第2話「360日の記録」
「最後に丸一日休んだのは、いつですか」
騎士は木剣を肩に担いだまま、怪訝な顔をした。
「休み? 何だそりゃ」
「丸一日、出撃も訓練もしなかった日です」
「……さあな。覚えてねえ」
私は手帳を開き、その騎士の名前の横に書いた。最終休暇日——不明。
朝の鐘が鳴る前に部屋を出た。木箱から帳簿と羽根ペンを取り出し、昨日ディルク団長から口頭で委任された「事務全般」の最初の仕事として、全団員の勤務実態の聞き取りを始めた。
名簿は三十二名分。最終更新は一年以上前。備考欄はすべて空白だった。
前世の会社にもあった。誰も開かない管理簿。更新を促す付箋だけが増えていく、あの死んだファイルと同じ匂いがする。
私は名簿を書き写し、横に列を足した。出勤日。休日。負傷歴。最終休暇日。
一人ずつ、聞いて埋める。それしかない。
食堂は朝から騒がしかった。
木の長卓に騎士たちが並び、鉄板で焼かれた黒パンと干し肉を手づかみで食べている。席順はなく、空いた場所に座り、食べ終わった者から出ていく。
私は隅に座り、パンをかじった。固い。前世で食べた乾パンよりなお固い。歯が負ける寸前で、なんとか欠片をもぎ取った。
「文官殿、歯ぁ折れますよ」
向かいにリーナが座っていた。赤い髪を短く切り揃えた小柄な衛生兵。昨日部屋を案内してくれた、騎士団唯一の女性団員。
「水に浸すと楽です。あたしも最初やられました」
「ありがとうございます」
パンを水に浸しながら、本題を切り出した。
「リーナさん、少しお聞きしてもいいですか」
「なんです?」
「最後に丸一日休んだのは、いつですか」
リーナの手が止まった。パンを持ったまま、視線が宙をさまよう。
五秒。十秒。
「……ごめんなさい、思い出せないです。去年の収穫祭は当番だったし、その前も急患が続いて」
「わかりました。ありがとうございます」
手帳を開き、リーナの名前の横に記入した。最終休暇日——不明。
リーナが私の手帳を覗き込む。
「それ、全員ぶん聞くんですか」
「はい」
「大変ですね……がんばってください」
がんばる、という言葉を久しぶりに聞いた気がした。
食堂で三人、訓練場で五人、見回りの合間に四人。
午前中だけで十二人分の聞き取りを終えた。
返ってきた答えは、どれも似ていた。
「覚えてねえな」
「半年前に熱出して二日寝たけど、ありゃ休暇じゃなくて病欠だろ」
「前の団長の頃から連勤が当たり前だったし」
一人だけ、正確に答えた騎士がいた。
「四百二十日前だ。女房の出産で二日もらった」
四百二十日。一年と二ヶ月。それがこの騎士団で最も最近の休暇取得記録だった。
私は数字を書き込みながら、胃のあたりが重くなるのを感じた。前世で何度も見た。退職率が急に跳ね上がる直前の、あの静かな異常値と同じ臭いがする。
午後、物資倉庫の整理を手伝う名目で、一人の老人に会った。
白髪を短く刈り込んだ痩身の男性。穏やかな声だが、目は鋭い。
「オルドー・シュタイナーです。元は王都で文官をやっておりましたが、退官後はこちらで物資管理を手伝っております」
物資台帳を見せてもらった。入庫と出庫の日付、数量、品目。丁寧な筆跡。帳簿を扱う手つきに、素人のものではない手慣れがあった。
ただし、途中から数字の辻褄が微妙にずれている。
私は指先で列をなぞった。
「この四ヶ月、補給物資の到着量が申請の八割程度しかありませんね」
オルドーの手が一瞬止まった。それから静かにうなずいた。
「お気づきになりましたか。儂も不審に思っておりましたが、照合する元の台帳が王都にしかなく」
「差分はどこに消えているんでしょう」
「さて。この駐屯地には、それを調べる権限がございません」
声に、押し殺した何かがあった。諦めとも怒りともつかない、長い年月をかけて冷えた感情。
元王宮勤務の文官。退官の理由までは聞けなかったが、この人は数字の異常に気づいている。気づいた上で、動けずにいる。
私は手帳の余白に小さくメモを残した。補給差分、要確認。
今はまだ手を出せない。権限もなければ根拠もない。でも記録だけは残す。それが前世から変わらない私のやり方だった。
夕方までに、三十二名全員の聞き取りを終えた。
与えられた小部屋に戻り、蝋燭の灯りの下で数字を並べ直す。
最終休暇日の列は壊滅的だった。
「不明」が十四名。判明している中で最短の連続勤務日数が九十八日。最長は先ほどの四百二十日を別にすれば、三百六十日というものがあった。
三百六十日。
丸一年、一日も休んでいない。
前世なら即座に労働基準監督署に駆け込む水準だ。だがここには監督署がない。法定休日もない。あるのは慣習と、それを疑わない空気だけ。
清書した帳簿の表紙に記した。
辺境騎士団勤怠記録——第一号。
木箱から封蝋を出し、裏表紙に日付と署名を押す。たとえ誰にも読まれなくても、日付と署名があれば公文書になる。
ノックの音がした。
「報告があると聞いた。入るぞ」
ディルク団長だった。軍服の袖をまくったまま、執務室と同じ簡潔さで部屋に入ってくる。
私は帳簿を差し出した。
「騎士団全員の勤怠記録です。本日の聞き取りをもとに作成しました」
ディルクは受け取り、最初のページを開いた。
目が数字を追う。ページをめくる。手が止まった。
「三百六十日、休みなし」
「はい」
「これは、本当か」
「全員に直接確認しました。不明の方もいますので、実態はこれより悪い可能性があります」
沈黙が降りた。
蝋燭の炎が揺れ、ディルクの影が壁に大きく伸びる。
帳簿を持つ手の甲に力が入っていた。指の関節が白くなるほどに。
「俺が……こいつらに、こんな働き方をさせていたのか」
その一言を最後に、ディルクは黙った。
下を向いた顔に、雫が落ちた。音もなく帳簿の上に丸い染みを作り、インクがわずかににじんだ。
私は何も言わなかった。
ここで慰めるのは違う。数字を突きつけたのは私だ。この人が自分で飲み込む時間を奪ってはいけない。
前世でも何度か見た。自分の部署の残業時間を初めて集計して青くなる管理職の顔。知らなかったのではない。知ろうとしなかっただけだ。
でも、知ったなら変われる。知ってなお変わらない人間は、泣いたりしない。
しばらくして、ディルクが顔を上げた。目は赤かったが、声は戻っていた。
「ホルン」
「文官殿」ではなかった。私の姓を、初めて呼んだ。
「はい」
「明日から、何をすればいい」
私は答えた。
「まず、週に一日の休息日を設けてください。全員が順番に取れる輪番表を、今夜中に作ります」
ディルクは帳簿を閉じ、丁寧に両手で返した。
「頼む」
命令の硬さはなかった。壊れた武具だらけの執務室で、辞令書を読む目には何の関心もなかった人が、たった一冊の帳簿で変わった。
帳簿を受け取り、机に向かった。蝋燭をもう一本灯す。今夜は長くなる。
輪番表の下書きに取りかかりながら、少しだけ思った。
この帳簿は、読まれた。
たった一人にでも届いたなら、記録は意味がある。
……まだ「価値がある」とは、思えなかったけれど。
この仕事が、ここでは必要とされているのかもしれない。
その程度の手応えだけを握って、私は羽根ペンを走らせ続けた。




