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青海と志帆(下)

「青海と志帆(上)」の続編です!完結します…!!!


〈主な登場人物の説明〉

東江志帆(ひがりえしほ):もの静かで友達も少ないが、想像力豊かで笑うのが大好きな高校2年生。趣味は読書と小説を書くこと。1年生の頃に美術全国コンクールで優秀賞を受賞した学年で1人だけの美術部員。海の近くの高校に行きたかったため、学校近くの寮に住んでいる。同クラの田辺と一緒にいる。

田辺亜香里(たなべあかり):高校1年生の秋頃に都会から転校してきた美女高校生。1人でいることの多かった志帆と仲良くなった。バド部に所属しており、学年でも一目置かれる存在。明るくて誰とでも仲良くなれる性格。

今宮朝陽(いまみやあさひ):2年生になって初めて志帆と同じクラスになった。静かでミステリアスな性格。事情があって男子テニス部を退部した。学校近くの寮に住んでいて、志帆の隣の部屋。色白で外国人のような瞳をしている。

関優菜(せきゆうな):クラスの学級委員でしっかり者。寮に住んでいて志帆の下の部屋に住んでいる。

大塚智子(おおつかともこ):意地の悪い女の子。志帆を1年生の時から良く思っていない女子のリーダーのような存在。石山流星と付き合っている。

岡崎凪(おかざきなぎ):志帆の小学生からの親友。高校では違うクラスで志帆より仲良くなった友達ができたため、志帆とほとんど話さなくなってしまった。

永田直人(ながたなおと):高校1年生の時から志帆と付き合っている。2年生では志帆と違うクラスになり、なかなか会えず遠距離恋愛に。明るく活発でサッカー部のキャプテンをしている。

猪俣智司(いのまたさとし)先生:2年2組の担任。みんなから「アツアツ先生」と呼ばれている。


7、

あの祭りから約1週間が経ったある日の放課後。アツアツ先生からある依頼がクラスで行われた。

「みんな聞いてくれ。夕日丘にはこども病院があるだろう?校長先生の発案で、病院の子どもたちのために劇をしてほしいと頼まれたんだ。メンバーはクラスから選んで9人必要だ。男女比は男が四人、女が五人。夏休みの初めに本番だから、あと1週間ちょっとある。台本や衣装は揃えてあるから心配すんな。学級委員、今決めてくれ。」

優菜は一瞬ポカーンとしたが、小さくうなずいて前に出てきた。教室がザワザワしている。今日は珍しくクラス全員が学校に来ているのだ。

「せんせー、何の劇やんの?」

大塚が相変わらずため口で聞くが、先生は何も答えなかった。彼女は舌打ちをして足を組んだ。

「それでは決めたいと思います。やりたい人いますか?」

優菜が周りを見渡すが、手をあげる者は誰もいない。むしろ、みんな顔を伏せている。亜香里が振り返って私の方を見た。彼女はやった方が良いか迷っているといった表情だ。前にいる優菜はどうすれば決まるか悩んでいる。彼女が気の毒に思えてくるが、私は劇に参加してやっと再開した部活の時間が減ることを懸念していた。

そもそも劇なんて私にできるだろうか。自分に自信がなかった。

「あの…俺、やります。」

凛とした良く通る声がした。クラス全員が今宮に注目する。彼は無表情のまま手を挙げている。すると、後ろにいた大塚たちが大爆笑し始めた。

「そうね、今宮くんはどうせ暇人だからやらせましょう。帰宅部だから。」

「そうだそうだ!大好きだったテニスもできないから劇でもしてたらいいんだよ。」

アツアツ先生が怒鳴るが、彼らはまだあの時のことを根に持っているようで今宮を馬鹿にする。今宮は手を下げて本を読み始める。本を持っている手が微かに震えて見えるのは気のせいだろうか。

今宮がやるのなら私もやりたい。いつの間か挙手して優菜を見ていた。亜香里もそれにつられて手を上げる。

「ありがとうございます。…私も参加しようかな。」

優菜はそう言って黒板に自分の名前を書いた。女子は3人、男子は1人しか決まらない。このメンバーだけでやれればいいのにと私は心の底から思ってしまう。

それから30分ほど時間がかかったが、どうにかメンバーを決めることができた。

『女子…東江志帆、田辺亜香里、関優菜、大塚智子、伊藤彩芽 (いとうあやめ)

 男子…今宮朝陽、石山流星、跡部大貴(あとべだいき)斎藤和(さいとうかず)

優菜は全メンバーの名前を黒板に書いて席に座った。アツアツ先生は優菜にお礼をして大きな声で言った。

「この9人は挨拶の後、職員室前に集合だ。週番、あいさーつ!」

「起立。注目。さようなら。」

ジャン負けした大塚・石山カップルも一緒だなんて。私は亜香里と顔を見合わせてため息をついた。


職員室前に行くと、先生から”子どもたちスマイルキャンペーン説明書”と書かれた一枚の紙を渡された。アツアツ先生の隣には伊丹勇夫校長先生もいて、大まかな説明の後にこのキャンペーンがいかに大事なものか真剣に話し始めた。ダルそうに職員室前まで来た大塚と石山もいつもは見せない真面目な顔で話を聞いている。

「このキャンペーンは高校生の社会参画の機会を増やすこと、病気と戦っている子どもたちが生きる楽しさを感じることが最大の目的だ。ここにいる9人は重大な任務を託されたというわけだ。気を引き締めて生活してくれ。そして、みんなで協力して作り上げた劇を通して子どもたちを笑顔にしてほしい。頼んだぞ。」

校長の切れ目で見つめられると、恐怖のあまり身が震えてしまう。私たちは「はい。」と大きく返事すると、遅れて大塚と石山も小さく返事をする。彼らも校長が怖いのだろう。校長は満足そうな顔をして校長室に戻っていった。

「さて、1階のフリースペースを貸し切っているから練習は今から始めてくれ。ああ、言い忘れていたな。やってもらう劇は…。」

アツアツ先生がドラムロールを口で再現するが、誰も笑わなかった。

「シンデレラだ!」

亜香里が私を見てなぜか嬉しそうに笑ってくる。私も笑顔を作ったが、そこまで嬉しくもなかった。大塚と石山が耳打ちしあって何か言ってたが、どうせ不満だろう。今宮を横目で見ると、彼の横顔が生き生きしているように感じた。喜んでいるのだろうか。アツアツ先生は優菜に台本9冊を渡して職員室に戻った。

私たちは無言で1階に行き、椅子に座って台本を開いた。子どもたち向けの劇だからそこまで難しくもないし、長くもなかった。しばらく各自で台本を眺めていたが、優菜が口を開いた。

「まず、役を決めよう。自分が何役が良いか…。」

「私が決めるわ。」

大塚が優菜の言葉を遮って立ち上がる。石山は大きくうなずいてニヤついている。私はすぐに抗議した。

「みんなやりたい役があるだろうから、まず意見を聞こうよ。自分勝手にしないで。」

「いちいちうるさいわね。私の言う通りにしなさいよ。まず、この意地悪猫は今宮にぴったりだと思うわ。それに、跡部と斎藤はブスだからネズミⅡ匹でしょ。りゅうちゃんがプリンスに決定よ。」

「大塚ちゃん。それ以上何も言わないでちょうだい。早くそれぞれの意見を言いましょう。」

意外にも亜香里が厳しく言うと、大塚は黙り込んだ。石山も場が悪そうにうつむく。この2人は転校生の亜香里には弱いらしい。人で態度を変えるなんて馬鹿な野郎どもだ。私は呆れて肩を落とす。

役はシンデレラ、王子様、ジャック(ネズミ)、ガス(ネズミ)、フェアリーゴットマザー、アナスタシア(茶髪の意地悪娘)、ドリゼラ(黒髪の意地悪娘)、トレメイン婦人(継母)、ルシファー(意地悪猫)である。

あの…と控えめに手をあげたのは、伊藤彩芽だ。日本人的な顔立ちで黒髪のベリーショート。彼女は生物部だが、運動神経抜群で体育の授業では一目置かれる。彼女は低い声で話し出した。

「私、継母やりたいな。意地悪な役、挑戦してみたかったんだ。」

それに続いて跡部大貴が声を出した。坊主に近い頭でつぶらな瞳。黒縁の丸メガネがトレードマークだ。卓球部では副部長を務めている。

「僕はルシファーやりたい。単純に猫飼ってて好きだからなんだけど。」

「うーん。俺はガスが良いかな。少しおっちょこちょいなところが好きなんだよね。」

こう言った斎藤和は目を輝かせて台本を見ている。黒髪短髪でたれ目なイケメン男子だ。彼は長身を生かしてバレー部に入部している。

それから本人の希望で亜香里はアナスタシア、優菜はドリゼラと決まっていった。私はみんながやりたいと思う役があることに驚いてしまう。自分が何の役をやりたいかすら分からなかった。優しい今宮はきっと余りものをやろうと思っているのだろう。大塚は意外にも何一つ物を言っていなかったが、ようやく口を開いた。

「じゃあ、私とりゅうちゃんでシンデレラと王子様でいいわね。最高だわ。」

「ああ。今宮ごときが王子なんて合わないもんな。」

また今宮を貶す。私は流石に我慢の限界だった。勢いよく立ち上がり、椅子が後ろに倒れた。今宮がすぐに椅子を立ててくれたが、彼は私の手を引っ張って椅子に座らせた。彼の茶色い瞳は何も言うなと訴えかけていた。私は悔しくて唇をかむ。

「提案したいことがあるんだけど。私は志帆がシンデレラ、今宮くんが王子様が良いと思う。」

亜香里が言うと、伊藤、跡部、斎藤、優菜の4人が一斉に大きくうなずいた。私は目を丸くしたが、今宮は無表情のままだった。大塚と石山はキョトンとして亜香里を見つめる。さっきの勢いはどこに行ったのだろう。やっぱり亜香里の言うことには逆らわないらしい。

「じゃあ、役は決定ね。あとは…練習のスケジュールを立てないといけないわね。」

亜香里の言葉にみんなうなずくが、大塚と石山は立ち上がって鞄を持って部屋を出ようとする。

「おい。まだ終わってないのにどこに行くんだよ。」

斎藤が不満げな声を上げると、2人は立ち止まってこっちを振り返った。

「俺たちは練習なんてしないからな。それだけは覚えとけ。」

「こんなお遊戯に付き合ってる暇はないの。私たち、あなたたちと違って忙しいから。」

そそくさといなくなった彼らを見て、亜香里が机を強く叩いた。彼女にしては珍しく、かなりムカついているようだ。すると、伊藤はため息をついて呟いた。

「あの2人はいつもあんなだから。私たちだけで計画を立てよう。あと一週間くらいしかないから無駄にできる時間はないから。」

「そうだな。あんな奴らが同じメンバーなんて最悪だよ。なんで先生も辞めさせなかったんだろうな。真面目にやるわけがないのに。」

「今からでもあの2人を外せるんじゃないか?どうせ本番だってやらないだろ、あの人たち。」

跡部と斎藤が眉間にしわを寄せる。もしかしたら斎藤の言った通り、本番ドタキャンして私たちを困らせる計画なのかもしれない。しかし、本番に2人が参加するなら2人を除いて練習計画を立てて良いのだろうか。それで良い劇が子どもたちに見せられるのだろうか。時間は限られているし、2人と争っている場合ではないのだが。

「俺はあの2人と一緒に計画を立てた方が良いと思う。」

今宮が初めて発言した。綺麗な声に引き付けられるように彼に注目する。彼は至って冷静に話を続けた。

「もしあの2人を省いて計画を立てて、あの人たち抜きで練習して本番に9人揃ってやれるわけがない。それに、本番当日に2人が仮病か何かを使って休もうと企んでいると予想できるなら俺たちがそれを阻止しないといけない。だって、9人じゃないとこの劇は成り立たないから。俺は絶対に不完全な劇を子どもたちに見せたくない。子どもたちに何も感じてもらえないことはしたくないんだ。」

