239/過去編――二〇〇一年~二つのアスミ
過去編――二〇〇一年/
また時間が流れた。
スヴャトは約束通り、時々は「S市」に帰ってきていた。四年前には、カレンに続いてジョーという二人目の孫が、娘のカンナに生まれていた。
もっとも、娘のカンナとの関係は良好とは言えなかったのだけれど。娘は、スヴャトが自分とアンナを置いて世界に出たことに、今でも許せない気持ちを抱えているのだ。数度孫の顔を見せては貰ったけれど、カレンともジョーともそれ以上の交流は持てていないし、カレンもジョーも親和のことはお祖父ちゃんではなくて、謎の外国人のお爺ちゃん――スヴャトポルクとして認識しているはずだった。
八月十九日。その日、スヴャトが「S市」に戻ってきていたのは偶然だった。昼頃に、滞在していた「紫の館」に手紙が届いた。一般人には認識することができない「紫の館」に手紙を届ける時点で、送り主は存在変動者であると推察された。かくして、送り主の欄には、空瀬アリカの名前が記されていた。
手紙の内容は、今宵二十四時に自分の最高傑作の人形を見せるから、ツインタワーの下まで来てほしい、というものだった。
空瀬アリカは、印象に残ってる人物であった。一九九五年にスロヴェニアのリュブリャナで出会った時に、人形師としての最高傑作のモデルとして、「理想的な人間」を探していると言っていた。
(見つかった、ということか)
純粋に美の追求として空瀬アリカの最高傑作の人形を見てみたいと思ったし、また、いったい彼女がどんな人間を「理想的な人間」として見出したのかにも興味があった。スヴャトは、申し出を受けることにした。
その日の夜、二十三時四十分を回る頃、スヴャトはもう間もなくツインタワーへと辿り着くところだった。ツインタワーはこの国の経済発展期に、まず東側のビルディングが建設され、続いてその東側のビルディングを模造するように、西側のビルディングが建設された、二対のビルディングである。一時自殺の名所だったこともあり、哲学的な意味を見出した思想家・批評家から「既存の搭」と「模造の塔」などと呼称され、その名称はある程度の期間「S市」の一般人にも浸透していたが、二〇〇一年の現在では単に「ツインタワー」と呼ばれていることが多い。
その日も、月が大きく満ちていた夜だった。
人気がないツインタワー下の敷地内にスヴャトが踏み入ってゆくと、広場の中心で空瀬アリカが地面に膝をつき、何やら身体を震わせていた。白いローブを纏っているという魔女めいた彼女の姿に、妖艶に降り注ぐ月光も相成って、その場はさながら異界のようだった。
虚体と化したように、生気が抜けかけた瞳で彼女――空瀬アリカが見つめていた先にスヴャトが視線を送ってみると。
そこにいたのは。
そこにあったのは。
――心臓に剣を突きたてられて血の海に横たわっている、童女の姿だった。
スヴャトはまず、童女に駆け寄った。
紛争地域で、沢山の人間が死にゆく現場に立ち会ってきた。
(まだ、息はあるか)
しかし同時に、手遅れであるとも思った。察するにこの童女は。
「弱者、だったんです」
自失状態にあった、空瀬アリカが断片的に言葉を紡ぎ始めた。まだ、混乱が伺える。
「明日美を、刺したの。知ってる、顔。立ち去って、行った……」
やはり、童女は空瀬アリカの娘であろうか。童女――アスミは剣に貫かれた胸から大量の血を流し、焦点が定まらない瞳をしていた。喀血していて、もう、言葉も喋れない。
「何も、言えない。私は、恨まれていた」
空瀬アリカは、おそらく娘のアスミを刺した人物について述べている。
空瀬アリカは卓越した人間である。そういった人間が、世界の恩恵を受けられなかった側の人間――弱者から嫉妬、恨みを買うということは、スヴャトもこれまで何度も見てきた。相手が強者であったなら怒りをも覚えられたかもしれないのに、弱者を反撃で淘汰するのは躊躇われる。どこにも感情の行き場がない。そんな心がバラバラになった空瀬アリカの様子は哀れであった。
(棺……)
その時、スヴャトの内面に木霊したのはヴォーちゃんの声だった。
(スヴャト、あの棺が、気になります)
言われて気がついたのは、膝を折った空瀬アリカの傍らに、黒い棺が横たわっていたことである。幽性の棺からは。
(存在変動律?)
