三 自覚はまだ
一瞬、ぽかんとしてしまいました。
「お前が俺の家に来るなら」
って、え、とてもおかしな条件ではないでしょうか。私を見下ろされる社長の瞳は真剣そのもので、ええ、即座にお答えいたしました。
「はい」
本当はもっと慎重に考えるべきなのでしょう。けれども。
私は知りたいのです。ニダカ様と呼ばれたあのお方のことを。
ニダカ トエルフ リーク様が、真実、〈華〉のニイタカ メネリック様なのでしょうか。軍曹さんなのでしょうか。
知りたい、知りたいのです。
軍曹さんのことを教えていただけるのなら、どんな条件だって私は飲むでしょう。悪に属する方との契約だって構いません。
だって。
軍曹さんと私は、未だ、月と地上ほどに遠く離れているのです。
少しでも、あなたに近づきたいのです。軍曹さん。
だから、社長のおっしゃる通りにいたします。
「このまま邸に戻る」
とは、え、ちょっとお待ちください。
住まいを移す準備とか、せめて、皆様にご挨拶とかを願う私は普通だと思います。必要ないと無情なことをおっしゃる社長に何度もお願いし、どうにか長屋に寄っていただきました。
「あっアサツキ」
長屋の前では幾人もの子どもたちが遊んでおられましたが、どうなさったのでしょう、その中に一人泣いていらっしゃる子が。
理由を問うと、リボンが風に攫われて、屋根の雨樋に引っかかってしまったとおっしゃる。大丈夫、泣かないで。
ぽいっと靴を脱ぎました。長屋の横には木が植えられておりますので、登って、そこから長屋の屋根に飛び移ればいいだけです。ほら。
リボンを手にした私は、下の草地にぴょんと飛び下りました。
「はい、どうぞ」
「あっありがと」
「すっげぇアサツキ」
わあわあと囃し立てる子どもたち、つられて笑顔をお返しすると、どこからか感じる冷気。れ、冷気?
ひっ、しゃ社長。
「屋根から飛び下りるだと、この莫迦がっ」
…たいそう叱られました。
高いところは平気ですのに。
子どもたちの前で叱られて、襟首を引っ張られたままおタキさんの前に立たされました。うう、子どもではありませんのに。
「あなた様のお家に連れていく、ねぇ」
「ああ、直ぐに仕度させろ」
「ようやく自覚なさったようで、何よりだよ」
「煩いぞ、おタキ」
きししと嗤われるおタキさん。
社長は煩わしそうに、手早く準備しろと指示されて、まるで逃げ出されるように長屋の外に出ていかれました。
自覚って何でしょう?
首を傾げながらも、包丁だとか小物だとかを籐の鞄に押し込めました。
「本来ならばきちんと掃除するべきですのに、本当に申し訳ございません」
「莫迦だね、そんな暇、あのお方がくれると思うのかい。それよりあんたに忠告だ、心して聞きな」
「はい」
「相手が違ったって、目をつぶったら男はどれも一緒さ。流されちまいな」
「はい?」
「分かったね?」
いえ、全く分かりません…。
慌ただしくもお別れを済ませると、長屋の外では、子ども特有の高い歓声が起こっておりました。
まあ。
子どもたちが社長を取り囲んで、その長い足に纏わりついております。涙ぐみながらぽかぽかと叩いて、じゃれ合って、ふふ、いつの間に仲良しさんになられたのでしょう。
「お前なんか、お前なんかっ」
「人攫いめっ」
何を話されていらっしゃるのかしら、とても微笑ましい光景です。
くすくすと笑う私に気付かれた社長は、男の子たちをぽいぽいと引き剥がされました。そんな、蹴散らかされなくても。
「行くぞ」
「アサツキ、行かないで。アサツキ」
わんわんと泣きじゃくってお別れを惜しんでくださる子も、馬車が動き出しても追いかけてくださる子もおり、私の胸を熱くしました。
「お、お仕事が終わったら、も、戻ってまいります、ね」
子どもたちの姿が見えなくなるまで手を振り続けました。
「…お前と結婚する」
ぽつりと掠れ気味に漏らされたのは、随分と馬車が進んでからでした。
「はい?」
「大きくなったらお前と結婚すると、あいつら、俺の半分も背丈がないくせして言った。連れて行くなと本気で殴りやがって」
えっと何をおっしゃっているのかしら、お声が小さくて聞こえません。
「お前を好きだ、と」
じっと私を見つめる社長のお声は、結局、耳に届かなかったのです。
「好きとは何だ…」
綺麗な白壁に囲まれた豪邸が馬車の窓から見えて、ええ、蒼ざめました。ま、まさか、と思う私の意とは裏腹に、馬車は門を抜け、大きな扉のある玄関へと停止したのです。
う。
糊の効いたお仕着せが眩しいです。綺麗に整列なさった使用人さんたちは、角度を揃えて頭を下げられました。
「お帰りなさいませ、サージェット様」
サ、サージェット様?
「サージェット様。ついに、ついにお連れになったのですね」
どっと押し寄せて社長と私を取り囲んだ方々は、余りにも大勢でいらして、威風堂々となさっております。どう見ても普通の町民にお見えにならず、私の背に冷や汗がたらりと流れました。
「母君主催の茶会を抜け出した甲斐がございましたな。アサツキ殿を手にしたとは、何と喜ばしい」
「意中の女性を掻っ攫う行動力、いや、見直しましたぞ。サージェット様」
私の名前をご存じなのですか?
