前編
「この書類の決済は終わりだ、次を持って来い」
バサリ! と音を立てて、大量の書類が端の豪奢な机に置かれた。次いで、これまた絢爛な机を隔てて、緑色の冷めた瞳が目の前に立つ巨漢を見やる。その瞳の持ち主である青年風の優男は、自身が持つ透き通るような白い肌や金色の総髪を一切気にする事なく、頭を乱暴に掻きむしりながら伝える。
「どうした、俺は『次を持って来い』と言ったぞ? 早くしろ、俺を暇にするんじゃない」
冷めた目をしつつもイライラした感情を見せるという、器用な事を行う優男の声が続く。何でも良いから仕事を寄越せ、さっさと動いて自分の命令を果たすのだ。
それに答えるのは、真っ直ぐなこげ茶色の瞳をした壮年の巨漢。何度も日に焼けて浅黒さが定着した肌と、天辺が立つくらい短く刈り込んだ栗色の髪。縦も横も大きな体格から、いかにも『歴戦の武人』然とした存在感を醸し出している。
「皇帝陛下、本日の書類はそれで終わりです。この後は、午後から元老院の方々との面談が設けられており、それまでは自由時間となっておりま――」
「ほう? 『自由時間』と来たか」
壁の彫り込みや家具から装飾品まで、全てが贅沢かつ手間のかかった物だと知れる薄暗い部屋。その雰囲気に一切呑まれずに告げた巨漢の声は、しかし目の前の『皇帝陛下』が言い被せた疑問一つでかき消される。
部屋の内装も巨漢の存在感も関係ない。青年風の優男な皇帝の見た目にそぐわない威圧は、その場の全てを圧倒している。自分こそが絶対だ、自分が是とすればそれが是となる。そんな考えを当然のように振りまき、それを受けても巨漢は動じない。この程度で狼狽していては、目の前の皇帝と口をきく事は適わないのだ。
「はい、自由時間です。お暇でしたら、芸人の一座でも呼びつけて――」
「その芸人達は、俺が見た事も聞いた事も無い出し物をして、俺を少しでも楽しませられる程の物なのか? ラール、十年以上も俺の側近を務めている、貴様の意見を率直に聞かせろ」
「彼らも彼らなりに工夫を凝らし、陛下に楽しんでいただけるよう、日々の努力を――」
「つまり、特に奇抜でも何でもない一座なのだな?」
「…………」
『ラール』と呼ばれた巨漢の側近の意見は、全てを告げる前にことごとく皇帝に言い被せられた。真っ直ぐな瞳が僅かに揺らぐが、だからと言って皇帝の要望に応えないという選択肢はありえない。
必死に頭を回すラールを尻目に、皇帝は椅子から立ち上がって言い捨てる。
「……チッ、もう良い。俺は適当に庭園を散策する。丁度、天気も曇りだしな。面談時間が来たら、適当に使いの者を寄越せ」
「それは……陛下お一人でですか? 護衛の兵士は――」
皇帝陛下が出歩くなら、それが宮殿内であろうとも護衛は必須。ラールの臣下として至極真っ当な考えは、皇帝が喉を鳴らす音にかき消された。
「ク、クク、ククク……護衛? 俺に護衛を付けろと言うか? 斬っても、水に落としても、毒を盛っても、火炙りにしても。どうあっても死ねない、この俺に護衛を?」
「…………」
ラールは再度何も言えなくなって、無骨な顔つきを僅かに歪める。分かっているからだ、皇帝の言が正論である事に。理解しているからだ、自分より何十倍も生きている、この不老不死の超人が言い放った自虐が正鵠を得ている事に。
「だが、今のは中々に面白い冗談だったぞ。お前のその話と表情は、俺の無聊を慰めるのに役立った。褒めて遣わす!」
「……ありがたき幸せ」
何はともあれ、コロリと機嫌が良くなった皇帝に、ラールは内心安堵する。
頭を下げても尚自分より背の高い巨漢を横目に、皇帝は口の端を多少は歪めつつも、やや冷めた目のままにボンヤリと呟く。
「ああ、本当に退屈で、それでいて義務は果たさねばならず……絶対者など、永く続けるものではないな」
◇ ◇ ◇
今より数百年前、とある帝国に一人の若い皇帝がいた。
彼の皇帝は、年齢にそぐわない程に政治や軍学へ抜きん出た能力を発揮していたが、それ以上に強欲さが突き抜けていた。より美味い食事を食べたい、より感動を呼ぶ芸術を味わいたい、より魅力的な女を抱きたい。
