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短編No.01-20

No.13 翔べない翼 逃げない小鳥

作者: 藤夜 要

 “記事を書く”のボタンをクリックして、自分を偽りながら、赤裸々な想いだけは真実を。今日も私は吐き出す様に、今の想いを書き綴る。


『これでも俺は、反省しているつもりだから、ナオコとも切ったし、

他の女にはもうちょっかいも出してない。

誠意を示してるつもりで、何かと予定も彼女にちゃんと伝えてるのに、

彼女は全然俺のそういう部分を見ちゃくれない。

恨めしそうに、今日も拒まれ、鬱憤晴らしにblogってる。

女って、解らない。

そこまで拒否っておいて、何で別れるって一言は言わないんだろうね?』

 きっと、主人が私に対して思っているであろう事を、彼になったつもりで書き綴る。

「投稿、っと」

 ブラウザを閉じたと同時に、リビングに水を飲みに起きたのだろう、夫が寝室から寝ぼけ眼で入って来た。

「何だ、まだ起きてたのか……寝るぞ」

 キッチンで喉を潤すと、夫はそう言って私を見た。その含みのある視線が、私はあまり好きじゃない。

「うん、あと少しだけ。調べ物をしたら、私もすぐ寝るから先に寝て……あ」

 近づいた夫は私の右手を包み、そのままシャットダウンのボタンをクリックした。

「歩美は、今夜はお義母さんと寝てるんだろう?」

「……うん」

「じゃあ……寝よう」

 逆らえない。父が急逝して独りになってしまった田舎の母を、自分の母親を差し置いてまで呼び寄せ、私や母に安堵と住処を与えてくれた彼に、逆らえる筈もなかった。ナオコさんとの事は、もう二年も前の話。私が未だに夫を穢らわしいと嫌悪して拘ってしまうだけ。

「うん……でも、私、生理だけど、……それでも、いい?」

「……お前、ちゃんと本当に病院で診てもらったのか? ずっとじゃないか、不順って」

 その目は全然心配なんかしていない。私の解り易い嘘を見抜いて、責めている様な目。

 彼は、出来るだけ早く調べ物を済ませて、少しでも身体を休ませろ、とだけ言って、先に寝室へ戻って行った。




 翌朝、いつも通り主人を見送り、娘の歩美を保育園に送り出した後、私は再び自分のblogにアクセスしてコメントを見る。

「小鳥、あなた今時の専業主婦みたいに、ネット依存症で不倫なんてのは勘弁してよ?」

 洗濯物を干しながら、ベランダから心配そうに零す母へ「まさか、仕事よ」と笑って答えながら、コメント欄(1)の表示を見つけて心がはやる。

『ヒカルさんへ』と私のハンドルを明記するお決まりのタイトルで、彼女からのコメントだとすぐ判った。私の代弁をしてくれる様なレスが嬉しくて、私が最も大切に思うweb友達が、今日もコメントを残してくれていたのが私の心を躍らせていた。


『彼女も本当は、あなたを許そうと努力しているのではないでしょうか?

私には、そんな風に見えます。

勿論、ヒカルさんから見た彼女しか解らないので、

こんな事を言うのは失礼なのだと思うのですが。

私も、目下恋人とすれ違い中。orz

お互い、頑張って相手の心を取り戻しましょうね。

commented by 秀美』


 今日もヒデミちゃんは私の代弁をしてくれた。解ってくれてる人がいる。ただ、それだけで頑張れる。


 僅かばかりの収入にしかならない在宅仕事だけでは、離婚の二文字を夫に出せない。調停離婚についても色々調べたら、慰謝料や養育費なんて、実際には支払われないまま泣き寝入りが大半なのだという現実を知った。専業主婦歴五年の私が、まだおしめも取れていない歩美と、僅かばかりの年金暮らしの母を背負って、この家を出る勇気は皆無だった。

 出来る事なら、笑って“あの頃は大変だったよね”なんて言ってみたい。主人を許したくて、でも許せない自分がいて。それは嫉妬や憎悪ではなく、単純にもう夫と『恋』をし直すなんてあり得ないから。今更異性としてよりも、家族として同化し過ぎた為に、『裏切り』が彼を中途半端な他人に感じさせて、どう向き合ってよいのか解らないだけ。私なりに頑張って努力してみたりもするけれど、恋をするのに『頑張る』『努力』って必要だったかしら、と、いつもそこで思考は止まる。


 私の本当の気持ち、私なりの努力を感じてくれてる人がいる。それは、籠の鳥となった私に生きる気力を与えてくれていた。

 ヒデミちゃんの言葉が上っ面な慰めではない、と感じられるのは、彼女との度重なるレスコメのやり取りで彼女の誠実で真面目な人柄を感じるから。私が一方的に甘えるだけではなく、彼女もまた、恋人との行き違いを私に語って甘えてくれた。

 彼女がくれた、私へのレスコメントが、私と彼女を一層近づけた。

『ヒカルさん、ありがとう。あなたはいつも、私の想いを私より上手に言葉に置き換えコメントにしてくれますね。うっかり公開しているblogだという事を忘れて、洗いざらい話してしまいそうです』

 それから、私達の互いのblogの更新頻度は若干下がり、その代わり、メールやメッセンジャーに割く時間が増えた。




 ヒデミちゃんは、不動産関係の仕事をしているOLの様だ。

『住宅の紹介斡旋をしている会社だから、毎週水曜日は日中でも繋げられますよー』

 なんて嬉しいメッセージを貰ってからは、毎週水曜日が私の楽しみの時間になった。

 朝一番で急いで買い物や掃除を済ませ、お昼と夕食の下ごしらえを一気に済ませ、母に文句を言われる事の無い、娘を迎えに行くまでの数時間が、彼女と私の“自由”の時間。なかなか長時間の外出が許されない私にとって、友達とゆっくりお喋りが出来る、この時間はとても貴重だった。


 でも、今朝だけは、ちょっと違った。

 仕事のメールが入ったらいつでもすぐ対応出来る様にと、常時パソコンを起動させているのだが、午前の九時前にも関わらず、メッセンジャーに誰かがメッセージを届けた旨を知らせるアラームが鳴った。干しかけた洗濯物をベランダに置いたまま、モニタに映し出されたメッセージを確認する。

『ヒカルさん、ダメになっちゃった』

『いろいろ頑張ってみたけれど、とうとう恋人に愛想を尽かされてしまいました』

『ちょっと泣き言を言いたくて』

『でも、湿っぽい話はヒカルさんに嫌われてしまいそうだから』

『今日はこれだけで午後繋ぐのは止めておきます』

『来週は何もなかった様にいつもの様に、また他愛の無い話で笑わせて下さいね』


『泣き言を言いたくて』

 というメッセージと、その次の言葉を送信するまでの時刻が、数分空いている、それが私を不安にさせた。アラームにすぐ気がついた訳では無いらしい。私が返事をすぐに送らなかった事で、困らせたと思ったのではないかしら? それとも、彼女自身が、いろいろ考え、私に心を閉ざしてしまったのか、それとも……私、頼りない?