みんな何かに気付かれたような顔をしたが、跡部と斎藤はまだ苦い顔をしている。

「今宮の言ってることは最もだけど、あいつらと話すなんて嫌だよ。分かってくれるわけない。」

「あいつらと話すのは宇宙人と話すもんだもんな。それは単なる理想だよ、今宮。」

今宮の横顔を見た私は真剣な表情で2人を見回した。

「このキャンペーンの最大の目的は何だった?病気と戦っている子どもたちに生きる楽しさを感じさせることだよね?あの2人に分かってもらえるか、じゃなくて、私たちが何度も説得するんだよ。ちゃんと分かってもらえるまで。そうしないと、この目的は達成できないの。」

「9人で心を一つにしないと、心を動かす良い劇は出来ないもんね。」

優菜の言葉に伊藤も亜香里もうなずく。跡部と斎藤もしばらく顔を見合わせてから笑顔を作った。

私が胸をなでおろすと、今宮がぷっくらした白い頬を掻きながらささやいてきた。

「東江は俺と同じこと考えてたでしょ?そう思ってた。」

小さくうなずくと、彼は頭をかいて雪のように白い頬をピンクに染めた。


そうは決めたものの、2人が学校に来なくなったものだから困ってしまった。それでも、私たちは休みの部活が多い月曜日と金曜日の放課後に集まって練習をすることにした。

今日は練習の2日目。自主練の成果もあり、みんなセリフはほぼ覚えた。フェアリーゴットマザーは亜香里、ジャックは跡部が代わりにやっている。

通しで練習し終えると、斎藤が力なく椅子に座った。

「あの2人が学校に来ないんじゃどうしようもないよな。やっぱり諦めるしかないか…。」

「どうしよう、このままずっと来なかったら。私たちだけでやれるように備えとかないと。」

伊藤も自分の鞄から水筒を取って小さく呟いた。優菜も跡部も浮かない顔で台本を眺めている。私は亜香里と顔を見合わせるが、彼女もすっかり沈んでしまっていた。今宮は水を一口飲んで窓の外をボケーっと見てるだけ。こんな状態で子どもたちに何も披露できるわけがない。闘病生活で辛い思いをしている子どもたちを元気にしてあげるには、まず私たちが1つにならないといけないのに。

しばらく張りつめた沈黙が続いたが、私はあることを思いつき声を出した。

「みんな。ちょっと提案したいことがあるんだけど…。」

私の言葉を聞くと全員目を丸くした。今宮だけはなぜかほほ笑んで私を見ていた気がするが。


学校から自転車で海とは反対側に20分ほど漕いで、ずっと坂を上っていくと見晴らしの良い高台がある。高台を左に曲がってすぐのところに西洋のお城のような大豪邸があった。真っ白の壁に紺色の三角屋根が五つほど見える。庭には木からぶら下がったブランコに、楕円形のプール、バスケットボールのゴール、パラソルの付いたテーブルと椅子が何個か置いてある。

「ここが…大塚の家なのね。」

亜香里が目を見張って大きすぎる家を見上げる。彼女の家もかなりの豪邸だが、この家を見ると小さく感じてしまうほどだ。7人全員動きを止めて家を眺めてしまう。

「さすが、両親が有名なファッションデザイナーなだけあるよね。それじゃあ…押すよ。」

優菜が私の目を見て深呼吸する。鉄門の横についている金のインターホンを押そうとしている彼女の手は僅かに震えている。彼女が爆弾に触れるようにボタンを押すと、聞いたことのないようなハープのチャイムが鳴り、インターホン越しに留守電でよく耳にする女性の声がした。

「コチラ、オオツカノジタクデス。オナマエトゴヨウケンヲオハナシクダサイ。」

誰が話すか決めていなかったため私たちはお互いにアイコンタクトを取る。みんな首を振ったが、私は亜香里を前に出した。彼女ならきっと大塚も心を許すかもしれないと思ったからだ。亜香里は少々不満げだったが、インターホンの前に立った。

「こんにちは。智子さんのクラスメイトの田辺亜香里です。智子さんとお話がしたくて来ました。あの、私の他にも六人います。できるだけ手短に済ませるので、話をさせてください。」

完璧な言葉に私は拍手を送ってしまった。亜香里がドヤ顔でこっちを向いたのでみんなも笑ってしまう。

すると、門が静かに開いてようやく家の玄関のドアが見えた。私たちは自転車を置いてゆっくりとドアまで近づく。車庫には高級スポーツカ3台とベンツの車が一台停まっているが、大塚の両親は家にいないのだろうか。

ドアの前まで来て私がノックしようとすると、勢いよくドアが開いた。私たちは驚いてつい後ずさりしてしまう。そこにはピンクのバスガウンを着て髪に白いタオルを巻いた姿の女がいた。端正な顔立ちだが、鋭いつり目で私たちを見つめている。

「あ、あの…突然すみません。智子さん、いらっしゃいますか?」

亜香里が気を利かせて声をかけると、その女は不機嫌そうな声を出した。

「馬鹿ね。私が本人よ。見て分からないんじゃ話もできなそうね。」

「ええ!?」

今宮以外全員声を揃えて叫んでしまった。いつも濃い化粧に派手な髪型をしているものだから、まさか大塚だとは夢にも思わなかった。彼女はお風呂上がりらしくすっぴんなのだ。私は化粧をしていない彼女の顔の方が美人だと感じてしまう。

「せっかくずる休みを楽しんでたのに何なのよ、こんな大勢で。家にまで来るなんて気持ち悪いわ。それに、例のことなら話すことは何も無いの。」

彼女がドアを閉めようとしたので、斎藤が足を挟んで阻止する。大塚は目を見開いて彼を見た。

「待ってくれ、大塚。頼むから学校に来てほしい。」

「断るわ。学校行くなんて面倒なの。私の夏休みはもう始まってるんだから。」

またドアを閉めようとするので今度は伊藤が前に出た。彼女の手の力で重いドアも動きを止める。

「私たち9人で心を一つにしないと良い劇ができないんだよ。一緒に頑張ろう。」

「いくらジャン負けでも、やるって決めたんだから最後までやり通して。お願いだからさ。」

「そうよ。子どもたちの為に大切な活動をしている自覚を持ってほしいわ。」

優菜も亜香里も懇願するが、大塚は鼻で笑って相手にしようとしない。彼女は相当なひねくれ者だ。どうしても人間の心があるようには思えない。ちらっと今宮を見ると、彼は後ろにいて黙っていた。前のことをまだ気にしているのかもしれない。

「あなたたち、もう2度と来ないで。また来たら警察呼ぶから。大体、子どもたちに生きる楽しさを教えるなんて最悪よ。生きてて楽しい事なんてほとんどないじゃない。」

彼女の言葉が私の胸に突き刺さる。私は彼女の知らない一面に気付いてしまった。

「あなた…何か深く悩んでるんじゃない?」

彼女は目を泳がして口を固く結ぶ。やはり私の言葉は図星だったみたいだ。すると、今宮がようやく良く通る声を出した。

「大塚。俺たちは大塚と石山と一緒に劇を完成させたい。9人でやるからこそ意味がある。他の誰でもなくて、2人じゃないとダメなんだ。」

私たちも大きくうなずいて彼女を見つめた。彼の言葉に大塚はハッとしたような表情を見せたが、無言のままドアを勢いよく閉めてしまった。跡部が呼び止めようとしたのを今宮が止めた。

「やっぱり分かってもらえなかったな。どうしたものか…。」

斎藤が先頭を切って自転車を漕ぎながら沈んだ声を出す。隣に並んでいる跡部もため息をついた。伊藤はバイトがあると言ってすぐに家に帰ってしまったし、亜香里と優菜はコンビニで夕食を買うと言って先に行ってしまったので、私と今宮、斎藤、跡部の四人しかいない。

「大塚の両親、結構忙しいみたいだな。さっき調べたら、今は海外にいるみたいだよ。」

隣を走っていた今宮が突然口を開く。斎藤と跡部にも聞こえたようで驚いて振り返った。

「ってことは…あの人に兄弟はいないし、あの家に1人で住んでるのか。」

「マジか…俺だったら嫌だよ。大豪邸に一人きりなんて寂しいもん。ちょっと気の毒だな。」

私は夕焼けでオレンジに染まる空を眺めながら彼女が言い放った言葉を思い出した。

ー生きてて楽しい事なんてほとんどないじゃない。

学校に来ればクラスで一番目立っていて一目置かれるボス的な存在。家に帰ればあんな大豪邸で生活に一ミリも不安を感じることがないセレブな私生活。それなのに、彼女が生きていて楽しいと感じることは何もないのか。

「ちょっと…じゃなくて、かなり気の毒だと俺は思う。」

今宮がぼそっと呟いたのを私は聞き逃さなかった。あんなに大塚にいじめられたにも関わらず、彼は彼女の気持ちを一番汲み取っているのかもしれない。そして助けてあげたいと強く思っているのだろう。

何かを決心したような彼の横顔を見つめながら、私は複雑な感情が胸に広がるのを感じるのであった。


翌日。私たちは私と今宮が住んでいる寮の前に集合し、石山の家に向かった。

彼は海沿いの2階建て一軒家に住んでいる。クリーム色の壁に深緑色の瓦屋根。彼も大塚同様に1人っ子だ。

今回は跡部がインターホンのボタンを押す。ピンポーンと心地よい音がして扉が開いた。

「ともりん、まだ早いのにどうしたんだよ…?」

そこには明るい茶髪の寝癖だらけの髪に上下ジャージ姿の男が立っていた。寝ぼけているのだろうか。大塚が来たと勘違いしている。私たちは彼の甘えたような声に一瞬固まったが、亜香里が咳払いした。

「石山くん、私は亜香里よ。あと…6人もいるわ。話がしたくて来たのよ。」

亜香里の女の子らしい高くて愛嬌のある声で聞くと、彼は我に返ったように目を見開いた。

「まだ眠いんだ。てめえらと話すことなんてねえよ。」

大塚と同じ。扉を強引に閉めようとするので斎藤と跡部が一緒にドアノブを掴んで引っ張った。流石の石山も扉を閉めることができない。彼は舌打ちをしたが、私は亜香里の真似をしてできるだけ可愛く話を切り出した。

「私たち9人みんなで頑張ろうよ。病気で苦しんでる子どもたちは毎日苦しい思いをしてる。良い劇を見せてあげたいじゃない、そうでしょ?」

全員の厳しい視線を感じながらも私は愛嬌を出しながら話すのに成功。石山は怪訝そうに私を見つめたが、扉を閉めるのを止めてくれた。

「俺たちには石山が必要なんだ。お前じゃないとダメなんだ。頼む、学校に来て練習してくれ。」

斎藤が前回の今宮のセリフをほぼパクッて頭を下げる。私たちも頭を下げると、彼はまた舌打ちしてため息をついた。

「子どもたちに生きる楽しさなんて教えられるわけないだろ?そんなの、楽しいなんて感じねえやつだっているんだよ。諦めるんだな。」

「大塚は人生を楽しいって感じられない…そう言ってたよ。」

今宮の言葉に石山の目が揺らいだ。彼は微かに唇を震わせているように見える。今宮は前に出て話を続ける。

「彼女は何か大きな悩みを抱えている。ボーイフレンドの石山にもそれをあまり分かられないように必死に生きてる。そんな風に生きるのがどんなに苦しいものかは計り知れない。だから…。」

「うるせえ!おめえに何が分かるんだ!」

石山が唐突に今宮の胸倉を掴んで顔を近づける。私以外の三人の女子が悲鳴を上げた。小柄な今宮は足が浮きそうになっているが微動だにしない。跡部と斎藤が仲介に入ろうとするのを私は止めた。ここは今宮の作戦に懸けた方が良いだろうと思ったのだ。彼は石山のつぶらな瞳を真っ直ぐに見据えている。

「お前は大塚のどこが好きなんだ?お金持ちなところか?それとも、目立ってるところか?」

石山は勢いよく今宮の顔をビンタした。私たちは驚きのあまり声が出ない。今宮は顔を前に戻していつもとは違う凛々しい瞳を石山に向ける。

「てめえ、あいつのこと馬鹿してるだろ?俺はあいつを守ってやりてえんだよ。あいつはな、強がってるけどすっげえ弱いんだ。悩み事だってきっと山ほどある。てめえの想像以上にな。」

