一 もしかして、
活動報告で載せたおまけの話 IFです。
長くなりそうでしたので、加筆修正し、連載にしました。
前作、三十二話の途中から分岐したお話になります。
ごろん。
薄いお布団に寝返りした理由は、夢を見たからです。
青き空の下に広がる甍の波。意匠を凝らした邸宅と剪定されたお庭。咲き乱れるお花の向こうには、異国情緒溢れた建物。どんな小道もレンガで覆われて、小気味の良い音を立てて滑る馬車。
懐かしい光景。
私が生まれ、育った都。
麗しき緑の帝都。
海の底に沈んだような美しい都、そこに、私は様々なものを置いてまいりました。慈しみくださった家族に、大切な友。
身分さえ。
そして、星の如き魔法使いさんの思い出も。
「セシカさん」
軍曹さん。
甘いお声で、そう、私の名をお呼びくださった。
お会いしたい。
胸に迫る切なさは、こうしてお布団を被って耐えるしかないのです。
帝都の南に位置するここ南区は、異国の玄関口となる大きな港を有しており、一般には商人の町と呼ばれております。
目抜き通りには、大店から小さな小売店まで様々な職種のお店が連なり、大変賑わいます。帝都のように舗装されておりませんから、ひっきりなしに往来する荷車や人々によって、道路は少し凹凸がございますけれど。
通りから奥に入った場所に、私がお勤めするウィア版元がございます。
ウィア社長以下、ソロさん、スチェリさん、マルタさんだけの小さな版元ですが社長の信念のもと発行される時事新聞は、好評を博しております。
えっと、言い過ぎでした。
かなり過激な意見を掲載することもございますので売り上げは、その、そこそこです…。で、でも、私は社長の社説をお読みする度に感動します。
素晴らしいのです。
ただ、この人数ですので、ちょっとお忙し過ぎでしょう。だ、だからこそ、雑用係で私をお雇いくださったのですけれど。
「社長、これ、ちょっと目を通してください」
「おい、紙の補充はどこにある」
「それより印刷機の調子が」
ばたばたと社内を走り抜けられる皆さまのお姿は常のものですが、重要な情報が記載されているのであろう書類は、机から床へと舞い散りました。
足跡がべったり、なんて事になる前に、救い上げることが私のお仕事です。
救出した紙片たちの角を、とんとんとん、揃えておりますと、その間にも目の前にひらりと舞う一枚の用紙。
「アサツキ、これも片づけて」
「はい、スチェリさん」
「あと、腹減った。何か食いたい」
「あ、俺も」
「僕も」
次々とお声があがりましたので、そうですね、確かお餅が残っていた筈です。お砂糖とお醤油で味付けて海苔を巻いてお出ししましょうか。
共同のお台所を使わせていただいているので、大家さんの分もご用意をと算段して。
「はい。では、少し」
お待ちくださいませ。
そうお返事するつもりでした。
ですが、言葉は途切れてしまいました。
今しがた受け取った一枚の用紙、そこには隙間なくぎっしりと文字が並んでおりました。一番上に書かれた文が、ぽつりと口から零れてしまいます。
「…西国発、オルト号乗船名簿」
「はあ?アサツキ、お前、異国語までも読めるのかよ」
スチェリさんのお声には、明らかに不審そうな響きがこもっておりました。
文字どころか算術まで身に着けている女性など、この南区では皆無なのでしょう。以前にも疑わしいとスチェリさんから睨まれたこともございましたし、まして、異国語もとなれば私の正体を怪しんでも仕方ありません。
けれど、田舎で勉強しましたと、いつもの言い訳は出てきませんでした。
だって。
お名前が。
異国語で綴られた文字に、私はへなへなと床にうずくまってしまいました。
「アサツキっ、どうした?」
怪しんでおられる筈なのに、それでも、スチェリさんはお気遣いくださいます。ありがたくて、大丈夫ですと返事をしようとしました。
ですが、その前に右腕が引っ張られてしまいました。どなたか立ち上がらせてくださったのでしょう、痛っ、少しお力が強過ぎです。
反動で、手をお貸しくださった方の胸に、私の身体が飛び込む羽目になりました。
ぼふん。
「大丈夫か、アサツキ」
艶のある低いお声。
見上げれば、間近に社長のお顔がございました。背がお高くていらっしゃるので、夜のような漆黒の瞳が私を覗き込まれております。
「だ、大丈夫です。申し訳ございません」
そっと身を引きましたとも。
だって社長は、それはもう大変な女性嫌いなのです。女性が近寄ると凍り付きそうな威力でもって睨まれて、話しかけようものなら一言もお話しにならないか、地を這うようなお声で煩いと叱られます。
こうして身体同士が触れ合おうものなら、ええ、どんなにご不興を買うでしょう。
ほら、小さく舌打ちなさいました。
「体調でも悪いのか」
でも、ここ最近は不思議なほどお優しいのです。
どうしてでしょう?