 孤独の辛さは嫌と言うほど解る。二年前の私もそうだった。自分の事も、愛した人の事も信じられず、ただ消えたいと思っていた。

 後先考えず、私はメッセージに返信を送っていた。


『秀美ちゃん、今日の午後、会いましょう』

『一緒に美味しいものでも食べて、何か映画でも見に行きましょうか』


 返事はすぐに返って来た。


『あ』

『パソコンの前にいたんだ』


 ほっとした。よかった、間に合って。


『ごめんね、メッセに気付くのが遅くなっちゃって』

『確か、渋谷を挟んで同じ位の距離だったよね、家。パスタの美味しいお店を知ってるんだ。思い出したら食べたくなってしまって。よかったら、付き合ってくれませんか?』


 長い沈黙が、過剰なお節介だったのかな、と不安にさせる。そして、思い出してしまった事。私は主人を装って、男だという事になっていたんだ。もしかして、ナンパと勘違いして警戒されているのではないかしら……。

 慌てて、追加で入力した。


『変な意味じゃないから安心してね。別に襲ったりしないからw サプライズな出で立ちで待ってます』


 そして、時間と場所と、携帯の番号を入力した。


『もしかしたら、私の方がサプライズなのかも……。ヒカルさんが、もし、物凄い可愛い女の子を想像していたとしたらごめんなさい』


 そう言って、待ち合わせ了承の返信をくれた。

『私の方がサプライズ』という意味がちょっとよく解らなかったけれど、『物凄い可愛い女の子を』の下りに笑ってしまった。やっぱり、私ったら警戒されていたのかしら、突然逢おうなんて言い出しちゃったから。

 女性だとばれてしまうのは少し残念だけど、彼女ならきっと、blog上でばらす事はしないだろう。私の中で、彼女に対してそんな根拠は無い信頼があった。




 今日は、とことん彼女に付き合おうと思っていた。私がナオコさんの存在を知った時、寄り添ってくれる友達が誰もいなくて、どんどん私は病んでいった。まだ若い彼女に、あんな想いをさせたくはない。私に何が出来るという事も無いけれど、吐き出す事で少しでも楽になるなら、彼女の傍にいてあげたかった。


 母に、ヒデミちゃんの事情を軽く説明して歩美のお迎えと子守を頼むと、あの頃の私の憔悴振りを知っている母は、私の気持ちを汲み取り快諾して送り出してくれた。

 ちょっとお姉さんを気取ってみる。実は男性の振りをしていただけではなく、二十九歳と偽っていた。本当はもう三十二歳なのだけど。三十路と言うと、何だか敬遠されそうで、何となく、プロフィール欄にギリギリの二十代設定をかましていた。かなり嘘つきな私を知ったら、ヒデミちゃんにドン引きされるだろうか。

 そんな事を思いながら、約束したモアイ像の前でふと携帯の時計を見ると、約束の時間からもう二十分も過ぎていた。律儀で礼儀正しいヒデミちゃんらしくない。

 アドレス帳に登録した番号に電話をしようとしてふと手が止まる。

――ここでネタバレなんて、顔が見れないんじゃつまんないわ。

 メールに切り替えて、送信する。

『今、待ち合わせ場所に来てるんだけど、すれ違ってるのかな。今、何処にいる?』

 一分と経たない内に、返信が来た。

『私も時間通り来てますよー。すれ違ってるみたいですね。私は、ジーンズの上に、トミー・ヒルフィガーのロゴがめっちゃくちゃ目立つ赤のポロシャツ着てて、紺ベースのヒルフィガーのキャップを被ってます。ヒカルさんの服装、教えてもらえますか? すぐ見つけて声掛けますよ。(^-^)』

 モアイ像の前なんて、とても狭い。動かない人影だけ追えば、きっとすぐ判る筈。私は今度はヒデミちゃんの携帯番号に電話を掛け、耳に当てながら歩いていない人影を見渡す。

 耳元では、彼女の電話を呼び出す電子音。

 私の目は、一人のキャップを被った『男性』を捉えた。

『あ、もしもーし、ヒカルさんですかー』

 キャップの子の口許と、少しスローで低く穏やかな耳元の声が、重なった。

「あ……」

 私の息が浅くなる。声がそれ以上出なくなる。

『ヒデヨシです、って言って判るかなー。ヒカルさん、ヒデミって読んでいそうだったから。今、何処にいますか? 服装を教えて――あ』

 彼の被ったキャップのつばが、顔をあげてこちらを向いた事であがった。目尻の下がった優しげな瞳が大きく見開き、私の姿を確かに捉えた。その瞬間、耳元の彼の声が途絶えた。

 暫しの沈黙と、開き切った互いの瞳がいつもの大きさになった後、彼の方から声を発した。

『えーっと、もしかして、オフホワイトのワンピースで、ヴィトンのセカンドバッグを持ってる、ゆるいウェイブのロングヘアのお姉さんがヒカルさんですか?』

 私は、声で返事をする事が出来なかった。でも、彼には充分通じた様だ。子供の様な満面の笑みを浮かべると、

「ヒカルさんってば面白過ぎ。見えてなかったら、頷いただけじゃわかんないっすよー」

 と、目の前の私に肉声で返事をした。

「初めまして。木下秀美です。確かに、お互いにすんごいサプライズな出で立ちでしたね」

 そういって、再び少年の様な笑顔を見せた。


 私の可愛い妹分の様な存在だった筈のヒデミちゃんは、ヒールを履いた私より頭一つ分背の高い、人好さげな優しい面立ちの好青年だった。




 渋谷駅の南口から少し歩いたパスタ屋に彼を案内し、懇意にしているよしみで昼からワインをフルボトルで出してもらう。アルコールが互いの口を程よく滑らかにした頃、彼が照れ臭そうに笑って言った。

「実はね、結構自分の名前、中学の時にからかわれてからコンプレックスなんですよ。だから、敢えて漢字でいつも書いてたんです。ヒデミって読む人が殆どだから」

 キノシタ・ヒデヨシ……。

「あ……もしかして、豊臣秀吉のもとの苗字と、織田信長に重用されてからの名前の合体みたいだから、とか?」

「流石ヒカルさん。想像力豊か。当たりです。だから、そのままヒデミでお願いします」

 私は彼の“想像力豊か”という言葉で、酔いによる紅潮の下に密かに羞恥で頬を染めた。それはきっと、遠回しにblogでごちた、男性に扮しての不満を暗に指し示していると思ったからだ。

「そうね、私も、今更ヒデヨシ君っていうのは、逆に別の人みたいで呼びにくいわ」

 それにしても、なかなかユーモラスなご両親ね、とか、ヒカルさんはblog詐欺師だ、とか。他愛ない話で途切れる事の無い会話を楽しむ私達だった。


 失恋直後の若者とは、こんなにあっさりと淡白な感情なのだろうか、と最初は思った。

 ヒデミ君は、逢うまでの私の心配がただの杞憂に終わったかと思う位に朗らかで、常に笑みを湛えていて。穏やかな低音で上品な笑いを提供してくれる位に明るく接してくれた。彼が見たいと提案したのは、今、注目を集めているコメディの洋画で。ベタなラブストーリーが混じったアクションものを好む主人と行く映画よりも、余程私も楽しめた。

 ポップコーンを片手に、薄暗い劇場の隣席で、彼は周囲の客と共に大爆笑する――目に涙を浮かべながら。だけど、私には解ってしまった。それは他の客と同じ様な、抱腹絶倒の涙ではなく、そんな時まで私に気遣い、笑い上戸の涙を装っていた、という事を。

 彼の肩を軽く突付き、「ん?」という顔で耳を寄せる彼にそっと囁いた。

 (私の前では無理しないで。私もずっと支えて貰って来たんだから)

 寄せた頭を再び離し、彼が私をじっと見つめる。スクリーンから反射した残光が、悲しみと微笑みの入り混じった複雑な彼の表情と、頬に流れる一筋を淡く照らし出していた。

 その後は、何事もなかった様に、映画を見ながら笑い転げ、映画館を出た後は居酒屋で飲んだ。互いに映画の感想を語り合ったり、そこから彼の会社にこんな人がいて、とプライベートな笑い話を聞いたり、何かを吐き出す様に、彼はひたすら笑える話をし続けた。


