第3話「仕事を見る目」
消灯後の執務室に、蝋燭が一本だけ灯っていた。
炎が揺れるたびに、壁に積まれた壊れた盾の影が伸び縮みする。その隙間の机で、私は改善案の下書きを続けていた。
輪番表は三日前に稼働を始めた。週に一日、全員が順番に休息を取る仕組み。だが回してみると、すぐに問題が見えてくる。
夜間の見張りと昼間の訓練が同じ人員で回っている。負傷者の復帰判定に基準がない。そもそも、誰がいつどの任務に就いているのかを一覧できる表がない。
輪番表は入り口にすぎなかった。その奥には、任務配分表、負傷者管理台帳、復帰判定基準書——前世の総務部なら当然あるべき書類が、ひとつも存在しない空洞が広がっている。
羽根ペンを置き、首を回した。石壁の窓から見える空は真っ暗で、星だけが鋭く光っている。
廊下に足音がした。
重い、けれど静かな足取り。革靴が石の床を踏む音を、私はもう聞き分けられるようになっていた。
扉が開いた。
「……まだいたのか」
ディルク団長が立っていた。蝋燭の灯りに銀灰色の髪が淡く光る。手には巡回用の提灯を持っている。消灯後の見回りの途中らしかった。
「はい。改善案の下書きがもう少しで」
「今は何刻だ」
「……三刻、くらいでしょうか」
深夜だった。自分でも驚いた。席に着いたのは夕食後だったから、六時間近く書き続けていたことになる。
ディルクは私の机の上を見た。書きかけの用紙が五枚。参考にした勤怠表の写し。蝋燭の蝋が机の端に溜まっている。
「……お前も休め」
短い言葉だった。命令のような、しかし命令にしては声が低すぎる。
「ありがとうございます。でも、もう少しだけ」
「仕事は明日もある」
「はい。ですが、仕事ですから」
言ってから、自分の口癖だと気づいた。前世でも同じことを言って、終電を逃し、始発で出社して、最後には心臓が止まった。
ディルクは何か言いかけて、やめた。提灯の灯りが揺れる。
「……わかった」
それだけ言って、廊下に戻っていった。足音が遠ざかる。
声をかけることしかできない不器用さが、背中に残っていた。
あの人も、部下の疲弊を止められなかった側の人間だ。どう止めればいいのか、知らないのだろう。
私は羽根ペンを取り直し、書き続けた。
翌朝、食堂でリーナが駆けてきた。
「ホルンさん、ちょっといいですか」
手に薄い冊子を持っている。紐で綴じた手作りの帳面。表紙に「負傷者記録」と書かれていた。
「あたしが着任してから一年分の怪我の記録です。正式な書式じゃないんですけど、治療のたびにメモしてて」
冊子を受け取り、開いた。日付、氏名、部位、程度、治癒魔法の使用回数。リーナの丸い字で几帳面に記されている。
「これ、すごいですね。一年分もある」
「いや、自分用のメモだったんで、人に見せるようなものじゃないんですけど」
リーナは頬を掻いた。
「でも、ホルンさんが勤怠表を作ったでしょう。あれ見て思ったんです。あたしの記録も、もしかしたら何かの役に立つかもって」
ページをめくる。数字が並んでいる。月ごとの負傷件数。部位の偏り。同じ騎士が繰り返し怪我をしている傾向。
「リーナさん」
「はい」
「これ、減らせますか——というのは、あなたに聞くべき質問でした。お聞きしていいですか」
リーナが目を丸くした。
「あたしに?」
「衛生兵として、怪我の傾向を一番よく知っているのはあなたです。どの訓練で、どの部位に怪我が集中しているか。それがわかれば、訓練の組み方を変えるだけで負傷率は下がります」
リーナはしばらく黙っていた。それから、小さく笑った。
「……誰にも聞かれたことなかったです、そんなこと」
冊子を受け取り直し、胸に抱える。
「整理してみます。ちゃんとした表にして、ホルンさんに渡しますね」
「お願いします」
リーナが食堂を出ていく後ろ姿を見送りながら、パンを水に浸した。三日前にリーナに教わった食べ方が、もう習慣になっていた。
午後、物資倉庫でオルドーと向き合っていた。
四半期分の補給物資の受領記録を照合する作業。二人で台帳を突き合わせ、数量を読み上げ、差異があれば付箋を貼る。地味で、根気のいる仕事だった。
