二 望みは叶い
おまけの話を加筆修正しました。
お休み日和でした。
抜けるような青い空、海は群青、風は緑。灰と白を混ぜた雲。
お洗濯ものが光を乗せて風に翻るので、眩しくて、寝不足の瞼にそっと手をかざしました。神様、胸の鼓動が高まるのは、良いことが起こる予感でしょうか。
「何でこんなに早起きしなきゃなんないのさ、あんた、休みだろう?」
私がお世話になっておりますこの長屋では、帝都よりもゆっくり朝が始まります。
長年伯母様に躾いただいたので、水汲みやお洗濯や食事の支度に取りかからなくてはと、私、どうしても早起きになってしまうのです。
お部屋に間借りさせていただいているのに、起こしてごめんなさい、おタキさん。朝ご飯が出来ました。
髪は白いものが多く混じっておりますが、歯も背骨もしゃんとなさっているおタキさんは、お味噌汁を啜られながら、やれやれだとおっしゃいました。
「あんたの待ち人だとは限んないんだから、期待すんじゃないよ。いいね」
励まし、嬉しく思います。おタキさん。
帝都で居場所を失くした私は、大〈商〉カン家の力をお便りして、この南区で働き口を紹介していただきました。
それがウィア版元です。
けれど社長は女性嫌いでいらして、最初は猛烈に断られました。結局、ため息を吐かれながらもお雇いくださいましたが、色々な条件付きでした。男装もその一つです。
住まいも用意して下さり、本当は、とても優しいお方です。大恩ある社長が頼まれるなら、何でもして差し上げたい。
ですが。
「アサツキ、明日」
昨日、仕事の終わりに私を呼び止められた社長。綺麗に撫でつけられた黒髪に、くしゃりと指をかき入れられました。
「…どうしてもだめなのか」
「あの、私」
私に助けを求められる位です、とてもお困りなのでしょう。正式なお茶会ですと女性同伴ですから。ご実家に絡んだ、大切なお仕事なのかも知れません。
じっと漆黒の瞳を揺らめかされて見つめられると、うう、困りました。すると、ふいと視線を逸らされたのです。
「引き止めて悪かった。帰っていい」
も、申し訳ございません。
昨日の社長はいつになく切なげな声音で、一晩経っても、耳に残っておりました。
ですが、泡立つ白い波しぶきを受ける船体に、待ち望んでいた桟橋が架けられた瞬間、どこかに吹き飛んでしまいました。
は、薄情な私です。
西国発のオルト号には、光護国に商談にいらした異国の方々で乗客の大半を占めておりました。異国のお客人をもてなそうと大店の方々が港にお見えになっております。
箱形の馬車や荷車が溢れる中、私と同じように待ち遠しいお顔をされた方々。ようやく始まった下船に歓声が沸き上がりました。
軍曹さん。
どこにいらっしゃるの?
一等室の乗客らしい、立派な身なりの紳士様が列をなして港へと降り立たれます。時には、最先端のドレスを纏われた貴婦人を伴われており、歓迎の声を上げて取り囲むのでした。
神様、小さく呟きました。
どうか神様、あのお方を返してください。
この国に、どうか、お返しください。
亜麻色の髪をした、鳶色の瞳を揺らめかせて、甘いお声で囁くあの方を。
この世で最も素晴らしい魔法使いさんを。
私にできることは何でもいたします、どんな犠牲だって厭いません。だから、どうか。神様。
目を凝らして探しました。
この方は、違います。あの方も。
違う、違う、違う。軍曹さんではございません。
こんなにも乗客は大勢いらっしゃるのに、ああ、どうして亜麻色の髪をしたあの方はお帰りにならないのでしょう。
お願い、お願い、神様。
悲しみが押し寄せて、胸が詰まり、視界がぼやけてしまった時でした。
右肩をぐっと後方に引かれたのです。何事でしょうか、振り向くと、正式な黒い社交服をぴたりと着こなした紳士が立っておられました。
背がお高くて、夜より暗い漆黒の瞳。
「社長?」
綺麗に撫でつけられていたでしょう黒髪は、一筋乱れて、額にはらりとかかっておいででした。息だって、少しあがっておられるみたい。
「婚約者はいたのか、アサツキ」
何故、社長がここにいらっしゃるのでしょう。
それに、私が軍曹さんを探しているとご存じなのでしょうか。
「どうして」
「どいつだ、言え」
その瞬間でした。
華やかな列の中、社長と同じくらい背の高いお方が、私の前を通られました。
柔らかそうな革の外套と同色の手袋は異国情緒たっぷりの旅装、そして、煙突型の黒いお帽子。ふんわりと風に揺れるのは。
亜麻色。
ああ、広い肩と綺麗に伸ばされた背筋を、どれ程夢に見たでしょう。あの通った鼻筋、その下にある薄めの唇で紡がれる言葉は、とても甘い筈です。
ぐんそう、さん。
軍曹さん。
どうしよう、どうしよう、胸が、喉が熱いです。軍曹さんと呼びかけたいのに、たった一声すら出て参りません。ああ、目の前を通り過ぎてしまう。
小さな笑みを浮かべたお姿、一目だって離したくないのに、丸い光が幾つも浮かんで軍曹さんを滲ませてしまうのです。
涙よ、流れないで。
軍曹さん。
信じておりました、きっと帰ってきてくださると。
私。
ずっと、ずっと待っていたのです。
どうか、私に気付いてください。
もしも社長が私の肩に手を回してくださらなければ、地面に座り込んでしまったでしょう。
「アサツキ」
低い社長のお声が軍曹さんのお耳にまで届いたのでしょうか、はっと振り向かれました。こちらに注がれた瞳はやっぱり鳶色で、一瞬、大きく見開かれました。
もしかして、私に、気付いてくださった、の?