青い、蒼穹の存在変動律が漏れ出ていた。
スヴャトが棺に駆け寄ると、いよいよ棺から漏れ出る光は強くなった。
「『理想的な、人間、像』……」
空瀬アリカが、かろうじて言葉を発した。
確かに、棺は人形が一体入るのにはちょうどよい大きさだった。
(それでは、この中に彼女の最高傑作が)
スヴャトが棺に手をかけたのは、人間の本能として最高の美を目撃したいという欲望からだったのか。あるいは、消えゆく童女の命を繋ぎとめる何らかの可能性を見出したからなのか。どちらも違う。より、本来的には、スヴャトポルク/宮澤新和に縁ある「たましい」に、引き寄せられたのだ。
スヴャトがゆっくりと棺を開けると、中には――。
瞳は穏やかに全てを受容するようでもあり、何か世界の真贋を厳しく見極めようとしているようでもある。髪は艶やかな黒色で、両サイドで束ねている。
精緻に構築されてはいるけれど、生きてはいない。既製品の衣服を着せられて親しみやすさが滲み出ているけれど、どこか一線で鑑賞するもの全てを拒否している。そんな、「聖」と「俗」が同居した少女像――。
――今まさに、絶命せんとする空瀬アリカの娘、空瀬アスミと瓜二つの童女の人形が納められていたのだ。
ここで、スヴャトに訪れた幾ばくかの忘我。
夢と現実の境界上にいるような、不思議な感覚の中、いくつかの、ここではないどこかの音が、光景が、匂いが、スヴャトの知覚に流れ込んできた。
///
――その時、私は模造の塔の屋上から、既存の搭の屋上めがけて、矢を射った。
一九九九年。七月。
模造の塔の屋上から、既存の搭の屋上に向かって、一筋の流星が流れた。
その鮮烈な光を、一人の女が見上げている。空瀬アリカだ。
空瀬アリカは打ち震えていた。ついに、自分が求め続けた「理想的な人間」に出会ったからである。
矢を射った少女の名は――後に空瀬アリカの最高傑作『理想的な人間像』の元になった少女の名は。
――弓村理子。
再びの意識の明滅。
「あの時、私は全てを視たんだ」
スヴャトは背後から声をかけられた。
気がつけば、空瀬アリカの姿は既になかった。場所はツインタワー下の広場であったが、周囲の空間からは分断されていて、向こう側の街並みは見えない。時間は……いつであるか分からない。
スヴャトが振り返ると、一人の少女が立っていた。
黒色のカーゴミニのスカートに、古寂びた皮の二重ベルト、上半身は無地の白シャツの上にグレイの長袖ジャケットを羽織っている。
亜麻色の髪をポニーテールにまとめた、涼やかな瞳の少女である。
「君は?」
「名前? 弓村理子」
「弓村……では、『映認』の?」
理子は肯定するようにウィンクしてみせた。
「オーケーかな? アンナの旦那さん。たぶんこの『境界域』にはあなたも私もそんなに留まれないから、さっくりといこう。一九九九年の七月。この場所で『映認』を覚醒させた『永認』の『奇跡』を私は起こした。アレはちょっと、凄かったなぁ」
他人事のように、理子は呟いた。
「そんな私を目撃したアリカさんが創ったのが、私の『模造』、『理想的な人間像』。二〇〇一年の現在は、大白山の神社に隠されている、S市のオントロジカの集積地点だね」
スヴャトは、頭の中で時間と場所を整理し始めた。
