第10話「勤怠表の署名」
記録は嘘をつかない。だから、私も嘘はつかない。
馬車は駐屯地の正門前に停まっていた。王都からの定期便ではなく、召還命令に応じるために手配された片道の馬車だった。御者が荷台の幌を確認している。出発は昼前の予定だった。
私は荷物をまとめていた。とはいえ、四ヶ月前に王都から持ってきた私物はほとんど増えていない。着替えが数着。筆記具。そして手帳。
部屋を出ると、廊下にリーナが立っていた。
「ホルンさん。本当に行くんですか」
「召還命令ですから」
「命令って、拒否できるって団長が言ってたじゃないですか」
リーナの目が赤かった。泣いた後のように見えた。
「手続き上は拒否できます。ですが、次はもっと強い形で来ます。それなら——」
「それなら、って何ですか」
リーナの声が震えた。明るく砕けた口調が、今は消えていた。
「あたしがここに来た時、この騎士団には何もなかったんです。記録も、交代制も、報告書も。みんな怪我してても休まないし、誰が何日働いたかも分からなかった。ホルンさんが来てから全部変わったんです」
「リーナさん——」
「怪我人、減ったんですよ。あたしが治療した人数、先月は赴任した頃の半分以下です。それ、ホルンさんの交代制のおかげです」
返す言葉を探した。だが、リーナは涙を拭いて鼻をすすると、無理に笑った。
「……すみません。引き止めるつもりじゃなかったのに」
「ありがとうございます」
それだけ言って、私は正門に向かった。
正門の前に、騎士たちが並んでいた。
全員ではない。当直の者は持ち場にいる。交代制が機能している証拠だった。だが、非番の騎士が十五人ほど、正門から馬車までの道の両側に立っていた。
誰かが声を上げた。
「文官殿。行かないでくれ」
若い騎士だった。四ヶ月前、赴任初日に最後の休みを聞いた時に「休み?何だそりゃ」と答えた男だ。
「勤怠表がなくなったら、俺たちまた休めなくなる」
別の騎士が続いた。
「報告書、誰が書くんだ。俺は字が下手だぞ」
笑いが起きた。だが、その笑いはすぐに消えた。
騎士たちの間から、ヘルマンが歩み出た。
副団長は私の前に立ち、一瞬だけ目を逸らした。それから、低い声で言った。
「……戻ってこい」
ぶっきらぼうだった。四ヶ月前に「文官の出る幕じゃない」と言った時と同じ声の粗さだった。だが、言葉が違った。
「あんたがいないと、この騎士団は回らない。俺が言うんだから間違いない」
ヘルマンの目は真っ直ぐだった。
「……ありがとうございます、副団長」
頭を下げた。顔を上げた時、視界がわずかに滲んだ。
馬車の前に立った。御者が手を差し伸べている。乗り込めば、十日後には王都に着く。財務局次長の前に立たされる。台帳の写しはオルドーに託した。監査局に届いていれば、数字が真実を語るはずだ。
だが。
ディルクの姿がなかった。
騎士たちの列にも、正門の脇にも、団長の姿はどこにもなかった。
昨日、「判断はお前に任せる」と言った。今朝の報告書は、団長室の机の上に置いてきた。ディルクは取りに来なかった。
私は御者の手を取り、馬車の踏み台に足をかけた。
「待て」
声が聞こえた。
正門の奥から、足音が近づいてくる。早足だった。走ってはいない。だが、普段の歩幅より明らかに速い。
ディルクが正門をくぐった。
銀灰色の髪が朝の光に透けている。息は乱れていないが、額にうっすらと汗が浮いていた。
私は踏み台の上で動けなかった。
ディルクは騎士たちの間を通り抜け、馬車の前で足を止めた。私を見上げた。踏み台に立つ分だけ、私の方が高い位置にいた。
「ベアトリス」
「……はい」
「昨日、行くべきだと言った」
「はい」
「あれは嘘だ」
騎士たちがざわめいた。ディルクはそれを気にしなかった。
「お前がここでやった仕事は手順書があれば回せると言った。あれも嘘だ。回せない。お前がいなければ、三ヶ月で元に戻る」
ディルクの声は低かった。命令の時の硬さではない。もっと剥き出しの、抑えることを諦めた声だった。
「俺は二年前、ヴェルナーを止められなかった。あの時も、行かせるべきだと自分に言い聞かせた。団長の判断に口を出すべきじゃないと。結果、あの人は死んだ」
拳が握られていた。
「お前を王都に行かせたら、同じことになる。財務局次長の思惑がどうであれ、お前を手放したら俺はまた同じ後悔をする。それが分かっていて、昨日は嘘をついた」
「団長——」
「仕事の理由じゃない」
ディルクの目が、真っ直ぐに私を見た。
「俺個人の理由で、残ってほしい」