かちりと瞬く音が聞こえそうでした。鋭く光る視線の先には、私が手にした乗船名簿があり、つい背後に隠してしまいました。ま、まさか取り上げたりなさらないでしょうが、ね、念のために。
「アサツキ、それを寄こせ」
「お、お茶をご用意して参ります」
跳ねるようにして、お台所へと逃げ出しました。
私には隠しごとがございます。
〈武〉のセシカ アサツキ。
私の席までご用意くださり一緒に働く仲間として認めてくださった皆さまにも、身を寄せお世話になっているおタキさんにさえ。
本当は帝都の出身で、身分持ちであることを言い出せません。
強情な性格ゆえに父様に勘当されたなんて。
婚約者の親族から嫌われて、身一つで家を追い出されたなんて。
言えない。恥ずかし過ぎて。
きっと呆れられることでしょう、私、本当に意気地なしです。まして、戦地に赴き生死の分からぬ婚約者をずっと想っているだなんて。
もっと恥ずかしい。
信じてくださいますか、社長の言いつけとはいえ、こんな新聞配達少年の姿をしておりますのに。
だから。
乗船名簿に載っていたお名前の事も言えませんでした。
金網の上でぷっくりと膨らむ白いお餅。
しゅんしゅんと沸くお湯。
お皿や湯呑を用意して、それから、そっと肩下げ鞄の中から一枚の用紙を取り出しました。先ほどと変わりなく、お名前が沢山並んでおります。
ニダカ トエルフ リーク。
異国語で綴られた、異国のお名前。
ああ、どうしよう。似ております。
もしかして、もしかして、軍曹さん、なのでしょうか?
浮かび上がる数々の思い出に、私の胸はどきどきと脈打ちました。
軍曹さんは〈華〉のニイタカ メネリック、とおっしゃいます。
お名前すら、きらきらした星のように感じて、恥ずかしくて呼ぶことさえできませんでした。呼んでくださいと強請られましたが、私、軍曹さんとしか言えなくて。
亜麻色の髪に、鳶色の瞳。甘いお声。煽情的な右目の下のほくろ。
父様に、婚約者だと決められた時には、どんなに反発したでしょう。
私の大好きな友、ミレイ様が心お寄せする方だったので、絶対好きにならないと意固地に思っておりました。
莫迦でした。
素晴らしい魔法使いさんと感じるほど、もう好きになってしまっていたのに。
「セシカさん、あなたは私のそら。そして、あなたのそらは私」
そうおっしゃってくださった軍曹さん。
「誓います。必ずあなたの元へ帰ると」
綺麗な敬礼を残して、西国へ出兵なさってしまったのです。
ごめんなさい、素直になれなくて。
どうか無事にお帰りになって、そうして、私の心を伝えさせてください。私、あなたの家族になりたいのです。
軍部から死亡通知書が届きましたが、まさか、そんな。きっと、きっと生きておいでです。いつかこの光護国にお帰りになられます。
そう信じてまいりました。
ああ。
ニダカ トエルフ リーク様、あなたは軍曹さんですか?
情報漏洩などと不名誉な嫌疑をかけられました、だから、お名前を変えていらっしゃるのでしょう?
だから将校さん専用の軍用船ではなく、オルト号と名の商船でお帰りになられるのでしょう?
軍曹さん。軍曹さん。軍曹さん。
好きです。
ぎゅっと、でも、くしゃくしゃにならないよう細心で持って紙片を抱きしめました。お願い神様と呟く私には、背後に社長がいらしたなんて気が付きませんでした。全然。
「アサツキ」
ひぃっ。
「ししし社長。たっ、ただ今お茶を」
「いや、茶はいらん」
え、では何故、台所にいらしたのでしょう。
首を傾げますと、常に威厳に満ちた視線をあちこちに彷徨わせました。社長?
「お前に頼みがある…どうしても外せん茶会がある。同席してくれ」
「お茶会、ですか?」
「ああ、俺の実家、いや。何でもない」
社長のご実家ですか?
確か没落なさって、だから、帝都からこの南区に移られたのではございませんでしたか?
「お茶会、ですと訪問着か晴着が必要です。申し訳ございません、も、持ち合わせておりません」
帝都から持参した服は全て質に入れました。
お家賃は必要ないとおっしゃいましたが、お住まいを提供して下さるおタキさんに、少しでもご厄介料としてお支払いしたかったからです。
今はもう、社長にいただいた男の子の服しか手元にございません。
「社長のお役に立てず、申し訳」
「服など。そんなもの、俺が用意する」
強めに言葉を重ねられてしまいました。でも。
「他に必要な物があれば、言え。全て揃える」
靴や小間物、それにお迎えの馬車も手配しようとおっしゃられては、こ、断れません。
「二日後、お前は休みだったな」
二日後。その日は。
「あ、あの、用事があって。その、む、無理です」
社長の眉間に深い皺が刻まれました。
明後日は…だめなのです。
件の船、オルト号は二日後に、西国から到着すると紙片の上部に書かれておりました。例え人違いだったとしても、その可能性は高いですが、港に行き確かめたいのです。
「用事とは何だ、アサツキ」
ちらり。
つい、机に乗せておいた書類に目を向けてしまいました。その仕草を社長は見過ごしになられませんでした、さっと長い腕でそれを取り上げられる。あ。
「お、お返しください」
「乗船名簿。明後日…西国」
取り返そうと必死でぴょんぴょん跳ねましたが、社長は掠れるお声で切れ切れにおっしゃって、うう、頭を押さえないでくださいっ。
「…まさか帰って来た、のか」
お読みいただき、ありがとうございました。