233/過去編――一九六四年~波打ち際の曼荼羅
過去編――一九六四年/
「やっぱり、やめておこうかな。近くに住める場所を見つけて、療養する。それで十分な気もするんだ」
「ええ? だって、お父さんと、お母さんでしょ?」
スヴャト――改め新和とアンナが市電に揺られている。
故国は日本。その列島の北の方に位置する「S市」に帰ってきたのだ。しばしの間休息して、ヴァルケニオンから受けた傷を癒すのが目的だった。当初は父母にも顔を見せるつもりでいたのだが。
「僕はダメな人間なんだ。勝手に出ていって。何を成したわけでもないしね」
「だったら、何でわざわざここに? 本当は、会いたいんでしょ」
親和はぼーっと窓の外のS市の風景に視線を落とした。変わったことと、変わらないことがある。
街は活気に溢れていた。何でも、秋には東京でオリンピックが開かれるらしい。戦後の混乱期の無秩序な躍動とはまた違って、一つの方向に向かって、一人一人の国民が一度壊れたものをもう一度作り直そうと頑張っている。「進展」。その一方向に向かって誰もが、これから豊かになるのだということを夢見ているのだ。
(それでも、全員が勝者になるわけでもないさ)
市電がS市の一級河川にかかる橋の上に入ってゆく。まばらに自動車が走っている。街の鼓動に呼吸を合わせるように、ガタン、ゴトンと、市電の駆動音が独特のリズムを取っている。橋には、欄干に沿って一定間隔で街灯が立っている。いよいよ、見慣れた風景になってきた。
「新和君~」
「いかん。また、シニカルなことを考えてしまっていた」
「この街。懐かしい、気がする」
「日本に来たのは、初めてだろう?」
「そうなんだけど。なんだろう。ホっとする感じ」
やがて市電が駅に着いたので、新和とアンナは降車し、しばらく商店街を歩いて行く。
電気店の店頭に白黒テレビが置いてあり、街の人たちが集まっていたのが印象的だった。まだテレビは高級品で一般家庭には普及しておらず、電話はあっても、間に交換手を挟まないと繋がらないという頃である。場に生きている他人の血潮、汗、匂い、そういったものが自分とどこか未分化で、時間はゆっくりと流れている。
商店街を抜けて、河川敷に沿って展開される住宅街の中にある布団工場に辿り着くと、新和はいよいよ逡巡した。中で、母が布団の打ち直しをしているはずである。
入口から距離を取って、聴こえてくる綿を打ち直す音を聴きながら、案山子のように立っていると、フイに工場の扉が開いた。
中から出てきたのは、紅が基調の和装に、絹の黒髪を流した朗らかな感じの人。見間違いようがなかった。新和の母――宮澤陽毬であった。
伸びをする母の作業衣には、ツギが当てられていて、ほこりが付着している。
親和は彷徨う亡霊のように母の前まで歩を進めて行くと、陽毬の肩にかかったほこりを無骨な手で、優しく払った。
「あらあら、まあまあ」
思えば、母の衣服を整ったものに変えてあげられるように、この地で父母を支えながら生きる生き方もできたはずなのに。
(やはり、通りすがりの他人のフリをして、立ち去ろう。顔が見られただけで、十分さ)
新和は陽毬に頭をたれて、懺悔を述べた。
「高い、塔の上に登るつもりでいたのですが、登れる人間には限りがあって、自分はその中に入れる人間ではありませんでした」
本当に、後は立ち去るつもりでいたのだけれど。
「新和は、相変わらず難しいことを言うねぇ」
新和は、ハっと顔を上げた。
「分かりましたか?」
スヴャトの姿ではなく、今は生まれたままの姿ではあったけれど、この地を去ってから六年、児童だったあの頃とは違い、新和の外見も青年になっていた。
「分かりますよ」
「恥をさらしてきました」
「お帰りなさい」
どう応えたものか、新和が迷っていると、後ろからアンナが走ってきて、グイと新和の背中を押した。母との距離が、急に近くなる。
新和の代わりにアンナが応えた。
「はい。ただいまです~」
陽毬は現れた異国の少女にニコニコと微笑みを向けると。
