16 真夏の夜の夢
今度はほんのりR15です
目の前で跪き、キスをした手の甲から顔を上げて若干不安そうに見上げるルキアを、キトカ――アナスタシアは見下ろしたまま溜息を吐く。
そんな反応が返ってくるとは思わず、よもや名前が間違っていたのか、それともたまたま機嫌が悪かったのか、とにかく良い事態ではなさそうで恐々とした。
アナスタシアはルキアの手を離すと、その指を襟元のリボンタイにかけて、しゅるりと解いた。そしてリボンをルキアの前にハラリと落とすと、戸惑うルキアを放置して、ぷちぷちとシャツのボタンを外していく。
「え、ちょ、え?」
状況についていけないルキアは困惑して、床に膝をついたままなんとかアナスタシアの行動を止めようと模索したが、どう考えても今のアナスタシアを見るべきではない。俯いてギュッと目を瞑る。
部屋に聞こえる衣擦れの音が、余計にルキアの羞恥を掻き立てて、きっと顔も耳も真っ赤になっている。
くすっと笑う声が聞こえて、ぱさりとシャツを頭からかけられた。
(うわー! なんかいい匂いするぅぅぅ! じゃなくて!)
頭からシャツをかけられた状態のまま身動き一つとれず、相変わらずアナスタシアの方からは衣擦れの音が聞こえ、それからもルキアの頭の上や肩に何枚か布がかけられた。
(うぅ、何この状況。オレどうしたらいいんだ)
乗っかった服をどけるべきかと考えるも、その後の行動をどうしたらいいかわからない。結局身動きできないままに床に座り込んでいると、アナスタシアは付き人のレイラを呼んで、どこからともなく現れたと思うと気配は消えて、少しするとまたやって来た。
頭の上に乗っかっていたシャツが避けられた。それでも顔を上げるのを憚っていると、顔を上げろと言われたので、恐る恐る上げた。
ルキアから剥がしたシャツをソファに放り投げて、その横に座ったのは胸下まである金色の長い巻き髪を揺らして、ホルタ―ネックの白いシルクのワンピースに身を包んだ、紛れもない少女だった。
混乱した頭が落ち着いて、ようやく着替えただけだったのだと悟って安心していると、アナスタシアはソファに腰かけたまま前にかがんでルキアに顔を近づけた。それに反射的にびくりと体を震わせると、何故か睨まれる。
「本当、ルキアは記憶力ないわよね」
言葉が女の子の言葉遣いだ、とどうでもいいことを思ったが、それ以上に目をパチクリとさせて、やっぱり突然の意味不明宣言に悩まされる。
「名前」
真っ直ぐルキアを見ながらそう言う。何を言いたいのかわからない。
「あ、う、えと、違ってた?」
「そうじゃなくて。私の名前を知って、どうするのよ?」
アナスタシアは自らの膝に肘をついて頬杖をつき、窺うように覗き込んで首を傾げてみせる。そのいかにも上から目線の仕草と問いかけに既視感を覚えた。
その感覚はとても不思議に思ったけど、質問には答えた方が良さそうなので、なんとか勇気を振り絞って答えた。
「名前を知って、君の事をちゃんと知って、一緒に夢を見たい」
その回答にアナスタシアは満足そうに笑った。
「そう。やっと理由をまともに言えたわね」
「ご、ごめん。今まではただの好奇心で」
「じゃぁ今は違うのね?」
「うん」
「なぁに? どうして私と一緒に夢を見たいの?」
容赦なく投下された質問に戸惑うものの、答えないわけにはいかない。ここは男として頑張るべきだと奮い立たせて、真っ直ぐにアナスタシアを見た。
「ねぇルキア」
「へっ?」
今にも口にしようとした刹那、先に口を挟まれて頓狂な声が出た。
「私の正体に気付くまで、私が男だと思い込んでいたでしょ?」
口を挟まれたうえに、更に別の質問を重ねられる。とりあえず素直に頷いた。男の格好をしていたし、髪も短く男のようにふるまっていたから、当然そうだと思っていたのだ。
「何故そうしたかわかる?」
「お父さんが素性を隠せって言ったから?」
質問を質問で返すと、アナスタシアは首を横に振った。
「それもあるけれど、ルキアの為……というか、ルキアのせいよ」
「えっ、オレの?」
少し目を丸くして前のめりになったルキアに、アナスタシアは少しうんざり気味に髪を背中に払った。
「私、ルキアに会って驚いたわ。ムカつく子供だ、って」
(こっちのセリフだよ)
と思っても口には出せない。今は機嫌を損ねたくはない。
「この城にお年頃の男の子がいるとは聞いていたの。だから間違いが起きちゃいけないと思って、敢えて男装してたの」
「あぁ、うん」
「でもルキア、私が男の子でも関係なかったみたいね?」
「う」
カーッと顔に血液が大集合してきた。きっと今のルキアの顔は、ピジョン・ブラッドよりも赤い。
それが可笑しかったようで笑ったアナスタシアは、相変わらず床に座り込んだままのルキアの手を引いて、隣に座らせた。
「この城に来てルキアに会った時、16歳だった」
「うん」
「まだ思い出せない?」
「え?」
意味が分からず首を傾げると一気に不機嫌になり、腕組みをして横目で睨まれた。
「本当にムカつくわルキア。男装していたとはいえ、私が一方的に覚えていて、ルキアは覚えていないんだから。そんなの癪だわ」
「え、あの、以前会ったことあったっけ?」
「あるわよバカね」
「えぇ、ウソ!」
アナスタシアとこの城で出会う前に、会っていた。必死に記憶を探った。
金色の髪、青い瞳。美しい容姿。高飛車な性格。海。
―――――名前は?