その求めは留まる所を知らず、しかし皇帝という絶対権力者ならば、その望みは存分に叶えられた。上質な料理を堪能した後、腹が一杯になったら奴隷に用意させた壺に胃の内容物を吐き出し、再度美食に手を出す。そんな生活を当然としていたのだから、退廃ぶりがうかがえる。
直臣や元老院の者達は、若くとも有能な皇帝には敬意を抱いていたし、政務に支障が出ない程度なら、私生活くらいは好きにさせようという考えだった。そのため、制止役もいないまま皇帝は欲に溺れ続けた。
皇帝としての仕事は過不足なくこなしつつも、私生活は堕落極まる。そうした爛れた日常に最初の内は満足していた皇帝だったが、次第にとある考えを持つ事となった。
「この至高の快楽、他の者には渡したくないな。『ずっとずっと』手に入れていたい。『俺だけの物』にしておきたい」
強欲は独占欲となり、いつしか奇天烈な解答に至った。
「あるいは……俺が不死なる身となれば、この願いは叶うのか?」
そう呟きつつも、本気にしていた訳ではない。生死は不可逆にして、人は産まれて生きて老いて死ぬ者。強欲ではあるものの、そうした現実が見えない程、皇帝は馬鹿でもなく年老いてもいなかった。
ところが、そんな皇帝のツボを突く情報が耳に入った。
「錬金術師の一族? そいつらが研究している『賢者の石』? その石を水に溶かせば、不老不死の霊薬となる? ははは、面白いな! 良いぞ、会おう!」
そうして、興味本位で招聘した錬金術師達。詐欺師の一行であれば、容赦なく罪人として奴隷身分に落としてやろう。しかし、幸か不幸か彼らは確かに『本物』だった。帝国のどんな学者や教師も知らない知識を持っていたし、実際にそれは有用であった。
面白い。
戯れがてら、皇帝の財布からカネと設備を与えて数年。それまでも、ちょっとした薬品等の成果は出していたのだが、とうとう『本命』が出来上がったという。謁見の間でひざまずく錬金術師の一族を眼下に、皇帝は問うた。
「して、そこな親指大の闇色の球体が『賢者の石』だと、どう証明する?」
皇帝の疑問には、錬金術師の一族の長老が身をもって答えを示した。まずは自身の腕を浅く斬ってもらい、『生身』である事を証明。次いで、2つ用意された石を皇帝に選ばせ、それを皇帝側が用意した水に溶かして飲む。後は文字通り、煮るなり焼くなりだ。
「…………」
さしもの皇帝も、目の前で不死性を見せられて唖然とした。皇帝自らが心臓に刺してやった剣を悠々と抜き、錬金術師の長老は誇らしげに、グチュグチュと再生しつつある血まみれの胸を張った。
どうでしょう、これが我らの成果です、決してお遊びでない事は証明できたはず、ああご心配なく、もう一つの石は勿論皇帝陛下に進呈いたします、と。
「なるほど、貴様らは確かに成果を挙げたようだ」
皇帝は頷き、自身も賢者の石を溶かした液体を飲み、死なず老いずの身体となった。
強欲な皇帝にとって、その時の不老不死とは間違いなく福音だった。美味い食べ物も、面白い芸術も、魅力的な婦女子も、永遠に味わい続ける事ができる。何の不満があろう物か。
だからこそ、それをもたらした錬金術師の一族郎党全員を処刑した。
「皇帝だけが手に入れられる快楽を、『ずっとずっと』手に入れていたい。『俺だけの物』にしておきたい。『俺だけの物』であるならば、俺と同じような存在が現れては困る。賢者の石の製法は根絶やしにすべきだな」
故に殺した、錬金術師と名の付く者達を全員。皇帝に毒を盛ろうとした、という名目で。
残された研究資料も殆ど焼き捨てた。既に不死身となった長老は、五体を引き裂いた上で身体のそれぞれの部位を帝国の各地に埋葬。その上には適当な理由を付けて、頑丈な建築資材を使った神殿や砦を建てる事で『封印』した。
彼の長老はバラバラにされる直前に、絶対の復讐を誓って怨嗟の声を上げていたが、物理的に動けなくてはどうしようもない。
「ああ、この身体は素晴らしいな! これからの俺は、無類の強さを誇るぞ!」
皇帝の先読みは的中した。
