第4話「交代制の朝」
前世の会社にも、こういう人はいた。
正しいことを言っているのに、声が大きすぎて周囲が引いてしまう人。怒りの根にあるものが善意だと、本人以外の全員が気づいている人。
ヘルマン副団長は、まさにそれだった。
朝の執務室。壊れた武具の山は少し減っていた。赴任から一ヶ月、私が不要な物品の廃棄リストを作成したおかげで、机の周りだけは書類作業ができる程度に片付いている。
私は机の上に清書した書類を広げ、ディルク団長の到着を待った。
交代制の正式導入案。輪番表を二週間運用した結果を踏まえ、夜間警備と昼間訓練の人員を分離し、三交代制に移行する提案書。リーナの負傷者記録から抽出した怪我の発生パターンを添付し、交代制によって連続勤務時間を制限すれば負傷率が下がるという根拠を添えた。
扉が開いた。
「ホルン。提案書というのはこれか」
ディルクが入ってきた。机の前に立ち、書類を手に取る。一枚目をめくり、二枚目を読み、三枚目の負傷データで手が止まった。
「……連続勤務が十二時間を超えると、負傷率が三倍になる」
「はい。リーナさんの記録と照合した結果です」
ディルクは書類を最後まで読んだ。顔を上げ、短く言った。
「導入する」
「ありがとうございます。つきましては、全団員への説明の場を設けていただけますか」
「今日の夕方、訓練場に全員を集める」
判断が早い。輪番表を導入した時もそうだった。数字を見て、理解して、決める。この人の決断に迷いはない。
夕方の訓練場。
三十二名の騎士が並んでいた。欠員の分を差し引いた実働二十二名と、負傷中の者を含めた全員。リーナが隅に立ち、オルドーが訓練場の外の柵にもたれて様子を見ている。
ディルクが前に立った。
「明日から、三交代制を導入する。詳細はホルン文官が説明する」
短い。相変わらず短い。だが、騎士たちの視線が一斉にこちらを向いた。
私は一歩前に出た。
「三交代制の概要をご説明します。夜間警備、昼間訓練、休息の三つの枠を設け、全員が八日周期で順番に回ります。一日の連続勤務は最長十二時間とし、それを超える出撃が発生した場合は翌日を強制休息とします」
シフト表を掲げて見せた。名前と日付を格子に組んだ、前世の勤務表と同じ形式のもの。
騎士たちの反応はまちまちだった。頷く者、首をかしげる者、隣と顔を見合わせる者。
「ふざけるな」
声は訓練場の端から飛んできた。
ヘルマンだった。腕を組み、私を睨みつけている。日焼けした顔の古傷が、夕日に濃く浮き上がっていた。
「戦場で交代なんかできるか。魔物が来たら全員で出るのが当たり前だろう」
「緊急出撃の場合は例外です。全員出撃後、終了時点で交代制に戻します」
「例外だの交代だの、紙の上の理屈だ。前の団長は休まず戦った。それがこの騎士団のやり方だ」
ヘルマンの声が訓練場に響いた。周囲の騎士たちが息を詰める。
「ヴェルナー団長は休まずに戦って死んだ。あの人のやり方を否定するのか、文官」
その名前が出た瞬間、空気が変わった。
ディルクの肩がわずかに強張ったのが見えた。ヘルマンの声には怒りだけでなく、もっと深い何かがあった。
前任の団長。ヘルマンが口にしたその名前は、この騎士団の傷そのものなのだろう。
私は一拍置いて答えた。
「否定はしません。前任の団長がどのように戦われたか、私は存じ上げません」
ヘルマンの目が細くなった。
「ですが、今ここにいる団員の連続勤務日数と負傷率は、記録として存在しています。その数字が示しているのは、現在の体制では人が保たないという事実です」
「数字で戦えるのか。文官の紙切れで魔物が止まるのか」
「止まりません。ですから、戦う人が倒れないための仕組みを作っています」
ヘルマンは舌打ちをした。言い返す言葉を探しているようだったが、見つからなかったらしい。拳を握ったまま黙り込んだ。
沈黙の中で、ディルクが口を開いた。
「ヘルマン」
「……なんだ、団長」
「交代制は俺の判断で導入する。命令だ」
低い声だった。感情を押し殺した、団長としての声。ヘルマンはしばらくディルクを見つめ、それから視線を外した。
「……了解した」
不承不承の返事だった。腕を組んだまま訓練場の端に下がっていく。その背中に、敗北ではなく、納得のいかない怒りが滲んでいた。