 励ますつもりだった私は、彼に釣られて笑顔を浮かべながら、心の中では羞恥心に満ち溢れていた。

 彼の恋人は、バツイチの子持ちだったらしい。子供も自分に懐いてくれていたし、本気で結婚するつもりでいた。けれど、彼女はあっさり彼を捨てた。子供の存在をひた隠しにして、ヒデミ君と二股を掛けていた有名商社に勤める『本命』さんを選んだそうだ。子供を彼女の親と養子縁組をさせ、商社の彼からのプロポーズを受けたらしい。

 別れ際の彼女の台詞は『いい人だけど、男じゃない』。

「あはー、また言われちゃったー、って感じっすよぉ~」

 と自虐の笑みを浮かべる彼は痛々しかった。

 昔の私と同じ様。『今のお前は、妻と言うより母親だな。母親を抱く気にはなれないんだ』と言った、二年前の夫の台詞を思い出す。興信所を雇って夫の動向を逐一把握したり、携帯を盗み見たり、ナオコさんと直接対峙したり、あの頃の私は醜かった。決して、ヒデミ君の様に

「彼女が選んだ道なら、それでいいや」

 なんて、恰好つけでも言えなかった。自分の可哀想さに酔いしれて、彼の様に、自分を捨てた恋人の子供の心配までする優しさなんて微塵もなかった。

「あの子にとっては、たった一人のお母さんなのにな。もう記憶に残る歳だから、一緒にいた方があの子も後々自分の価値に不安や疑問を抱かないのに」

 そんな言葉が優しくて。これまでの彼のモニタ越しの言葉が、偽善ではなく誠意のこもった本音だったのだと改めて胸に沁み入った。


 したたかに酔った彼に肩を貸しつつ、京王線の改札まで送った。

「ヒデミ君、本当に一人で帰れるの?」

 彼はキャップのつばを後ろに被り直して姿勢を正すと

「だーいじょ~ぶでっす! ちょーっと、今日だけ甘えましたっ。本当は全然大丈夫っ」

 と言いながら、右方向へよたよたと足をもつれさせた。

「ちょっと、全然大丈夫じゃないじゃないの。少し、座って酔いを醒ましてから帰るのよ?」

 彼の腕を引き寄せて彼の転倒を防ぐと、不意に負荷が軽くなり、

「うん、ホントに大丈夫。ヒカルさんも、早く帰らないと彼がきっと待ってるでしょう?」

 と言ってそっと私の両腕から絡めた腕を引き抜いた。空になった腕が、空っぽだった自分の心の様に空洞を描いた。それを見てざわつく自分の波の正体が解らず、答えを求める様に彼を見上げた。

「今度は、僕がヒカルさんの困った時に付き合いますよ。今日は本当に有難うございました」

 彼は自分が言いたい事だけ言うと、鼻歌を交えながら改札の向こうへ消えていった。

 私は機械的に「ありがと、またね」とだけ口にして、ただ漫然と人ごみの中に掻き消えていく彼の後ろ姿を見送っていた。


 それが、私とヒデミ君との最初の出逢いだった。




 私の変化に一番最初に気付いたのは、夫ではなく母だった。

「小鳥、最近とっても生き生きしてるね。ヒデミさんとの定例ランチをする様になってから、すごく明るくなって、お母さん何だかほっとしたわ」

 今度、お母さんにもヒデミさんを紹介して頂戴、という母の言葉にチクリと胸の痛む自分がいた。

「うん、そうね。ヒデミちゃんは照れ屋さんだから、気長に待ってね」

 なんて誤魔化しながら、私はコラムの草稿を打ち込む事で胸の痛みを霧散させた。


 この在宅仕事は、所謂ゴーストライターなのだけれど、それに不満を感じた事はなかった。でも、最近は少し、嫌気の差している自分がいる。自分の名前で公表出来ればいいのだけれど、大作家先生の名でヒデミ君とあちこち回ったスポットを紹介しているのが、まるで彼との時間を安い原稿料で切り売りしている様な気がしてならないからだ。

 そんな話を母に愚痴ったある日、母は私の予想外の反応を示した。

「小鳥、その、ヒデミさんって、女性の方、よね?」

 躊躇いがちに問うその目は、明らかに私に対する不審の念が込められていた。

「やだ、何、急に話を変えちゃって」

 私は無理に笑って冗談めかしてそう受け答えたが。

「確かにね、光さんの浮気の件はあれだけど、だからって仕返しなんかしてたら、歩美ちゃんが一番可哀想なのよ、解ってる?」

「お母さん、いい加減にして。何言ってるのか解らない」

 私は、怒りを露にする事で母のそれ以上の追及を封じた。心臓が、ドキドキしてる。梅雨時のじっとりとした空気が、母の不審と相まって私の全身に絡みつく。長い沈黙の後、母がにこりと笑って口を開いた。

「ごめん、ごめん。ただね、親ってのは先に死ぬから、子供の事がいつまでも心配でしょうがないのよ。このまま小鳥を先に置いて逝けない、なんてね。あんまりあなた、最近綺麗になったからね、ちょっとね」

「……何をいきなり縁起でもない事を言ってるのよ、お母さんってば。まだ還暦も迎えてないのに」

 私の実生活での嘘下手は母譲りだったのだ、と知った瞬間だった。

 母は、気付いている。ヒデミ「ちゃん」ではなくヒデミ「君」だという事も、誰にも、彼本人にも隠している私の気持ちも、母は私の母であるが故に気付いている。

 邪魔されたくなかった。私の束の間のオアシスを、母に暴かれ消されたくなかった。

 非道にも、私は初めて母の存在を疎ましく思った。そして、その罪は私にそっくりそのまま返って来るのに、そう時間は掛からなかった。


 母とのそんなやり取りがおぼろげになる程時間の過ぎた頃。連日の酷暑の所為なのか、ようやく涼しさを感じ始めた初秋に母が倒れて入院した。私は、娘の延長保育も母の入院を理由に認められ、母の見舞いに専念出来た。それでも水曜日だけは、どうしても“自由”が欲しかった。心の中で、母と娘に詫びながら、それでも心は彼の元へと馳せていた。

 始めの内は、『自分の時間も時には必要』と好意的だった母も、いつしか双眸に不審の色を浮かべる様になっていた。

「小鳥、本当に綺麗になったわね」

 そんな他愛ないお世辞から始まった母の言葉。

「やぁねえ、そんなお世辞なんか言わなくても、ちゃ~んとばあばの面倒を見るから、大丈夫」

 キツイ冗談のつもりで答えた私に、母は瞳を閉じたまま釘を刺した。

「光君を裏切る様な事はするんじゃないよ。今は、あの子も生まれ変わってお前だけを守ってくれているのだから。でなきゃ、今頃私は此処にいられる筈がないんだからね」

「お母さん……な、に言ってるの……?」

 そう答える私の声は、とても、とても乾いていた。数ヶ月前の初夏のやり取りを、私は瞬時に思い出していた。声の抑揚、冷や汗の跡、強張った表情が嘘をついていると母に伝えていた。

 webではフォントしか見えないけれど、実生活での私は、とても嘘が下手だった。そして、母をとても悲しませた。悲しませたまま、あっけなく母を逝かせてしまった。ただの夏ばてから来る過労だと思っていたのに。『母を慕う、頼りない妻が知ったらショックを受けるだろうから』と、主人が主治医に母の病の正体を私に口止めをしていたと知ったのは、母が無言の帰宅をする間際だった。