暗殺に怯えなくて良い日々。その不死性と老いない姿から得られる、驚愕と畏怖がないまぜになった絶対的支持。永い人生経験があって、尚且つ痴呆にもならず。であれば、どんな政治的な問題が起ころうとも、『経験済み』なので対処できる。
錬金術師達を粛清した本当の名目に、周囲の者達が気付いた頃には、皇帝の権力は磐石な物となっていた。頂点に立つ者が有能で地盤が安定していれば、必然的に国は栄える。後継者問題すら起きない帝国は版図を広げ、物質的にも文化的にも豊かになっていった。
その一方で、あいも変わらず食事・芸術・女達は皇帝を楽しませていた。強欲な皇帝は、間違いなくこの世の春を謳歌していたのだ。
……不老不死になってから百数十年程度の間は。
◇ ◇ ◇
「この料理にも飽きたな……美味い事は美味いのだが、こう何度も食べているとな」
いつからだろう、美味な筈の食事に感動しなくなったのは。
「この彫像もお上手に出来てはいるが……結局、流派の殻を破れていないではないか」
いつからだろう、あれ程打ち込んだ芸術が模倣品にしか見えないようになったのは。
「ん? あやつが死んだか。あー……一応葬式には出席せねばならんか」
いつからだろう、多少なりとも情を移した美女が、醜く老いさらばえて死にゆくのに、すっかり慣れきってしまったのは。今では名前を思い出す事さえ億劫だ。
「暇だ、飽きた、経験済みだ。何か……何か無いのか? 俺の心を震わせる存在は」
他国に戦争を仕掛けてみた事もあった。圧倒的な国力の差に、始まる前から勝負は決していた。
学問にのめり込んでみた事もあった。あらゆる教師の知識と経験を、全て吸収した所で冷めてしまった。
不死身になる以前の臣下も死に絶え、玉座とその周囲には自分以外誰もいない。目の前に広がる贅沢を前にしても、かつての強欲はすっかりなりを潜めていた。
「いや……皇帝の執務があったか。とは言え、こんな物は『日課』に過ぎん。楽しくもなければ、感情を動かされるでもない」
結局、皇帝に残されたのは『帝国皇帝の執務』という、絶対者にしかできない仕事のみ。数百年の時を経て、実務の力が他者とは隔絶した皇帝にしか、広大過ぎる帝国は治められない。
自分好みにあつらえられた筈の窓の少ない執務室で、しかし何の感動を得るでもなく、義務的に手を動かし続けるだけの日々。その内、皇帝は一つの考えに行き当たった。書類の決済の手を停めて、ふと呟いたその言葉は。
「いや、そうか……無いなら『作る』のも、また一興か。俺を楽しませる人材を、俺を驚かせる傑物を。ふむ、日課が高じて目的達成のための手段になるとはな」
皇帝は、自分の権力を最大限に利用する事にした。
広大な帝国、その何処かに皇帝の望みを叶える……あるいは、皇帝に比肩し得る存在がいるかも知れない。だから、ここ数十年は内政に力を入れている。特に、人材発掘に関しては徹底的に、だ。
そして、その試みは実を結び……。
◇ ◇ ◇
「だから、お前とラールには目をかけているのだ」
庭の散策を程々に切り上げ、元老院の議員達を適当にあしらった後、皇帝は夜の後宮へと向かった。職人の人生を賭けて作られた大型の寝台の上、凪いだ雰囲気を醸すそこで待っていたのは、一人の女……見た目からすると、少女とすら言えるかも知れない。
いや、見た目の話をするなら、真っ当なヒトとして扱う事に忌避感を覚える者もいるだろう。何せ、紫色の肌に醜く焼け爛れた顔だ。黒髪は無造作に後ろでひっつめて、胡乱な黒い瞳から放たれる視線は宙を彷徨っている。
しかし、この醜女こそが現在の後宮においては皇帝の唯一の愛妾であり、すなわち結構な要人でもある。
「目をかけていらっしゃる……わたくしはともかく、ラール様にもですか? お話をきいていると、ずいぶんとイジメているように思います」
不遜。
私的な場とはいえ、帝国皇帝の前でこのような口がきける者は他にいない。しかし、そうした一面すらも皇帝は好ましく感じていた。実際、皇帝が椅子に腰掛けているのに、この醜女が寝台に寝転んだままで許されるという状況こそ、彼らの関係を表している。
