第5話「信頼の温度」
「あなたにとって、記録とは何ですか」
オルドーの問いは、物資倉庫の埃っぽい空気の中で、妙に静かに響いた。
午後の倉庫。四半期ごとの在庫確認を終え、台帳を閉じたところだった。棚に並ぶ木箱の影が長く伸びている。赴任から一ヶ月半。この作業も三度目になり、手順は身体に馴染んでいた。
「急にどうされましたか」
「いえ、ホルン殿の仕事ぶりを見ていて、ずっと気になっておりました」
オルドーは台帳を棚に戻しながら、こちらを見た。穏やかな目だが、核心を射る光がある。
「勤怠表を作り、交代制を設計し、負傷統計を分析する。どれも地味な仕事だ。それを、なぜそこまで丁寧にやるのか」
なぜ。
考えたことがなかった。呼吸をするように記録を取ってきた。前世でも、今世でも。
倉庫の窓から差す光の中で、言葉を探した。
「……記録は、人を責めるためにあるんじゃないと思います」
オルドーが黙って待っている。
「勤怠表を団長に見せた時、団長は泣きました。三百六十日休みなしの数字を見て、自分がそうさせていたと気づいて。あの数字は、誰かを告発するために作ったものではありません」
羽根ペンを机に置いた。
「記録は、守るためにあるんです。今、何が起きているかを正確に残すことで、同じことを繰り返さずに済む。それだけのことです」
オルドーはしばらく黙っていた。それから、深く息をついた。
「……儂が王宮にいた頃、同じことを言える人間は一人もおりませんでした」
その声には、懐かしさと、少しの苦さが混じっていた。
「記録が正しく使われる場所は、思ったより少ない。ホルン殿がここにいることは、この騎士団にとって幸運です」
「買いかぶりです。仕事をしているだけですから」
「その『だけ』が、どれほど難しいか。儂は知っておりますよ」
オルドーは穏やかに笑った。私は返す言葉を見つけられず、台帳の背表紙を指先でなぞった。
翌日は、シフト表に記された私の休息日だった。
交代制を導入した以上、自分も例外にはできない。そう判断して、半日の休みを取ることにした。午前中だけ。午後からは通常業務に戻る。
朝、食堂でリーナと顔を合わせた。
「あれ、ホルンさん今日お休みじゃなかったですか」
「半日だけです。午後から戻ります」
「半日……。それ、休みって言います?」
リーナが呆れた顔をしたが、私は気にせず食堂を出た。
駐屯地の外に出るのは、赴任の日以来だった。
正門を抜けると、辺境の平原が広がっている。雨季は過ぎ、乾いた草が風に揺れていた。遠くに低い山脈が霞んで見える。王都にいた頃は、こんな景色を見る余裕はなかった。
石壁の外のベンチに座り、手帳を膝に置いた。何も書かない。ただ、風の音を聞いていた。
ここは、王宮とは違う場所だ。
王宮では、私の台帳管理は「地味で退屈な仕事」だった。ユリウスには「つまらない」と言われた。同僚たちも、台帳管理官に関心を持つ者はいなかった。
ここでは、勤怠表が人の目を開かせ、交代制が騎士の体を休ませている。同じ仕事が、場所を変えただけで違う意味を持ち始めている。
風が髪を揺らした。手帳のページがぱらぱらとめくれる。
この場所は、前の王宮とは違う。
そう思えるようになったこと自体が、一ヶ月半前の自分には想像できなかった変化だった。
昼前に駐屯地に戻ると、正門の前に人だかりができていた。
リーナが駆けてきた。
「ホルンさん、大変です。団長が」
「団長が?」
「ホルンさんがいないって聞いて、朝からずっとそわそわしてて。さっき、報告書を自分でホルンさんの部屋に届けに行ったんですけど、当然いないじゃないですか。そしたら訓練場に戻ってきて、副団長に『ホルンはどこに行った』って三回聞いてました」
「……三回」
「三回です。ヘルマン副団長が『休みだって自分で許可しただろう』って呆れてました」
私が正門をくぐると、訓練場の端にディルクが立っていた。