 夫は、私の涙に含まれる、ありとあらゆる多くの意味を全く知らない。知らない、というより、興味が無い。

「こういう時に、人の器が知れるってもんだぞ。人様の前で泣くんじゃない」

 十も年の離れた夫は、遅まきの嫡子故に、随分と古風な考えの人だ。昭和一桁生まれの彼のお母さんの「忍び泣きならまだしも、いい歳をして号泣するのは」という言葉と重なり、私は母を荼毘に付しても尚、懺悔と別離の涙を母に捧げる事も許されなかった。


 心弱い私は、そのまま数日寝込んでしまった。姑が残ってくれ、娘の世話をしてくれた。

「歩美ちゃんのお母さんは、弱い人だからねえ。我慢してあげてねえ」

 その刺す様な言葉が痛かった。娘がまだ何を解らない赤ん坊である事が、義母の言葉を理解せず、記憶にも残らない事が救いだった。

 ヒデミ君に逢いたかった。彼なら、きっと解ってくれるだろう。失う辛さを知っている彼なら。内面から知り合った、魂の共鳴を感じる彼なら、きっと一緒に悲しみを分かち合ってくれるのだろう。


 病院に薬を貰いに行った帰り道、電車の待ち時間を利用して彼にメールを送った。

『母が、急逝しました。バタバタしていて連絡出来ずにいたままでごめんなさい。少し寝込んでしまっていて、今は病院帰りの電車待ち。また元気になったら連絡します。ヒカル』

 送信して、電車も来ない程の間髪入れない早さで携帯の着信音が鳴り響いた。

『ヒカルさん? 僕です。今、何処? 大丈夫?』

 二週間逢えなかっただけなのに、何て懐かしい声……。今、一番聞きたかった、穏やかでゆったりとした、心に沁み入る優しい声。

「渋谷。神経科だから、近所の病院はちょっと避けたくって」

『すぐ! すぐ行くから。そのまま、待ってて。いつものところで』

 ヒデミ君はそれだけ言うと、私の返事も聞かずに電話を切ってしまった。

 もう一度電話を掛け直して、断りを入れれば済むだけの事。私の理性はそうすべきだと告げている。でも。

 私は、到着した電車を見送った。ホームの人々に怪訝な顔で振り返られながらも、泣きながら電車を何本も何本も見送った。帰路の電車に、一歩を踏み出す事が出来なかったのだ。

 もう、家に母はいない。いるのは、私の悲しみを理解出来ない夫とその母親と、彼らがいる間は抱かせてさえ貰えない、無垢で何も知らない娘だけ。泣く事も悲しむ事も許されない、あの家に今はどうしても帰りたくなかった。


「ヒカルさん、やっぱ此処にいた……」

 あがった息でそう声を掛けられ、携帯を握り締めたままホームのベンチでうずくまっていた私は、ぐしゃぐしゃの顔をようやく上げた。

「ごめんなさい。ヒカルさんが困った時は、今度は僕が助ける番だ、ってずっと思ってて……彼氏さんの事、忘れてました。却って僕、余計なこ――」

 余計な事をした、なんて言わないで。気を遣って待たせたんじゃないか、なんて自己嫌悪しないで。飛び込んだ彼の腕の中で、私は何度も、ありがとうの言葉と一緒に、そんな彼の言葉を何度も否定した。誰の前でも泣けないの、という私に、彼は周囲の目もはばからず、恥ずかしいなんて言葉も口にしないでくれた。ただ、ずっと優しく私を包みながら、「いっぱい泣いていいんだよ」とずっと背中を撫でてくれた。「ヒカルさんは、独りぼっちじゃないんだよ」と――。




 例えば普通の出逢いなら、第一印象は容貌から。逢う時間を重ねる事で、そして語る言葉が互いの心に蓄積されていく内に、魂の共鳴の有無を確認する。

 だけど、ヒデミ君と私の様に、内面から出逢った場合は、そのセオリーから外れてしまう。始めに共鳴ありきで出逢った私達は、最初に外面の相違の驚きから始まった。実はヒデミ君は新米社会人の振りをしながら本当は二十八歳のいいおじさんだ、なんて笑って懺悔をしたり、私以上にさばを読んでいたんだ、なんて、私も迂闊に自ら彼に実年齢をばらしてしまったり、ビジネス文書を書き慣れてしまって、ついタイプする時には『私』になってしまうんだ、と職業病を嘆いたり、見た目は彼氏(本当は主人なのだけど)の好みでしとやかめだけど、実は子供の頃からおてんばなの、なんて事まで恥ずかしげもなく告白したり。

 根幹が共鳴しあっている同性ならば、きっと唯一無二の心友になっていくんだろう。そしてそれが異性であった場合、それと意識していくのは必然で……。


 童顔な彼の、少年の様に思い切り素直な笑顔が可愛かった。

 ヒルフィガーに拘る理由が、唯一の肉親だったお婆様が見守ってくれる気がするから、という愛情が私の心まで温めてくれた。初めてお婆様に買って貰った高価な服がそれで、当時とても嬉しくて、彼女が存命の間、買ってくれたその服を何枚もこっそり購入し、ずっと彼女の前で着続けていたそうだ。その優しさが、逢う度にどんどん好きになった。

『女性がアクティブなのは、既婚者の場合夫が馬鹿にされる』と主人にたしなめられて以来、あまり出歩いた事がなかった私を、ヒデミ君はあちこちに連れて行ってくれた。カラオケやボウリング、テーマパークにバッティングセンターまで。

「ヒカルさん、何時代に生まれた人ですか」

 彼は笑ってそんな私をからかう。その時の、一層下がる目尻が何だかとても慈しまれている様な錯覚に陥って――気がつけば、私は四歳も年下の彼に、恋していた。


「今思うと、僕はもしかしたら、あの頃彼女を失った事が悲しかったというよりも、彼女の子の気持ちになって嘆いていたのかも知れないです」

 若い子達に混じって、季節外れのアイスクリームを頬張りながら公園に向かって歩く道すがら、彼が突然ぽつりと漏らした。私は、意味を図り兼ねて問う様に彼の顔を覗き込む。

「僕も、捨てられた子なんですよ。望まない妊娠だったらしいんで、適当に名前を付けられちゃって。母に逃げられた父が、祖母に僕を預けたまま、父も行方不明になっちゃいました」

 人気の無い昼の公園のベンチに腰掛けて、彼はそう言って私を見上げてその隣を促した時、その内容にそぐわない爽やかな笑みを私に向けた。おずおずと、無言で隣に座る私から再び視線を足元に落とすと、残りのアイスクリームのコーンをカリ、と平らげ、その話もおしまいという様に顔を上げた。

「でもね。祖母が両親の分と、祖母としての分も併せて三人分の愛情を注いでくれたお陰で、まともな人生を歩めて、今もこうして笑えてる。何だかんだ言って幸せだな、って思うんですよね、僕は」

