正義の鉄鎚
週末。時計が終業時刻を示すのと同時に、一条はすぐさま席を立った。肩こりの原因でもあるデスクワークから解放される瞬間はいつだって嬉しいが、今日は格別だ。
一条は帰り支度を早々に済ませると、足早に職場を後にしようとした。
すると、隣の席の同僚が一条を呼び止めた。
「なあ、悪いんだけど来週分のデータ整理手伝ってくんない? もう残りこれだけなんだわ」
そう言って同僚は、クリアファイルに挟まれた書類を三部ほど見せてきた。
「ごめん、今日ちょっと用事があってさ」
「あちゃーそうだったのか……了解、じゃあお疲れ!」
一条は右手を顔の前で立てながら職場を後にした。
あの男は普段からサボる癖があるのに、よく人に助けを求めるので有名だ。
助けなくて正解だ。
帰りの電車の中。何度も携帯電話を開いては、ウェブサイトで天気予報を確認する。十八時以降の天気を見ると、蒸し暑さはあるが雨に降られる心配は無い。
一条は吊り革に掴まりながらケータイをしまうと、突然足を踏まれてしまった。顔を顰めながら隣を見ると、若い女がそそくさと足を引っ込めて、顔を俯かせた。謝る様子はない。
一条も何を言うでもなく女から視線を逸らすと、電車が突然揺れた。よろけた女が携帯電話を落とし、同じくよろけた一条が思わずその携帯電話を踏みつけてしまうと、嫌な音がした。
女が無言で携帯電話を拾うので、一条は黙って体勢を立て直した。
謝らなくて当然だ。
コンビニで弁当とジュースを買った。今夜は酒を飲むわけにもいかないが、明日は休日だし、昼過ぎまで眠れるから我慢はできる。全ては今夜のためだ。
レジで会計を済ませていると、店員が釣銭を間違えて渡してきた。
「ちょっと、五十円足りないよ?」
「え? …………ああ、ほい」
差し出した一条の手の平にある五十円玉を掴み取った店員は、代わりの小銭を乱暴に一条に渡した。
一条が眉間に皺を寄せながらレジを離れると、渡された釣銭は百円玉だった。
浮いた五十円は慰謝料だ。
そう、自分は何一つ間違っていない。
とにかく、今日はつまらないことで苛立つつもりはなかった。
帰宅して真っ暗なアパートの部屋に灯りを点けた一条は、八畳部屋の真ん中にあるローテーブルへ買ってきた弁当などを置き、すぐに着ていたスーツを脱ぎ捨てた。
そして、部屋の隅に纏めて置いてある荷物を見やってから、にやついた顔でシャワーを浴びにいった。
しがないサラリーマンである一条が、こんなにも期待に胸を膨らませているのには、理由があった
。
一条は廃墟散策を趣味としている。
誰もいなくなった、そして寄り付かなくなった建物に足を踏み入れて、中に残された痕跡や漂う悲壮感、薄気味悪さや孤独感を楽しむのが彼の楽しみだ。
そして今夜行く廃病院は、およそ十年ほど前には既に廃屋となっていた場所。一条がこの趣味に目覚めるよりも以前から知られている、有名なスポットだ。心霊スポットとして雑誌に取り上げられたこともあるようで、一時期は面白半分で忍び込む集団やカップルが連日訪れるものだから、廃墟マニアの間ではしばらく避けられていた。今ではそんな流行も過ぎ去り、本来の雰囲気を取り戻したこともあって、次第に廃墟マニア達の足も戻り始めている。
とは言っても、廃墟マニア達にとっては決して特別な場所というわけではない。彼らの間でもよく知れ渡ったスポットだ。それ故に平均レベルと言えばよいのか、若干面白みに欠ける場所でもあった。
そんな場所の散策に、一条がやたらと胸を躍らせているのには理由がある。
それは、今回は深夜の一人散策であるということ。
普段の廃墟散策は、インターネットで知り合った同じ趣味を持つ仲間と共に行くことが多い。行く時間帯も日中がほとんどで、それは思わぬ事故への遭遇を避けるため。仲間と共にならば夜間の廃墟散策も経験しているが、今回のように自分ひとりでというのは初めてだった。