そ、それに皆さま涙ぐんでいらっしゃいませんか?
「おい早く茶の用意だ。菓子もありったけ持って来い」
「いやいやまずは逃げられないよう、離れに押し込めて…いやその」
「煩い、黙れ」
ご自身よりうんと年上でいらっしゃるでしょう方々を、一喝なさる社長。え。
「気にするな、アサツキ。こいつら、俺の部下は常に鬱陶しい」
えっ、ぶ、部下?
「こいつを連れてきたのは、母を欺くためだ。変な勘違いするな」
「アサツキ殿」
社長の眼光にもめげずに、部下の方々はむしろにやにやなさって、私に軽く会釈をなさいました。
「このように、我らが主〈貴〉のサージェット ウィアヌス様は女性に口下手です」
「そう、本心ではないのです。女心に敏いとも言えません、が、どうか末永いお付き合いを」
「部下一同、揃って願い申す」
は?
社長は、本当は…〈貴〉?
こ、腰が抜けました。
「あの部屋が気に入らないのか、なら、別の部屋にする」
「ま、まさか、そんな」
趣向を凝らされたお庭、その一角にある離れを私の部屋にと宛がってくださいました。丸い窓から見える景色は絵のように素敵で、不満など欠片もございません。
「身分のことか。お前だって隠していただろう、同罪だ」
我が光護国には身分制度がございます。
〈貴〉は光帝様をお支えになられる特別な身分であり、一介の〈武〉の私など、近づくことさえ許されないのです。
な、なのにこんなことって。
「か、帰りたい…」
「無理だな。部下はお前を気に入っている。逃げられん」
弱音を吐く暇があるならば、と、社長がお寄こしになられたのは書類の束。次々と決裁なさるそれらを、私は判を押し、振り分けて部下さんにお渡しするお仕事をいただきました。
南区河川氾濫対策案と銘打たれたその用紙には、計画や予算等の細かな文字が並んでおります。
社長が大変有能なことは存じておりましたが、こうして、〈貴〉のお仕事もこなされるお姿を目の当たりにすると目眩がします。
やっぱり社長ってすごいです。
「行政など面白くも無い。社長業に比べるとつまらん仕事だ」
「そうでしょうか」
不機嫌そうな社長を見つめ、にっこりしました。
「版元も行政も、尊いお仕事です。理念は同じ、人のため、でしょう。南区に住まわれる方々は幸せですね、社長が治めておいでですもの」
えっと、絶句なさってしまわれた?
何故。
何かおかしなことを言ったでしょうか?
「アサツキ殿がこうして補佐に入り、効率はぐんと上がりましたぞ」
「そう。サージェット様の機嫌もどれほど向上したか」
「所作も完璧。淹れる茶も美味い。文句なしの奥さ、いえその」
奥さ?
「できれば」
部下さんが口を揃えておっしゃいます。
「サージェット様ともっと親密になられれば、嬉しい限り」
「お前らは二度と口を開くな」
「この期に及んでも、サージェット様はまだご自覚なさってないと。はぁ…」
ところで。
不思議に思われませんか、平凡以下の私を、こうして社長のお傍に置いていただける理由を。
それは、ご実家ウィアヌス家の後継問題にあるそうです。社長には腹違いの兄君様がいらっしゃるのですが、社長の実の母君は後継を反対されているのだとか。
「帰って結婚しろとしつこい」
うんざりされたご様子でおっしゃって、ああ、私の役割は社長のご自由をお守りする防波堤なのですね。理解しました。
でも。
嘘はいけません。部下の方々も、ほら、誤解なさっておいでです。
「…嘘に誤解、か」
「その服は何だ、着替えて来い」
ある日のことです。
憮然となさった社長のご様子に、はてと首を傾げました。いつも通り、いただいた少年服ですけれどいけませんか?
「昨日、服を届けただろう」
「はい、たくさん。でも全て女性物でした。大変高価そうでしたし」
あれらは、え、私のためのものなのですか?
で、でも社長はお嫌いでしょうに。
「あの男の情報を聞きたいなら、今すぐ、服を着替えて来い。この莫迦」
ぴょんと飛び上がりましたが、ど、どうしてご機嫌を悪くさせたのでしょう?
西国より遥か西。
列強と呼ばれる世界の中心たる六国が支配する地。
その六国の最も北に位置する遠津国 練は、雪と氷に閉ざされた国。ニダカ トエルフ リークはこの国の出身である。
トエルフ。
これを名乗れる者は、彼の国において、王家の次に古き血を繋ぐ家系であることを示している。亜麻色の髪はそれを実証する。
名の最後ではなく、中間にあることで、トエルフ家の正嫡ではないと伺える。だが十二分な財産を有し、世界中を渡り歩いているようだ。
甘い容姿と豊富な話題を生かし、各国の重要人物と接触している。
趣味と実益を兼ねて、国同士を仲介し、更に財産を増やしているらしい。
今回、我が国に来た目的は、西国で出会った妻との新婚旅行だそうだ。彼の新妻ティルニは光護国出身であり、里帰りの意味合いもあるのだろう。
現在は〈商〉シュン家に滞在している。
「…以上だ」
つまり。
「ニダカ トエルフ リークはお前の婚約者ではない。別人だ」
まだまだ社長のターンです。
お読みいただき、ありがとうございました。