 と微笑む瞳が悲しかった。

「前に、ユーモラスなご両親、なんて茶化してごめんなさい」

 知らずに彼を傷つけていた事が、私の視界をぼやかした。

 彼は相変わらず垂れた目尻を一層下げて、私の手から、残ったアイスをさらうと、ぱくり、とそれまで平らげてしまった。

「僕は、幸せだな、って言ったんだけどなあ。そんな事言われたら、思い出しちゃったじゃないですか、ヒカルさんにまで名前を笑われた事」

 私は、()いた口が塞がらなかった。私が食べていたアイスを、ヒデミ君は子供みたいにぱく、と食べてしまった。その行為に驚いて、そして、何だか妙にドキドキして。

 それはまるで、『あなたのものは私のもの、私のものはあなたのもの』、そんなエロティシズムを感じる所作だった。クリームのついた指を嘗める仕草は、見惚れるほどに淫靡だった。そんな自分の妄想を払拭するかの如くバッグからウェットティッシュを差し出す私に、それで手を拭きながら、彼は言った。

「じゃあ、僕を『いい人』から昇格させてくれませんか? そしたら、その件は許してあげます」

 彼と別れて欲しい、とヒデミ君は言った。そして、貴女の本当の名を教えて欲しい、と。

「……」

 答える言葉が見つからなかった。私は、まだ彼を欺き続けている。彼を、失いたくなくて。乾いた日常の中の、束の間のこのオアシスを失いたくなくて、私に夫がいる事も、娘がいるという事も、覚られる事を恐れて住所も名前も、彼が問わない人のよさをいい事に、明かす事を避けていた。その罪深さを明示された様な痛みが、私に止め処ない滝を溢れさせた。

 同時にこみ上げて来る、懺悔の想いと矛盾する悦び。私の、自意識過剰な勘違いではなかった。素性も本名も何もわからない、ただ目の前にいる『私』という存在そのものを、彼は好きだと言ってくれた。『いい人を返上し、彼から奪ってでも』という想いを込めて、その言葉を私にくれた。

「有難う……」

 ようやく絞り出したそれは、私の汚さを象徴している様だった。彼がどう解釈するのか解っていて、狡い私は意図してそんな曖昧な返事をした。受け入れる資格は無い。だけど、失いたくはない。私は何て狡いんだろう……。

 ほろ苦い想いは、次第に彼のアイスクリームの味に侵蝕されて、私の思考を恋の喜悦へと変えていった。




 傍から見たら、いい年をしたおばさんが何を血迷っているのだと嗤うのだろう。

 だけど、私はヒデミ君のお陰で、初めて本当の自分をたくさん知る事が出来た。何事も『こうあるべき』と一方的に押し付ける夫と過ごして来た時には、こんな経験は皆無だった。

 彼の腕に腕を絡ませるよりも、指を絡めて繋ぐ方が好き。

 ヴィトンやサンローランのブランドのバッグよりも、安くても機能的なユニクロのバッグの方が好き。

 フレアでエレガントなスカートよりも、楽に動けるジーンズが好き。

 上品でしとやかに見えるロングヘアよりも、活発で明るく元気に見えるショートヘアの方が心の方も元気になる。


 気がつけば、私は夫に幾分かは自己主張が出来る様になって来ていた。言いたい事が以前よりは言える分、心の負担も軽くなった。夫の苦虫を潰した様な顔に怯える気持ちも少しだけ小さくなっていった。

「小鳥さん、最近のコラム、いい感じですねえ。外の空気を吸って、色々見て回る事で、見識の広さが物凄く文面と着眼点に出て来てる」

 コラムで紹介した場所の写真を取りに来た在宅仕事の担当氏が、そんなお褒めの言葉を下さった。勿論、相手は男性の為、きっと会社の指定休日でしょうに、夫の強い意向で彼の休日である日曜日に来て戴いている。

「まあ、最近は平日によく遊び歩いているみたいですので、遊びネタには事欠かないんでしょうが、家庭人としてはどうか、と私としては思うんですけどね」

 と担当氏に釘を刺す様に夫が言うのを、私は聞き逃さなかった。「でも」と言い掛けた私より先に、担当氏が、それに対して返答の言葉を発していた。

「いやいや、ご主人、奥さんは近頃本当に若々しくなられて、ご主人としても喜ばしい事じゃあないですか。二十代の奥さんと言っても誰も疑いませんよ、きっと。それだけよい暮らしをご主人がさせてあげている証拠でしょう」

 そのよいしょに機嫌を直した夫と、理不尽な男尊女卑的私見をのたまう担当氏の顔をちら、と窺いながら、私は不快感に満ちた思いで二人にコーヒーを差し出した。




 今朝は娘が保育園に行くのは嫌、と愚図って、出足が少し遅れてしまった。いつもの場所への到着が、三十分程遅れてしまった。心の半分はヒデミ君に、もう半分は、また歩美が神経熱を出したと、保育園から呼び出しがあるだろうかと言う心配が占めていた。

 モアイの前で、いつもの紺のキャップを被って待っている彼は、いつもと違ってうな垂れていた。ガードフェンスに疲れた様に腰掛けて、両膝に肘をついて、俯いたまま動かなかった。一瞬声を掛けるのが躊躇われたのは何故だろう? 自分でも変だと思いながら、彼に近づく一歩を踏み出した。

「ごめんね、出掛けに電話が掛かって来ちゃって……? どうしたの?」

 私の声に気付いて、顔を上げた彼の目は、ほんの少しだけど腫れていた。

「先週、ヒカルさん、入稿直前で逢えなかったでしょう? 何か、二週間ぶりとか思ったら、ドキドキして眠れなくって」

 寝不足で目が腫れぼったいのだと言いたいらしい。ちょっと疑わしい気もしたけれど、その言葉が嬉しくて、真に受けてしまう事にした。朝の、歩美が思う通りにならないという苛々が、彼の一言で吹き飛んだ。


 だけど、ほんの数時間で現実は私をオアシスから砂漠の真ん中へと無理矢理にでも引き寄せる。

 緊急という意味合いを込めて、初期設定の着信音に設定しているのは、娘を預けている保育園からのもの。心の中で、溜息と焦燥が入り混じりながらも、ヒデミ君にゴメンというポーズを取って、反対を向いて電話に出る。

「はい」

『あ、歩美ちゃんのお母さんですか? 保育園の木南です』

「お世話になってます。もしかして……?」

 彼に覚られない様、言葉を選ぶのに私は必死だ。

『ええ、まだ七度五分で微熱ではあるんですけど、今朝ほど愚図っていたと仰っていた通り、神経熱ではないか、と思うんですよ。お母さん、今日は一日傍にいてやった方がいいかな、と思いまして、お迎えのお電話差し上げた次第です』

 タイムリミット。二週間ぶりに、やっとヒデミ君と逢えたのに。

「解りました。出来るだけ早く伺います。それまで、すみませんが宜しくお願いします。ご免下さいませ」

 溜息をつきながら電話を切り、バッグに携帯をしまいこむと、ヒデミ君の方から「仕事?」と質問された。

「うん、ごめんね。至急打ち合わせがしたい、って断り切れなかったの」

 そう言ったまま、帰る、と言えばよかったのだ、私は。そのまま、彼の目を見なければ、それ以上何もなかった筈なのだ。

「どうしても、断れない……かな?」

 そう食いつくヒデミ君の、そんな縋る様な目を初めて見た。やはり、目の腫れは寝不足なんかではなく、何かあったのだ。

「やっぱり、何かあったんでしょう?」

「僕は……どうしたらいいか、解らない。誰かを憎んだり恨んだりしたくはないし、でも、自分もただのいい人になんかもなりたくない」

 子供の様に泣きじゃくるのは、きっとそれだけの何かがあって、感極まってしまったのだろう。

「ちょ……っと、ほら、ヒデミ君、皆が見てる。ほら、ね、解った。大丈夫、傍にいるから。とにかく、落ち着こう? 家にいる方が落ち着くなら付き合うから」

 当分泣き止みそうに無いので、已む無く私はそう提案した。


「前に話した、子連れの恋人だった彼女から、やり直してくれ、って電話があったんです」

 彼女は結婚詐欺にあったんだそうだ、と、彼のアパートでキッチンを借り、紅茶を淹れる私に、背中を向けたまま彼は言った。途端にざわつく私の心――自分が曖昧にしている癖に、見たことも無いヒデミ君のかつての恋人に、憎悪と侮蔑の炎が胸の内に瞬時に灯った。