右目の下、思い出の中の軍曹さんには煽情的なほくろがございました。けれども、代わりに無残な傷が頬に残されていたのです。
そして。
まるでその傷を隠されるかのように、さっと瞳を逸らされてしまいました。
え…?
目が合った、と、思ったのに…。
息を詰める私の前を、軍曹さんは、ゆっくり歩を進めます。こちらを見ることも、立ち止まりもせずに、前を向いたまま。
そして、大店のご主人らしき人物の前で会釈をなさる。
でも、はっきり聞こえたのです。
「ようこそお越しくださいました、ニダカ様」
「…あの男、か」
私の視線を追って、社長も同じお方を目にしておりました。
小さく頷くと、ぎりっと音がする程力を込められて、社長は歯軋りなさいました。それに、私の肩にかけられた手もぎゅっと握り絞められております。
あいつか。
何度も、間違いではないのかとお聞きになられます。ですが、軍曹さんを見間違いする筈ございません。きっぱりと返事をしました。
あのお方が、軍曹さんです。
メネリック。
そう呟かれた社長のお声は苦々し気で、え、軍曹さんをご存じですか。
「帰るぞ」
「えっ、で、でも私っ」
ようやく軍曹さんがお戻りになったのです。駆け寄りたい。お帰りなさいと言いたいです。
なのに、社長は、私の肩に腕を回されてぐいぐいと引っ張るのです。は、放してください。必死で抵抗しました。
「しゃ、社長。放して。軍曹さんが」
抵抗を意にも介さず社長は私を引きずり、殆ど空を舞う勢いで、賑やかな港から離れました。視界の端で、軍曹さんは箱形馬車へと乗り込まれ、見る見る間に小さくなって行くのです。ああ、もう見えません。
ぐ、軍曹さん。
そうして社長が乗っていらしたのでしょう小型で上等な馬車に、私は、まるで荷物のようにして積み込まれてしまいました。
席は一人分ですのに、どうして横に並んで座るのですか。ぎゅうぎゅうです。
「どっどうして、しゃ」
「ふざけるな、あいつがお前の婚約者だと?」
低い怒号が車内にびりびりと響いたから、黙り込んだ訳ではございません。続けられたお言葉が、思いもよらないものだったからです。
「お前は見えなかったのか、あの男は女連れだった」
「腕にぴったり張り付けていただろう」
じょ、女性ですか?
翡翠色のドレスがちらりと目に映った気もしますが、み、見えておりませんでした。
正直に白状しましたので、肩に回された腕を外してください。社長。こんなにもお顔を近づけられるのはどうかと思います。
「お前の婚約者の筈ない。人違いだ」
「ま、間違えたりしません。軍曹さんです」
じたばたした抵抗を押し込めるように、社長はぎゅっと私を拘束なさる。ほ、ほらご気分が悪くなられたのでしょう?
「では、婚約者以外の女に手を出すような男がいいのか。そんな男をお前はずっと待っていたのか…っ」
「ましてあいつはお前を無視した。目を背けた」
「そ、それは」
「そんな男のために、俺は、お前を手放すと…くそっ」
ぽろり。
あっ。
涙が一粒、つっと滑り落ちてしまいました。
慌てて両手で隠しましたが、いけないと思えば思う程、涙が沸き上がり、抑えつけた指の隙間から滑り落ちてしまうのです。
どうしよう、泣いてはいけないのに。
お雇いいただく時、決して泣かないと約束しましたのに。
ひっく。
「ご、ごめんなさい」
「…謝るな、アサツキ。あんな男、泣く程思う価値はない。忘れろ」
誤解、です。
私は。
嬉しい、の、です。
嬉しいのです。
軍曹さんが生きていた。生きていてくださった。帰ってこられた。
軍曹さんが息をしているのです、動いて、歩いて、私の目の前で生きていらっしゃるのです。それが、 とてもとても嬉しくて、涙を止められないのです。
神様、ああ、私の望みは叶いました。
これ以上何も望みません。ありがとうございます。
「お前は…莫迦だ。莫迦だ、アサツキ」
私の髪を震わせる優しい社長のお声は、少し掠れて、切ない響きに聞こえました。
神様。
この日の出来事が、後に自分の首を絞めることになろうとは思いもしませんでした。
愚かな私。
もしも、この日に戻れるとしたならば、そうしたら私は。
振動すら心地良く感じる馬車の中で、小石か何かを弾いた音がぴしりと聞こえました。それでようやく大切なことを思い出したのです。
ああっ。
「しゃ、社長。まさかお茶会を抜け出され、た?」
黒も鮮やかな織の良い社交服…はっ。
どどどうして私っ、社長とこんなにも密着しているのでしょうか。ははは恥ずかしい。
「それがどうした。暴れるな、まだこうしていろ」
女性嫌いの社長の為を思ってですのに、ど、どうして更にくっつくのですか。く、苦しいです。
「港で急なお仕事だったのでしょう?」
「用は、もう済んだ」
みっともない顔を見られたくないのです、という思いに基づいた、一人で帰りますとの至極まっとうな意見はあっけなく却下されました。
「泣いているお前を一人にしない」
で、ですから一人になって存分に泣きたいのです。
ですが社長は、私の心を読んだかのように囁かれました。
「以前の条件を撤回する。アサツキ、お前が泣くのは俺の前だけにしろ」
あんな男のために、一人、泣かせるか。
漆黒の瞳の奥に立ち上るのは、炎、でしょうか。
「…あの男、ニダカと呼ばれた奴の事を、お前は知りたいか」
え?
「あの男が本当にお前の婚約者なのか、調べてやろう。ただし」
「た、ただし?」
「お前が俺の家に来るなら」
お読みいただき、ありがとうございました。