―――――聞いてどうするのよ
―――――や、別に……
―――――じゃぁ必要ないわ。さよなら
思い出した。15歳の時にセザリオがナンパした為に出会った、あのムカツク美少女。
会ったのはそれが最後で、アナスタシアがやってきたのはそれから1年後だ。覚えているはずがないが、それでもアナスタシアは覚えていてくれた。
嬉しいような申し訳ないような、なんだか今にも泣いてしまいそうな気分になって、アナスタシアの方に向いた。
「名前、教えないって」
「そうよ」
「夏は海をみたいって」
「そうよ」
「オレの事ムカつくって」
「そうよ」
「15歳って」
「それはウソよ」
「海を見たいから、この町に来たの?」
「そうよ。そしたらあの時のムカつく子供がいるんだもの。驚いたわ」
「今でもムカつく?」
「そうね。ルキアは?」
「ムカつく。いっつも振り回されるから」
「不満?」
「全然」
「どうして?」
「え、あ、えと」
いつの間にやらご機嫌を回復したらしいアナスタシアは、悪戯っぽい笑顔を浮かべている。そう言う顔で笑う時はロクなことがないとわかっているのに、それでもドキドキする自分の心情が情けない。
再び告白タイムを設置されて、今度こそと口を開いた。
「あぁ、そういえば」
「ええもうなに」
やっぱり邪魔される。やるせなくて顔を覆った。
「私がボクっ娘だって言う事は、ルキア以外は知ってるわよ」
「へぇ、そう」
生返事になるのも致し方ない。余計にショックを受けたことも否めない。
「だからセルヴィは心配してたの。私を男と思い込んでいるルキアが、いつの間にか私の事で頭イッパイになってるから、男色の道に足を踏み込んだんじゃないかって」
「……そこは今になってオレもひどく安心を覚えたよ」
そう答えると、今まで見た中で一番愉快そうな顔をして笑った。
「良かったわね、好きになった相手が可愛い女の子で」
「え、う、ていうか! なんでオレに言わせてくれないわけ!」
「うふふ、本当ルキアって面白い」
結局ルキアはこの皇女様に弄ばれただけだった。
色々と納得がいった。確かに100年以上も生きていたら、10代の相手なんかバカバカしくてやっていられないだろう。
見た目は乙女だというのに、中身は熟練の女狐だ。とんでもない相手に惚れてしまったと、自分の審女眼の性能を疑った。
打ちひしがれるルキアの手を取ったアナスタシアが、掌に何かを乗せた。見るとそれは、人差し指に嵌めていたダイヤの指輪だった。
「時代が時代なら、これを受け取ったルキアは皇室一家の仲間入りね」
「……再興したい?」
「無理よ。今この世界は帝政に批判的だし、今更ロマノフの名を名乗っても、誰も信じやしないわ」
「“彼”の様に、信じてくれるまで頑張ろうよ」
「“彼”の様に、信じてもらえなくて死ぬのがオチよ。あの時は史実の通りに死ねばよかったと、何度後悔したか知れないもの」
「今は?」
「父上の言う通りにして正解だったと思ってるわ。ルキアは気付いてくれたから」
そう言って微笑んだアナスタシアの笑顔に、堪らなくなった。いてもたってもいられなくなって、不躾なのはわかっていたが、一思いに抱きしめた。
「再会って気付かなくて、ごめん」
謝るとアナスタシアはルキアの胸に顔を預けて、背中に腕を回した。
「罪滅ぼししてくれるわよね?」
「勿論するよ。オレは何をしたらいい?」
「私の使命」
「協力者はオレでいいの?」
「ルキアがいいの」
時間は既に深夜だった。部屋に聞こえるのは二人の息遣いと波の音だけ。
宝石を扱う様に優しく愛撫する。血統の上でダンスを踊る。ピアノを弾くように煽情的な声で囁く。死後の恋に狂ったように、存在を確かめ合う。
キトカ――誘拐犯。その呼称は伊達ではなかったようで、まるで攫われてしまったようだと思った。
心を攫われてしまった。攫われた心は夢を見る。
夢のような、真夏の夜。