「ホルン殿」
オルドーが帳簿から目を上げた。
「先日お伝えした補給の遅延ですが、もう少し詳しい状況がわかりました」
「はい」
「辺境に物資を送る補給隊の出発が、ここ四ヶ月ほど不定期になっております。以前は月に二度、定期便がありましたが、今は予算の承認が遅れるたびに出発が後ろ倒しになっているようで」
「予算の承認が遅れる、ですか」
「ええ。補給隊の運行費は王都の財務局で承認されますが、その決裁が以前より時間がかかるようになったと、行商人から聞きました」
私は手帳にメモを取った。補給遅延の原因——財務局の決裁遅延。
前回、物資の到着量が申請の八割しかないことに気づいた。今度は、到着のタイミング自体が不安定になっている。
二つの異常が、同じ場所——王都の財務局——を指している。
「オルドーさん。この遅延が続くと、騎士団の運営に影響が出るのはいつ頃でしょうか」
オルドーは少し考え、台帳の数字を指で追った。
「現在の備蓄量から推算しますと、次の補給が予定通りに届けば問題ありません。届かなければ、二ヶ月後には消耗品が底をつきます」
「二ヶ月」
「食糧は辺境伯領から調達できますが、武具の修繕材と治癒薬の原料は王都からしか届きません」
私はメモの横に「要監視」と書き加えた。
まだ推測の段階だ。財務局の決裁が遅れている理由が何なのか、この駐屯地から確かめる手段はない。王都との情報伝達には片道七日から十日かかる。問い合わせの公文書を出しても、返答が届く頃には状況が変わっている可能性がある。
今できるのは、手元の数字を正確に記録し続けることだけだ。
「オルドーさん、今後も補給の到着記録をつけていただけますか。日付と数量を、できるだけ正確に」
「もちろんです」
オルドーは穏やかにうなずいた。その目に、ほんの少し熱が灯ったように見えた。
夜。部屋に戻り、改善案の清書を始めた。
任務配分の見直し案。負傷者記録の公式化。補給物資の在庫管理表の導入。どれも前世の総務部では当たり前にあったものだ。この世界では、誰も作ろうとしなかっただけで。
蝋燭の灯りが揺れた。窓の外から冷たい風が入り込んでくる。
ノックの音。
昨晩と同じ足音だった。
扉を開ける前に声がした。
「ホルン。まだ起きているか」
「はい、団長」
扉を開けると、ディルクが立っていた。昨晩と同じように巡回の提灯を持っている。ただ、その手にもう一つ——小さな包みがあった。
「これを」
差し出されたのは、布に包まれた蝋燭だった。三本。質の良い、白い蝋燭。
「……駐屯地の備品は質が悪い。すぐ短くなるだろう」
「ありがとうございます。いただきます」
受け取ると、ディルクはすぐに視線を逸らした。
「それと——明日の朝、改善案を提出してくれ。俺が目を通す」
「わかりました」
「夜更かしはほどほどにしろ」
「……仕事ですから」
言ってから、また同じ言葉だと気づいた。
ディルクの眉がわずかに動いた。何か言いたそうな顔をして、結局言わなかった。
「おやすみ」
足音が遠ざかる。
蝋燭を三本、机の端に並べた。備品の蝋燭は確かに質が悪く、二時間ほどで燃え尽きてしまう。この白い蝋燭なら、倍は保つだろう。
団長が、文官の蝋燭の質を気にしている。
悪い人ではない。少なくとも、勤怠表を見て泣いた人が、部下を使い潰すような人間であるはずがない。知らなかっただけだ。知って、変わろうとしている。
……悪い人ではないの「かもしれない」。
まだ断定はしない。三週間では、人はわからない。
でも、少なくとも私の仕事を見ようとしてくれている。それだけは確かだった。
改善案の清書に戻った。白い蝋燭に火を灯す。灯りが少し明るくなった。
手帳を開き、今日の所感を一行だけ書き足す。
補給遅延の件、引き続き記録を継続。原因は不明。だが、数字は嘘をつかない。
羽根ペンを置いた。窓の外で、辺境の風が唸っている。
王都で何かが起きている。まだ輪郭すら見えないけれど、数字がそう言っている。
今はただ、記録を続ける。それが、今の私にできる全部だった。