だからだろう。気持ちは確かに浮かれていたが、逆に事前準備はいつも以上に気合いが入っていて万全だった。
深夜。隣近所に気を遣ってそっと身支度を整えた一条は、少し湿っぽく感じる熱気の中を歩いて、自家用車の停めてある駐車場に向かった。
今日のために新調したデニム生地のストレッチパンツと、風通しの良い長袖シャツを着た格好。一応上着も持ってきたが、今夜はまず要らないだろう。背中のリュックを背負い直せば、中の水筒から氷の転がる音が聞こえる。
車に乗り込んだ一条は、エンジンを掛けてからカーナビに住所を入力し始めた。
そこは、隣の県の山中にある町外れの病院だった。カーナビの地図データを五年前からあえて更新していないのは、この趣味のため。最近の地図データでは、古い建物が表示されないからだ。
走らせる車の中には、陽気な音楽と一条の鼻歌が響いた。
運転中はずっと胸が高鳴っていた。この高揚感は、初めて廃墟散策を体験した二十歳の頃を思い出させる。黙っていても自然とにやけてしまいそうな、そして少しだけ怖いような、そんな初々しい心境が懐かしくて、心地良い。
車を高速道路に乗せると、一条はアクセルを踏み込んでスピードを上げた。そして三車線ある内の真ん中を走る。
すると、間もなくして背後から猛スピードで追走してくる車のヘッドライトがバックミラーに移りこんだ。
ぶつかるのではないかという勢いに少し戸惑うと、その車は一条の車の背後に、車間距離をぐっと縮めて接近してきた。しかもライトをハイビームに切り替えている。
周囲の車線は決して混んでいるわけでもない。邪魔ならば車線を変えて追い越せばいいのに。
一条は舌打ちをしながら車線を変えると、その車は一条の脇を更なる猛スピードで駆け抜けていった。
「事故っちゃえばいいのに」
一条は、ああいうモラルの欠片も無い奴が嫌いだった。
高速道路を降りて、暗がりの山道を走り続け、途中の数少ないコンビニに立ち寄っては、トイレや眠気覚ましのコーヒーなどといった準備を万全にした。
そうして一時間半以上走り、辿り着いたのは山中の町から少し外れたところにある場所。
車を停めてエンジンを切った一条は、手に持ったリュックの中から懐中電灯を取り出して、スイッチを入れた。
気分は上々だ。
真っ直ぐに、そして慎重に歩いてゆく。しかし、心境としては子供のようにはしゃいで回りたいくらいだった。
車を停めた場所から既に見えている、一条が進む方角に聳え立つ黒い影。
月明かりで輪郭だけははっきりと映し出されている三階建てのそれは、インターネットの廃墟紹介サイトで見た写真と同じ外観。
入り口を正面にして左手側にある棟と、右手側にある棟を一本の渡り廊下が繋いでいるその病院は、あまり大きなものではなかった。
一条は周辺をもう一度懐中電灯で照らしながら見渡し、他に訪問者がいないことを確認した。せっかくの夜間単独散策だ。最初から最後まで一人で歩きたい。
最初にやって来たのは、病院の正面玄関。灯りなどがあるはずもなく、盤面の割れた非常口誘導灯や蛍光灯の入っていない照明を見ると、いよいよ始まる散策に胸が弾んだ。
そんな中、空き缶やビニール袋のゴミなども所々で目に付く。こういった類のものは大抵、前の訪問者が悪戯に破壊したり捨てていったりするもので、むしろ廃墟マニア達にとっては嬉しくない痕跡でもあるのだ。
一条は、こういった廃墟の持ち味や品格を落とすものが大嫌いだった。
人がいないのは確かだが、だからと言って無法地帯なわけでもゴミ捨て場なわけでもないのだ。ましてや自宅のように好き勝手していい場所なんかではない。廃墟の中だろうと、人として守るべきルールやモラルがあるのだ。古代からある寺院や、過去の戦争の傷跡を物語る建物は大事なものだと認識するくせに、歴史的価値の有無でこういった場所を汚すなんて許せない。
