第8話「記録しない人」
私は騎士をかばって転んだ。
それが正確な表現だ。英雄的な行為でも、咄嗟の判断でもない。避難誘導の最中に若い騎士がよろめいたのを支えようとして、足を滑らせて、石壁の角に額をぶつけた。それだけのことだった。
赴任から三ヶ月半。辺境の魔物は交代制の導入後も定期的に出没していた。その日の襲撃は小規模なもので、騎士たちが前線で対処している間、私は駐屯地内の非戦闘員の避難誘導を担当していた。
文官に戦闘能力はない。できるのは、避難経路の確認と、人員の所在の把握だけだ。それを手帳に記録しながら、駐屯地の裏手に非戦闘員を誘導していた。
若い騎士が前線から戻ってきた。左足を引きずっている。戦闘で負傷したらしく、壁に手をついてよろめいた。
支えようと手を伸ばした瞬間、足元の泥に滑った。体が前に倒れ、額が石壁の角に当たった。
痛みの前に、温かいものが目の上を流れた。血だった。
リーナの治療室に運ばれた時、額の傷はすでに血が止まりかけていた。
「浅い切り傷です。治癒魔法で塞ぎますから、じっとしていてください」
リーナが杖を額にかざし、淡い光が傷口を包んだ。じわりと温かい感覚が広がり、痛みが引いていく。
「はい、終わり。跡も残りません。でもホルンさん、今日は安静にしてくださいね」
「ありがとうございます。大したことなくてよかった」
「大したことなくないですよ。文官が避難誘導中に流血って、普通ありませんから」
リーナは腰に手を当てて呆れた顔をした。
私は治療台から降り、自分の部屋に戻った。机に座り、手帳を開く。今日の記録を書かなければならない。
日付。天候。魔物襲撃の規模。前線の出撃人員。非戦闘員の避難完了時刻。
そして最後に、一行。
「本日:負傷により早退。額の切り傷、治癒魔法にて処置済み」
ペンを置いた。いつもの勤怠記録と同じ書式で、自分の負傷を記入した。業務上の事故報告として。
夕方、ディルクが部屋に来た。
ノックの音がして、扉が開く前に声がした。
「ベアトリス。入るぞ」
「どうぞ」
ディルクは部屋に入り、まっすぐ私の額を見た。リーナの治癒魔法で傷は塞がっているが、うっすらと赤みが残っている。
「……怪我は」
「治癒魔法で処置していただきました。もう痛みはありません」
ディルクは私の顔から目を逸らさなかった。何か言いたそうにしていたが、言葉が出てこない様子だった。
視線が、机の上の手帳に落ちた。
開いたままのページ。今日の勤怠記録。「本日:負傷により早退」の一行。
ディルクがそれを読んだ。
数秒の沈黙があった。
「……ベアトリス」
「はい」
「お前の勤怠表には、全員の記録がある。騎士一人一人の出勤日、休日、負傷歴。全部書いてある」
「はい」
「だが、お前自身の記録だけが、いつも一行だ」
手帳を見下ろした。確かにそうだった。他の騎士の記録は詳細に取っている。負傷の部位、程度、復帰見込み、必要な休養日数。だが自分の欄にはいつも「出勤」としか書いていない。今日も「負傷により早退」という事実だけで、傷の程度も休養の必要性も記していない。
「この人は、自分のことだけ記録しない」
ディルクの声は低かった。怒りではない。もっと切迫した何かだった。
「お前が騎士をかばって倒れたと聞いた時、俺は——」
言葉が途切れた。ディルクの手が、無意識に拳を握っていた。
「仕事ですから」
私はいつもの言葉を口にした。
ディルクの目が、一瞬だけ揺れた。
「仕事だから、怪我をしてもいいのか」
「いいとは思っていません。ただ、記録に残すほどのことでは」
「残すほどのことだ」
ディルクの声が強くなった。命令の時とも、日常の簡潔さとも違う。声の奥に、押さえきれない熱があった。
「明日から、お前は危険区域への立ち入りを禁止する。魔物襲撃時の避難誘導は別の人員に引き継げ」