「ヒデミ君、優しいから。彼女とやり直すから、って私に言いづらかったの?」

 お姉さんらしく、穏やかに、虚勢を張りながら淹れた紅茶をテーブルの上にそっと置いた。その手が震えている自分が何とも情けなくて、すぐにその手を引っ込めようとしたが、彼にその手を取られてしまった。

「違います――本当に、ただ、どうしていいのか解らなくて」

 振りほどこうとする手を、彼らしくもなく、決して離そうとはしなかった。それがとてつもなく嬉しい癖に、私の口は、正反対の言葉を勝手に紡ぎ出す。

「どうして? ヒデミ君の思う通りにしていい、と私は思うわ。悩むって事は、まだ彼女に気持ちが残っているという事なのだから――」

「違うんです。彼女に断りの言葉を告げるのは簡単です、でも……もし、僕が彼女の望む返事をする事で、あの子がまたお母さんと暮らせる様になるなら、僕は大人として、我を抑えるべきなんじゃないか、という気もして、でも、愛してもいない人と暮らして、あの子が傷つかないかどうかも解らないし、だからどうしていいのか解らなくて……ヒカルさん、僕は、どうしたらいい?」

 そういう、事なのか……。

 私に、引き止めて欲しいのだ、彼は。頭で答えは解っている。ただ、その子供と、彼の幼少期がシンクロし過ぎて、感情が思考についていけないのだろう。

「私も、自分の気持ちが混じってしまうから、正しいかどうかは解らないわ……でも」

 彼は私の長い沈黙後のその一言に、私を困らせたと思ったらしい。

「え……あ、ご、ごめんなさい。い、今の、無しでいいですっ、ごめんなさい。困らせるつもりじゃなかっ――」

 私が悪いの、だから、ヒデミ君が謝らないで。言えない言葉を紡ぐ代わりに、謝る彼の唇を私のそれで封じ込めた。

「その子は、ヒデミ君じゃあないから。お願い。私の傍にいて」

 彼の瞳がゆらゆらとたゆたう。

「僕は……こんな頼りない子供みたいな優柔不断で、甘ったれてて、いい人どまりで、それから」

「そういうヒデミ君が、好き」


 妻より、母よりも、女を優先する自分の浅ましさに唾棄しながらも、私は彼を手放せなかった。僅かな期待を寄せていた。

 “彼と一緒なら、私は()べるかも知れない”と――。


 出会ってから丸一年目のその日、彼と私は結ばれた。




 因果応報――良くも悪くも、過去の行いが廻り廻って必ず自分のもとに結果が返って来る、という意味。


 家庭と言う鳥かごから、私は翔び立ちたかった。自力で生活出来れば、娘と二人だけならどうにかなる、と思っていた。もう、命令されて、がんじがらめにされて、自分を失くして病んでいくのは、嫌。


 在宅仕事の担当者に、勇気を出して頼んでみた。

「一度だけでいいんです。一度だけ、私自身の名前で、コラムの枠を戴けませんか」

 電話の向こうの長い沈黙が、既にノーと告げていた。

『しかしね、契約を交わしているでしょう。ご主人も、先生の名前という事でなら、と渋々サインをして下さった手前、私としてもご主人のご意向を内密に覆すなんて申し訳なくてねえ』

「私もチャンスが欲しいんです。先生のお名前だから好評なのか、それとも私自身の――」

『小鳥さん、家の先生はね、何も貴女に頼んでコラムの題材を拾って(・・・・・・)貰っている訳ではないのですよ。それ以上仰るようでしたら、先生に対する名誉毀損に値しますが』

 題材を拾って、って……私が書いた原稿をそのまま載せているだけじゃないの――なんて事は言えなかった。ゴーストライターなんて腐るほどいる。これ以上反感を買ったら、私などこの業界から一生追い出されてしまうに違いない。

「不躾な事を申しまして、申し訳ありませんでした。どうか、これに懲りずまた――」

 電話は、私の話の途中で切られてしまった。


 一戸建に引っ越そう、と主人が言い出したのは、母の一周忌を終えて間もなくの事だった。

「え……突然、どうしたの? 此処のマンションのローンだって、まだ残っているのに」

「いい物件を見つけたんだ。結構いい値段で此処も買い取ってくれる。実はもう契約書を交わすだけなんだが、一応小鳥の意見も取り入れてやらないと、と思ってね」

 相変わらずのマイペースに、私は軽い眩暈を覚える。意見を取り入れると言いつつ、もう決めてしまっていると暗に言っているではないか、という憤りから。

「歩美はどうするの? やっとお友達が増えて保育園が楽しくなって来たのに、また一からお友達を作り直すなんて、あの子が可哀想じゃないかしら」

「保育園に預けっぱなしで、母親に放っておかれるよりは、次はお前が無職で保育園に入所も出来ないし、お前の傍にずっといられて歩美にとってもいいと思うんだけどね」

 夫は、含みのある視線で私の瞳を直視した。私の背中にぞく、と悪寒が走る。全身に粟立つ不快な感覚が電気の様に走った。

――この人は、何処まで何を知っているの?

「……言われてみれば、それもそうね。それに、此処はナオコさんも知ってる場所だから、彼女の知らない場所に引っ越すのも悪くないかも」

 飽くまでも対等であろうと、既に自分の中ではどうでもよくなっているナオコさんの名前を口にした。少しでも、夫の疑いを逸らしたくて、瞬時に巡った尤もらしい弁で、彼の追及を逃れようと私は足掻いた。

「久しぶりにその名前を聞いたな。小鳥は、まだ妬きもちを妬いてくれるんだ」

 あれは、お前が育児優先で寂しかった間の浮気程度の事で云々と言い訳をしながら、私を抱き寄せる夫の手に『耐え』た。此処で夫の手を拒否したら、何かを勘付かれる気がして恐ろしかった。狙った獲物は逃がさない、と社内で評価の高い彼は、プライベートでも同様だから。鷹の目をした夫の双眸を、ヒデミ君に向けさせたくなかった。

「私の妻は、お前だけだ」

 そう言いながらまぐわう夫の言葉など、私の心には届かなかった。支配と愛情を勘違いしている、夫の『愛情』など、要らない。自分の足で立つ力をつけて、娘を養えるだけの力をつけるまでは、ヒデミ君の存在を夫に覚らせる訳にはいかない。その一念で、今ではおぞましささえ感じる夫との交わりに、私はただひたすら耐えていた。




 戸建住宅の見学に行くのは、てっきり主人の休日である日曜日だと思っていた。

「え……、今日、今から? そんな急に? でも、私、約束が……」

「ああ、前にお義母さんから聞いていたな、そういえば。ヒデミさん、だったか? 食事友達とは、毎週会っているんだろう? どちらが優先すべき大事な事か、幾ら小鳥でも、それ位解るだろう。家は一生の買い物だぞ?」

