16/弱者
「ちょ、どうするつもり」
ジョーは無言で、廊下を振動させる足音が聴こえてくる方に歩み始める。
「柔道の技術に、体躯が大きい相手を制する類のものがある」
「やめなさいよ」
アスミはそう言って立ち上がろうとするが、すぐに咳き込んで身体のバランスを崩す。
そうしているうちに、闇の中から牛人の姿が現れた。さて、さすがに正面から戦ってこの牛人を倒せるとは思っていない。ジョーはちらりと、廊下の壁面に並ぶ窓を見やる。
「良かった。空瀬アスミ、逃げないでいてくれましたね。今日のうちに決着をつけてしまいたかったのです」
牛人はアスミの姿を確認すると、興奮したように鼻息を荒げた。ピクピクと上半身の筋肉が震え、股間はより隆起する。
ジョーは拳を握り両腕を上げてファイティングポーズを取る。
「誰だ?」
アスミを凝視していた視線をずらして、ようやく牛人はジョーの存在を認識する。
「宮澤ジョー、ですよ。インヘルベリア先生」
少しだけ牛人は立ち止まると、一言、
「覚えてないな」
ともらした。どうやら、成績上位者以外は、名前も覚えていなかったらしい。
「っしゃぁっ」
わざとらしく気合の声をあげて、ジョーは突進する。このまま、激昂した素人が右拳を、相手の胸元に叩きこもうとしている、と牛人に思わせる。
全力の右ストレートパンチに対して、鬱陶しそうに牛人は太い腕を突き出す。だが、そこで、ジョーの動きは変化する。
上と見せて、下。ジョーは一段階加速すると、そのまま相手の右足を取りに行く。いわゆる柔道の両手刈り、レスリングで言うならタックルだが、力の差を加味して、相手の片足を、こちらは両手で取りに行く。中学時代の三年間、反復練習した技術である。ジョーは正攻法の華麗な投げ技主体の選手というよりは、捨て身技に寝技、あらゆる技術を総合的に組み合わせて闘うタイプの柔道家だった。
「てぇいや!」
さらに、右足で残った相手の左足を刈りに行く。タックルと、大内刈りの合わせ技。とにかく、バランスを崩せればイイ。そうしたら、何とかあの窓から落下させてやる。この巨躯である。もう一度下からここまで登ってくるには時間がかかるはず。その間に、アスミと進藤真由美を連れて逃げる。それが、ジョーが立てた作戦だった。
だが、しかし。牛人は、ピクリとも動かなかった。
強大で、そして何かが凝縮したような存在を抱え込んでいる感覚。
くり出した大内刈りに力を込めてみるが、牛人はびくともしない。二階級上の体重の相手に仕掛けたこともある。だが、そんなレベルじゃない。例えるなら、相手は象で、ジョーは蟻だった。存在そのものが違う、強者と弱者。
「くだらない」
牛人は一言もらすと、最早タックルの姿勢でもない、足に這いつくばっているジョーに向かって、アッパーカットを放った。腹部から胸部に激痛が走り、ジョーは宙を舞う。
全身がバラバラになる感覚の中。床に落下する時にかろうじて受身を取った。だが、ダメージが大きく次の動作には移れようもない。牛人は跳躍すると、ジョーにまたがるように落下してきた。何という事か。馬乗りの体勢。いわゆるマウントポジションも取られた。人間が相手でもここから逆転するのは難しい。ましてや相手は未知の力を持った牛人である。
「拷問だ! 拷問だ!」
牛人は歌うように、その言葉を繰り返し始めた。