訓練場の方から風が吹いた。冬の匂いがする風だった。騎士たちは黙っていた。リーナが両手で口を押さえているのが視界の端に見えた。
私は踏み台を降りた。
御者の手を離し、地面に立った。ディルクの前に立つと、見上げる形になる。いつもの距離だった。
「団長。召還命令の件ですが、法的には拒否が可能です。発令者は財務局次長であり、文官の人事権は王宮府にあります。財務局次長の名による召還は正規の手続きを経ておらず、従う義務はありません」
「……ベアトリス」
「それが法的根拠です」
一呼吸置いた。
「ですが、私が残る理由は、それだけではありません」
手帳を持つ手が震えていた。報告書の形式では処理できない言葉が、胸の奥にあった。
「あなたの騎士団の勤怠は、まだ私しか管理できません」
それは事実だった。
「四半期報告書の照合も、補給申請の差分管理も、交代制の運用監視も、今の時点で引き継げる人員はいません」
それも事実だった。
「それと」
声が震えた。業務報告の形式が、ここで途切れた。
「あなたのそばにいたいんです、ディルクさん」
名前を呼んだ。四ヶ月間、一度も呼ばなかった名前を。
ディルクの目が見開かれた。
沈黙が落ちた。訓練場の風が止まっていた。
ディルクの手が伸びた。私の肩に触れた。大きく、硬い手だった。
「……もう一度、言ってくれ」
「ディルクさん」
ディルクの手が震えた。肩に置かれたまま、微かに力が込められた。
「残れ。これは命令じゃない。俺の、願いだ」
騎士たちの間から、誰かが口笛を吹いた。別の誰かが「やっとかよ」と呟いた。ヘルマンが腕を組んで天を仰いでいた。リーナが声を殺して泣いていた。
私は頷いた。
夕方、倉庫棟にオルドーが訪ねてきた。
私は団長室でディルクと並んで報告書の整理をしていた。ディルクが立ち上がり、オルドーを迎え入れた。
オルドーの手に、一通の書簡があった。商隊の便で辺境に届いたものだった。
「王都の旧い知り合いから、急ぎの知らせだ」
オルドーは書簡を開き、内容を読み上げた。
「王都の監査局が動いた。財務局次長マルティン・ゲルハルトが、架空俸給の横領および監査報告の隠蔽の容疑で拘束された」
ディルクが息を呑んだ。
「辺境騎士団の四半期報告書と、別ルートで届いた台帳記録の照合により、三年間にわたる予算の不整合が確認されたとのことだ。ゲルハルトが監査報告の提出先を内部規定で書き換えていた事実も発覚している」
オルドーは私を見た。
「あんたの記録だ。あんたが正確に書いた数字が、監査局を動かした」
私は何も言えなかった。
「それと、もう一つ」
オルドーが続けた。
「あんたの追放の手続きにも瑕疵があったらしい。伯爵令嬢の追放先指定には貴族院の承認が必要だが、第二王子は財務局次長の助言で手続きを迂回していた。監査局がこの件も調査を開始したそうだ」
ディルクが私の方を見た。私は手帳を握ったまま、静かに息を吐いた。
「……私は、ただ正確に記録しただけです」
「ああ」
オルドーは皺だらけの顔でうなずいた。
「それが、あんたの仕事だ」
夜、団長室の机の上に、新しい勤怠表が広げられていた。
来月の分だった。騎士全員の名前と、交代制に基づいたシフトが記入されている。
最後の行に、二つの署名欄があった。
「管理者」の欄に、私はペンを取って名前を書いた。
ベアトリス・ホルン。
ディルクがその隣の「承認者」の欄に、自分の名前を書いた。
ディルク・ヴァイスハウプト。
二つの署名が並んだ。インクが乾くまでの間、どちらも手帳から目を離さなかった。
「来月から、監査局の協力要請が来るかもしれません」
「何の協力だ」
「王国全体の人事制度改革です。監査局から正式な書簡が届く可能性があります」
ディルクは眉を上げた。
「お前は行くのか」
「行きません。ここにいます」
私は勤怠表の署名を見た。二つの名前が並んでいる。まだインクが湿っている。
「ここの勤怠表は、まだ私しか管理できませんから」
ディルクの口元が、わずかに緩んだ。
窓の外は暗かった。冬の星が、辺境の空に冷たく光っている。
手帳を閉じた。明日もまた、勤怠表を更新する。交代制の運用を確認する。補給記録を照合する。四ヶ月前と同じ仕事だ。
だが、同じではなかった。
私の仕事には、意味があった。
記録は人を守るためにある。
その確信が、手帳を握る指先に、静かに宿っていた。
(完)
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