第1話「追放先は最前線」
泥が靴を呑んだ。
馬車から降ろされた右足が、膝の半ばまで沈む。雨季の辺境の大地は底なしで、伯爵令嬢の革靴など歯牙にもかけなかった。
私は荷物を抱え直した。木箱がひとつと、着替えの入った布袋がひとつ。それが、ベアトリス・ホルンの全財産だった。
王都から十日。乗合馬車を三度乗り継いで、たどり着いたのは辺境の騎士団駐屯地。
……いや、駐屯地と呼ぶのも憚られる。
石壁は崩れかけ、正門の鉄柵は錆びて片方が外れている。見張り台に人影はない。敷地の中央に立つ旗竿だけが、ここが王国の軍事施設であることを辛うじて主張していた。
前世の記憶がなければ、廃墟だと思って引き返していたかもしれない。
前世——中小企業の総務部で十年。勤怠管理と給与計算に明け暮れた三十四年の人生。繁忙期の残業中に心臓が止まって、気がついたら異世界の伯爵令嬢だった。
そして二十二年間この世界で生きた結果が、ここ。
辺境騎士団付き文官。
事実上の追放である。
正門をくぐると、訓練場のような広場に出た。
数人の騎士が木剣を振るっている。いや、振るっているというより、引きずっている。顔色が悪い。目の下に隈がある。動きに切れがない。
前世で何度も見た光景だ。月末の経理部。決算期の営業部。人が壊れる直前の、あの空気。
「おい。あんたが新しい文官か」
声をかけてきたのは、大柄な男だった。日に焼けた肌、額の古傷、腕は私の胴ほどもある。副団長ヘルマン・グリューナー。赴任の辞令書に名前があった。
私は辞令書を差し出した。
「ベアトリス・ホルンです。本日付で騎士団付き文官として着任いたします」
ヘルマンは辞令書をちらりと見て、鼻で笑った。
「伯爵令嬢サマが、こんな辺境に何の用だ。どうせすぐ逃げるだろ」
平民出身の叩き上げ。敬語を使い慣れていないのは声の調子でわかる。ただ、伯爵令嬢に対する最低限の距離感——辞令書を受け取り、目を通すという手順は踏んでいた。軍人の習慣だろう。
「逃げません。仕事をしに来ました」
「仕事ねえ。文官の出る幕はないぞ、ここには」
ヘルマンは辞令書を返しながら、顎で奥の建物を指した。
「団長は執務室にいる。あっちだ」
執務室と呼ばれた部屋は、壊れた武具の置き場と化していた。
折れた剣、ひび割れた盾、擦り切れた革鎧。その隙間に机が一つ。そしてその机の前に、男が立っていた。
ディルク・ヴァイスハウプト。辺境騎士団団長。
背が高い。銀灰色の髪を無造作に束ね、軍服の袖をまくっている。男爵家の三男と聞いていたが、所作には貴族の名残がほとんどなかった。目の下の隈は、訓練場の騎士たちと同じ色をしている。
私は辞令書を両手で差し出した。
「ベアトリス・ホルン、本日付で着任いたしました。ご指示をお願いいたします、団長」
ディルクは辞令書を受け取り、数秒で目を通した。視線が一瞬だけ「伯爵令嬢」の文字で止まり、すぐに離れた。
「……事務全般を任せる。部屋はリーナに聞け」
それだけだった。
視線はもう辞令書から離れ、机の上の報告書らしき紙の束に戻っている。興味がないのだ。追放された伯爵令嬢の文官が一人増えたところで、この騎士団の何が変わるわけでもない。そう思っている目だった。
前世の上司にも、同じ目をした人がいた。
執務室を出ると、廊下で若い女性が待っていた。
赤い髪を短く切り揃えた、小柄な衛生兵。腰に治癒術用の杖を差している。リーナ・ベルツ。騎士団唯一の女性団員。
「あたしがリーナです。部屋、案内しますね。荷物持ちましょうか」
砕けた口調。年下のはずだが、遠慮がない。辺境の騎士団には、王都の社交界のような空気はないらしい。
「ありがとうございます。自分で持てますので」
「真面目な人だなあ。こっちです」
歩きながら、リーナは駐屯地の概要を教えてくれた。
騎士の定員は三十名。現在の実働は二十二名。残りは負傷による離脱か、補充が来ないまま空席になっている。衛生兵はリーナ一人。事務を担当する文官は、今日まで一人もいなかった。
「一人もいなかった」という言葉を、私は二度聞き返した。
「え、じゃあ勤務の記録は」
「記録? ないですよ、そんなの」
「給与の計算は」
「王都から届く分をそのまま配ってます。届かない月もあるけど」
「交代制は」
「ないです。魔物が出たら全員出撃。終わるまで帰れない」
私は足を止めた。
リーナが振り返る。
「……ホルンさん?」
「すみません。少し、めまいが」
めまいではなかった。前世の総務部員としての血が、一気に逆流したのだ。
勤務記録がない。給与計算の根拠がない。交代制がない。全員が限界まで働き、補充もなく、記録もない。
これは労務管理の崩壊どころではない。そもそも労務管理という概念が存在していない。
前世でも、こんな職場は見たことがなかった。
リーナに案内された部屋は、四畳半ほどの石造りの個室だった。寝台と机と椅子。それで全部。
荷物を置き、木箱から手帳を取り出す。追放の日に唯一持ち出せた仕事道具。罫線入りの厚手の手帳は、前世の手帳を模して自分で作ったものだ。
最初のページを開き、日付を書く。
そして、今日見たものを記録した。
「勤務記録:なし。給与管理:なし。交代制:なし。定員30名、実働22名。負傷離脱者の復帰見込み:不明。衛生兵1名。文官:本日より1名」
書きながら、学園の卒業式の日のことを思い出す。
第二王子ユリウスの声が、まだ耳に残っていた。
「お前は悪役令嬢として失格だ。もっとヒロインに嫉妬するべきだったのに」
知らない。私は人事台帳の管理で忙しかっただけだ。嫉妬している暇があったら、残業代の計算をしていた。
父——ホルン伯爵は、何も言わなかった。第二王子に逆らう政治的リスクを計算して、娘を切り捨てる判断をしたのだろう。予想通りだった。母が生きていた頃なら違ったかもしれないが、十二年前に亡くなった人のことを今さら考えても仕方がない。
手帳を閉じた。
またここでも不要だと言われるのだろうか。
事務を任せると言った団長の目には、期待も関心もなかった。副団長には「文官の出る幕はない」と言われた。
でも。
目の前の騎士たちの顔色が、前世の過労死直前の同僚と同じ色をしていることから、目を逸らすことができない。
私はもう一度手帳を開いた。
新しいページに、大きく書く。
「明日より、全団員への勤務実態の聞き取り調査を開始する」
手帳を閉じ、蝋燭を吹き消した。
暗闇の中で、辺境の風が石壁を叩いている。遠くで、魔物の遠吠えが聞こえた。
ここが、追放された悪役令嬢の新しい職場だ。