「石山。俺も大塚を助けたいよ。」

ビンタされた右頬を赤く染めながら今宮は言った。石山はハッとしたように目を丸くして今宮の胸倉を離す。

私は彼の白シャツのボタンがいくつか取れて綺麗な鎖骨が見えているのに気付いた。

「彼女は1人で悩みを抱えて、人生に疲労してる。彼女が生きる楽しさを見出せるように俺たちで力を合わせよう。まず、彼女の相談に乗って話をしてもらうことだ。誰かに話をするだけでも気が楽になるものだから。」

「そうだよ。私たち、チームなんだから。喜びも悲しみも分かち合わないと。」

優菜が学級委員らしいことを言うと、伊藤と亜香里も力強くうなずいた。斎藤と跡部も笑顔で石山を見つめる。

今までに見たことのない石山の表情だった。いつもやんちゃでいじめっ子で悪い奴だが、今の彼の目には安らぎが見受けられる。もしかしたらこれが本当の彼なのかもしれない。しかし、そんな彼はそっぽを向いて冷たく言い放った。

「ふん、チームになった覚えはないぞ。もう朝に押しかけてくんな。今度会うときは学校だからな。」

扉を勢いよく閉められてしまったが、私たちは謎の達成感に包まれながら石山の家を去った。学校に来ることを予感させるような言葉を聞けて安心したのだろう。

「みんな、今から劇の練習しない?あの2人に伝えたいことは言ったけど、戻ってきてくれるかの確証は持てないからさ。」

伊藤が言うと、全員賛成した。場所は亜香里の家の一部屋を借りられるようでそこに決定。台本を持ってこないといけないので一度家に帰ってから改めて現地集合することになった。

2階に住んでる優菜と別れて今宮と2人きりになった。私が右頬は痛くないかと心配すると、彼は指でツンツンして大丈夫と苦笑した。彼の色白で綺麗な胸元に目が行ってしまうのを必死で我慢する。

「それにしても、東江は実力派女優だよな。」

「は…?何それ、どういうこと?」

唐突な誉め言葉に戸惑うと、彼はいたずらっぽく笑った。

「劇の練習も毎回すごく上手だし、何よりさっきの演技は素晴らしかったよ。」

可愛い子ぶった自分を思い出し、私は思わず赤面した。石山は可愛い女に弱いという噂を聞いたことがあったから仕方なくやっただけだ。今宮は家の鍵をポケットから取り出して言った。

「また機会があったらやってよ。俺も演技学びたいから。」

「あんなの2度とやりたくないって!ああいう役は私のタイプじゃないの。」

「それでも演じられるのは実力だよ。俺なんて王子役、相当苦戦してるからさ。俺のタイプじゃないし。」

今宮が悲しそうに肩を落としたので私は彼の背中を叩いた。

「私は今宮くんの演技好きだよ。誠実さが出てて、王子にぴったりだと思う。だから、もう元気出して。」

彼の顔が一気に明るくなったので面白くてつい吹き出してしまった。なんて切り替えの早い人だろう。あどけなくて愛嬌がある。

「東江がシンデレラ役じゃなかったらやらなかったけど。」

今宮はそう言うと、手を振って家の中に入っていった。私はキョトンとしてその場に立ちすくんでしまう。胸の鼓動が聞こえて身体が熱くなるのを感じた。私がシンデレラ役だからやってくれたってこと?私じゃなかったら彼は王子をやらなかったって…そういうことなのか?

「志帆ちゃーん。台本取ったよね?一緒に行こう!」

優菜の声がして我に返った。私がまだ台本を取っていないと言うと、彼女はポカーンとした。慌てて家に入る私の姿を見て彼女は苦笑した。


亜香里の家に集合すると、花柄のエプロンを着た沙織が手作りのショートケーキを出してくれた。伊藤はショートケーキが一番の大好物らしく、頬を緩ませてゆっくり味わっていた。スポンジがフワフワで口に入れると溶けてしまう。クリームも甘すぎず、イチゴの甘酸っぱさも丁度いい。お店で売ってもすぐに完売しそうだ。

満足そうに平らげた私たちを見て沙織は少女のように笑った。

「良かったわ。初めてだったから上手くできるか不安だったの。また今度お友達にも作ろうっと。朝陽くんにも志帆ちゃんにもまた会えて嬉しいわよ。」

彼女は私と今宮を交互に見る。彼女の金色の羽付きイヤリングがゆらゆら揺れた。

「さあ、練習しましょう!2階に来て。」

亜香里は台本を持って立ち上がり、私たちもすぐに彼女の後を追いかけた。

螺旋状の階段を上って右に曲がると、大きな茶色い扉があった。亜香里が近づくと扉が自動で開いた。跡部と斎藤が同時に歓声を上げる。その部屋は白い壁と立派な照明が付いた広すぎるダンススタジオだった。余裕で2十人ほどは入るだろう。唖然としている私たちを見て、彼女は頭をかいた。

「お父さんが私のために作ってくれたの。私、中学までバレエ習ってたからここで練習してたわ。」

確かに壁には白いバレエの衣装が何着か掛かっている。どれも光沢のある良い生地でできているのが素人の目でも分かる。バレエの衣装を着た自分を頭で想像して私は思わず微笑んでしまう。小学生の時にバレエを習ってみたいと親にせがんだのを思い出した。あいつらは聞く耳すら持ってくれなかったが、亜香里の父親はすぐに承諾したのだろうと羨ましくて仕方がない。すると、伊藤がニコニコ笑って呟いた。

「私はダンスを習ってた。こんな広いスタジオ初めてで踊りたくなっちゃう。」

「習い事ね…私、習字やってたな。あー、ここで書道パフォーマンスやってみたい!」

優菜も幸せそうに叫ぶ。今度は跡部が俺は野球、斎藤は俺は剣道やってたと手をあげた。私は横目で今宮を見たが、彼は昔習っていた空手のことを言わなかった。この中で習い事をやったことない人間なんて私しかいないのに…。どうして彼は黙っているのだろう。

こんなことを考えている内に今宮以外、台本を見てそれぞれの練習に入っている。みんなの劇へのやる気は尋常じゃない。私もすぐに自主練に入ろうとすると、シロクマが肩を叩いてきた。

「東江。山場のシーンなんだけど、ダンスの練習もしないといけないなって。」

「ああ、舞踏会の場面だよね。ダンスなんて一度もやったことないよ。彩芽ちゃんがシンデレラの方が良かったのかも。」

私が肩を落とすと、彼は首を横に振った。

「俺もダンス初心者だから伊藤に教えてもらおう。きっとできるよ。」

いつものように彼は私を励ましてくれる。私は少し気持ちが明るくなって大きくうなずいた。彼は安心したように微笑んで伊藤のところに行った。私はまた頭の中で想像を膨らませる。今宮と向かい合い、手を取り合ってダンスをするなんて。恥ずかしさのあまり、目を合わせられなさそうだ。無意識にニヤけてしまう。

「みんな、ダンスシーンの練習も踏まえた通し練習しよう。鏡をステージの正面に考えて、持ち場について。」

優菜の指示で最初のシーンから練習スタートだ。全員セリフを完璧に覚えているし、演技もかなり上達している。そして、ついにダンスシーンまで来てしまった。伊藤の指示で私は今宮と向き合い、片手は手を繋いで、今宮の片手は私の腰、私の片手はドレスの裾を掴む姿勢になった。自分の体温が急上昇するのを感じる。伊藤は丁寧で的確に足の使い方や身体の動きを教えてくれた。予想よりも習得できているように感じていると、亜香里が目を輝かせて叫んだ。

「志帆、実際にドレス着ながらやってみた方が良いと思うわ。今、サイズ合いそうなのをクローゼットから持ってくるから待っててちょうだい。」

「え、ちょっとま…。」

彼女は光のような速さで部屋を出ていった。そんな彼女を見て、伊藤と優菜は笑っている。すると跡部が頬を赤く染めながら私の方に近づいてぼそっと呟いた。

「亜香里ってさ、いつも明るいよな。あいつは何か悩んでたりしてないのかな。」

私は彼の言葉に黙り込んでしまう。いつもそばにいたけど、彼女の悩んでいる姿は今まで見たことがなかったからだ。彼女を思い出すとき、彼女の顔には必ず笑顔がある。

「人生に傷を負ってない人なんて誰一人いないと思うな。」

後ろから今宮の声が聞こえて、飛び上がりそうになった。跡部と私が振り返ると、彼はまた透き通った茶色い瞳をしている。今宮の隣にいた斎藤は感慨深くうなずいた。

「今宮の言う通りだ。きっとみんな、不完全な人生を送ってるんだよ。どんなに美人でも、お金持ちでも、明るい性格でも…きっとそうなんだ。でも、それで良いと思う。」

「斎藤…。」

「だってさ、1人で生きてるわけじゃないもん。完璧じゃないから支え合ってるんだよ。お互い足りない部分を認めながら助け合ってるんだぜ、俺たちは。」

斎藤の言葉に涙が出そうになって慌てて上を向く。その時、勢いよく扉が開いて亜香里が子犬のような顔をして水色のドレスを持ってきた。伊藤と優菜が拍手をしてそのドレスを見つめる。柔らかいレースで包まれて胸元に小花が付いているその衣装は美しいが、肩が出るデザインで私はなんだか緊張してしまう。しかし、そんなことお構いなしで亜香里はダンススタジオに付いている更衣室に私を入れた。更衣室も広いので目を見張ってしまうが、慌てて着替え始める。サイズは驚いたことにピッタリで鏡の前に立つとそこには自分ではない人が立っていた。服は着る人の印象を大きく変える力を持っているみたいだ。私はクルリと一回転して嬉しくなった。

ゆっくりと更衣室を出ると、みんなの顔が固まった。この反応は似合っていないのかもしれない。私は顔を真っ赤にして更衣室に戻ろうとするが、伊藤と優菜が私の腕を引っ張った。

「実写版みたいに綺麗だね。とっても似合ってる!」

「今宮くん、目の前で踊って鼻血出さないようにね?」

優菜がニヤニヤすると、今宮は珍しく動揺していた。瞳孔が開くのを初めて見た気がする。彼は拒否をすることもなく素直にうなずいたので、跡部と斎藤は何かに気づいたように顔を見合わせた。私が今宮の前に行くと、彼はなかなか目を合わせてくれない。私も思わずうつむいてしまう。

伊藤が相変わらず指導に当たってくれた。ドレスの裾を踏まないように気をつけていると、足の位置を把握するのが難しい。一度彼に倒れそうになったが、どうにか持ちこたえる。伊藤もそれに気づいて頭を悩ませた。しかし、今宮が私があまり動かないで済むように工夫してダンスをすると提案してくれたので徐々に上達していった。ようやく次のシーンに入ることができ、最後まで通すことができた。みんなその場にしゃがんでくたくたの様子。その時、自動ドアが開いて沙織が入ってきた。

「みんな相当疲れてるみたいね。じゃーん!自家製のキンキンに冷えたレモネード、持ってきたわよ!」

全員歓声を上げて飲み物を受け取る。乾いた喉に蜂蜜の甘さとレモンの酸っぱさが染み渡り、美味しくてたまらなかった。みんなの生き返った顔を見て沙織はまた嬉しそうに笑った。彼女はスタジオに冷水と人数分のコップを置いて行って部屋を出ていった。

「亜香里ちゃんのお母さん、素敵な方だよね。気遣ってくれて優しくて…それに女優みたいに美人だわ。」

優菜が目を輝かせると、亜香里は苦笑した。

「お客さんが来るとお母さんすごい張り切っちゃうのよ。おもてなしするのが趣味みたいなものだから。いつもあんなテンションじゃないわ。」

「そうなの?」

私たちみんなで彼女を見つめると、彼女は少し暗い顔をした。

「お母さんね、幼いころからモデルになる夢があったんだけどある事務所のスタッフに騙されて失敗したの。それで、死にそうになってた時にお父さんと出会って結婚したらしいわ。今はお父さんが海外にいるから毎日寂しがってる。」

沙織の意外な過去に私たちは言葉を失った。彼女のはじける笑顔の裏に大きな挫折があったとは思ってもいなかった。亜香里がこの話は内緒ねと口に指を当てたので、全員大きくうなずいた。

