黒い影
今から十数年前、突然の首筋の痛みと、右腕の激しい痛みと痺れに襲われた私は、県内で一番大きな大学附属病院で首の前方除圧固定術の手術を受けた。
結果として、手術は成功し症状は寛解したのだが、これは、その時経験した出来事だった。
二週間の予定で入院後、一週間が過ぎ、土日には検査の予定も無かったから、妻に病院まで迎えに来てもらい一泊二日の外泊の予定で自宅に帰った。
「調子はどう?」
病院に迎えに来てくれた妻が言った。
「今のところ、何ともないよ」
「糖尿病だから、カロリー制限されているのが辛いけど。インシュリンを自己注射する時も、看護師さんが見張っているし‥」
「四人部屋だから、俺、鼾が酷いでしょ? だから夜、他の人に申し訳ないんだけど…。まぁ、自分じゃ分からないんだけどね」
「俺の隣のベッドに入院している男の人、末期の大腸がんだって。この前、ご本人が検査で部屋を空けている時に、お見舞いに訪ねて来ていた親戚の人達が空のベッドを囲んで、その人のお葬式の相談をしていたなぁ。ご家族もおらず独り暮らしみたい。聞いていた訳ではないけど、何かこっちの方の気分が滅入ったね。当人は当然、自分の病気の事も知らないんだろうに…」
「⋯そうなの。‥世の中色々だしね」
「…家に持っていく物はない?」
そして妻のパッソの後部座席に乗り込むと、自宅へと向かった。
その大学附属病院は総合病院だけに、多くの大学関連の建物と病院の検査棟や入院病棟、来院者の駐車場など広大な敷地があった。そして、それらを取り巻く周囲の道路との境を石垣とフェンスが取り巻いていた。
入院が七月下旬であったため、その石垣の上には除草作業も追いつかないほどの、伸び盛りの夏の雑草が繁茂していた。
病院の駐車場を出て、自宅へと向かう大通りに出る手前の信号が赤に変わり、妻の運転する車は停止線に止まった。
時刻は丁度昼を少し過ぎたところで、空を見上げると雲一つない快晴で風も無く、刺す様に照りつける大腸の日射しが溢れ、空は抜ける様な深い青色で満たされている。
車が信号待ちをしているその間、私は運転席の後ろの座席で、右手に見える病院の石垣に伸び放題となっている雑草をぼんやりと眺めていた。
突然、石垣の雑草の茂みの中から、周囲の眩い日の光の中、イビツに歪んだ黒い影が、" スッと " 車の屋根の高さに上がったのが見えた。その影は、丁度人の大きさくらいで、その影の向こう側が透けて見えていた。
と、また " スッと "、それは横に移動して、私の乗る車のちょうど妻が座る運転席のドアの中へと、そのまま吸い込まれる様に入り込んで消えた。
それは本当に、信号待ちをしているほんの僅かな間の出来事だった。
その黒い影が立ち上がった病院の石垣がある一角は、以前、献体となった方を顕彰するための慰霊碑が設置されていた場所で、現在その敷地はPETの検査棟となっていた。
「‥ えっ⁉︎…」
その黒い影の振る舞いの一部始終を目にした私は、一瞬呆気に取られてははいたものの、この真夏の透明な日差しの中で、その影があまりにも黒くはっきりと見えた事から、直ぐに、『良くないモノ』が妻に取り憑いたことを直感で感じていた。
「信号を右に曲がって、その先の左にあるコンビニに寄って!」
私は、運転席の妻にそう言った。
「何か買うの? …ブラックコーヒー?」
信号が青になり、その交差点を右折すると、妻は青い看板が掲げられたコンビニの駐車場に入った。
車を降りコンビニに歩く妻は、つい今しがたの病院での様子と何の変わりもなく見えた。特に、肩や背中にうごめく黒い影がへばり付いている様な事も無かったから。
私はトイレに寄り、暫く週刊誌を立ち読みしていた。
「用事は済んだ?」
妻の問いかけに頷くと、再び、車の後部座席に乗り込み自宅へと向かった。
そして家での外泊予定を消化すると、再び妻の運転で病気に戻り、手術を受けたのだった。
果たして手術は無事に終わり、当初の予定通りに二週間の入院で退院することができた。
ただ、この話には後日談があった。
妻は、私が病院に戻った日の夜、私が普段寝ている二階の寝室で一人で寝ていたのだが、その深夜、何者かに突然首を絞められたそうである。
「寝ていたら、突然両手で首を絞められて、本当に恐ろしかったんだから!」
そう話す妻の表情は、かなりの恐怖体験であったと見え、確かに真剣そのものだった。
「実はね、あの日病院脇の信号待ちで、黒い影があなたに取り憑くところを見たんだよ。それが『良くないモノ』だと直感で直ぐに分かったんだ。だから家に帰る途中でどこかに寄れば、憑いたモノを落としていけると思って。それでその先にあったコンビニに寄るように言ったんだよ」
「…でも、どうやら家まで連れて来てしまったみたいだね」
「あなたが連れて来たから悪いのよ!」
妻はいつもの通りお冠であった。ただの言い掛かりであるとは思うけれど。
霊は草葉の陰にいて、ふとした瞬間に、そこを通り掛かった人に助けを求めて縋り、憑くとは聞く。霊は、人の感情が不安定となる逢魔時に現れるとも。
しかし、私が見たあの影は、真夏の白昼堂々と現れ、その黒い姿をはっきりと日の光の中に晒していた。
もしかすると、あの黒い影は本当に、かなりタチの悪いモノだったのかもしれない。
(了)




