第9話「王都からの手紙」
朝の訓練場に、封蝋の割れる音が響いた。
ディルクが執務室の机の上で封書を開いた時、私はまだ廊下にいた。毎朝の報告書を届けに来たディルクとすれ違う形で、団長室の前に立っていた。
扉が開いていた。
机の上に、深い紺色の封蝋の破片が散っている。王都行政府の紋章。公文書だ。
「入れ」
ディルクの声は短かった。いつもの簡潔さとは違う。何かを押し殺しているような硬さがあった。
私は一礼して室内に入った。
ディルクが羊皮紙を差し出した。
『辺境騎士団付文官ベアトリス・ホルン伯爵令嬢に対し、騎士団予算報告に関する調査のため、速やかに王都への帰還を命ずる。発令者、王宮財務局次長マルティン・ゲルハルト』
三度読んだ。
一度目で意味は分かっていた。それでも三度読んだのは、文字を追う作業で胸の奥の軋みを塗り潰したかったからだ。
「……騎士団予算報告に関する調査、とあります」
声を平らに保った。報告の形式で話せば、感情は業務の外に置ける。
「ああ」
ディルクは窓に背を向けたまま答えた。
「昨夜の補給隊の便で届いた。俺が先に開封している」
文官宛の公文書を団長が先に開封すること自体は、辺境の慣例として逸脱ではない。だがディルクの声には、慣例とは別の何かがあった。
「発令者はマルティン・ゲルハルト。財務局次長です」
私は羊皮紙を机に戻した。
その名前に、記憶がある。王宮で台帳管理をしていた頃、数度だけ事務的な接触があった人物だ。丁重で物腰の柔らかい官僚。それ以上の印象はない。
だが、四半期報告書で見つけた予算の異常。三年前に新設された辺境騎士団特別補填費。入金記録はあるのに物資の受領記録がない。その報告書を正規ルートで監査局に送ったのは、二週間前だ。
公文書の到達に七日から十日。報告書が届き、それに対する反応として召還命令が発令され、さらに七日から十日をかけて辺境に届いた。時系列は合う。
私の報告書が、誰かの目に触れた。そしてその誰かは、私を王都に戻したがっている。
「団長。この召還命令の発令根拠ですが、騎士団予算報告に関する調査とあります。しかし、私の配属辞令は王宮府経由です。財務局に文官の人事権はありません」
「ああ。だから形式上は拒否できる」
ディルクの返答は早かった。まるで昨夜のうちに何度もその言葉を確かめていたように。
「だが、拒否すれば次は王宮府の名で来る。財務局次長にはそれだけの根回しができる人間だ」
沈黙が落ちた。
ディルクは窓の外を見ていた。訓練場では騎士たちが朝の準備をしている。交代制が定着してから、朝の空気は以前より穏やかになった。
「ベアトリス」
「はい」
「……行くべきだ」
その一言が、胸に刺さった。
ディルクの横顔は動かなかった。窓の光が銀灰色の髪を照らしている。
「お前がここでやった仕事は、全部形になっている。勤怠表も交代制もシフト表も、手順書が残っている。俺たちだけでも回せる」
嘘だ、と思った。
勤怠表の更新も、四半期報告書の照合も、補給申請の差分管理も、今の時点で私以外にできる人間はいない。手順書があっても、運用する人間がいなければ制度は三ヶ月で形骸化する。
ディルクもそれを知っているはずだった。
それでも「行くべきだ」と言った。
私を送り出すために。
「……承知しました。検討します」
それだけ答えて、団長室を出た。
嘘をつかれたことが痛いのではなかった。嘘をついてまで私を守ろうとしていることが、名前のつけられない場所に触れた。
午後、倉庫棟に向かった。
オルドー・シュタイナーは木箱の整理をしていた。冬に近づく辺境の空気は冷たく、倉庫の中にも白い息が漂っている。
「オルドーさん。お願いがあります」
「珍しいな。あんたが頼み事とは」
私は手帳から紙の束を取り出した。
台帳の副本だった。王宮で台帳管理官をしていた頃、毎日の業務終了後に控えを書き写す習慣があった。公式の台帳とは別に、自分の手元に正確な写しを残しておく。総務部時代の癖だ。重要な帳簿には必ずバックアップを取る。
追放の日、身の回りの私物と一緒に持ち出したこの写しのことを、誰にも言っていなかった。言う必要がなかったからだ。