「団長、それは——」
「護衛もつける。訓練場の往復にも一人つける」
「護衛は過剰です」
「過剰じゃない」
ディルクは一歩近づいた。背が高い。見上げる形になる。銀灰色の髪が、窓からの夕日に透けていた。
「それと、毎朝の報告書は俺が直接受け取りに行く。お前がこの部屋から持っていく必要はない」
「それは団長の仕事を増やすだけです」
「俺が決める」
反論を許さない声だった。だがその目は、命令者のそれではなかった。
ディルクは踵を返し、扉に向かった。扉を開ける直前に、足を止めた。
「……お前の怪我を、俺に報告しなかったのは二度目だ」
「二度目、ですか」
「前にも、深夜まで仕事をして体を壊しかけた時、お前は何も言わなかった。俺が巡回で気づかなければ、そのまま倒れていた」
あの夜。赴任して間もない頃、消灯後の執務室で改善案を書いていた時のことだ。
「お前が記録する側だから、誰もお前を記録しない。だから俺がする」
扉が閉まった。足音が遠ざかっていく。
私は手帳の前に座ったまま、しばらく動けなかった。
翌朝、食堂でリーナが開口一番に言った。
「ホルンさん、聞きましたよ。団長が護衛つけるって」
「……もう広まっているんですか」
「駐屯地中の噂です。団長が文官殿に護衛をつけた、危険区域に入るなと命令した、毎朝報告書を取りに来ると宣言した。完全に恋ですね」
「仕事上の判断です」
「仕事上の判断で、毎朝部下の部屋に報告書を取りに行く団長がどこにいますか」
返す言葉がなかった。
食堂の入り口から、ヘルマンが入ってきた。私と目が合うと、一瞬だけ足を止めた。
「……昨日の怪我、大丈夫か」
低い声だった。ぶっきらぼうだが、赴任初日に「文官の出る幕はない」と言った時とは、まるで違う響きだった。
「はい。もう治りました」
ヘルマンは鼻を鳴らした。
「認めざるを得ないな。あんたは、ここの人間だ」
それだけ言って、食堂の奥に歩いていった。
リーナが目を丸くして私の腕を掴んだ。
「今のヘルマン副団長、ホルンさんのこと認めましたよね。あたし、ここに一年いるけど、副団長が文官を認めたの初めて見ました」
「……そうですか」
胸の奥で、何かが温かくなった。ヘルマンの言葉よりも、ディルクの昨夜の声よりも、もっと静かな場所で。
この騎士団が変わった。勤怠表から始まって、交代制になって、負傷率が下がって、報告書が正規ルートで出せるようになった。その全部が、一人の力ではなかった。ディルクが決断し、リーナが記録を提供し、ヘルマンが不承不承でも従い、騎士たちが新しい仕組みに慣れていった。
私はそのきっかけを作っただけだ。でも、きっかけは確かに私が作った。
この実感は、「仕事ですから」では片付けられなかった。
夕方、約束通りディルクが報告書を取りに来た。
部屋の扉をノックし、中に入り、机の上の報告書を受け取る。それだけの作業に、わざわざ団長が来ている。
「今日の分です。異常はありません」
「わかった」
ディルクは報告書を受け取り、踵を返した。扉の前で、ほんの一瞬だけ振り返った。
「額の赤み、まだ残っている。明日も確認に来る」
扉が閉まった。
なぜ団長の前にいると、胸のあたりがこんなに落ち着かないのだろう。感謝とは違う。信頼とも違う。名前のつかない、もどかしい感覚。
手帳を開いた。今日の記録を書く。
「本日:通常勤務。額の傷、経過良好。護衛配置開始。団長より報告書の直接受領、初日」
書き終えて、ペンを置いた。
窓の外で、夕暮れの訓練場から声が聞こえる。その中に、聞き慣れた行商人の荷車の音が混じっていた。
王都からの公文書が届くのは、まだ先のはずだ。だが、この穏やかな日常がいつまで続くのか——その問いが、胸の片隅にかすかに触れて消えた。