こちらに気づいた瞬間、ディルクの肩から力が抜けたのが見えた。一歩こちらに足を踏み出しかけて、止まった。手に持っていたのは、紐で綴じた書類——今朝の任務報告書だった。
「……戻ったか」
「はい。半日の休息でしたので」
「これを」
ディルクが報告書を差し出した。
「今朝の分だ。机に置こうと思ったが、お前がいなかったから」
自分で届けに来た。文官の部屋まで。団長が。
「ありがとうございます。お手数をおかけしました」
「手数ではない」
ディルクはそれだけ言って、訓練場に戻っていった。その背中を見送りながら、手の中の報告書を見下ろした。紐の結び目が、少しだけ不格好だった。普段は部下に渡して終わるはずの書類を、自分の手で綴じたのだろう。
リーナが背後からそっと近づいてきた。
「ホルンさん」
「はい」
「団長、あれ絶対あなたのこと好きですよ」
「……何を言っているんですか」
「だって、半日いなかっただけで三回も所在を確認して、報告書を自分で届けに来るんですよ。仕事熱心にも限度があるでしょう」
「仕事熱心なだけです。団長は真面目な方ですから」
「その解釈、無理がありますって」
リーナが両手を上げてお手上げの仕草をした。私は報告書を抱え直し、自分の部屋に向かった。
好き、ということはないだろう。団長は仕事を丁寧に扱う人だ。文官がいない時に報告書の処理が滞ることを避けたかっただけ。それ以上の意味を読み取るのは、考えすぎだ。
部屋に戻り、報告書を開いた。いつもの書式。簡潔な文字。ただ、最後の行に一文が追加されていた。
「本日、文官殿の休息日につき、報告書は団長が直接提出する」
わざわざ、記録に残している。
私が不在であることを、報告書の正式な備考として記載している。記録する人間がいない半日の空白を、この人は自分の手で埋めようとした。
胸の奥で、何かが小さく動いた。
名前のつかない感覚だった。仕事への感謝とも、信頼ともまだ違う。ただ、この場所で自分の仕事が必要とされているという確かさが、少しだけ厚みを増した気がした。
夕方、オルドーが倉庫の外で行商人と話しているのが見えた。
辺境を回る行商人は、公文書よりも速く、王都の噂を運んでくる。私が通りかかると、オルドーが手招きした。
「ホルン殿、少し気になる話を聞きました」
行商人はすでに去った後だった。オルドーは声を落とした。
「王都の王宮で、書類の処理が滞っているそうです。どの部署かまでは聞けませんでしたが、決裁が回らず、各地への指示が遅れていると」
「書類が回らない」
「ええ。行商人の言葉ですから、正確さは保証できませんが。複数の行商人から同じ趣旨の話が出ているとなると、まったくの噂とも言い切れません」
補給物資の遅延。財務局の決裁の遅れ。そして今度は、王宮全体の書類処理の停滞。
三つの情報が、まだばらばらのまま手帳の中に散らばっている。繋がっているのか、偶然なのか、今の段階では判断できない。
「ありがとうございます、オルドーさん。引き続き、何か聞こえたら教えてください」
「もちろんです」
部屋に戻り、手帳を開いた。今日の記録の最後に、行商人の噂を書き加えた。
王都で何かが起きている。まだ輪郭は見えない。でも、数字と記録がいつか線を結ぶ日が来るかもしれない。
手帳を閉じた。
窓の外は夕焼けだった。辺境の空は広い。王都の空より、ずっと広い。
この記録は、役に立っている。勤怠表も、交代制も、在庫管理も。ここでの仕事は、確かに人の暮らしを変えている。
まだ「価値がある」と胸を張って言えるほどではない。でも、赴任した日の「また不要だと言われるのだろうか」という恐れは、少しだけ遠くなっていた。
蝋燭に火を灯した。ディルクがくれた白い蝋燭は、あと一本残っている。
明日からまた、記録の仕事が続く。その日常が、今は少しだけ温かかった。