しんみりした空気になると、跡部がその空気を吹き飛ばすように大きな声を出した。

「よーし、明日も来れる人で練習しよう!俺たち、もっと出来る気がするからさ。」

「私もやりたい。なんか、みんなといると気が楽ですごく楽しいから。」

伊藤も言うと、賛成だと亜香里も斎藤も手をあげた。シロクマをチラ見すると、彼も微笑んでうなずいた。色白の肌に少しばかり汗が伝っていている。彼はテニス部だったのになぜ日焼けしなかったんだろう。ふと彼がこっちを向いたので、驚いて変な声を出してしまった。みんなの視線を集めてしまったが、私は平然として叫んだ。

「じゃあ、明日も頑張るってことで…今日は解散!」

オー!と掛け声に合わせて拳を高く突き上げる。私は胸をなでおろしてニコッと笑った。


亜香里の家からの帰り道。みんな自転車をこぐスピードが速いのか私と今宮が異常に遅いのか分からないが、2人で置いてかれてしまった。気付けば、私は彼と毎日一緒にいる。胸の鼓動が大きくなるのを感じながら、私は口を開いた。

「私、今まで大塚と石山はまともな人間じゃないと思ってた。」

急に何を言い出すのかと言いたげな表情で彼が私を見つめる。

「クラスでまともなのは私と今宮くんと亜香里、それに優菜ちゃんくらいしかいないって感じてて。跡部とか斎藤とか伊藤ちゃんは今まで関わったことなかったから分からなかったけど、他の人たちは自己中で意地悪で…人の心を持ってないと思ってたの。でも、それは間違ってた。」

空が薄緑と水色の神秘なグラデーションになっている。雲一つない快晴だ。私が思わず自転車を止めると、彼もブレーキを握った。

「まともな人間なんてこの世にいないのかもね。一人一人おかしな部分があって、悩んでることもあって、それを他の人には見せたくないっていうプライドもあって…。なんか不思議だよね。」

今宮はぷっくらした白い頬を掻きながら空を見上げた。彼の癖である。

「自分の心の傷が一番大きく見えるように錯覚しちゃうけど、どの人間が負っている傷も同じくらい大きいものなんだよ。遠近法ってやつだな。」

そっか…だから今宮くんは大塚を助けようって思えたんだ。彼は今まで沢山の苦労をしてきたけれど、大塚も同じくらい苦労していると理解していたのだ。私はまたまた感心してしまう。

「さあ、明日も練習だから帰って休もう。腹ペコだ。」

今宮は自転車をこぎ始めたので、私も彼の背中を見つめてペダルを踏んだ。


日曜日もあっという間に終わり、学校に登校すると大塚も石山もいた。2人は相変わらずヤンキーとギャルだが、いつもより大人しく話をしている。私は亜香里と顔を見合わせて笑顔を作った。

放課後、アツアツ先生が衣装を持って来てくれた。私たちが早速着てみると、先生は嬉しそうに声をあげた。

「みんな役が合ってるな。病院にいる子どもたちはみんなの劇をすっごく楽しみにしているそうだ。あと1週間、頑張ってくれ!」

「はい!」

七人…いや、9人で返事をする。今日は大塚と石山も来てくれたのだ。ようやく9人で練習ができる。2人は不機嫌そうな顔をしているが、他のメンバーは全員明るい顔をしている。

「志帆ちゃんと今宮にはもったいない衣装ね。ぜーんぜん似合ってないわ。」

「もう、そういうこと言ってる場合じゃないの。最初から通してやりましょう。」

亜香里が大塚の言葉をズバッと切ると、大塚は眉をひそめてそれ以上何も言わなかった。横目で今宮を見ると、彼の白い頬が異常に赤いことに気付いた。熱でもあるのかと聞こうとしたが、すぐに練習が始まってしまった。一回も練習に加わっていなかった石山も案外ジャック役を上手く演じている。家で自主練でもしてきたのかとみんな目を見張ったが、聞くのはよしておいた。

大塚の出る場面、シンデレラが魔法をかけられて綺麗なドレスに変身する場面だ。彼女は青のフード付きポンチョをまとって短い杖を持って登場する。私が泣いている演技をすると、彼女は肩を叩いた。

「何泣いてるのよ、メソメソして。泣いても何も解決しないじゃない。」

ぶっきらぼうに言い放つと、キョトンとしている私の目の前に立って顔を覗いてくる。

「何があったのか話しなさいよ。魔法使いだって心を読むことはできないんだから。早く言いなさい。」

大塚は不満そうな声を上げる。我慢できないと言わんばかりの顔で優菜は手を叩いて演技を止めた。

「ストップ!大塚ちゃん、セリフが全く違うよ。それに…言い方がきつすぎるから優しく話しかけて。」

「はあ?うるさいわね。私なりに考えてやってるんだから口出ししないでちょうだい。」

「口出しじゃなくてアドバイスしてるんでしょ?フェアリーゴットマザーは陽気で優しい性格なんだよ。」

「へえ、あなたフェアリーゴットマザーに会ったことあるのね。そういう性格だって誰が言ったのよ。そんなの自分の考えでしょ。私に押し付けてこないで。」

つり目になっている優菜がまた言い返そうとするのを斎藤が制す。大塚はそっぽを向いて椅子に座った。

「そもそも優しく話しかけるなんて無理よ。今までやったことないから。私の演技を認めてくれないなら、私はもう帰るわ。来た意味がないもの。」

「ともりん、練習すればできるようになるぜ。帰るなよ。」

石山が説得しようとすると、彼女は血相を変えて声を荒げた。

「りゅうちゃんも私の味方になってくれないの?私の演技を認めてないってことでしょ?誰も理解してくれないじゃない。…もういいわ。私は劇やらないから、他の人に頼んでせいぜい頑張るのね。」

乱暴に衣装を脱ぎ捨てると、彼女は鞄を持って部屋を出ていった。彼女の後ろ姿を見て彼女が幾分痩せたように感じたのは気のせいだろうか。彼女は元々スタイルが良い方だが、ミニスカートを履いて丸出しになっている太ももがふくらはぎとほぼ同じ細さのように見える。石山は追いかけようとしたが、諦めたように足を止めた。

優菜がその場にしゃがみこんで泣き始めた。伊藤と亜香里が彼女の背中をさする。跡部と斎藤は顔を見合わせて肩を落とした。今宮は相変わらず頬を赤くしていたが、何か考え込んでいるようだった。

私は必死に頭を働かせる。どうすれば良かったのだろう。彼女の意見を尊重するべきだったのか。しかし、あの演技では役の性格が乱暴に見えるに違いない。台本とは180度違った人物になってしまう…。

でもあの時、聞いてみればよかった。彼女の頭の中にいるフェアリーゴットマザーはどんな人なのかと。フェアリーゴットマザーは大塚とは正反対の性格の人物だと私たちは思い込んでいるが、本当にそうなのだろうか。彼女の中で自分との共通点を見出していたのかもしれない。

私はようやく自分が今するべきことを思いついた。私が動こうとすると、今宮が既に鞄を持って部屋を出ていったのに気が付いた。跡部がどこに行くのか聞いたが、彼の耳には届かなかった。

「志帆、もしかして今宮くんがどこに行くのか予想できてる…?」

泣き止まない優菜の隣で亜香里が鋭い眼光を向ける。放心状態で床に座り込んでいる石山もこちらをちらっと見た。私は少し間を開けて小さくうなずいた。

「残りの時間はここにいる俺たちだけで練習するから、東江は行ってこい。」

斎藤が男らしい声で私に叫んだ。私は戸惑ったが、早く行けと彼に追い打ちをかけられたのでみんなの顔を見回して力強く言った。

「みんな、大丈夫だよ。今宮くんがきっと何とかしてくれるから。私は…私は彼を信じてる。」


高台を目指して自転車を猛スピードで漕いでいると、さっきまで星が見えていたのに雲行きが怪しくなってきた。急がなくては。私は無心になってペダルを押し続ける。

高台に着いた頃には大雨になっていた。大きな雨粒が顔に伝って、何度も目をこすった。身体も冷えて真夏なのに寒く感じてくる。左に曲がると見覚えのある大豪邸に着いた。ようやく目的地まで来たのだ。

呼び鈴を鳴らすと、女性の機械音が聞こえて自分の名前と用件を手短に言った。門が開いて自転車を停める。そこにはもう1つ自転車があった。これは確実に彼のものだ。ビショビショになりながら扉の前まで来ると、大きな扉がゆっくりと開いた。そこには目を充血させた大塚の姿があった。彼女の丸い目はますます大きくなる。こんなドジャブリの中、全身濡れた女が来たら怖くなるのも当然だ。私が口を開こうとすると、彼女は悲鳴のような声を上げた。

「志帆ちゃん、助けて!どうすればいいの?」

「へ…?」

「今宮が…今宮が倒れちゃったの。」

衝撃のあまり声が出ない。私は青ざめた顔で濡れたままズカズカと大塚の家に入り込んだ。彼女は扉を閉め、慌てて私を追いかける。広いリビングルームに目をやると、そこにはうつ伏せになって倒れている少年がいた。私は思わず駆け寄り、彼の身体を持ち上げた。目をつぶって苦しそうな彼の顔が見えた。

「今宮くん、聞こえる?しっかりして!」

私は彼の赤い頬を見て、すぐにおでこに手を当てた。かなりの高熱だ。柱のように突っ立っている大塚に私は叫んだ。

「今すぐ彼をベッドに寝かせないと。冷えピタと体温計、氷枕を用意してほしい。急いで!」

「…ええ、分かったわ。簡易のベッドがあるからそれもここに持ってくるわね。」

大塚はそう言うと、速やかにどこかに行った。私は彼の瞳が微かに開いたのに気付く。私は彼の名前を三回ほど呼んだ。私の髪の毛から雨水が彼の頬に落ちていく。

「ひ、東江…?なんで…そんなに濡れてるんだ?風邪ひいたらどうするんだよ…。」

彼の擦れた声が聞こえる。私は涙を目にためながら彼に言った。

「私のことなんてどうでもいい。自分の心配をしてよ。どうしていつもそうなの。」

大塚は全てを持ってリビングに来てくれたが、今宮が何か言おうとしているのを察して黙っていた。しかし、彼はそれ以上話せなくなった。呼吸が荒くなってしまったのだ。私が彼をベッドに移動させようとすると、大塚も手を貸してくれた。横たわった彼のおでこに冷えピタを付け、脇に体温計を挟む。

「服貸すからシャワー浴びて着替えてちょうだい。あなたも風邪ひいちゃうわよ。」

大塚から初めて優しい言葉をかけられたので一瞬固まったが、彼女の言う通りにした。身体が冷え切って震えてきている。お風呂場に行こうとすると、今宮の体温計が鳴った。

「38度5分もあるわ…。」

大塚が泣きそうな声を出した。私は劇の練習を始めた時、彼の頬が赤くなっていたのを頭に浮かべる。あの時に私が声をかけてあげれば良かった。こんなにひどい熱があるのをきっと我慢していたんだろう。

私は今宮の顔を見ないまま、シャワーを浴びた。後悔と自責の念が心の中で渦巻いている。すぐに大塚が貸してくれた白いTシャツとハーフパンツを着た。着心地の良い柔らかい生地の服だ。高そうなドライヤーで素早く髪を乾かしてようやくリビングに戻った。

今宮は先程より落ち着いた様子で目を開いたままベッドに寝ている。大塚と何か話しているみたいだ。2人がこんなに話せるようになったのかと私は目を点にしていた。大塚が気配に気づき、私を手招きした。

「東江も来てたのか。ほんとに迷惑かけたな。」

今宮がいつも通り話をするので、私は目をぱちくりさせた。

「今、熱測ったら37度まで下がってたんだ。微熱だからもう大丈夫だ。」

「一気に下がっちゃったから、びっくりしたわ。夜ご飯の用意するから2人で待ってて。」

大塚はそう言うとリビングを出ていった。信じられない。彼女の性格があまりにも変わり過ぎている。私と今宮は彼女の大嫌い枠の人間だったのに。いや、そんなことより彼の高熱がこんな短時間で下がるのはどういうことなのか。逆に心配になる。

