第6話「帳簿の綻び」
三年前、この予算項目は存在しなかった。
四半期報告書の下書きを広げた机の上で、私の指は一つの数字の上で止まっていた。
赴任から三ヶ月。騎士団の四半期報告書を正式に作成するのは、これが初めてだった。勤怠表や交代制の設計とは違い、報告書は騎士団の外——王都の監査局に提出される公文書だ。数字の一つ一つが、外部の目に晒される。
だからこそ、正確でなければならない。
私は過去三年分の予算配分書と、オルドーの物資台帳と、自分が赴任後に作成した支出記録を並べて照合していた。数字を突き合わせる作業は前世の総務部で嫌というほどやった。手が覚えている。
そして、覚えている手が異常を見つけた。
「辺境騎士団特別補填費」。三年前に新設された予算項目。年額は騎士団の通常予算の約二割に相当する。
この項目からの入金記録が、物資台帳のどこにも反映されていない。
入金はされている。予算書にはそう記載されている。だが、その金額に見合う物資が届いた記録がない。オルドーの台帳にも、駐屯地の受領印がある伝票にも、痕跡がない。
金は出ている。だが、届いていない。
執務室のディルクに報告したのは、その日の午後だった。
「団長。四半期報告書の作成中に、予算配分に不自然な点を見つけました」
ディルクは机の前に立ったまま、書類を受け取った。私が付箋を貼った箇所を開く。
「この項目は——」
「三年前に新設された『特別補填費』です。年額で騎士団予算の約二割。ですが、この金額に対応する物資の受領記録が存在しません」
ディルクの目が数字を追った。眉間にわずかな皺が寄る。
「……俺はこの項目の存在を知らなかった」
「団長の着任は二年前ですね。この項目は三年前に新設されていますが、騎士団側に通知された形跡がありません。予算書の末尾に記載されているだけで、用途の説明も添付されていません」
「つまり、騎士団の名目で予算が組まれているが、騎士団には届いていないということか」
「現時点では、そう読み取れます」
ディルクは書類を閉じた。顔を上げ、私を見た。
「どうする」
「過去の予算書との照合を提案します。特別補填費が新設された三年前の予算書と、それ以前の予算書を比較すれば、どの項目から付け替えられたかが分かるかもしれません」
「過去の予算書は」
「騎士団の書庫に保管されているはずです。ただし、原本は王都の財務局にあり、こちらにあるのは写しです」
ディルクはうなずいた。
「書庫の閲覧を許可する。必要な書類があれば、俺の名で請求を出せ」
「ありがとうございます」
書類を受け取り直し、執務室を出ようとした時、ディルクが声をかけた。
「ベアトリス」
足を止めた。この呼び方にも、少しずつ慣れてきている。
「気をつけろ。予算の異常というのは——金の流れが絡む話だ」
「はい。承知しています」
ディルクの目には、数字への懸念だけではない何かがあった。私を案じている。そう感じたが、今はそれよりも数字の方が気になった。
物資倉庫の奥にある書庫で、オルドーが待っていた。
古い予算書の束を棚から下ろし、埃を払う。紙は黄ばみ、インクの一部はかすれていたが、数字は読み取れた。
「オルドーさん、この特別補填費について、何かご存知ですか」
「名前だけは。儂が退官した後に新設された項目ですが、辺境に来てからこちらの予算書で目にしました。ただ、儂の権限では王都への問い合わせができず、そのままになっておりました」
オルドーは予算書を丁寧にめくった。三年前の書類と、四年前の書類を並べる。
「ホルン殿。一つ、お伝えしておきたいことがあります」
「はい」
「先日、王都の元同僚から手紙が届きました。行商人に託された私信です」
オルドーは声を落とした。
「王宮の財務局内部で、ここ数年、人事の異動が不自然に頻繁だと。特に、予算管理に関わる部署で、異議を唱えた者が次々と配置転換されているそうです」
「予算管理の部署で」
「ええ。元同僚は名前までは書いていませんでしたが、財務局の上層部に、予算の流れを操作できる人間がいるのではないか、と」
補給の遅延。予算項目の不審。王宮内部の人事異動。行商人が運んできた書類処理の停滞の噂。
点が、少しずつ並び始めている。まだ線にはならない。だが、すべてが同じ方角——王都の財務局——を指している。
「オルドーさん。この報告書は、正規のルートで提出します」
「正規のルート、とは」
「四半期報告書は、本来、騎士団から監査局に直接提出する書式です。途中に財務局を経由する必要はありません」
オルドーの目が光った。
「……なるほど。正規の手続きに則るだけ、ということですか」
「はい。報告書の内容は、騎士団の四半期の活動と予算の使用状況です。異常値が含まれていれば、監査局が判断することです。私はただ、正確な数字を書くだけです」
オルドーはゆっくりとうなずいた。
「正しい記録を、正しい場所に届ける。それだけのことですな」
「それだけのことです」
夜、部屋で報告書の清書を行った。
数字を一つずつ確認し、転記する。特別補填費の項目には、予算書の記載額と実際の受領額の差異を注記として添えた。意見や推測は書かない。数字と事実だけを並べる。
私が記録した数字が正しいなら、王都の数字が間違っている。
どちらが正しいかを判断するのは、監査局の仕事だ。私の仕事は、手元の数字を正確に報告すること。それ以上でも以下でもない。
清書を終え、封蝋で封をした。宛先は「王国監査局」。騎士団から監査局への直送は定型の四半期業務であり、団長の署名があれば特別な権限は不要だ。
翌朝、ディルクの署名をもらい、報告書を補給隊の定期便に託した。王都まで七日から十日。届けば、監査局の誰かがこの数字を目にする。
補給隊の馬車が駐屯地を出ていくのを、正門の前で見送った。
ディルクが隣に立っていた。
「出したか」
「はい」
「……あの報告書が届けば、王都が動くかもしれない」
「動くかどうかは、わかりません。ただ、記録は正確です」
ディルクは黙ってうなずいた。それから、少し間を置いて言った。
「お前の仕事は、この騎士団を変えた。勤怠表も、交代制も。だが、これからは騎士団の外にも届くことになる」
「はい」
「俺は、お前を守る」
短い言葉だった。視線は補給隊の馬車が去っていく土埃の向こうに向けられていた。
守る。その言葉が、仕事の話なのか、それとも別の意味を含んでいるのか、私にはまだ判断がつかなかった。
ただ、団長のおかげでこの仕事ができている、という感謝は確かにあった。口頭で事務を一任してくれた赴任初日から、交代制の導入を命令として通してくれた日から、この人がいなければ私の提案は紙の上で眠ったままだった。
「ありがとうございます、団長」
ディルクは何も言わず、訓練場に戻っていった。
部屋に戻り、手帳を開いた。今日の記録を書く。
報告書を監査局に直送した。記録は嘘をつかない。あとは、正しい場所に届くことを信じるだけだ。
手帳を閉じた。窓の外には、報告書を載せた馬車が通った土埃が、まだかすかに残っていた。
王都から何かが届くのは、早くても二週間後。それまで、私はここで記録を続ける。
不安がないわけではなかった。予算の異常は、誰かが意図的に作ったものかもしれない。その誰かにとって、正確な数字は都合が悪い。
それでも、記録は嘘をつかない。
それだけが、今の私にとって確かなことだった。