だが今は違う。
紙の束には、王宮時代の人事台帳の写し、辺境騎士団の勤怠表の副本、補給受領記録、四半期報告書の控え、そして辺境騎士団特別補填費に関する照合メモが含まれていた。
「これを、商隊の便で王都の監査局に届けていただきたいのです」
オルドーの目が細くなった。
「……財務局ではなく、監査局か」
「はい。財務局経由では届きません」
以前オルドーが教えてくれた情報がある。財務局内部で予算管理者が頻繁に異動させられ、異議を唱える者が排除されているという噂。あの時は噂としか思えなかった。だが今、財務局次長の名前で召還命令が来た。正規ルートで送った報告書が、監査局ではなく財務局の目に触れたのだとすれば。
報告書の提出ルートが、どこかで書き換えられている可能性がある。
「オルドーさんは元王宮の文官です。監査局に直接届ける伝手をお持ちですか」
オルドーは紙の束を受け取り、一枚一枚めくった。皺だらけの指が数字の列を辿る。元官僚の目だった。
数分の沈黙の後、オルドーが顔を上げた。
「この記録は……あんた、これがどういう意味を持つか、分かっているのか」
「正確には分かりません。ただ、数字が合わないことは確かです」
「数字が合わない、か」
オルドーは低く呟いた。
「架空の予算項目。入金記録はあるが物資が届かない。三年間、誰も指摘しなかった。いや、指摘できる人間が排除されていた」
その言葉の重さが、倉庫の冷たい空気に沈んだ。
「あんたが王宮にいた頃の台帳の写しがここにある。これと辺境の受領記録を照合すれば、不整合は一目瞭然だ。監査局が動くには十分すぎる」
「届けていただけますか」
オルドーは紙の束を木箱の底に滑り込ませた。
「届ける。旧い知り合いが監査局にいる。だが、届くまでに半月はかかる。あんたがここにいる間に届くかは分からん」
「構いません。届けば十分です」
「……あんたの数字は正確だ。儂はこの四ヶ月、それを確認してきた」
私は頭を下げた。
倉庫を出ると、冬の近い風が額に触れた。リーナの治癒魔法で塞がった傷は、まだうっすらと線を残している。
夕方、団長室に報告に向かった。
ディルクは机に向かっていた。私が入ると、書いていた紙を裏返した。
「本日の業務報告です。勤怠表の更新、補給記録の転記、完了しました」
「ああ。ご苦労だった」
ディルクは報告書を受け取り、署名欄を確認した。いつもの手順だった。
だが署名の後、ペンを置く手が止まった。
「……召還命令の件だが」
「はい」
「お前の判断に任せる。俺からは命令しない」
朝は「行くべきだ」と言った。今は「判断に任せる」と言っている。
この人の中で、何かが揺れている。
引き留めたいのか。送り出したいのか。ディルクの目が私の額の傷痕を一瞬見て、すぐに逸れた。
「明日の朝、返答を伝えます」
「……わかった」
私は礼をして団長室を出た。
廊下を歩きながら、考えた。
召還命令の裏にあるもの。予算の異常。財務局次長の名前。記録の写しはオルドーに託した。監査局に届けば、数字が語る。
それとは別の問いが、胸の中にあった。
ディルクが「行くべきだ」と嘘をついた時の横顔。あの硬い声の奥にあったもの。
四ヶ月前、泥だらけの駐屯地に降り立った日。「事務は任せる」と一言だけ言った人。勤怠表を見て涙を流した人。私の名前を呼ぶようになった人。消灯後の執務室に「休め」と言いに来た人。護衛をつけると譲らなかった人。
この人を失いたくない。
その感情は、業務報告の書式には収まらなかった。「仕事ですから」では処理できなかった。
自室に戻り、机の前に座った。手帳を開いた。
今日の欄に書いた。
「召還命令受領。発令者、財務局次長マルティン・ゲルハルト。根拠、騎士団予算報告の調査。台帳副本はオルドー氏経由で監査局へ送付手配済。団長の指示、判断は本官に一任」
ペンを置いた。
書けないことが一つだけあった。
この騎士団に残りたい理由が、もう仕事だけではないこと。
その答えは、勤怠表のどの欄にも記入する場所がなかった。