私が彼の前に立つと、彼は頭をかいて呟いた。

「最近眠れなくて夜更かししてたのが悪かったな。ストレス熱ってやつ、きっと。」

彼の白い頬はピンクに染まっている。

「そうだったんだ…。どうして眠れなかったの?」

「突然思い出しちゃってさ。あの日のことも…部活最後の日も。」

彼の目に暗がりができる。私は思わず口をつぐんだ。

「今の俺をみたらきっと両親は泣くだろうな。通り過ぎた過去に囚われてるなんて…情けないだろうに。」

私は顔を伏せてしまう。シロクマの声が途中から泣き声になったのだ。嗚咽を漏らさないように必死で我慢しているのだ。鼻をすする音だけ聞こえてくる。

やっと彼の顔に目を向けると、彼の透き通った瞳からぷっくらした頬へ止めどなく大きな水の粒が流れていた。私は思わず大きな彼の手を強く握った。

「苦しいなら無理に笑顔を作らなくてもいい。大声で泣いたっていい。何も恥ずかしいことじゃないよ。自分自身をもっと労わって。それに…。」

私は少し間をおいてからはっきり言った。

「もっと自分自身を愛してほしい。」

彼の涙がいつの間にか止まり、スッキリしたような笑顔を作った。私は気まずくなって彼の濡れた頬を指で拭く。彼の肌はまるで赤ん坊のように柔らかかった。

「こんなこと言って、私も自分自身が好きでいるかっていうとまだなんだけどね。自分のこと責めることもたくさんあるから。でも、今宮くんにそのままでいいんだって言われてから、自分の中で少し考えが変わった気がするの。」

彼はキョトンとして私を見つめる。私は彼の氷枕を取った。もうすっかりぬるくなっている。

「きっとみんな自分を愛する方法を学んでる最中なんだって思うようになった。」

すると彼は遠くを眺めるような目になった。

「もしかして人生をかけてもその答えは見つからないかもしれない。でも、それを学んでいくことが大事なことなんだよ。こんな俺でもかけがえのない存在なんだって思えるために。」

「私もそうだと思います、今宮先生。」

いたずらっぽく笑うと彼は「やめろよ。」と恥ずかしがる。白い頬が赤いのはおそらく微熱のせいだろう。

「そういえば、大塚に何話したの?随分と人が変わってたから、彼女も今宮マジックにかかったんだね。」

彼はふふっと笑って首を横に振った。

「いや、彼女が自分で気付いたんだ。彼女は多忙な両親とほとんど会えなくて子供の頃からすごく寂しい想いをしてたから、他の人に注目してほしかった、愛情を感じたかったって言ってたよ。俺も自分の両親のことを話した。まず、両親がこの世にいることに感謝をしようって。そう伝えただけだよ。それくらいしか出来ることないし。」

私はふと自分の両親のことを頭に浮かべた。今宮はもう両親に会うことすらできないけど、私はまだ会うことができる。あの人たちを愛することはできないけど、親であるのには変わりない。

今宮の薄暗い顔を見つめていると、大塚が部屋に入ってきた。大きなトレーに美味しそうなカレーライスを持って来てくれた。いい匂いを嗅ぐと私の腹がグルルルと音を鳴らして、2人に大爆笑された。私もつられて声を出して笑った。お腹の中に怪獣がいるのは本当かもしれない。

床に座って小さなテーブルに大塚と私、ベッドの上で今宮が夏野菜がたくさん入ったカレーライスを口に運ぶ。

一口食べて私は思わず立ち上がり、今宮と顔を見合わせた。

「何これ、すんごいおいしい!」

「うますぎるよ、これ。どうやって作るんだ?」

大塚は嬉しそうにガッツポーズした。

「カレー粉で作ってるの。隠し味はビターチョコレート。一流ホテルでも出されてるカレーと同じような作り方よ。私はこれが一番好きな料理だわ。」

私も今宮もおかわりした分まであっという間に食べ終わってしまった。私が食器を片付けようと立ち上がると、大塚は私の手から食器をもぎ取った。

「せめて食器洗いくらいさせてよ。申し訳ないから。」

「いいからあなたは今宮のそばにいてあげて。食器割られても困るの。」

彼女はそう言い放つと今宮の食器も持って部屋を出て行ってしまった。大塚がまさか本当はこんなに優しい人だったなんて。私はふと時計に目をやると、もう夜の8時だった。家に帰りたいが、今宮はまだ完全に回復していない。彼は解熱剤を飲んですぐに眼をつぶった。かなり疲れていたのだろう。

大塚が戻ってくると、彼女は乾燥機が壊れていて私の濡れた制服を乾かせないと言った。今も大雨が降っているようで窓ガラスにぶつかる雨粒の音が聞こえる。私が戸惑っていると、彼女はニコッと笑った。

「私の家に泊っていって。簡易ベッドを2個持って来るから、三人で寝ましょうよ!」

衝撃のあまり言葉が出ない。そんなのお構いなしに彼女は部屋を出て走っていった。幼稚園児のようにはじける笑顔を見せる彼女の理由が分かるような気がして、私の彼女の後を追った。

長い廊下の一番奥の部屋には、簡易ベッドがまだ五個もあった。彼女は簡単そうに一個を持って運び始める。私もマネするがかなり重い。必死に押しているが一ミリほどしか動いていない。大塚は後ろを振り向いて高らかに笑い出した。私は何だか悔しかったが、潔く諦めることにした。大塚は戻ってくると、目を丸くして汗だくの私を見つめた。

「ストッパーのレバー、下げてないじゃない…。」

「ありゃ…。」


今宮の寝ている部屋に戻っても、2人でお腹を抱えて思い出し笑いしていると私のスマホに電話が来た。亜香里からだ。応答ボタンを押すと、彼女は心配そうに声をかけてきた。私は今までのことを全て話した。最後まで話を聞くと、亜香里は言った。

「三人とも無事でよかったわ。私たちはその後も練習してから家に帰ったの。石山くんが本当に悲しそうにしてたから大塚ちゃんに伝えてあげて。」

私はうなずいて電話を切った。前にいる大塚は暗い顔でうつむいている。石山のことを分かっているのかもしれない。それとも、亜香里の声が漏れて聞こえてたのかもしれない。私は彼女から目線を外しながら呟いた。

「心の中で想ってること、ちゃんと言葉にして伝えてみたら?」

大塚の視線を感じながら私は話を続ける。

「いつ会えなくなるかも分からない。今しか伝えられないことが…あるんじゃない?」

ようやく彼女の顔を見ると、彼女は何かを決心したように部屋をゆっくりと出た。しかし、一回戻ってきて扉を少し開けた。

「志帆ちゃん。」

私が見上げると、彼女は綺麗な笑顔でささやいた。

「今までごめんなさい。ほんとに…ほんとにありがとう。」

何か言葉を返そうと迷っていると彼女は行ってしまった。私はしばらく固まっていたが、心が温かくなるのをしみじみと感じた。ずっと残っていた濃い霧が一気に晴れて世界が明るく見えた気がする。嬉しくなって今宮の隣の簡易ベッドに背中からダイブした。簡易ベッド用とは思えないほどフワフワで柔らかい布団だ。ゆっくりと右側を向くと、今宮の鼻の高い横顔が見えた。頬は微かにピンク色に染まっている。目をつぶると彼のまつ毛の長さがよくわかった。思わず見入っていると、彼の目が突然開いて天井を見つめた。驚いて声をあげると、彼は寝返りして私の方を向いた。彼の日本人離れした目に見つめられると胸が高まってしまう。

「悪かったね。うるさくしてたから…起こしちゃった?」

私が起き上がろうとすると、彼は私の腕を優しく掴んだ。私はキョトンとしてまた横になる。彼は自分でも驚いたような顔で気まずそうに私の腕を離した。自分の顔がだんだんと色づいていくのを感じる。

「東江。」

彼は目を合わせずに名前を呼ぶ。私が無言でいると、彼は良く通る綺麗な声で言った。

「今日は…そばにいてほしい。」

いつからそうなっていたのか、彼の瞳に涙の膜が張っているように見える。

「俺、目をつぶるとやっぱり怖くて眠れないんだ。どうしても色んなことが頭に浮かんでしまって…。」

私は不安げな彼を見ていられなくなって思わず手を掴んだ。彼はハッとしたように私を見る。

「大丈夫。隣にいるから。何も怖がらないで。」

彼の頬に流れる涙さえも透き通っている。彼は頬を濡らしながら幸せそうにうなずいた。私は泣くのを我慢しているのがバレないようにふざけて手を広げた。

「今宮くん、抱っこしてあげようか~?」

その瞬間、意外にも彼はさらに涙を流し始めてしまう。私が慌てて謝ると、彼は充血した目で恥ずかしそうに言った。

「急に泣くなんて恥ずかしいな。昔、お母さんがそうやってくれてたのを思い出しちゃったんだ。幼いころ、俺が眠れないって言ったらすぐに抱きしめてくれてたなって。」

「そう…お母さん、優しい方だったんだね。だから息子もこんなに優しいんだ、納得した。」

彼は反応に困ったように頭をかいて話を続ける。

「抱きしめられるとすごく落ち着くんだよ。心が安らぐんだ。その人の温もりを感じて。」

そう言いながら彼は私にぐっと近づいてきて彼の胸元が目の前にきた。頭の整理が全くつかないまま、私はいつの間にか彼の腕の中だった。彼の左手が私の頭を優しく撫でる。彼の匂いがした。彼の体温を感じた。自分の顔から湯気が出ていないかどうか不安になる。私も彼の腰にそっと手を回す。彼は今どんな表情をしてるんだろう。私みたいに真っ赤になっているのだろうか。

「ちょっと…私のこと、抱き枕だと思ってるでしょ?」

声をかけてみると、彼はうんと返事をした。私が怒ろうとすると、彼はようやく私を離して呟いた。

「1番心地いい抱き枕…なーんて冗談だよ。」

寝返りして天井を見つめながら無邪気に笑う彼の横顔はいつまでも見ていられそうだ。するとその時、扉が開いて大塚が入ってきた。私が慌てて飛び起きると、彼女が清々しい顔をしているのに気付いた。

「志帆ちゃん、待っててくれたのね。私ももう寝るわ。明日寝坊したら大変よ。」

私は苦笑しながら横目で彼を見ると、既に目をつぶって動かなかった。タヌキの寝入りに間違えなかったが、大塚が電気を豆電球にしたので静かに横になった。

「誰かと寝るのって幸せよね。あーあ、今日はすごく良い日だったわ。」

大塚が明るい声を出したので私は彼女を見て笑った。

「生きていればこういう楽しい日もあるんだよ。子どもたちにもそれを伝えられるように頑張ろう。」

「…そうよね。みんなに迷惑かけたし、これからちゃんと練習しないと。」

彼女はそう言うと、おやすみと目をつぶった。私も目を閉じたが、自分の心臓の鼓動が聞こえてなかなか寝付けなかった。彼の温もりがまだ身体に残っていたのだ。隣にいる彼と夜を明かすことがワクワクしてならない。まだ高校生の私たちにはきっと許される行動ではないのに。

私はまた彼の方を向いてしまった。彼もこっちを向いて眠っていたので目を丸くする。大塚の寝息が微かに聞こえてくる。今日はかなり疲れているに違いない。彼のぷっくりした白い頬を摘まみたくなってしまう。私は思わず手を伸ばして彼の頬を軽くつかんだ。つきたてのお餅のような手触り。つい口元が緩む。まるで弟を見ているようだ。今度は人差し指でツンツンしてみる。やっぱり彼はまだ子どもだ。

私は手を放して彼の綺麗な寝顔を凝視する。何だか突然恥ずかしくなって私は天井を見上げた。こんなことしてちゃダメだ、明日も変わらず学校なのだから。私はゆっくりと目をつぶり、いつの間にか眠りに落ちていた。


ふと目を開けると背中と腰回りに昨日の温かさを感じた。もう空は明るくて部屋の壁にかかっている時計は朝の五時半を指している。目の前には布団をはいで熟睡している大塚の姿が見えた。寝ぼけた目で下を向くと白くて大きな両手がある。その瞬間、眠気が一気に吹き飛んだ。今の自分の状況を把握してしまったのだ。