そもそもこの病院が蛻の殻になった理由自体、それほどおどろおどろしいものではない。もっと交通の便がいいところに移っていっただけだと言われている。それなのに、病院であったという事実と建物の古さから、いつの間にか心霊スポットなどに成り代わってしまったのだ。本来なら、一条のような趣味を持つ者でもなければ訪れる理由がない場所なのに。
廃墟の魅力となり得る遺物と、単なるゴミとの違いが分からないものが、足を踏み入れていいような場所ではない。
常日頃から思っていた。こういうことをする良識の無い人間なんていなくなればいいのに、と。
一条は僅かに鼻息を荒くしつつも、改めて歩き出した。
埃を敷き詰めたような廊下。歩けば足跡がくっきりと残る感覚が嬉しい。まるで積もったばかりの雪と戯れる子供のように笑みながら、一条は廃墟内を進んでいった。
ほとんどの部屋の扉は口を開きっ放しにした状態であった。最初のうちは一部屋ずつ中に入って、既設品であろう棚や引き出しを開けてみたりもしたのだが、何も残されてはいない。病院が引越しをする際に荷物を全部運び出したのは、まあ当然のことだろう。
纏わりつくようなじめっとした空気や、世間どころか時間からも忘れ去られてしまったかのような雰囲気は、一条を存分に楽しませた。
だが、どの部屋もほとんど差異がない様子を確認すると、さすがに若干退屈になってくる。
いつの間にか部屋に足を踏み入れることもしなくなり、中を懐中電灯でぐるりと照らしたらすぐに次の部屋へと移る、といった程度にペースが変わる。一階から三階まで上がるのに、それほど時間は掛からなかった。
病室棟はどこもこんなものかも知れない。一条はそう思い、渡り廊下を歩いて棟を移ろうとした。下から順々に上がっていった病室棟とは逆に、三階から降りていくつもりでいたのだ。
そんな時だった。
コツン、という小さな物音を聞いた。
方角は渡り廊下の向こう。一条がこれから行こうとしている先だ。
誰かいるのだろうか。自分と同じように散策にきた廃墟マニアか、それとも肝試しにでもやって来た大学生か何かか。
まさか危険な連中ではないだろうか。一条は昨年報じられたニュースを思い出していた。廃墟マニアが幽霊ビルと噂される廃ビルに入っていったところ、そこを溜まり場としていた不良少年達に金を巻き上げられた上、袋叩きにされたという事件があった。
危険があった場合はすぐさま逃げる。荷物が重ければ迷わず捨てる。心の中で、唱えるようにそう呟いた。
一条は一度だけ唾を飲み込むと、渡り廊下をそっと歩き始めた。
懐中電灯の明かりは下向きに。廊下の向こうに光が届くことは避けたほうがいいだろう。
ゆっくりと、そして慎重に渡り廊下を進んでいくと、再び小さな物音が聞こえた。
やはり、何かいる。場所も場所なだけに、怖くないはずなどなかった。
いっそのこと引き返してしまおうか。病室棟に戻って下に降りていけば、車まではすぐだ。
一条は唾を飲み込んだ。
そして、また聞こえた。小さな物音。
「…………なんだよ?」
思わず漏らした独り言は、自分を励ますためのものだった。
何かがいるらしいのは明らかだった。それが人であってくれれば良いのだが。
いや、本当にそうだろうか。害のない動物であることが理想的だ。
渡り廊下を進んでいくにつれて、聞こえる小さな物音は鳴り止まなくなった。
それを聞けば聞くほど、野生動物である線は薄れていく。
明らかに人だ。誰かがいるのだ。
一条の額からは滝のように汗が流れ落ちてきて、何度も顔を拭うハメになった。
そして渡り廊下を渡り終えた時、一条はそこから見てしまったのだ。
階段の目の前にある部屋。やはり扉のないその部屋の奥で、小さな灯りが揺れ動いているのを。
よせばいいのに。やめておけばいいのに。そう、心の中で呟いた。