「だが、二〇〇一年のここで、僕が棺の中から現れたのを見たのは、『理想的な人間像』ではなくて、空瀬アリカの娘の『義体』だった。蒼い、存在変動律を携えた」
理子は頷いた。
「その光は、私の分ね。結局、アリカさんがあなたに見せたかった『最高傑作』は、私の模造の『理想的な人間像』ではなくて、娘のアスミちゃんの模造の『義体』の方だったんだね。ま、これが、私、弓村理子と、『塔』にまつわるアスミちゃんの『縁』だね」
そこまで話すと、理子は腰の二重ベルトの後ろに装着していた鞘から、ナイフを抜き放った。アンナが持ち歩いていた、炭素鋼のナイフだった。
「もう一つの『縁』は、私から」
スヴャトは再び、背後から声をかけられた。
振り返ると。
麗しき佇まいの女が、立っていた。曙の空から、暮れなずむ空の色まで変化していく幻めいたリボンで、艶がある黒髪をサイドテールに束ねている。纏っているのは雅な和装で、古錆びた赤色から、イキイキとした若草色までグラデーションになるように、重ね着をしている。胸元には、萌黄色の花飾りがアクセントとして付けられている。開闢から終焉まで、移りゆく世界の全ての色を反映しているような眩惑的な双眸をした、深淵なる美を備えた人物。その瞳に見つめられると、遠い何処かで出会ったことがあるような、懐かし気持ちが喚起される、不思議なヒト。
「君は?」
「名前、ですか? 空瀬弓姫、です。 『橋姫』という名前の方が、有名かもしれません」
おっとりとした声で、女性は答えた。
「アスミちゃんの、ひぃひぃひぃひぃ……たくさんな感じの、お祖母ちゃん。ご先祖様ですかね」
「『橋姫』伝説の?」
スヴャトはS市の地域的な伝承。一八〇〇年代は「文政」の頃に、この地の河に橋をかけるために犠牲になった姫巫女がいたという物語を思い出した。
橋姫は静かに頷いた。
理子と橋姫。二人に挟まれる形になる。
「アスミさんはこの地の河の流れと橋を守り続けてきた、空瀬神社の跡取りです。これが、私、空瀬弓姫と、『橋』にまつわるアスミちゃんの『縁』ですね。私の分の赤い光は、アスミちゃんの本当の体の方に宿っています。あとはあなたの、アンナの『祠』の縁があれば、彼女は……」
橋と塔と、そして祠。スヴャトは三つの概念をイメージする。何か、新たなる直覚が開けそうであった。
「私と橋姫様の分を合わせて、十二年分の光。ええと、そっちの言い方だと、オントロジカ、だ。足りてるとは、言えないかもしれないけれど」
理子は少し寂しそうで。
「私と理子が被った『犠牲』の分の対価が、十二年分なのです。十分ではないかもしれません。それでも」
橋姫は少し淋しそうだった。
やがて、理子と橋姫の声が重なり始める。
「私はさ」
「私もですね」
――この街が好きなんだ。
――この古里が、好きなのです。
「この『進展』に突き進む歴史を辿った世界で、取り零される郷里を、アスミちゃんは守れるかもしれない人ですから」
「悪いことばかりでは、なかったんだ。この『塔』の下で友達と食べた三食パンは、美味しかったしな」
二つの輪が重なるように、理子と橋姫の声が同時に木霊した。
「「そんな、私と/私と、アンナのもう一つの名前は。夢守永遠」」
事態は急転直下である。
全てを伝え終えると、理子は手にした炭素鋼のナイフをスヴャトに向けると、流れるような動作とスピードで、片手突きでスヴャトの心臓を貫いたのだ。
ぐぁ! 死んだ!