理由はさっぱり分からないが、私は彼に背中から抱きしめられている。彼の顔が少し動くのを自分の背中で感じた。自分の頬を強くつまんでみたが、泣きそうになるほど痛かった。これは現実だ。大塚に見られたら大変なことになる。私がどうにか彼の腕を外そうとすると、彼は腕の力をさらに強めてきた。こうなったら、声をかけるしかない。しかし、私はついためらってしまう。馬鹿な考えが浮かんできて、慌てて首を大きく横に振った。

「今宮くん…あの、離してくれる?」

小声で言うが、反応が全くない。彼の腕をつかんで強めに揺すってみる。大塚が起きたらと焦る自分がいた。すると、後ろから小さな笑い声が聞こえてきた。驚いて後ろを向くと、今宮は何も無かったかのように目を閉じている。私は怒って彼の頬を強くつまんだ。

「ちょっと!今宮朝陽!ほんとは起きてるくせに寝てるふりしないでよね。」

「痛い痛い痛い…。さっき起きたばっかりなんだって。本当だよ。」

頬から手を放して彼が腕を引っ込めると、ようやく私は彼と向かい合う。それでも私はまだ納得いかない。

「さっき?じゃあなんで離してくれなかったの!わざと力入れたりしてさ。」

「まあ、東江は抱き枕だからね。」

彼が目を細めて言うので私は自分の頭を乗せていた枕を彼に投げつけた。彼は枕を両手で受け止めていたずらっぽい笑顔を作った。自分の体が熱くなって彼を直視できない。

「おかげでよく眠れたよ。昨日なかなか寝付けなかったから。」

彼の言葉に私はギクッとする。昨日の自分の行動が頭に浮かんできた。私は知らん顔して天井を見上げる。

「もう起きないと。新たな一日が始まるよ。」

私が笑顔で言うと、彼は自分の頬を掻きながら呟いた。

「うーん、俺のほっぺってそんなに触り心地いいものかな…。」

冷や汗をかきながらノーコメントで起き上がる。やっぱり彼には何でもお見通しというわけか。


大塚の家から自転車で学校に行くと、教室で劇のメンバーたちが私たちに駆け寄ってきた。優菜は目をウルウルさせて大塚を上目遣いで見た。

「大塚ちゃん、ごめんなさい。あなたなりに演じてたのにそれを否定してしまって。」

「泣かないで。今まで私が悪かったの。これからはみんなの意見を聞いて練習頑張るわ。」

彼女たちが抱きしめ合っている姿を見ていると、昨日のベッドでのことを思い出してついうつむいてしまう。亜香里が大丈夫かと声をかけてきてすぐに顔をあげた。石山と大塚はいつも通り仲良く会話を始めて、みんな安堵した表情になった。

「あの2人みたいに恋愛したことあるの?跡部くんは。」

亜香里がいたずらっぽく笑うと、跡部は頬を赤く染めて首を横に振った。

「え、いや、な…ないよ。俺なんかモテないし。斎藤はすごいけどな。」

「ああ、まあな。自慢とかじゃなくて正直に言うと、告白されたことは多いよ。俺はそういうの興味ないから申し訳ないって感じなんだけどさ。」

斎藤が言いづらそうに呟くと、跡部は不機嫌そうに彼をにらんだ。斎藤のことが相当羨ましいみたいだ。伊藤と優菜はそんな彼を見て吹き出す。跡部は視線を亜香里に戻して頭をかいた。

「でも…亜香里はありそうだよな。」

「亜香里が?なんでよ。」

彼女は自分を指さして首をかしげる。跡部はゴモゴモと何かを言って困り顔だ。私は自分が男ならきっと彼女を好きになるだろうなんて考えてしまう。高くて可愛い声に可愛いルックス、明朗快活な性格の女子。それに比べてこの私ときたら…。飾り気のない低い声によく見かける地味な顔、おとなしくて物静かな性格。私たちは北極と南極みたいに対照的な女子だ。思わずため息をつく。

「そ、そんなことより今宮はどうなんだよ?ないのか、恋愛したこと。」

眼鏡をかけ直して跡部が話を変えると亜香里は怒った顔になったがすぐに今宮に注目した。興味なさそうに話を聞いていた斎藤も横目で彼を見る。伊藤も優菜も目を輝かせて彼に近づいた。私も我に返って隣の彼の横顔に見入る。

「両思いはないけど、片思いはあるかな。」

「そうなのか!?ズバリ、初恋はいつ?」

彼が即答したのでテンポよく跡部が尋ねる。みんな目を丸くして今宮を見つめていた。

「いやあ、それははっきり覚えてない。」

「片思いはいつからなの?もしかして…今してるとか?」

伊藤が探偵のような言い方で言うと、彼は一瞬下を向いてから無邪気な笑顔を作った。私は全くもって笑えない状況なのに。

「ううん…今はしてない。昔の話だよ。」

「なーんだ、つまらないの。」

亜香里が目を細めると跡部が彼女を見て微笑んだ。斎藤はあくびをして自分の席に向かう。伊藤と優菜は疑わしそうに今宮を見つめたが、諦めたようで違う話を始める。私は彼と目が合ってしまってすぐにそらした。

「そうだわ。志帆は今どうなの?最近前よりも明るくなった気がするんだけど。」

亜香里が鋭い目つきで私に聞いてくる。跡部と今宮もこっちを向いたので、私は慌てて大きくかぶりを振った。

「もう、あるわけないでしょ。明るいのは…その、劇の練習が楽しいからっていうだけだよ。また変な噂とか立てないでくださいよ。」

「うわあ、志帆さんのこと怒らせちゃった。ごめんなさいね。」

お互い皮肉っぽく言って私と亜香里は肩をすくめた。跡部と今宮は顔を見合わせて苦笑するしかない。

するとアツアツ先生が教室に入ってきたので、全員一気に席に着いた。アツアツ先生は白いタンクトップに短パンスタイルで金魚のイラストが描かれたうちわを仰ぎながらいつもの大きな声で言った。

「みんな、心して聞いてくれ。今日はまさかのまさかで…全ての授業が無くなってしまった。」

その瞬間、クラス中に歓声が上がった。先生は静かにしろと言って話を続ける。

「先生方の出張やお休みが多くてな。授業の単位を特別に減らしてよいとお偉いさんから許可をもらったそうだから、今日はもう解散。また明日は普通だからな。気をつけて帰るんだぞ。」

周りでガッツポーズをして速やかに教室を出ていく生徒たちがほとんどだったが、私は開いた口がふさがらなかった。学校に来てまだ30分しか経っていないというのにもう終わりなのか。アツアツ先生もそそくさと教室からいなくなっている。教室に残っているのは劇のメンバー9名だけになった。

「こんなことって…あっていいのか?」

跡部が小声を出すと、みんな首を横に振る。大塚と石山は嬉しそうにしているが。

「ま、いいじゃないの!これから劇の練習できるからきっと完成形に近づけるわ。みんな頑張りましょう!」

亜香里がはじける笑顔で叫ぶのに続いて私たちは拳を高く突き上げた。

私たちは学校から亜香里の家に移動した。また大きくて広いスタジオを貸してくれるみたいだ。私たちが家に来ると、ピンクのタンクトップドレス姿で茶髪を綺麗に結いあげている沙織は目を点にしたので亜香里が全てを説明した。沙織は信じられないようで学校に電話すると言い出したものだからみんなでどうにか説得した。スタジオにお邪魔してようやく練習が開始できる準備が整った。

お昼まで少しの休憩を挟みながら練習を続ける。大塚と石山は今まで練習していなかった時間を埋め合わせるために特に必死に取り組んでいた。

「どうして泣いているの、お嬢さん。涙を拭いて話を聞かせてちょうだい。」

大塚は優しく声を掛けられるようになった。私は震える声で彼女に答える。

「今すぐ舞踏会に行きたかった。でも…もう叶わぬ夢よ。おしまいだわ。」

「大丈夫。信じていれば必ず叶う、それが願いというものよ。私があなたを舞踏会に行かせます。」

彼女はおばあちゃんが話しているように少ししゃがれた声を出している。彼女の演技はかなり腕に磨きがかかっていた。そのおかげで私も劇に感情移入しやすくなった。

ドレスの早着替えシーンまで練習したところで、私のお腹が犬の遠吠えのような音を立てた。全員大爆笑。

腹ペコなのがすぐにばれてしまい、私は顔を赤らめた。

すると、大きな扉が開いて花柄のエプロンを着た沙織がバスケットを持ってきた。

「今日のランチは卵とハム、野菜のサンドイッチ。それに自家製ぶどうジュースも。小さな役者さんたち、いっぱい召し上がれ。」

「やったー!」

みんな拍手すると沙織は嬉しそうに笑顔を作った。

お昼を食べ終わってしばらくおしゃべりをしていたが、だんだんと睡魔に襲われてきた。私は瞼が重くなってきて慌てて頬を叩く。お手洗いに行きたいと亜香里に伝えると、彼女は場所を教えてくれて私はすぐに駆け込んだ。便器に座りながらでも眠くなったので大きく首を振って今度は頭を叩く。

「志帆、しっかりしないと。みんなだって疲れてる中で頑張ってるんだから。午後も練習、練習!」

独り言を言いながらスタジオに戻ってきてびっくり!今宮以外、七名が床に倒れているではないか!

いや…微かに寝息が聞こえてきた。まさかこんなに眠気に負けてしまう人が多いなんて。私は苦笑しながら音を立てないで今宮の近くに座った。彼は窓から海をボーっと眺めている。

「みんな疲れてるんだね。私も寝ようかな。」

彼に何を言われるのか気になってこんなことを言ってみる。彼は振り向いて小声でささやいた。

「疲れてるときは寝るのが一番だからちゃんと寝た方が良いよ。おやすみ。」

私は思わず彼をにらんだ。私が求めている返答と全く違うではないか。彼が不思議そうに私を見つめたので私はすぐに顔を背けた。彼は私の隣に静かに座った。

「今宮くんの片思いだった人…どんな人だったの?」

今宮は目を丸くしてこちらを向いた。私は頭をかいて苦笑する。

「なんか…今宮くんが恋愛感情あると思ってなくてさ。少し気になったの。」

「みんなそんな感じの顔をしてたよね。俺はロボットかなんかだと思われてたのかな?」

今宮の言葉に思わず吹き出してしまう。彼は白い頬を掻きながら呟いた。

「その人を一目見た時から他の人たちとは全く違う雰囲気を感じたんだ。何て言うか…守ってあげないとって自然に思ってしまったんだよ。」

「初めて見かけて守ってあげたいって思った?そんなに弱々しい女の子だったの?」

目を点にすると彼はかぶりを振った。

「愛らしい人…の方が表現が適切かな。」

彼が微笑むと、私は小さくため息をついてささやいた。

「そんなに可愛い人だったんだ。やっぱり美人だと有利なんだな。」

「いや、そんなことはないと思う。俺はその人の性格が一番好きだったから。」

私がキョトンとすると、今宮はあぐらにしていた足を伸ばして座り直した。

「とても優しくて誠実な人だった。俺が掃除のごみ捨てをしていた時にね、ゴミ袋からゴミ全部を盛大にこぼしちゃったことがあって。そしたら知らない人同士だったのに、嫌な顔一つせずに一緒に拾ってくれた。会えたのがすごくうれしくて、名前を聞きたかったけど…恥ずかしくて聞けなかったんだ。」

「へえ、違うクラスの人だったんだ。中学生の頃の話?」

私はなぜか心にぽっかり穴が開いたような気分になった。彼には本当に好きな人がいたんだ。耳をふさぎたい気持ちになる。今宮は少しためらってから口を開いた。

「うーんと…。」

「うわあ!嘘でしょ、寝てしまった!」

突然亜香里の悲鳴が聞こえて私たちは後ろを振り向いた。彼女は両手を空高く上げて背中を伸ばしている。他のみんなも彼女の声で目を覚ました。優菜と伊藤は髪を手でとかしている。大塚と石山は向かい合って寝ていたことに気付いて笑っていた。