 理路整然と正論を述べる彼に、尤もらしい反論が思い浮かばなかった。

「……解りました。じゃあ、断りのお電話を入れて来ます」

「ああ、もうすぐ出るから、移動中にでも携帯から伝えればいいだろう。お母さんを待たせてるんだ。すぐに歩美の出掛ける準備も済ませてくれ。私は車を回して来る」

 最初から私の返事など聞く必要が無いという彼の意思が、歩美を抱き上げ玄関の扉を開けながらそう告げている事から判った。待たせたら、また執拗に長時間責め続けられるのだろう。

 私は沈んだ気分のまま、普段から纏めてある娘のお出掛けグッズ一式を入れたバッグを肩に背負って、部屋を出た。


 考えてみればおかしな話だった。水曜定休なのが多い筈の不動産会社に、夫が何故、敢えて水曜日を当てて現地見学などと言い出したのか。突然の思いつきにしては、あまりにも用意周到が過ぎていた。既に打ち合わせ済みの夫の母親の事にしても、不動産会社に無理を言って現地を案内させる段取りがついている事にしても。

「こちらが、今回藤島様がご契約される物件でございます」

 そう言って担当とおぼしき職員に案内された二階建ての住宅は、随分と広くてダイニングを除いて五部屋もある。広いカウンターキッチンは、流石に私もときめいた。

「まあ、ヒカ君、ステキじゃないの。私、このキッチンが気に入ったわ」

 え……?

 義母の言葉で、私は思わず主人の目を真っ直ぐ見てしまう。

「歩美もこれからが一番可愛い盛りだ。君のお義母さんの世話をさせて貰ったのだし、新居を構えるのを機会に、私も高齢の母親に、いい加減親孝行をしないとと思ってな。小鳥もお義母さんの事を思い返せば、当然同意してくれるだろう?」

 それは、暗に彼の母親との同居を示唆していた。あまりに突然な夫の話に、私は絶句していた。返す言葉もないまま、彼は担当の職員に向き直って、契約の話を進めてしまった。

「母も妻も気に入ったようです。キッチンは女の城、という木下君のアドバイスを聞いてよかったですよ。そこだけが、気掛かりでしてね」

 ところで、木下君は――それ以降の話を、私は聞く事が出来なかった。

 会話から、家の担当の方だとばかり思っていた職員がそうではないと判った。木下なんて、よくある苗字だと自分に言い聞かせても、“木下”という人が言った、女性を思い遣る言葉に、男性から滅多に聞かれない配慮だと感じる自分が、一つの恐ろしい推測を私の中に芽生えさせていた。そして何より、そんな言葉を素直に聞き入れて契約をしなかった夫の行動そのものが、私を恐怖と言う爪で絡め取っていた。


「じゃ、小鳥。歩美はお母さん達に任せて、私達は事務所へ行こうか。契約書をお前もひと通り読んだ方がいいだろう。家計のやりくりはお前だからね」

 その時、職員の携帯電話が鳴った。私達に会釈をして、小声でやり取りをしていたが、一つの固有名詞が私を絶望の渕に堕とした。

「お、ヒデミ、丁度よかった。契約待ちの藤島様がお見えなんだ。契約されるそうだが、お前さん、今日は休暇取っていたんじゃなかったのか?」

 その時私を見下ろして浮かべた夫の歪んだ笑みを、私は一生忘れないだろう、と思った――。




 気まずさのオーラは、きっと事務所全体に漂っていたのだろう。誰も、私達のテーブルに近づく者は無く、受付の女性が、申し訳無さそうにコーヒーを三つ運んで来た後は、ヒデミ君が言葉少なに契約書の説明を行い、主人は契約書に必要事項を書き込んでいた。

 記入しながら、作り笑顔で主人は問う。

「木下君には、いつも妻がプライベートでお世話になっているそうだね。妻も随分明るくなって、私も君には非常に感謝しているよ。何故最初に話してくれなかったんだ? 水臭いじゃないか」

 一回りも年回りが違うのに、大人気ない。自分の事を棚に上げているのを理解しつつも、私は口を出さずにいられなかった。ヒデミ君は、被害者だ……私の。

「お母さんから聞いていたんでしょう? ネットを通じて知り合った友達だ、って。私は彼に、本名も何も教えてなかったから、気付かなかっただけで深い意味は無いのよ」

 契約書を書き終えた夫は、それを彼に向けて差し出すと、それをチェックし続ける彼の頭上から余裕の笑みを湛えながら、私ではなく彼に答えた。

「友達、ね、なる程。それは失礼した。小鳥に紹介した事があったかな。海藤興信所の海藤君。彼がね、ちょくちょく君達を渋谷で見掛けたなんて言っていた言葉に含みを感じたのだが、誤解で大人気ない物言いをしてしまった様だ。済まなかったね。これからも、友達として小鳥を宜しく頼むよ」

 友人として積もる話もあるだろう、夫はそう言って出て行った。


 海藤なんて人は知らない。そもそも彼に友人がいたなんて事さえ知らない。他者をライバルとしか見ない夫しか、私は知らない。敢えて『興信所の』と添えられた言葉が、全て露見していると示唆している様にしか思えなかった。

 ヒデミ君は、私よりも余程“大人”だった。蒼白の私の気分を心配し

「大丈夫ですか? お茶をお持ちしましょうか?」

 と、飽くまでも顧客と請負業者の関係に徹していた。

「ヒデミ君、あのね……」

「あ、すみません、これね、ヒデヨシって読むんです。豊臣秀吉の新旧混在って感じで、よく笑われるんですよね」

 契約書の担当者名に記された彼の名を指差して、彼は俯き加減で乾いた笑いを漏らした。

「娘さん、今度二歳になられるそうですね。ご主人が、これから一番可愛い盛りになるから、って仰ってましたよ。お母様に親孝行されたい、と。ステキなご主人ですね」

「待って、あのね」

「僕は早くに両親を亡くしてるので、親孝行出来るご主人や、奥さんが羨ましいです」

「……ヒデミ君が“奥さん”なんて呼ばないで……」

「ヒカルさんって、『彼』じゃなく、『ご主人』のお名前だったんですね」

「……」

 ヒデミ君にしてみれば、私を何と呼んでいいのか解らないに決まっていた。今の私は、のっぺらぼうだ。彼にしてみたら、姿かたちが同じだけの、全くの別人にしか見えないだろう。

「自分の力で立てるまでは、主人から逃げ出せるまでは、全部、隠しておきたかったの。ごめんなさい。傷つけるつもりじゃ、なかったの」

 絞り出した言葉は、言い訳でしかなかった。私の声は、震えていた。私の手足は、冷や汗でびっしょりと湿っていた。この期に及んで、まだ彼を失いたくないと足掻いていた。

 彼は、相変わらずの笑みを湛え、一層目尻を下げて、心地よく響くゆったりとした声で歌うように囁いた。

「傷ついたのは、ご主人ですよ。僕は、傷ついてなんかいません。だから、僕の為に泣かないで下さい。泣かれたら、僕が貴女を傷つけた事になってしまいますから」

 傷つけられる痛みを知っている彼らしい言葉だった。何よりも、誰かを傷つける事を恐れる、優しい彼らしい言葉だった。

「娘さんを、第二の“あの子”や、第三の僕にしないであげて下さいね」

 さよなら、小鳥さん――。


 それが、最初で最後に、彼が私の本名を呼んだ時の言葉になった。

 その日から、私の『水曜日のオアシス』は消えてなくなった。




 メッセンジャーのアカウントも、blogも全て削除した。私は新たに「ことり」というハンドルネームで、相変わらず虚構を交えて澱みを吐き出す。却って本名の方がハンドルらしい事を逆手にとって。主人もまさか本名でこんな事をしているなんて、夢にも思わないだろう。日常を書く事を一切止めて、一遍の詩を綴る様に、赤裸々な想いだけを綴って暮らした。