「こちらは?」
「あ、はい。旅の途中で知り合った、そう、大事な女性です」
陽毬はマジマジとアンナの瞳を覗き込むと。
「海色ですね」
と、アンナの目の色を形容した。
「それは、初めて言われたわ」
「不思議ですねぇ。松が浜の、蒼、ですよ」
「その海、見てみたい」
「おいおい、訪れてみると良いでしょう。新和」
「はい」
「『直し場』にお父さんがいるから、挨拶をしてきなさいよ」
「分かりました」
母と短い会話を交わすうちに、新和は自分が自分自身に戻っていくような、不可思議な安心を感じていた。
(『直し場』か)
父とも、六年ぶりの再会になるのだが。
無性に、会いたいと感じた。
もう、どこに向かえばいいのか良く分からなくなっていたから。とりあえず、自分に素直になってみるとしたら。
父の話を聞いてみたいと思った。
この気持ちは、どこか長い時間砂漠を彷徨った後に、水を求める気持ちに似ていた。
自分自身の傷と。失われていた関係性と。少しずつ、癒していかねばならないのだ。
///
「直し場」には映らなくなった白黒TV、回らなくなった扇風機といった家電、錆びついた自転車などが持ち込まれており、そういった雑然とした壊れた構築物の中に、新和の父――宮澤兵司はあぐらをかいて座っていた。
父は、TVの部品を指でつまみ上げると、澄んだ瞳でその構造のありのままを捉えようとしているようだった。どこか、事物の深部まで捉えようとしているそのまなざしは、熟練の漁師が海に投げる視線を連想させる。
「何が、見えますか」
新和はためらいがちに声をかけた。
「経路、だのう。ほつれている箇所があって、これでは通電しまいよ」
懐かしい父の声だった。父は大地と繋がっていて、地中からの息吹を声に乗せているかのような、静かに響き、そして慈愛が行き届いているような声色の人だった。
父は工具を用いて、丁寧に壊れた構築物達を直していく。そうやって復元された家電や自転車を再び市場にて販売して収入を得ているのだと推測されたが、卓越した仕事ぶりであった。父は若年にして戦艦陸奥に乗りこんでいた技師でもあった。そんな今まで忘れていた実の父の経歴が自然と思い起こされた。
「細やかな仕事ですね」
「もっと、何か言うことはないんかい」
父の返しに、新和は自分が何者なのか理解されているのを直覚した。構築物に向けられていた父の穏やかな視線が、新和に向けられる。アンナは母の所に置いてきたので、二人、男と男が正面から向かい合う形になる。
「分かりましたか?」
「いや、顔だけでは分からなかった。だが、藤色の光を携えている人間は、世界中でもわしの息子だけだろう」
「存在変動律が、見えるんですか?」
「見えんし分からん、だが感じる。ずっとだ」
「僕がいなくなった時、どう思いました?」
「老後の面倒を見て貰うあてが、いなくなった、と思ったのう」
「まず、そこですか」
「加えて、お前が何か違う人間なのは分かっていた。何か、普通とは違う人間なりのことをやりにいったのだろう、と思ったよ」
「僕は何者でも、ありませんでした」
「それは、残念だったな」
「はい、残念です」
「住む場所は?」
父はわきの小棚の中から小さな鍵を取り出した。
親和は、瞳を大きく見開いた。
「僕にはもう、そんな資格は」
「得意先にアパートの大家がおってな」
父は、気にしないというように、新和にアパートの鍵を握らせた。
「連れがいます」
「ほう。どんな感じの」
「明るい女です」
「そりゃイイ。小さな一室から、また始めてみぃ」
こうして差し出されたしばしの居場所を、新和は受け取ることにした。
世間が秋の東京でのオリンピックに向かって、一つの方向に活気と共に流れていた頃である。
その流れから切り取られたようなS市の小さなアパートの一室で、新和とアンナは暮らし始めた。
///
その一年を、新和は街と、アンナと共に過ごした。
親和は母が打ち直した布団と父が修理した家電や自転車等の配達の仕事をして、街を巡って過ごして。