「おいおい、東江も今宮も起こしてくれよ。食べてすぐに寝ると太るだろ。」

「そうだよ。なんで声かけてくれないんだよ。」

跡部と斎藤が不満そうに言うので、私はいたずらっぽく笑った。

「悪かったね。疲れてるときは寝るのが一番だからちゃんと寝かせてた方が良いと思ったんだ。」

私の言葉に今宮が隣でクスクス笑う。その瞬間、跡部は眼鏡の奥で目をつり目にして彼を睨んだ。今宮はすぐに真顔になって笑った理由を話そうとするがもう遅い。あっという間に追いかけっこが始まってしまった。

「今宮め!何をへらへら笑ってるんだ!?」

「違うんだって、跡部。俺が笑ったのは…。」

「言い訳するな!今の会話で何がそんなに面白かったのか言ってみろ!」

「お前らやめろよ、時間と体力の無駄遣いするな…って、おい跡部!さりげなく蹴ってきただろ!」

2人の馬鹿げた取っ組み合いの仲介にあたろうとした斎藤も最終的に巻き沿い事故に合う。三人の喧嘩がくだらなすぎて六人は腹を抱えて笑い続けた。


夕方になり、亜香里の家から寮に帰ると疲れがドッと押し寄せてきた。靴を脱いですぐにベッドに仰向けになる。私もスタジオでみんなと寝るべきだったと少し後悔した。目をつぶりそうになると呼び鈴が一回鳴った。

ドアスコープを覗くと、さっきまで一緒にいた今宮の姿が見える。私は無意識に髪を手でとき直し、大きく深呼吸した。小さく咳払いをして、はい!と言うと変な声が出てしまった。扉をそーっと開くと今宮が笑うのを必死に我慢した顔で突っ立っている。私はお風呂上がりのように熱くなり、わざと強がる。

「もう、笑わんでよ。そんで、何の用なん?」

今度は関西弁になってしまって顔を伏せた。今宮は声にならない笑いを披露する。私は標準語で言い直し、今宮はようやく本題に入った。

「ばんそうこう切らしちゃったから、持ってたら貸してほしいねん。救急箱が空でな。」

彼のからかいに私は呆れてため息をつくと、彼は何だか楽しそうに微笑んだ。私は部屋に戻って救急箱を棚の引き出しから取り出す。運よく色々なサイズのばんそうこうが揃っていた。私は全てを持って扉をまた開けた。

「サイズがあるんだけど、どのサイズ?…ってか、さっきの取っ組み合いで怪我したの?」

今宮は恥ずかしそうにうなずいて白い右腕を見せた。手首の下側に五百円ほどの擦り傷がある。血が浮き出ていて私は顔をひきつらせた。この傷は大きめのばんそうこうでないと収まらなさそうだ。

「これはひどいよ。まず消毒しないとね。なんで今まで黙ってたの?」

「帰ってきて横になって、腕を見たら…うわ、マジか!って感じ。」

彼がその時の様子を再現したので私は吹き出しそうになったが、ふと彼の言葉を思い出した。私はわざと口パクで、消毒液は?と聞いてみる。案の定、彼は大きく首を横に振る。私は肩をすくめてつぶやいた。

「仕方ないから、私が消毒するよ。玄関に入って。」

彼はお礼を言って、申し訳なさそうに中に入って床に座った。私が消毒液を取り出しても彼はなかなか腕を出してくれない。私が急かすと彼は幼稚園児のようにぐずり顔をした。

「染みるよね…これ、染みるよね?」

「一瞬だから我慢するんだよ。高校生にもなってそんなこと言うなんて。」

私はニヤニヤするのを必死にこらえる。彼のさりげない愛嬌が見れて心から嬉しかった。彼はようやく腕を出したが、微かに震えているのが分かる。私は彼に目で合図して消毒液を垂らすと、彼の口から初めて雄たけびを聞いた。相当染みているようだ。

「今宮さん、よく頑張りましたね。痛いの痛いの飛んでいけ!」

私はコットンで消毒液を軽く拭き取り、看護師さんの口調で言った。やっと落ち着いた彼は頬を赤らめて苦笑している。ばんそうこうを貼って治療完了すると、彼は嬉しそうに笑顔を作った。

「ありがとう。本当に助かったよ。」

「ちゃんと救急箱補充しとくんよ。いつ何があるか分からんから。」

今宮が私を不思議そうに凝視してきたので私はすぐに目をそらす。前みたいにまた何か顔についているのだろうか。私は無意識に顔を触ってしまう。彼は首をかしげて尋ねてきた。

「東江って、関西出身なの?」

私は思わず目を泳がせてしまう。高校の間ずっと標準語で頑張って話していたのにどうして今になってバラしてしまったのだろう。実を言うと、私は関西弁がいじられるのが怖くてずっと隠してきたのだ。両親は関西出身ではないが、父の仕事の都合で××県から××府に引っ越して私は生まれてから中学生まで関西弁で毎日過ごしてきた。この高校は関西から遠く離れた海沿いの地域。進学校でもないから関西出身者はほぼゼロだった。私が知ってるのは仲良しだった凪しかいない。

「ごめん、もしかして秘密にしてたんじゃ…。」

勘のいい今宮は私の表情を見てつぶやいた。私はすぐにかぶりを振った。

「隠さなくていいや。今宮くんになら。」

彼が何も答えないので私はあわてて話をつづけた。

「関西弁で話すのを馬鹿にされるのが怖くて標準語で話すの猛特訓したんだ。関西生まれの人って、全員じゃないけど騒がしくて圧が強いイメージでしょ?だから、隠してた方が親しんでもらえるかなって。」

「俺は全然良いと思うけどな。関西弁で話しても。」

「うーん、そうかな…。」

私が扉を開けて、今宮は外に出た。小さく手を振ると彼も振り返して笑顔で言った。

「ほな、また明日。」


8、

いよいよ明日が本番となり、私たちは最後の練習日を迎えていた。今日は夏休み前最後の登校日で他の生徒は午前中だけの学校だったが、私たち9名は昼飯を食べるやいなや衣装に着替えすぐに練習を始めた。全員情熱を持って自分の役を演じ、通しの練習も完璧だった。しばらくすると、校長先生とアツアツ先生が練習を見に来た。優菜の挨拶に続いてみんなでお辞儀すると、校長先生は笑顔を見せた。

「みんな本当にお疲れ様。ついに明日だが、今日は無理せずに体調を整えるんだぞ。この企画に協力してくれたことに心から感謝する。残念なことに私は明日から出張に行かなければいかなくなったから君たちの劇を生で見れない。だから、猪俣先生に頼んでビデオを撮ってもらうことにしたんだ。楽しみにしてるぞ。」

「ビデオに!?めちゃくちゃ恥ずかしいな…。」

跡部が苦い顔をすると、みんな声を出して笑った。アツアツ先生と校長先生が居なくなると、亜香里が今までで一番気合が入ったような表情で叫んだ。

「チームシンデレラ、最後まで全力で頑張るぞ!」

私たちは彼女に続いて手を上に挙げた。9人の動きがぴったり合って私たちが一つになれた気がした。

夕方までの練習が終わって、私が自転車にまたがると隣で今宮があくびをしながら自転車の鍵を開けた。カチャンと心地よい音がして、彼も自転車にまたがった。私は何が面白いのか分からないが、彼を見ていて笑いが止まらなくなった。彼は怪訝そうにそんな私を見つめる。

「東江、なんかいいことあったのか?」

やっと笑いが収まって私は何事もなかったかのように真顔になる。

「いや、別になんもないよ。」

自転車をこぎ始めると、彼も私の後ろについてくる。ふと空を見上げると、紺色に白い光を放つ星が散りばめられていた。夜空がこんなに美しいと感じたことは今まで無かった。

「今宮くんってさ、緊張するの?」

私が坂を上りながら彼に尋ねると、彼は呆れたような声を出した。

「緊張なんてしょっちゅうしてるよ。今日の練習でも足ががくがくしてたくらい。」

「そんなんじゃ、明日立てないんじゃない?山場のシーンで倒れてこないでよ、怪我したくないんだから。」

いたずらっぽく笑うと、彼は前を向きながら苦笑した。

「そのシーンが一番緊張するから…倒れる可能性は高いな。」

「はあ!?もう…言霊ってあるんだからそういうこと言うのやめてよね。」

私が眉をひそめると、彼は静かにほほ笑んだ。彼の次の言葉を待っていたが、彼が何も言わないので少し残念だった。寮に着いて駐輪場に自転車を停めると、彼はようやく口を開いた。

「まあ、東江は緊張する必要ないよ。俺が絶対怪我させないから安心して。明日寝坊すんなよ。」

唐突にこんなことを言われても返す言葉が見当たらない。私がうつむいて固まっていると彼はまた明日と挨拶して先に行ってしまった。私もすぐに部屋に入ったが、不思議な感情が心に広がっているのに気付いた。私はベッドに座って無意識に今宮の部屋の方を向いた。私は彼にきっと片思いしているけれど、何だか失望してしまうことがあるみたいだ。それがなぜなのか今の私には分からない。彼の茶色い瞳は澄み切っていて美しいが、何を思っているのかは知りえない気がした。

私は慌てて頬を手で叩く。こんなことばかり考えてはだめだ。とにかく明日の劇を成功させるために早く寝ないと。明日は朝五時に家を出て亜香里の家で最終確認だ。私はすぐにパジャマに着替え、軽くご飯を食べてシャワーを浴びてから布団に入った。目をつぶるとあっという間に眠りについてしまった。


遠くの方から扉の叩く音がした。かなり強い音で何度も音が聞こえる。

「おーい、東江!もう時間過ぎてるぞ。大丈夫か?」

「どうしよう。もしかして…志帆ちゃん倒れてるとか?救急車呼ぼうか?」

「いや…おそらく寝坊だろうな。とりあえず関は亜香里の家に先に行ってほしい。この状況を一刻も早く伝えないと心配するだろうから。東江は俺が何とかするから頼んだよ。」

「了解!今すぐ行ってくる、志帆ちゃんのことよろしくね。」

走り去る足音がどんどん遠ざかっていく。私は目を見開いて飛び上がった。スマホを取って思わず悲鳴を上げる。もう五時十分ではないか!ドタバタ足音を立てて家を出る支度を始めると、扉の向こうで大きな笑い声が聞こえてきた。扉をにらんでイライラしながらも五分で準備を整えることができた。髪やメイクは亜香里の母がやってくれることになっていたから寝癖のままでもいいのだ、うん。

慌てて扉を開くと珍しく青いキャップを被った今宮が無表情で突っ立っていた。さっきまであんなに笑っていたくせに何なんだろう。いやいや、寝過ごした私のことを待ってくれていたのだから謝らないと。

「どうもすみませんでした。こんな大事な日も寝坊助で。」

私がすねた子どものように目を合わせないでつぶやくと、今宮はすぐに口元を緩めた。

「すごいな…寝癖が鬼の角みたいになってる人初めて見たよ。」

恐る恐る頭を触ると、確かに頭の上に触角が2本立っているのが分かった。顔が真っ赤になるのを感じながらも無言で駐輪場に停めている自分の自転車を取る。すると、頭の上に何かが乗って視界が若干暗くなった。驚いて上を見上げるとキャップを取った今宮の顔がはっきりと見えた。

「それ被ったら見えなくなるから大丈夫だよ。さあ、大急ぎで行くぞ。」

彼はすぐに自転車にまたがって漕ぎ始めた。胸が一瞬にして熱くなる。私は頭の上に優しく置かれた彼のキャップを深くかぶり直して彼のたくましい背中を追っていった。


亜香里の家に着くと、意外にもみんな笑顔で遅れてきた私を迎え入れてくれた。詩織を含め8人とも怒りを心の奥に閉まっているのか誰も怒鳴ることもなくすぐに髪型やメイクの支度に入る。もちろん、私は何度も謝ってお辞儀もしたが。私が詩織にメイクをされていると、大塚が私の隣に座って一枚のチラシを見せてきた。

「今日の夜に打ち上げすることになってね、ここのお店が良いなって話してたの。それで、今日遅刻してきた人におごってもらおうって決めてたんだ。」

「……!?」

私が思わず大塚の方に顔を向けると詩織が私の顔を前に戻した。

「志帆ちゃん、ごちそうさんです!」

大塚が深々とお辞儀をして叫ぶと、遠くの方からゲラゲラ笑い声がした。メイクをしてくれている詩織も口を手で押さえてバレないように笑っている。私は大きくため息をついた。