自分に言い聞かせる言葉はもっともだが、それ以上に一条は、“何でもなかったと”と安心したかった。
灯りの見える部屋の入り口から、一条は顔を覗かせて中を見た。
アルミ製の棚が立ち並んでいる室内。おそらくここは、倉庫か資料室だったのだろう。棚には、仕分け整理のためであろう区画記号が、マジックで書かれていた。
暗い部屋の中で確認できたのは、室内にはやはり謎の光源があること。それと、その光源の持ち主であろう人影が、屈んだままこちらに背を向けていること。
一瞬だけ息を詰まらせながらも、気付かれるつもりは無い。一条は、その人影に声を掛ける気など毛頭もなく、早々にその場を離れようとした。
しかし、一歩足を引いた時、足裏で何か硬い物、おそらくコンクリート片だと思われるそれを踏みつけてしまった。
凸凹のそれが硬い床の上を転がり、鈍い音が響く。
「何だ!? 誰かいるのかっ!?」
聞こえた声は男のものだった。少ししゃがれた、年老いた男の声。
「ひぃっ!」
冷たい汗が一気に肌を這い、後退しようとする一条の足を忙しなくバタバタとさせる。膝だってひどく震えていた。“走り去る”という行為は、意外にも咄嗟には出来ないものらしい。
離れていく一条を追うようにして、部屋から人影が飛び出してきた。
その人影はやはり男だった。さっきは屈んでいたし暗闇の中だったから分かり辛かったが、聞いた声に見合うぐらいの、六十歳ぐらいの顔をしていた。
身なりは、正直あまり衛生的にも良くない感じがした。灯りが少ないからはっきりと全身を見ることは出来ないが、ボロボロの服の着こなし方から彼の私生活を何となくイメージしてしまう。それに手の指と同じくらいの長さまで伸びた髭が、一条の抱いたイメージをやたらと強めた。
「あんた……何しに来たんだ?」
老人が言った。
それは一条も同じように尋ねたいと感じていた。
「あ、えっと…………散策に来た者です」
「サンサク……?」
「散歩です、散歩」
「散歩? こんなところにか?」
老人は、右手の小さなランタンを掲げて一条の顔をよく見ようとしながら、舌打ちをした。
「とっとと行けよ、まったく」
先程までは言われなくともそうしようと思っていたのだが、相手が言葉の通じる老人であったことと、それ故に恐怖心が和らいだことから、一条は指示に従わなかった。
むしろ老人に「何をしているんだ?」と尋ねたかった。自分にはとっとと帰れと指図するくせに、彼自身がこんなところにいる理由がさっぱり分からないのは不公平じゃないかとさえ思えてきたのだ。
何より怪しい。人目のつかない真っ暗な廃墟の中でやることと言ったら、まず全うなことではないと疑える。
「あの…………」
「え?」
部屋に戻りかけていた老人が振り向いた。
「何をされていたんですか?」
自分と同じ散策者でないことは明らかだ。
ならば老人の目的は何か。
時間の経過と共に一条の中の“ある感情”はどんどん大きくなって、先程までの恐怖心はすっかりと消え去っていた。膝の震えも止まっていて、頭も冷静だ。
「別に何でもいいだろう」
「気になるなぁ。ここに住んでらっしゃるんですか?」
「関係ねえだろうが!」
老人がすごい剣幕で怒鳴った。
しかし、一条はそれに臆することもなく、老人が屈んでいたあたりに懐中電灯を向けようとした。
そんな一条の様子を見て、老人は更に声を荒げた。そして掴みかかろうとしてくる老人を、一条は後ずさりで避ける。
そんな調子で隙を見て、一条は部屋の中に懐中電灯の光を突き刺した。
老人の屈んでいたところには、ビニール袋が幾つか置いてあった。中には何かが入っているようだが、どんなものが入っているのかは確認できない。
拾ってきた食料? それともゴミか? まさか何処かから盗んできたものかも? それともここに何かを捨てようというのか?
