第7話「止められなかった夜」
「団長。この出撃記録……おかしくありませんか」
書庫の埃の中で、私はその日誌を開いたまま立ち尽くしていた。
赴任から三ヶ月目の後半。四半期報告書を監査局に送った後、私は過去の任務日誌の整理に着手していた。交代制の運用データを検証するために、過去の出撃頻度と負傷率の相関を調べる必要があったからだ。
誰も整理していなかった日誌の束は、書庫の棚の奥に無造作に積まれていた。埃をかぶった革表紙を一冊ずつ開き、日付と出撃記録を転記する。単純作業だが、数字を追う手が途中で止まった。
二年前の日誌。
ある騎士の出撃記録が、七十二時間連続になっていた。
三日間、一度も帰還していない。補給の受領記録もない。途中で交代した形跡もない。出撃、出撃、出撃。同じ名前が三日分のページにわたって並んでいる。
その名前は——ヴェルナー・ドルン。
前任団長だった。
執務室に日誌を持ち込んだのは、その日の夕方だった。
ディルクは机に向かっていた。私が日誌を開いて見せると、目がページの上で止まった。
「この出撃記録は、前任の団長のものです。連続七十二時間の出撃。交代なし、休息なし」
ディルクは日誌に触れなかった。見ているだけだった。
「これが最後の出撃記録で、この翌日の日付に『殉職』とだけ書かれています。この連続勤務時間は、交代制導入前のこの騎士団では異常値ですか。それとも、常態でしたか」
沈黙が降りた。
窓から差す夕日が、執務室の壊れた盾の表面に赤い光を落としている。ディルクの影が壁に長く伸びていた。
「……常態だった」
低い声だった。
「ヴェルナーは、いつもそうだった。魔物が出れば最前線に立ち、部下が疲弊すれば自分が代わりに出た。休むことを知らない人だった」
ディルクは机から手を離し、窓の方を向いた。
「あの日も、大規模な魔物の群れが出た。三日間、ヴェルナーは一度も帰還しなかった。俺は副団長だった。交代を申し出たが、あの人は聞かなかった」
「止められなかったのですか」
「止められなかった」
ディルクの声が、わずかに震えた。
「三日目の夜だった。ヴェルナーが判断を誤った。疲労で反応が遅れ、部下を庇おうとした動きが間に合わなかった。魔物の爪がヴェルナーの胸を貫いた時、俺はすぐ後ろにいた」
立っていた場所から、一歩も動いていなかった。窓に向けた背中が、わずかに強張っている。
「俺は止められなかった。あの人が倒れるまで、過労がどれほど危険か、わかっていなかった。いや——わかっていたのに、止める方法を知らなかった」
ディルクが振り返った。目は赤くなかったが、奥に重いものを抱えた色をしていた。
「団長になってから、俺は同じことを繰り返していた。部下を死なせたくないと思いながら、ヴェルナーと同じやり方をしていた。全員に無理をさせて、それが当たり前だと思い込んで」
「勤怠表を見た時に」
「ああ。お前が作った勤怠表を見た時に、初めてわかった。俺がやっていたことは、ヴェルナーと同じだった。部下を守るつもりで、部下を壊していた」
私は日誌を閉じた。
七十二時間の出撃記録。その数字の重さが、この人の肩にずっと乗っていた。勤怠表を見て泣いたのは、三百六十日の数字に打たれたからだけではなかった。二年前の七十二時間が、その背後にあったのだ。
「団長」
「……なんだ」
「止めてくれる人がいなかったのは、前任の団長も、あなたも同じです」
ディルクの目がこちらを向いた。
「記録がなかったから、誰も気づけなかった。数字がなければ、何がおかしいのかも見えない。前任の団長を止められなかったのは、あなたの責任ではありません。止めるための仕組みが、ここにはなかっただけです」
「だが、俺は——」
「今は、あります」
私は言い切った。
「勤怠表がある。交代制がある。連続勤務の上限もある。記録があれば、誰かが気づける。気づけば、止められる。それが、記録で人を守るということです」
ディルクは黙っていた。長い沈黙だった。
窓の外の夕日が沈み、部屋が薄暗くなった。私は蝋燭を灯そうとして、机の上の燭台に手を伸ばした。
「ベアトリス」
手が止まった。
「……お前がいなかったら、俺はまだ同じことを続けていた」
それは感謝なのか、懺悔なのか、判別のつかない声だった。ただ、この人がこの言葉を口にするまでに、二年かかったのだということはわかった。
「私はただ、記録を作っただけです。変わると決めたのは、団長ご自身です」
蝋燭に火を灯した。小さな炎が、二人の間の空気をほんの少しだけ温めた。
翌朝、食堂に向かう廊下で、ヘルマンとすれ違った。
いつもなら視線を逸らすか、黙ってすれ違うだけの副団長が、足を止めた。
「……おはよう」
低い声だった。ぶっきらぼうで、目はこちらを見ていなかった。
「おはようございます、副団長」
ヘルマンはそれだけ言って、足早に訓練場の方へ去っていった。
一瞬のことだった。だが、赴任してから三ヶ月以上、この人が私に朝の挨拶をしたのは初めてだった。
昨日の執務室でのやり取りが、どこかから聞こえていたのかもしれない。あるいは、ディルクが何か話したのかもしれない。確かめる術はないし、確かめる必要もなかった。
ヴェルナー団長の死を一番近くで見ていたのは、ディルクだけではない。副団長だったヘルマンも、あの日、同じ場所にいたはずだ。「休まずに戦って死んだ」と語ったヘルマンの声の裏にあったものが、少しだけわかった気がした。
あの人も、止められなかった側の人間だったのだ。
部屋に戻り、手帳を開いた。
今日の記録を書く前に、昨日の日誌のページを見返した。七十二時間連続出撃。ヴェルナー・ドルン。殉職。
この記録は、二年間誰にも読まれなかった。日誌を管理する人間がいなかったからだ。私が来なければ、さらに何年も棚の奥で眠り続けていただろう。
記録で守る。それが私の仕事だ。
この言葉を、昨日初めてディルクの前で口にした。オルドーに語った時とは違う重さがあった。あの時は信念を言葉にしただけだったが、昨日は、目の前にいる人の二年分の罪悪感に向かって言った。
自分の仕事に、使命と呼べるものが芽生え始めている。まだ大きな声では言えない。でも、記録が人を変えた瞬間を、この三ヶ月で何度も見た。
手帳に今日の日付を書いた。
「任務日誌の整理を継続。過去の出撃記録から、連続勤務の上限を超えた事例を抽出し、今後の交代制運用に反映する」
ペンを置いた。
窓の外から、訓練場の声が聞こえる。ヘルマンが騎士たちに指示を出す太い声。その声は、三ヶ月前に聞いた時より、ほんの少しだけ穏やかに聞こえた。