アンナは縁あった幼稚園の保母の手伝いをしながら、休みの日には陽毬が布団を打ち直す工場で布団に綿を詰めたりして過ごした。
夕食は父母と食卓を囲み、夜は小さなアパートでアンナと眠る。そんな特別ではない人間としての時間が、流れていった。
///
新和が松が浜にある幼稚園で代理の保母をしていたアンナを迎えに行くと、園長いわく、アンナは浜にいるらしい。園から海岸まで繋がっている石段を降りて行った。
暮れなずむ夕暮れ時であった。
アンナは、波打ち際で一人、海を見ていた。
ブルーの瞳をしている。母の陽毬が、「松が浜の、蒼」と形容した優しい色だ。
橙色の光に包まれている彼女の姿を見て、新和は断片的な記憶を幻視した。
遠い世界まで続いてゆくような光。紅の和弓。そして、砂塵に吹かれている彼女。中東の地でヴァルケニオンと交戦した時、新和は何かを見たはずなのだけれど、全てを思い出すことはできないでいた。
「新和君?」
金色の髪に夕日をキラキラと反射させながら、アンナが振り返った。
「美しい、海だ」
アンナの隣まで歩いて行く。
「街みたいだね」
「どこが?」
「外側の世界と、関係し合ってる」
波は寄せては、引いて、この場所は陸とも海とも判別がつかない。広大なる海から絶えず干渉を受けながら、波打ち際には独特の生態系が構築されている。
その時新和に、豊穣なる思考の閃きが火花を散らす、「星の時間」が訪れた。
ハっとした新和は、いてもたってもいられなくなり、浜に打ち上げられていた木の枝をおもむろに一本取ると、砂の上にある図を描写し始めた。
「アンナ、分からないかもしれないが、ちょっと聞いてくれ」
まず、一本の線を横に引く。
「この線が、今、ここ、我々がいる『世界』だ。左から右へと、過去から未来。時間軸がある。市電の、線路みたいなものだ」
「新和君? 頭は大丈夫?」
「僕はこの線の上を、より先に、できるだけ速く進むことが、問題の解決方法だと思っていたんだ。だから、一度はこの街を後にした。留まっていては、進めないからと」
次に、新和は今引いた一本の線の下に、複雑な、そして大きな図を描き始めた。
「だが、その『外』にもう一つのより広大な『世界』が存在している。『線』と『外』は関係し合っている。市電と街の生態系が、互いに循環し合っているように。我々が見ている、この『線』の『世界』だけでは分からないことがあるんだ。『線』の『世界』では一見無関係なものが、『外』の『世界』では関係し合っていたりする。『外』の世界では、あらゆるものが多次元に広がったり、繋がったり、切断されたり、再結合されたりしている。『世界』の全体像は、『線』の『世界』と『外』の『世界』がループ状に繋がりながら、相互に往復しながら絶えず変化してゆくんだ」
「よくは分からない、けど」
アンナはこの国に来てからも懐に入れて持ち歩いていた和製のナイフを取り出して、夕日にかざしてみせた。
「新和君が私の『たましい』を持っていたのは、『外』の『世界』の方で、私と新和君に『つながり』があったからなのかな」
銀のナイフが反射する陽の光は、どこか温かい。
「でも、切断されちゃうこともあるんだね」
「そうだな。ああ、そうだ」
アンナのその言葉を聞いて、新和は自分の本当の気持ちに気がついた。
それは、寂しい。
とても、寂しい。
塔の上へとか。あの歴史的構築物に搭乗して宇宙の先へとか。世界を救うとか。そんなことよりも、この気持ちが自分にとって『もっとも確かなもの』に感じられた。
だから、ひざまづいて、頭を垂れた。
砂に、額を埋め込ませる。
「アンナ、僕とずっといっしょにいてくれないか」
「土下座は、おかしいよ」
アンナはナイフを下して、自分も膝を折って、ひれ伏している新和に顔を近づけた。
「それって、プロポーズ?」
「うん。アンナと繋がっていたものが途切れてしまうのが、僕はたまらなく寂しい。とても、寂しい。ダメか?」