一条は、もしかしたら冷静じゃなかったのかもしれない。単純に老人の個人的私物かも知れないし、もしそうだとすれば、相手が浮浪者と言えども一条にそのプライバシーを侵害する権利はないのだろう。
だが、一条はそこまで考えることをしなかった。
「何でそんなに慌てるんですか?」
老人は、慌てているというよりは、単純に怒っているようであった。それも当然のことではないか。誰とも知らない赤の他人にあれこれと詮索されれば、誰だって良い気分はしないものだ。
だが、一条はそこまで考えることをしなかった。
「知られたくないってことですか?」
もはや邪推しか出来なかった。単純に一条が考え過ぎているだけだとしたら、随分と失礼な話である。正義感は決して咎められるものではないが、時には煙たがられることもある。
だが、一条はそこまで考えることをしなかった。
今の一条には、老人の姿は不徳の化身にしか見えなかったのだ。
調子に乗っていた。しかし、それを自覚することが出来ていない。
老人が本当のことを話したがらないから。怪しい荷物の中身が不明瞭であるから。他人を早く遠ざけようとするから。
そんな幾つもの怪しい要素が、一条の目に映る老人をいつしか極悪人に変えていた。
そして、どういった根拠なのかは分からないが、一条の胸の中には出所不明の使命感が湧き起こっていた。
目の前には極悪人が一人。ならばそいつと向かい合っている自分は正義か。
変な話だった。小さな物音に怯えていたことの反動なのかは分からないが、恐怖心がすっかりと無くなった途端、必要以上に気持ちが大きくなっている。
一条の目の前で、老人は大きく息を切らしていた。
「あんたは何をしていたんだ?」
遂に敬語すら使わなくなった。相手に対する敬意は皆無だ。
そんな一条に対して、老人は掠れ気味の声で言った。
「…………お前だって」
「はぁ?」
「お前、『羅生門』って知ってるか?」
突然老人が口走った言葉を聞いて、一条は数秒間だけ息を止めた。
「…………芥川龍之介?」
「お前、その話がどんなのか、知っているか?」
思い出した。学生の頃、国語の教科書に載っていたはずだ。
老人は続けた。
「仕事を失くした下人がある日、羅生門の二階に上がると、そこには一人のばばあがいたんだ」
老人は今だに肩で呼吸をしていたが、言葉が徐々にはっきりとしてきた。
「ばばあは、羅生門の二階に溜まっている死体から髪の毛を抜き取っていた」
一歩。老人の足がゆっくりと一条に近づいた。
その一歩には、動きが緩慢であった先程までとは違う重みを感じた。
「下人がそれを咎めると、ばばあは言ったんだ。死体の女は生前、干した蛇を干魚と偽って売っていた。そんな女だから、私がこいつの髪の毛で鬘を作って売ろうとも、文句は言えないってな」
老人から妙な気迫が感じられるようになった時、気付けば一条は後ろに後ずさりをしていた。
何故だ。先ほどまでの強気な自分は、正義感に燃えていた自分は、使命感に捕らわれていた自分はどこにいったのだ。
何故、追い詰められているんだ。
「そ、それが何だよ?」
いつの間にか、声が震えているのは一条の方だった。
「ばばあは生きるためだと言い、自分の悪事を正当化した。それを聞いた下人は、ならば自分も同じだと言い、ばばあから力ずくで着物を剥ぎ取って逃げたんだ。そう、生きるためにな」
一条の背中が壁に張り付いた。
それ以上後退できない一条に向かって、老人がゆっくりと近づいてきた。
徐々に詰まる老人との距離が、一条の膝を笑わせた。
徐々に迫る老人からの臭いが、一条の顔を歪ませた。
徐々に近づく老人の威圧感が、一条の胸を圧迫した。
「お前はその下人と一緒だな。自分が正しい人間だと思って、他人の気にいらねえところを突いて、そうやって咎めやがる…………だが、お前だって結局変わらねえんだよ。思い当たる節はねえのか?」
思い当たる節はないか? お前は俺のことを何一つ知らないどころか、今日出会ったばかりの他人じゃないか。そんなことを急に言われたって、「はいそうです、すみません」などと言えるわけがない。
こいつは何を言っているんだ。
そう思った一条は、しかし、それを言葉にすることが出来なかった。
自分はただ、怪しい奴を見つけたから。
怪しい奴を見つけたから、自分はただ。
「…………た、ただ、俺は…………」
「お前だって同じ人間だろうが! お前だって絶対同じはずなのに、なんでそんな偉そうに気取ってんだよ! お前だって俺と同じような立場になり得るってことが、分からねえのかよっ!」
老人の憎しみは言葉となり、気迫となって一条を追い詰めた。
「…………べ、別にあんたが隠し事をしなければこんな」
「別に俺が何をしてようが、お前の知ったこっちゃねえだろうがよっ! 俺だって好きでこんなことをしてるんじゃねえし、別に悪いことをしてたわけでもねえよ!」
だったら尚のこと隠し事なんてしなければいいのに。そう思ったが、言葉が出てこなかった。
自分は正しいと思ってやっただけのことだ。それなのに、こんなにも咎められる理由はなんだ。
一条の呼吸が荒くなってきた。動いているわけでもないのに、妙に息苦しい。
老人の言葉の一つ一つが不快で仕方がない。
それは自分のことを責め立てる言葉だから? 自分は正しいことをしたはずなのに?