 ヒデミ君を失くして初めて解った。彼を逃げ場にしていたという事。そして、逃げ場から本当に彼の傍らにいたいと変わっていった自分の心も、過去を振り返って綴ろうとした手が、震えと涙で進まなくなった事で、私は初めて気がついた。

 あんな別れ方をして、きっともう彼に私は憎まれている。彼のかつての恋人以上に、私は酷い仕打ちをした。

 主人に知られ、彼に何か手を下しはしないかという恐怖も相まって、電話番号とメールアドレスも変えてしまった。それでも、彼の連絡先をアドレス帳から削除する事が出来なくて。


『翔べない翼

籠の小鳥


いつかあの扉を開けてくれる誰かを

今日も私は待っている


此処から逃がしてくれる誰かを

今日も私は待っている』


 blogのタイトルを『翔べない翼 籠の小鳥』と題して、不埒な本音を書き殴った。

 お願い、私を探して。此処から連れ出して。


 私は、四人もいる家の中で、独りだった。「まんま」と私を呼んでくれていた歩美は、今では義母を「ママ」と呼び、私を「ちいママ」と呼んで、「ママ」の忙しい時だけ私に甘えに来る程度。夫は部長職から更に昇進して経営陣に加わって以来、一層帰宅する事が稀になっていた。


 “hidemi”というペンネームで応募した恋愛小説が佳作を取った。それは、私が将来描いていたヒデミ君との夢物語で。泡の様に消えてしまった夢が、こんな形で残ると思わなかった私は、書く、という行為で生気を取り戻した。それを足掛かりに、ゴーストライター生活にも、引きこもった生活にもピリオドを打ち、その出版社に日参して原稿を持ち込んでは指導を受ける日々を送っていた。


 寂しいと思わない日はないけれど、少しずつ、『誰かに何かをしてもらう』のではなく、『自分が何かを成し得る』事に、喜びを見い出していった。

 私の中に、ヒデミ君がいる。もう彼に償う事は出来ないけれど、私が弱く傷つき易い事で彼が傷つくのなら、強くアクティブな自分を自分らしく貫きたい、それが今の私の生き方だった。

 誰かや何かに縋るのではなく、私が私らしく生きればいい。

 次第に『ことり』のblogが更新される事も少なくなっていった。




 幾つかの作品が集まって書籍化の話が実現し、発行部数が極少ながらも、自分の夢が一つ叶ったと喜んだ時、既に娘は小学生になっていた。

 私は「藤島小鳥」から、「飛騨小鳥」に戻っており、月に一度だけ、娘を元の夫の家に送り届ける生活を送っている。

 勿論、喧嘩別れなどではなく、たくさんの話し合いを重ねた上での合意離婚だ。

 話し合ってみて、初めて夫の素顔を知った。見合い結婚だった私達、私はただ母を安心させたい一心で、母の進めるままに結婚したのだが、そういう気持ちはずっと主人に伝わっていたらしい。

『どうしたら、小鳥が自分を見てくれるのか解らなかった』

 と、彼に言われた時、初めて彼が、その年齢差を気にし、あの頃ヒデミ君の若さに嫉妬したという告白を聞いて夫の弱さを垣間見た。初めて、彼の母親に歩美を生んだ時「男の子を産めないのか」と言われた事を、彼が義母に替わって謝罪した。

 自由にしてやる、と相変わらずの傲慢な口調だったが、彼の精一杯の私への愛情だと受け取った。


 しとやかで貞淑な妻は、本当の私の姿ではない。あれ以来伸ばした事のない髪は、相変わらず私の身体も心も軽くした。

 もう、『翔べない翼 籠の小鳥』のblogも必要がなくなり、そのアカウントも削除した。


 編集部から、幾通かのファンレターが届いた、とまとめて郵送されて来た。嬉しくて、すぐに封を開けて中を見る。

 手紙の束の一通が、差出人不明になっていた。でも、今でも忘れない、懐かしいその文字は――。

 やはり、それは彼からのものだった。手紙を読む前に、同封された写真で解った。

 幸せそうに、子供たちに囲まれて満面の笑みを浮かべる少年の様な垂れ目は相変わらずで。

 はやる気持ちを抑えながら手紙を広げた。




 敬愛なるhidemi様こと小鳥さんへ

 あなたの作品の数々からお元気な様子がうかがい知れ、心から嬉しく思いながら、全ての本を購入させて戴いてます。

『籠の鳥』から、自らはばたかれた事を機に、勇気を持って手紙を書こうと思い立ちました。


 有難うございました。

 本当の僕は、過去に囚われたままの小さな小さな甘ったれの子供でした。傷つけるのが怖いのではなく、自分が傷つくのが怖かった臆病者でした。

 貴女が飛び立つ過程を、小説を通じて拝しました。僕にしか解らない言葉で、貴女が幾度と無く僕に送ってくれたメッセージだと受け止めています。


 今の僕は会社を辞め、資格を取って、不登校の子供達の為のフリースクールに再就職をしました。まだ、認知度が低く困難を極めている分野ではありますが、子供達の笑顔が何よりの励みになっています。

 僕が欲しかったものを、彼らに与える事で癒されるのが不思議です。

 まだまだ、なんですけどね。


 いつか、友人として再び小鳥さんの前に立てる様な、自分に自信を持った一人前になるのが今の僕の目標です。まだ、時々子供達に名前の事で笑われると凹む自分がいるのが情け無いので、今は居所を伏せておきます。

 どうか、更にはばたいていって下さい。

 一ファンとして、応援し続けています。


 木下秀美




「なーに、お母さん、そんなに感動的なファンレターでも貰ったの?」

 すっかり生意気な口を利く様になった娘が、私の横から、ヒデミ君の手紙を覗き込む。

「お? 何、知り合い? お母さんの本名知ってるじゃん」

「むふー、お母さんのね、初恋の人っ。お母さん、この人に住所を知らせてなかったから、編集部に手紙をくれたみたい」

 シングルマザーだからと言って、私の時の様に『お利巧さん』にならない様に、私は歩美に赤裸々な自分を晒している。

「あー、これか。太閤サマのヒデミ君」

 娘は小馬鹿にした様に私を見下すと、甘ったれの何処がよかったんだか、と大人顔負けの物言いで、中身を読みもせずにキッチンへドリンクを取りに行ってしまった。

「そーいうあなたも、三好君なんてめっちゃくちゃあなたに弱い『へたれ君』じゃないのー」

「あれは、私に対してだけ『へたれ』なのっ。一応、男子には恐れられてる子なんだから」

「年下キラー……」

「母親譲りです~」


 こんな私達を見て、ヒデミ君はどう思うのだろうか。彼の癒されなかった傷が、少しは癒えてくれるだろうか。

「ね、いつかさ、ヒデミ君に一緒に会いに行こうよ」

「やだよ、私、思いっ切りお邪魔じゃない」

「あなたがいる事に意味があるのよ」

「何それ。日本語話してよ。お母さんってさー、時々意味不明な事言うよね。それで本当に作家?」

「彼はね、親に愛されてる子を見て幸せ感じる子なのよ。恋愛はもう、どうでもいいの」

「だね。もういいおっさんだもんねー」


 ヒデミ君、今度は私が探してあげる。心友として、あなたに幸せを分けに行くから。

 雲ひとつ無い晴天の空、私は同じ空の下の何処かにいる彼に、新たな気持ちで思いを馳せた。

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