「ダメじゃないけど、ねぇ新和君。一つだけ」
アンナはナイフを砂に刺して、新和の両肩に手をかけた。
「スヴャト君だった時のことも、なかったことにはしないで」
新和は、顔を上げた。
正面から、見つめ合う。
「僕は、愚か者だった。後悔してる」
「後悔していても、なかったことにはしないで」
「そうか。うん。そうだな。スヴャトとも、折り合いをつけていってみるよ」
「うん。じゃあ、結婚しようよ」
「本当に?」
「スヴャト君も、新和君も、イケてるからね」
「僕は、イケてたのか?」
「ずっとイイなって、思ってたよ」
世界の真実は、生まれたこの場所に既に素描されていて。一番大事な人は、既に一番近くにいた。そんなこともある。
「今はないけど、いずれちゃんと指輪を贈るよ」
「うん。楽しみにしてる」
これが、宮澤ジョーのお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが結婚した時の話。
二人を祝福するように。
波打ち際では陸と海とがはっきりとは区別できずに、常に一定のリズムでお互いの領土に入り合っていて、その場独特の生物同士が、生物と場が、絡み合いながら曼荼羅みたいな様相を織りなしていたりしたという。
◇◇◇
そしていつの間にか東京でのオリンピックも過ぎ去った、一九六五年。
ベッドに横たわっているアンナと、寄り添っている新和がいる。ベッドの傍らには揺り籠があって、中で眠る赤子に新和は優しい眼差しを向けている。
「ああ、でも不安だ。こんな僕が父親になるだなんて。この子にも、豊かな人生なんて保証してあげられない。戦争から復興するこの『進展』の道の先に待っているのが、再びの破綻だということを、この国の誰もがまだ気づいていないんだ。この子が大人になる頃の話かもしれない。おそらくソ連は崩壊する。自由の代償としての『進展』の意志の暴走が、世界に平等に貧困をばら撒き始める。そんな世界で、この子はどうして生きていくのだろう」
生命の誕生という劇的さを前に、新和は少し戸惑ってもいたのだ。
「私、新和君の心配性に過ぎるところ、ちょっとどうかと思う」
ブロンドの髪に、蒼い瞳。柔和で、朗らかで、ちょっと丸い。アンナのそんな容姿は、娘にも受け継がれているようだった。
新和は頷くと。
「だからカンナにはお守りに、二つ目の名前を与えたんだ。君が、スヴャトと新和の二つの輪が合わさっていた僕の事を、それは『強い』類のことだと言ったから。厳密には、音としてのシニフィアンと、意味としてのシニフィエが分離可能なこの国の言葉の性質にあやかって、アメリカ風の音に加えて、日本語の『読み』と『意味』を宿したってことだけどね。カンナは、『神奈』でもあるんだ。
新和は、瞳の前の娘の顔を見て、泣き声を聴いて、存在を感じ取っている。随分と、卑近な存在に目を向ける男になった。
「でも新和君。今、すっごい喜びに満ちているんでしょ」
分かってる、というようにアンナが指摘すると、新和はパっと顔を輝かせた。
「そうなんだ! 僕は世界を救いたかったはずなのに。何も成せないままで、それなのに喜びの中にいる。 喜び久しく、永遠に輪廻しそうな気持さ!」
新和は揺り籠を覗き込んで、中の赤子をあやした。思わず、キュゥキュゥというコツメカワウソを模した声、表情、動きなんかをやってみせる。新和は帰郷してから、特にアンナと結婚してからというもの、無駄にこの手の幼子や赤子を喜ばせるレパートリーに達者になっていた。別に大きくなった後の本人は覚えてないのだけれど、その後も赤子――ジョーの母のカンナはニコニコ、アゥアゥと大絶賛を新和に返し続けた。
そんな、幸せだった頃の新和の心に過っていたことは。
(あの時、砂漠の中で死ななくて良かった!)
なんてことで。
意味なんかないかもしれない。でも、意味なんかなくても、嬉しい。そんな不思議な気持ちを、受け取ることができるようになっていたのだ。
/過去編――一九六四年(~一九六五年)