スヴャトが全身で絶叫を震わせようとした時、最後の理子の声が響いた。
「よろしくね! 未だ常世を生きてる、スヴャト君!」
///
「ぐぁ! 死んだ!」
素っ頓狂な声を上げてスヴャトが我に返ると、別にスヴャトの胸は穿たれていなかった。どうやら、まだ生きているらしい。
目の前には、声を失って虚脱している空瀬アリカと、心臓に剣を突きたてられている空瀬アスミと、棺の中に納まっている空瀬アリカの義体がある。二〇〇一年の現実に、戻って来たのだ。
スヴャトが括目すると、今、弓姫が言っていた通り、空瀬アスミの本体からは紅い存在変動律が流れ始めており、一方で空瀬アスミの義体からは蒼い存在変動律が光り輝いている。
やがて、本体と義体、アスミとアスミは、浮遊を始めた。
左。心臓を貫かれた本体は「既存」の塔を背後に。
右。精巧なる義体は「模造」の塔を背後に。
「ヴォーちゃん、確認だ。僕の本質能力、『構築物の歴史図書館』とは? 『祠』の能力とは?」
ヴォーちゃんから声が返ってくる。
「『擬人化』です。大きなオントロジカを蓄積した歴史的な構築物にアクセスすることができる。そして、縁ある『たましい』の描写力を借りて、その存在を人間の姿に『描き換える』ことができる……です」
「やはり、そうだ。人形師・空瀬アリカによって建造られた『義体』は、これはもう、『歴史的な構築物』だ。過去と未来から積み重ねられた、大きなオントロジカが集積している。そして、空瀬アスミの本体には、彼女自身の写身とこの上なく縁ある『たましい』がある」
「なるほど。しかし、そうして『存在』し続けた空瀬アスミの未来に、幸福はあるのでしょうか。そして、そうまでして零れ落ちる『存在』に手を差し伸べるスヴャトを、世界は許すでしょうか」
遠方から、激しい向かい風が吹き始めた。
スヴャトは、激流に向かって、両の掌を開いて、両腕を突きだした。
「まったくさ、な。これは罪であるかもしれないよ。でもね、ヴォーちゃん、僕は思うんだ。こんなことがあっても、イイんじゃないか、ともね。遠い異国の誰かが、遠い未来の誰かが、遠い過去の誰かが、少し自分の分を減らしてでも、『今、ここ』の零れ落ちそうな誰かのために。分け合ってみようか。手助けしてみようかなんて。ね。これは、やっぱり、綺麗事なのかな?」
「分かりません。でも、信じたい。そう思う私もいます」
スヴャトは頷いた。
スヴャトの精神に、一九六四年に松ヶ浜の波打ち際で体験した以来の、再びの「星の時間」が訪れた。繰り返される「既存」と「模造」のループの中にも、「途切れないもの」はあるんじゃないか。そう、直覚したのだ。いや、信じたくなったのだ。
(やってやる。これは、僕の決断だ。たとえ沢山の人間が信じる「世界」のあり方を裏切ることになってもだ)
言葉を、探していた。
この、合理の激流を前にしても、古びない、力強い言葉を。
分かってる。こんな時はたぶん、自分のコアから言葉を発するしかないんだ。
日付が変わるまで、あと一分。ここが、運命の選択の時だ。
既存と模造。
過去と未来。
紅と蒼。
橋姫と理子。
アスミとアスミ。
そして、「たましい」と「構築物」。
(どうするかって? 決まってる!)
スヴャトはその言葉を選んだ。
「『共存・開始!』」
意味と結びついた音が宇宙に響いた。極大の世界と極小の世界は同じで、その両方に木霊した気がした。
世界に発せられたその言葉と通じ合うように。
「既存」のアスミから紅の光の輪が。
「模造」のアスミから蒼い光の輪が。
生まれ出ずる。
――やがて二つの輪が、相補い合い始める。
真なる傷ついた体は光の粒子となって世界に還元されるように何処かへと消失し。
写身の体に「たましい」の重さが宿る。
光が収束し始めると、不可思議な「存在」がスヴャトの目の前に浮遊していた。
「存在」――地上へと舞い降りた少女は、神の言葉を受け入れる謙虚さと慎ましさを持った「女性」と、偉大な叡智の全てを知る凛々しさを持った「女神」とが交差し、二人が同時に存在する両義性を携えていた。
二人の「女」はそれぞれ「妹」と「姉」で、歴史の中でそれぞれ別の方角へと向かっていったのだけれど、二人は星を一周して、再びこの場所で巡り合ったのだ。
眼前の彼女を。
「二重存在」――「アスミ」を、スヴャトは祈るように抱きしめた。
二〇〇一年、八月二〇日。零時のことである。
かくして、空瀬アスミの最初の『再臨』が成されたのだ。
/過去編――二〇〇一年