お前が最初から袋の中身を晒していれば、俺だって疑わなくて済むんじゃないか。
「俺が、悪いのか?」
やろうとしたことは決して間違いではなかったはずだ。
そうだ、自分の行いは決して間違ってなんかいない。
お前に咎められる謂れはない。
お前に責められる筋合いはない。
お前が逃れられる言い訳などない。
お前が正しいと言うのなら、俺だって正しい。
「俺が悪いのかよっ!」
一条は拳を振り回した。
渾身の力を込めて振られた拳は、老人の顔を横から殴りつけた。
呻き声が一つ。
しかし、止まれない。
ちがう、止められない。
そうだ、止めちゃいけない。
大きな声が廃墟の中に響き渡った。
それは老人の悲鳴ではない。
「俺は別に悪くないだろうがよっ!」
一条の雄叫びだ。
よろける老人の体を更に突き飛ばすと、一条は間髪入れずに飛び掛っていった。
そして仰向けになった老人の腹に乗っかると、握った拳を再び振り下ろした。
また呻き声が一つ。
まだだ。
もう一つ。もう一つ。
まだ足りない。
何度も何度も振り下ろされる一条の拳と、何度も何度も揺れる老人の頭。
冷たいコンクリートの床に、歯が転がった。
冷たいコンクリートの壁に、血が飛んだ。
叫びと呻き声の響き渡っていた廊下には、いつしか一条の声しか聞こえなくなった。
「お前が! お前が! お前が怪しいからだろっ!」
一条の正義の鉄鎚はしばらく止まることがなかった。
某県の山中にある廃病院に、あるカップルがやって来た。
理由は、数年前に心霊スポットとして有名になったこの場所で、肝試しをやろうと男が言い出したから。
時刻は深夜。
山中にある町の外れにやって来た二人は、薄汚れた放置車両の脇を通って病院の入り口までやって来た。
そして、その体をぴったりと寄り添い合いながら、懐中電灯の灯りを頼りに足を踏み入れていく。
怯える女に笑顔を浮かべる男。
二人は廃病院の三階まで上がり、ある一室の中に懐中電灯の灯りを突き刺した時、妙なものを見つけた。
そこには、ビニール袋が幾つか置いてあった。中には何かが入っているようだが、どんなものが入っているのかは確認できない。
近づいてみようと、部屋の中に足を踏み入れた時、二人の背後に視線を感じた。
「…………見たのか?」
二人は悲鳴を上げた。
そして揃って男の質問に対し、首を横に振った。
「お前らが勝手に見るからいけないんだろう」
カップルは尚も否定した。
「お前らが見なければ、俺だってこんなことしなくていいのに!」
男は、握り締めていた石を振りかぶって二人に近づいた。
男は恐れていたのだ。
その袋の中身が、何の変哲もないものであったとしたら、自らが振るった正義の鉄鎚は間違いとなる。
それだけはあってはならない。
自分は間違っていない。
正しいはずだ。
だから男は、未だに袋の中身を知らない。
<了>