと伺っておりましたが、微塵も感じさせない佇まいです。
髪は白いものが多いのですが、それさえ銀に輝いておりました。
顎先の動きさえも高貴さが滲まれて、低頭深々とお迎えいたしましたが、え、どうして私の手を取られるのでしょう。
「イレフレート ウィアヌスだよ。イレフと呼んでくれると嬉しいな」
柔らかなお声と、印象的な瞳。社長と似ていらっしゃるような、全く違う印象のような。
ちゅ。
可愛い音がしましたが、くくく唇を手にお寄せになられました?
ひゃっ。
「手を離せ、イレフ。殴るぞ」
「挨拶だよ、サージェ。そんなに怒るな。男の嫉妬は醜いよ」
お兄様が話し終える前に、社長は握りしめた拳を振り下ろされてしまいました。ごつん。痛そうな音です。
頭をさするお兄様をお可哀想にと思いましたが、でも、笑っておられたので安心しました。仲がよろしいのですね。
「兄に対する敬意が薄いよ。はいはい、サージェ、君の大事な姫君だものね。車椅子を押してもらうくらいならいいだろう?」
えっと姫君って私のこと、ですか。まさか。
「それともこんな僕より、弟と手を繋いでいたいのかな。姫君」
「イレフは部下よりも難解だ。真に受けるな、アサツキ」
異国製の車椅子は、複雑な気分の私に反して、軽く滑らかに動きました。
綺麗な設えの客室にて、執事さんとお茶の用意をする間に、社長はお兄様と打ち合わせを開始なさいました。
「…予定していた交流会に、招待客を増やして欲しい。頼まれてくれるか」
帝都にある社長のご実家ウィアヌス家で、近々、楽団を招いての交流会が開催されるそうです。社長は、軍曹さんをそこに招くとおっしゃったのです。
そこで、お兄様にご助力を願いました。
「弟の頼みを断る訳ないよ。けれど、君、出席するつもり?あんなにも嫌がっていたのに」
この間の茶会も早々に退散したのに、と聞こえました。
「女が押し寄せていると分かっていて、誰が出席したいものか。鬱陶しい。だが、今回はこいつと出席する」
「彼女のお披露目か。ついに公表する気になったという訳だね」
お話しなさっていたお二人の視線は、唐突に、私へと向けられました。つい身が竦んでしまい、危うく茶器の中身を零してしまうところでした。
「〈武〉のセシカ アサツキと申します。今回は私が、個人的なお願いをしてしまいました。申し訳ございません」
軍曹さんに会いたいと願ったのは私です。
社長はそんな身勝手な私の願いを叶えようと、手配をくださっているのです。私自身がきちんとお願いしなくてはなりません。
「どうかお願いいたします」
「違う」
ちっと舌打ちなさる音。
「お前の事情だけで頼んでいる訳じゃない。お前と交流会に出席すれば、煩わしさから逃げられる。俺にも利益はある。謝る必要はない」
「上手くない言い訳だね、サージェ」
お兄様は深く、はぁ、と息を吐き出されました。
「君が願うなら何でも叶えよう、そう正直に言えばいいのに」
「ともかく、姫君から話を聞きたい」
詳しい事情の説明を求められたお兄様は、しっしっと追い払われるように手を振られて、社長の退室を促されました。
「…こいつに触るな。手も、だ」
苦々しいお顔をなさって、社長はぱたんと扉を閉められました。
その音に、全て打ち明けようと、私は決心しました。椅子を勧めてくださいましたが、厚い絨毯の敷かれた床に指を揃え正座いたしました。
帝都の出身であること、学歴に身分のことを私は隠していたのです。謝罪に頭を下げますと、身上調査したから知っているよごめんね、と逆に謝りのお言葉をいただきました。
「そんな体勢では聞き辛い」
優しい風のようなお声で、手を引いてくださるのです。
「さあ座って、続きを聞かせてくれるかな。君の婚約記録はなかったけれど」
それは。
軍曹さんとの婚約は正式なものでしたが、ご親族に私は嫌われてしまい、抹消されました。
「何一つ持ち出すことも許されず、家を追い出されたのかい。君は」
「でも、思い出はちゃんと残っています」
星空の下の、軍曹さんのお姿もお声も告白も。
誰にも奪うことはできません。