少女の愛らしさをとびきり台無しにしたような外見の女に対し、皇帝は普段の冷めた瞳を少しだけ和らげつつ、楽しそうに返答する。
「ああ、そうとも。アイツは虐められてこそ……逆境に置かれてこそ輝く奴だからな。大抵の人材は褒められる事で能力を伸ばすし、そうして育成するのが真っ当だ。しかし、苦境に置かれてもへこたれず、むしろその経験から実力を上達させられる者は、中々に貴重でな」
「中々貴重……その程度で、へいかのご慧眼にかなうものですか?」
「ああ、俺ぐらい永く生きていると、そういう奴も五万と見てきた。だが、ラールの奴はその強度が異常でな。アイツも元は、辺境の狩猟民族の一戦士に過ぎない、デカいだけの男だった。それが、人材募集で拾って適当に試練を与え続けたら、見事に開花してな」
くつくつ、と楽しそうに笑いながら、皇帝は手酌で満たした酒をあおる。
「戦闘・統率・政治・学問・商売。あらゆる難題を放り投げたが、アイツは半泣きになりながらも、最終的には全てをこなしてみせた。その過程で多くの支持を得て、民衆の人気も高い。今でこそ俺の秘書官のような立ち位置にいるが、アレはアレで絶対者としての素質があるぞ?」
「しかし、へいかがいらっしゃる限りは、その座は決してまわってきません」
女は即座に切り返した。瞳は相変わらず胡乱なままで、どこを見ているかも判然としないが、思考は明確に回っているようだった。
「そうだな。だがそれでも、俺が今まで生きてきた中では……セプテム、お前に次いでラールには目をかけているのだ。俺が名前を覚える価値のある者など、今ではお前らくらいしかおらん」
その言葉を聞いて、『セプテム』と呼ばれた女はしばし沈黙した。紫色の肌にやや赤みが乗り、彼女が照れている様子を見て取れた皇帝は、満足げに頷いた。
「周囲は気味悪がるが、その考えが読めない瞳も、奇抜な容姿もお前の特長の一つよ。単なる美女など掃いて捨てる程いるが、そこまで個性的な肌や顔はそうそう見ない。お前の外見は唯一品なのだ、誇るが良い」
「複雑なこころもちですが……へいかがそうおっしゃるなら」
再度頷いた皇帝は、そろそろ待ちきれないといった様子で、椅子から身を乗り出してセプテムへと語りかける。
「さて、雑談はここまでとしようか。さぁセプテムよ、今宵も話を聴かせてくれ。俺の退屈を紛らわせてくれ」
「おこころのままに」
そうして、セプテムは『お話』を始める。語り口はたどたどしく、声質にも惹かれる点は無い。純粋な話し手としては、宮廷にはいくらでも上の詩人がいる。
しかし、皇帝ほど永く生きていると、大抵の物語は知り尽くしている。どれだけ語りの技術を高めようと、宮廷詩人の口から出る話もまた、彼の退屈の一因となっていた。
ただ、セプテムは。彼女の話だけは違った。皇帝の目の前で、奴隷商人に『見世物』として連れて来られた醜女は、その外見に反して智見において抜きん出ていた。
誰も知らない知識を喋り、誰も聞いた事のない物語を話し、誰も学んだ事のない真実を言い当てる。
暇を持て余した皇帝の前で、ケッタイな容姿の見世物が突如として語り出した多くの情報。処刑を覚悟した奴隷商人だったが、その心配は杞憂に終わった。
皇帝も知らない知識、皇帝も聞いた事のない物語、皇帝も学んだ事のない真実。
何よりも『それ』を望んでいた皇帝により、セプテムは即座に膨大な金貨で買い上げられた。
その日から、彼女は皇帝専属の語り手として寵愛を受けている。皇帝が望めば望んだだけ、セプテムは物語を紡ぎ出した。夜通しであろうと、飲まず食わずであろうと、そのたどたどしい語り口はいささかも衰える事はなく。
「では、ほんじつのお話はかつての帝国南部において……」
そうして、焼け爛れた口を必死に動かしつつ、彼女は今日も語り手となる。死なず老いず強く絶対で、しかし孤独にして退屈に溺れそうな皇帝のために。
皇帝は目を閉じてその話に聴き入る。
それなりに退屈ではあるが、日中はラールを鍛えて夜にセプテムの話を聴く。そんな生活は、皇帝の日常に少しずつ色を取り戻しつつあった。