カナさん
壁から無尽蔵に出てくるペースト状の何かが食料だ。
排泄物や土を混ぜたような、鉄錆の味がする。
毎回、嗚咽しながら無理やり口に押し込む。
自分の排泄物を食べるのは、なんか嫌だが仕方がない。
そんな時だった。
枕元のパネルから、ノイズ混じりの声が聞こえてきた。
「……もしもし?繋がった?」
若くて、ひどく疲れ切った、でも優しい女性の声だった。
彼女は、自分を「カナ」だと名乗った。
半年前まで保育士をしていたこと。そして、お腹の中に新しい命が宿っていること。
寂しくて、通信ボタンを押しまくっていたことなどを教えてくれた。
通信ボタンがあったことを何故か父は教えてくれていなかった。
暗く熱い鉄の箱の中で、私たちは数日間、とりとめもない話を続けた。
「ねえ、私の指輪、持ってきたら火傷するかもしれないからダメって言われたんだけど、内緒で持ってきちゃったの、とっても綺麗よ。暗くてよく見えないけれど、触るだけで夫との約束を思い出せる。この子が生まれたら、この指輪を見せてあげたいの。世界にはこんなに光るものがあったんだよって」
「え?!火傷は?」
「全く?やっぱり神経質すぎるのよ、あの人は」
彼女の語る希望は、私の喉を焼く熱気を、一瞬だけ忘れさせてくれた。
彼女が笑うたび、私も明日を生きる理由を見つけた気がした。
けれど、四日目の朝。
赤く点滅するライトの下で、通話ボタンを押しても、聞こえるのは冷たい静寂だけだった。
「カナさん? 起きてる?」
返事はない。
代わりに、壁の供給口が重々しくうなりを上げ、いつものドロドロとしたペーストを吐き出した。
お腹が鳴る。生きるために、食べなければならない。
私は泣きながら、その汚物のような塊を指ですくって口に運んだ。
――ガリッ。
奥歯に、石を噛んだような硬い感触が走った。
異物。
吐き出した掌の上には、赤黒いペーストにまみれた「何か」が転がっていた。
私はそれを、震える指先で拭った。
赤いライトにかざすと、それは熱で半分溶け、歪んで、しかし確かに銀色の輝きを放っている。
中央に埋め込まれた小さな石が、一つだけ、虚しく光っていた。
それは、昨日まで彼女が愛おしそうに話していた、結婚指輪のように見えた。
「あ……」
口の中に残る、鉄錆の味。
昨日よりも、ずっと濃い、鉄の味。
私は何を食べている?
彼女はどこへ行った?
胃の底からせり上がってくる熱い塊を抑えられず、私はカプセルの床に、さっき食べたばかりの「彼女」をぶちまけた。
酸っぱい臭いと、混ざり合う鉄の臭い。
狭い空間に充満する死の香りに、私は狂いそうになって壁を叩いた。
「出せ! ここから出してよ!!」
返事はない。
ただ、壁のライトが心臓の鼓動みたいに、赤く、赤く点滅しているだけだ。
それから、何日が過ぎたのか。
結局、私は食べてしまった。
吐き出したものを、数日後、空腹に耐えかねて、泣きながら指ですくって飲み込んだ。
生存本能が、汚物のようなペーストを欲する。
「ただの栄養素だ」
自分に言い聞かせても、喉を通るたびに「自分ではない誰か」が体に入り込むような、形容しがたい違和感が走る。
咀嚼が怖い。
また何か硬いものが、誰かの体の一部が、歯に当たるのではないかと。
ふと、自分の指を見た。
……爪がない。
いつの間にか、自分自身の爪を剥いで食べていた。痛みすら、この暑さのなかでは麻痺して判らない。
カプセルの冷却液が切れたのか、床はもはや私を焼き上げるフライパンだ。
背中の皮膚がジュクジュクと音を立てて床に癒着し、もはや自分が人間なのか、この熱い鉄の箱の一部なのか、境界線が溶けていく。
「あは……あははは!」
笑いが止まらなくなった。
脳が沸騰しているみたいに熱い。
視界がぐにゃぐにゃと曲がって、点滅する赤色が、昔みんなで見た花火みたいに綺麗に消えてゆく。
「お父さん、見て。私の手、とっても小さくなったよ……」
意識が、熱の中に溶けて消えていく。
私はもう、私じゃない。
ただの、次に繋ぐための「材料」だ。
壁のライトが、静かに消灯した。
【カプセルCV-231:生命信号、消滅しました】
無機質なシステム音声が、誰もいない空間に響く。
【これより、カプセルCV-167に食材提供を開始します。再資源化プロセス、作動】
ゴリッ。
グチュガチュザシュッ。
重苦しい粉砕音が響き、新鮮な「ペースト」が隣の配管へと送り出されていく。
その中には、誰にも気づかれることのない、半分溶けた銀色の指輪が混ざっていた。
ピー、ピー、ピー……。




