13/脅威
風の壁を越えてアスミが上がっていった三階への階段を速足で登ると、人の声が聴こえたので、その場で立ち止まった。そっと、階段から廊下に続いて行く壁にはりつく。
「つまり、先生は、この地のオントロジカを奪いに来た、『存在変動者』だったのね」
「そういうあなたが、この地の守人でしたか。意外です。オントロジカの守人とは、周辺地域で最も優れた人間だと思っていましたからね」
声の主は、アスミとインヘルベリア先生だ。慎重に壁から顏半分だけ、廊下側に出す。
こちらに背を向けて心持ち、前傾姿勢のアスミがいる。そして、その向こうに講師、インヘルベリア先生の姿がある。だが、何ということだろう。彼の片腕には、折れたススキのように体をくねらせた、進藤真由美が抱えられていた!
進藤真由美は意識を失っているように見える。ジョーの背筋に冷たいものが走る。何か、性的な関係がどうこうよりも、危険な段階の事柄を目撃していると直覚し始める。
「この学校から時々高い『存在変動律』が感じられる所までは突きとめていました。講師として中に入り込んでから数か月。いよいよ、候補者の選別を始めようというのが、今日だったのですがね」
「その必要はなくなったわね。あなたが狙うのは、私一人でイイんだから」
「解せない。あなたはこれほど早急に名乗り出る必要がないはずだ。空瀬アスミ。学年七位。私があなたに辿り着くまで、数人分の時間があった。その時間を、何故有効に使おうとしないのです?」
「さあ、なんでかしらね」
アスミはそっけなく応えると、スカートのポケットから古びたマッチ箱を取り出した。親指をくいと伸ばして箱を開くと、右手の指に三本のマッチを挟み、左手で小箱をインヘルベリア先生の方に向ける。
「進藤さんを離して。他人の事だとしても、あなたの唾液に女の子が塗れるのは、不快だわ」
進藤真由美の髪が粘々した液体に濡れているのに気づく。唾液、とアスミは言ったか。だがジョーには、真由美を濡らすものが唾液なのだとしたら、それは一個人の口で作られる量を遥かに超えているように思えた。
その時、インヘルベリア先生の口が裂けた。
「なるほど、自分のことを差し置いて、この女のことが気にかかると」
次に、インヘルベリア先生の瞼が大きく裂け開き、眼球が突き出た。
「弱者の国の発想だっ!」
彼が咆哮をあげると、廊下の窓という窓がきしみ、蛍光灯が揺れた。そしてこれは、冷気、だろうか。そんな冷たい何かを乗せた波動が、一定のリズムでインヘルベリア先生を中心に繰り返し発せられている。
「存在変動律。大きいっ」
アスミの声に危機感が感じられる中、ジョーは目の前の光景が信じられないでいた。
インヘルベリア先生の上半身が、纏っていたスーツをつき破りながら、およそ二倍の大きさに膨れ上がっている。盛り上がる胸と腕の筋肉は弱きを挫こうと今にも前進してきそうな躍動感にあふれ。両手の指には認めぬものを切り裂かんとする鋭い爪が迫り出している。下半身はスーツのズボンが原形を留めていたが、股間がはち切れんばかりに盛り上がっていた。そして顔は。人間のものとは既に異なり、牛の相貌になっていた。