生まれ育った帝都を離れ、自分の意志で南区へと参りましたが、私の心はいつだって軍曹さんのいらっしゃる西国に馳せてしまうのです。
軍曹さんは私のそら。生きる場所なのです。
「…その婚約者が帰ってきたかも知れない、と」
「はい」
「君って人は、何て無謀で一途な姫君だ。尊敬に値するね」
「打ち明けてくれたお礼だよ」
少し悲しい光を瞳に浮かべて、お兄様は、僕の秘密も教えようとおっしゃいました。
僕も、君の婚約者同様、西国に出兵した。
戦いは悲惨極まり、僕は受傷し帰国した。生き延びたのは僕一人で、所属した部隊は全滅したと報告され、髪の色を変えるほどの衝撃を受けた。
「告白する。僕もあの地で死ぬべきだった」
肘置きをぎゅっと握りしめられる指は細かく震えておりました。
無礼だと思いましたが、その手にそっと、手を重ねてしまいました。涙が溢れそうになり、瞼の奥がつんと痛みます。
「生きて、いて、くださって、ありがとう…お心を分けてくださってありがとうございます」
「…ありがとう、姫君」
夜のような綺麗な瞳が、わずかに潤んでおられました。
「お互い泣いてしまったことは、内緒だよ」
悪戯っぽく囁かれるので、はい、内緒になさってくださいませ。
「僕と君は同士だ。だから僕のことはイレフと呼ぶこと。君のことは」
しんみりしてしまった空気を払うかのようにおっしゃいますので、私もにっこりして、姫君はどうかおやめくださいと主張いたしました。
「じゃあ、ウサギかな。似ているよ」
南区にいた頃は一つにただ括っていた髪を、社長がくださった服に合わせて、色々工夫するようになりました。今日は、三つ編みにして二つの耳の上でくるんと纏めていたのです。
ウサギさんの愛称は、懐かしい女学校時代を思い出しました。
「僕も君に協力しよう、ウサギさん」
社長がお部屋に戻られる前に、イレフ様は、とても真剣におっしゃいました。
戦争は人を変える、と。
「辛い過去と決別し別人になりたいと、望むこともあるだろう。もしも君の婚約者が生きていて、そう願っていたら、君はどうする?」
「早急にドレスを誂えなくてはいけないね」
イレフ様の一言から始まりました。
「靴も揃えたいし、小物もいるよね。どんな色にしようか、好きな形はあるかい?」
「淡い薔薇色はどうだ、きっと似合…いや、何でもない」
社長も参加なさり、え?
「わ、私の、ですか?」
「そうだよ。ああ、費用はサージェが出してくれるからね」
ひ。
「お、お給金から差し引いてくださいっ」
当然誂えるだけのお金も期間もございませんので、既製品でお願いします。
「お前は俺の相手だ。俺が支払う。好きに選べ」
頭がくらくらいたしました。
殿方はご存じないのでしょうが、こういった催し事には明確な規則がございます。淑女のドレスの色や種類にさえ。
お身分高き方々と同じ色とならないよう、下々は配慮いたします。宝石やレースも当然決まりがあり、裾丈さえ慎重に考えなくてはなりません。
それに。
「わ、私はお相伴者であって、社長のお相手ではございません」
お相手とは、正式なご夫婦や婚約者の間柄を指し示します。
ご同胞やご親族、または昨今の異国文化を取り入れて女性の部下がご同伴の場合には、お相伴者と言います。お相伴者はさらに一歩身を引いた身なりであるべきです。
分不相応なことは、絶対に、いけません。
むうっと頬を膨らませると、ひゃ、何故つまむのですか。横に引っ張らないでください、の、伸びてしまいますっ。
苦しいのは私ですのに、どうしてだか社長もお苦しそうに吐き出されました。
「相伴…お前は、俺の」
衣服の件は、イレフ様預かりとなりました。
またもお邸中の使用人さんが打ち揃って、イレフ様のお見送りをいたします。
「サージェ」
別れ際に、ご兄弟は仲睦まじいご様子で、お声を潜められてお話しなさいました。
「君はもう分かるべきだよ」
彼女を自分好みに飾り立てたい理由を。
攫ってまでも傍に置きたい理由を。
君は、彼女を。
「自覚しないことには、勝ち目はないよ。サージェ」
何度書き直しても、社長ルートに行きついてしまいます。
軍曹さんルートに入るには困難な道のり。