私はシフト表の説明を続けた。騎士たちの視線はまだ硬かったが、質問がいくつか出た。自分の休息日はいつか、夜間警備の交代時刻は何時か。実務的な質問ばかりだった。
説明が終わった後、リーナが駆け寄ってきた。
「ホルンさん、大丈夫でしたか。ヘルマン副団長、怖かったでしょう」
「大丈夫です。想定内でした」
「想定内って……あたしなら泣いてます」
リーナは肩をすくめた。それから、少し声を落とした。
「でも、副団長の気持ちもわかるんです。ヴェルナー団長の話は、あたしが来る前のことだから詳しくは知らないですけど……副団長にとっては、ずっと尊敬してた人だったみたいで」
休むことは恥だ、というヘルマンの言葉の裏に、失った人への忠誠がある。前世でもあった。過労死した先輩の仕事のやり方を、後輩がそのまま引き継いでしまう悪循環。故人のやり方を否定できない気持ちは、理屈では解けない。
「リーナさん。怪我の統計、その後どうなりましたか」
「できましたよ。部位別にまとめてあります。明日持っていきますね」
「ありがとうございます」
その夜、シフト表を駐屯地の掲示板に貼り出した。
翌朝——交代制の初日。
夜間警備の担当から昼間訓練の担当に引き継ぎが行われる。たったそれだけのことが、この騎士団では初めての出来事だった。
私は訓練場の隅で引き継ぎの様子を記録していた。夜間警備を終えた騎士が、昼間の担当に異常の有無を伝え、持ち場を交代する。手順は前日に私が書いた引き継ぎ書に従っている。
ぎこちなかった。声が小さかったり、報告の順番を間違えたり。だが、機能はしていた。
昼過ぎ、休息日に指定された騎士の一人が、訓練場のベンチに座ってぼんやりと空を見上げていた。
通りかかった時、その騎士が呟いた。
「……初めてだ」
「何がですか」
「まともに眠れたの、いつぶりだろう。昨日、丸一日何もしなくていいって言われて、最初は落ち着かなかったけど。朝起きたら、体が軽かった」
それだけ言って、騎士は照れたように視線を逸らした。
私は手帳に日付と「交代制初日:休息日取得者の声」とだけ書いた。
夕方、執務室に書類を届けに行った。
ディルクは報告書を読んでいた。私が入ると顔を上げ、書類を受け取った。
「今日の引き継ぎ状況です。大きな問題はありませんでした。初日としては順調だと思います」
「そうか」
ディルクは書類に目を通した。それから、ふと口を開いた。
「ベアトリス」
私の手が止まった。
ベアトリス。姓ではなく、名前。
ディルクは自分が何を言ったのか気づいていないようだった。書類から目を上げず、続けた。
「ヘルマンのことだが——あいつは悪い男じゃない。ただ……」
言葉を探すように、一瞬だけ黙った。
「……ヴェルナーのことが、まだ整理できていないんだ」
「はい。それは、見ていてわかりました」
「そうか」
それだけだった。ディルクは再び書類に視線を落とした。
私は執務室を出た。
廊下を歩きながら、胸の中で先ほどの声が反響していた。
ベアトリス。
あの人は気づいていない。名前で呼んだことを。書類を読みながら、無意識に口をついた名前。
団長が制度の導入を決断してくれた。ヘルマンの反発を引き受けて、命令として通してくれた。あの人がいなければ、紙の上の提案は紙の上で終わっていた。
信頼、というにはまだ早い。でも、この人が私の提案を受け入れてくれたことは事実だった。
部屋に戻る途中、訓練場の端が見えた。
暗がりの中に、人影があった。ヘルマンだった。一人で木剣を振っている。黙々と、何度も同じ型を繰り返している。
怒りを振り払うように。あるいは、誰かに向けた言葉の続きを、剣に乗せるように。
あの人の中にある痛みは、交代制の導入では消えない。制度は仕組みを変えるけれど、人の中にある喪失を埋めることはできない。
それでも、仕組みが変われば、同じ喪失を繰り返さずに済むかもしれない。
私は訓練場から目を逸らさず、しばらくそこに立っていた。前任団長の死の影が、この騎士団にはまだ落ちている。
部屋に戻り、手帳を開いた。今日の最後の記録を書く。
「交代制初日、稼働開始。引き継ぎは概ね順調。副団長の抵抗あり。ただし、団長の決断により実行」
ペンを置いて、窓の外を見た。
ここにいてもいいのかもしれない——とは、まだ思えなかった。
でも、ここでの仕事が動き始めた手応えだけは、確かにあった。