そうだったのか…みんな笑顔で最後の一人を迎えていた理由は。

全員の準備が整い、詩織の車でこども病院まで送ってもらった。

「朝早くからありがとうございました、詩織さん。お手数おかけしますが、帰りもよろしくお願いします。」

優菜が代表して挨拶すると、彼女は大きな紙袋を亜香里に渡して私たちに笑顔を見せた。

「それ、とっても美味しいお菓子だから食べて。病院にいる子どもたちにも配ってちょうだい。全部で百個は入ってるから足りると思うわ。みんな、いつも通り頑張ってね。」

私たちは改めてお礼を言って彼女の車を見送ったあと、9人全員横並びになってこども病院の前に並んだ。私は頭の中で私たちがまるで仮面ライダーになったようだと変な想像をしていた。

「よし、みんな。行きましょう!」

センターに立っていた亜香里が大きな声を出すと、みんな力強くうなずいて一歩を踏み出した。鼓動が早くなるのを感じるのは不安だからではない。本番がとても楽しみだからだ。

病院に入ると、職員さんたちが拍手で私たちを迎え入れてくれた。私は涙が出そうになるのを堪えながら、みんなと一緒にお辞儀をした。すると、白髪頭で丸メガネをかけている院長が前に出てきた。

「海浜高校のみなさん、今日は本当にありがとうございます。子どもたちはどんなに映画を見に行きたくても劇を見に行きたくても、それを叶えることができない生活を送っている。そんな中でみなさんがこの企画を引き受けてくれたこと、心から感謝しているよ。どうぞよろしくお願いします。」

「こちらこそよろしくお願いします。子どもたちのために全力で演じさせて頂きます。」

跡部が男らしく言ったので8人も後に続いて挨拶をする。またまた職員さんたちが拍手をしてくれたので私たちは顔を見合わせて照れ笑いをした。

会場になる部屋の前まで案内してもらうと、扉の向こうから司会を務めている男性の声と子どもたちの笑い声が聞こえてきた。この男性の声…どこかで聞いたことのあるような声だ。

「みんな、お待たせしました!登場してもらいましょう、海浜高校の9人のみなさんです!」

職員さんが扉を開けてくれて、私たちは手を振りながら部屋に入っていった。ここでも拍手喝采で迎えてもらった。40ほどの瞳が目を輝かせて私たちを見つめているが、私たちはすぐにステージの裏側に入って劇の準備を始める。部屋の電気が暗くなり、子どもたちは一気にザワザワした。私が肩を回していると、隣にいる伊藤が身体を震わせているのに気付いた。かなり緊張しているのだろう、伊藤の隣にいる優菜も何度も深呼吸している。

いつも冷静沈着の斎藤まで顔をこわばらせているのが暗がりでも分かった。他のみんなもきっと同じような状況なはず。このままではいつもの劇ができないかもしれない。でも…どうにかしたいのに何も思いつかない。私は何もできない自分に腹が立ってきた。

すると、いきなり今宮がスマホのライトをつけてみんなの顔を見渡し始めた。全員今宮に注目する。彼は今までに見たことのないほど満面の笑顔を浮かべて小声でつぶやく。

「みんな2回深呼吸して…。いっせーいのうで。」

一瞬キョトンとしたが、今宮自身がやるのに続いて8人も深呼吸をする。

「それから胸に手を当てて声に出して言うんだ、自分なら大丈夫だって。」

彼は言った通りにやって見せる。跡部がやったのに続いて、七人も恥ずかしそうにしながらも胸に手を当ててつぶやいた。すると思わず亜香里が大きく吹き出した。みんなもつられて笑いが出る。

「ごめんごめん。なんか急に面白くなっちゃって。今宮くんのお陰で緊張ほぐれたわ。ありがとう。」

「ほんとに助かったよ。ありがとな、今宮。」

亜香里と斎藤が言うと、彼は微笑んでうなずいた。彼のせいでまた胸が熱くなるのを感じてしまう。彼はみんなの状況をしっかりと把握してどうにかしたいと思ったんだ。みんながリラックスできる的確な方法を見つけてくれたんだ。

「これまでのことを思い出して頑張りましょう。私たちはいつものままで大丈夫なはず。」

大塚がいつもの元気を取り戻して叫ぶと、全員拳をあげた。


「皆さん、本当に本当にお疲れ様でした!それでは、かんぱーい!」

「かんぱーい!」

私の音頭と共に9個のグラスが高く突き上げられる。無事こども病院での劇を成功させ、チームシンデレラでの打ち上げが始まったのだ。しかもかなり嬉しいことに、司会をしていたアツアツ先生から打ち上げ代をもらえたので私のおごりは帳消しになったのだ。

「それにしても残念!今日は志帆の太っ腹期待してたのにな。」

石田に心を見通された気がして私はあわてて反撃した。

「もう冗談じゃないよ。貧乏人だから毎日ギリギリの生活してるのに。」

「最初っからおごらせる気なんて一ミリもなかったのよ、私たちには。ぜーんぶ嘘だったの。」

優菜が焼肉を口にほおばりながら言うので私は目を丸くした。そんな私を見て、みんな大爆笑。

「それにしても今宮の緊張ほぐし、最高だったぜ。あれは自己流なのか?」

斎藤が私の右隣に座っている今宮に聞くと、彼は麦茶を一口飲んで答えた。

「俺の父さんが教えてくれたやり方だよ。まだテニスやってた時、試合前に必ずやってたんだ。」

「そっか…今宮くんはテニス部だったもんね。」

伊藤はそう言うと気まずそうにあわてて口を押える。私以外は彼の退部について今宮の自分勝手だと思っているのだ。部員が嘘の噂を流したせいで。私は彼の顔を横目で見たが、彼は笑顔でつぶやいた。

「全員怖い顔してたから力を抜いて欲しかったんだ。良い効果が出てほんとに良かった。これまで頑張ってきたことが報われて嬉しかったよ。」

「ほんとにそうよね。跡部くんなんて汗だらだらでおかしかったわよ。」

亜香里がいたずらっぽく言うと、跡部が顔を真っ赤にして彼女をにらんだ。

「おい、なんでそんなの見てるんだよ。そ、そんなことなってなかったって!」

「だって跡部くんはいつも面白いことしてるから、亜香里はちゃんと見てるのよ。」

「面白いことって…完全に馬鹿にしてるだろ、それ!」

2人はそのままくだらない言い合いを続けていたが、私は優菜と伊藤と顔を見合わせてニヤついた。2人はかなりいい感じらしい。跡部は前から亜香里に想いを寄せていたのには気付いていたけど。大塚と石田は流石は仲良しカップル、2人で自撮りをしていて全く気付いてない様子で斎藤は熱心に白米を頬ばっている様子。今宮はというと…私は彼の方を見てびっくり。思わず目が合ってしまったのだ。動揺しながらも、私はすぐに口を開く。

「あー、えっと…。今日の王子様役、一番良かったよ。劇が終わったあと、子どもたちにも大人気だったじゃん。動けなくなるくらい集まってたよね、今宮くんのところに。」

彼は白い頬を掻きながら照れ笑いした。

「東江がシンデレラ役だったからだよ。ここまで俺が頑張れたのは8人のお陰だし、このメンバーで良かったって心底思ってる。」

「そうだね、私もそう思う。心を一つにするのは大変だったけど、この8人じゃなかったらダメだったよ。誰一人見捨てなくて良かった。私たち、最高の仲間に出会えたね。」

私が七人を見渡して微笑むと、彼は大きくうなずいた。鼻の高い彼の横顔はいつもにも増して美しく見えたが、徐々にぼやけて何も見えなくなってしまった。


ふと気が付くと私は夜の風を感じていた。身体が浮いている感覚。誰かに持ち上げられている感覚…。

「あれ…?もしかしてこのタイミングで起きたのか!?」

さっきまで聞いていた凛とした声。ぼやぼやした視界がいきなりはっきりとした輪郭のある世界になった。目の前に見えるのは…今宮の顔ではないか!驚きのあまり声すら出ず、ただ唖然とするしかない。彼は目を点にしている私を見つめて静かに笑い出した。

「みんなで打ち上げしてたのは…さすがに覚えてるよね?」

小さくうなずくと、彼は私をお姫様抱っこしながら歩いて話を続ける。

「俺と話してたらさ、東江が急に座ったまま寝ちゃったんだ。身体揺すっても全く起きなくて、意識無くしたのかと思ったんだけど息はしてたから安心したよ。打ち上げはもう終わったから、今帰ってきてるんだ。もうすぐ家着くから大丈夫だよ。」

前を向くと、寮の建物が目の前に見える。彼の温もりを肌に感じて身体が一気に熱くなる。

「あ、あの、いつも迷惑ばっかりかけてほんとに悪いね。もう自分で歩けるから…ここまでありがとう。」

私が地面に降りようとしても彼はもうすぐだからと私を離してくれない。顔が完熟トマトのようになっているに違いないのに。ようやく家の前まで来て足を地につけた。

「まさかあの場で寝ちゃうなんてね…。ほんと私ってどうかしてるよ。別にそのまま置いてってもらっても良かったのにな。」

穴があったら入りたいとはまさにこういう時のことだ。私は全く素直になれずにこんなことを言ってしまう。

「置いていくなんてできるわけないだろ。自分の想像以上に疲れてるんだって。東江はそれくらい必死に頑張ってくれてたんだ。ゆっくり休むんだぞ。」

彼は無邪気な笑顔を作って優しい言葉をかけてくる。ふと思った。今日がタイミングなのかもしれない。思い切って、あることを彼に聞いてみることに決めた。

「今宮くん!」

大きな声を出すと、彼は目を丸くして私を見つめた。彼の透き通った瞳は何度見てもまぶしいものだ。私がうつむいて黙ってしまうと、彼は首を横に傾げる。

「えっと、あのさ…。今宮くんを絵に描きたくて、来週から美術室に来てくれない?」

思いがけず予想外の言葉を発してしまった。彼は一瞬固まったが、大きくうなずいてくれた。

「人に自分を描いてもらうなんて初めてだから嬉しいよ。じゃあ、おやすみなさい。」

彼は手を振ると、あっという間に自分の部屋に入っていった。私も後に続いてすぐに部屋に入ったが、玄関で肩の力が抜けてその場にしゃがみこんでしまった。

私はなんてことを言ってしまったのだろう。彼を描きたいとは思っていたが、本当にそういう状況になってしまうなんて。しかも、本当に聞きたかったことはこれではなかった。やっぱりまだ聞いてみる勇気がないみたいだ。私は自己防衛している。

ベッドに入っても布団にもぐっても自分の頭の中でさっきの場面がグルグル回っていた。自分の頬を叩いて自分に言い聞かせる。しっかりしないと、志帆。これからも気をしっかり持たなければ…!


9,

学校に行くと、私たち9名はすっかり有名人になっていた。校長先生が全校生徒用メールに私たちの劇の動画を載せたみたいでほとんどの人がそれを見てしまったみたいなのだ。廊下を歩くたびにじろじろ見られるし、話しかけられるし…。最初は嬉しかったが、だんだんと鬱陶しくも感じてしまう。しかし、隣にいる亜香里は美人で有名な上さらに名をあげられてご満悦の様子だ。石田と大塚はヤンキー仲間たちに自慢して笑顔が絶えない。伊藤と優菜も前に比べて話せる友達が増えたみたいだ。モテる斎藤は女子に囲まれて顔が引きつっているが、跡部は彼女たちに対して冷淡な斎藤の代わりに話をしてやっている。一番気になる人は何をしてるかというと…なんと他のクラスの女子たちと話をしているではないか!私は思わず2度見してしまった。意外過ぎる…。

「東江さん、シンデレラ役素敵でしたね!」

突然目の前から声がして私は後ろにひっくり返りそうになったが、亜香里に支えてもらってどうにか持ちこたえた。前にいるのは知らない男子2人だ。上履きの色が同じだから同学年の他のクラスだろう。

「あ、ありがとうございます。」

私は逃げるようにしてその場を去る。せっかくの昼休みなのにこんなんじゃ全然休めないではないか。

「私たち、まるで芸能人みたいね。不思議な感じだわ。」

「こんなのうんざりだよ。私は今まで通りが良い。」

私と亜香里は対照的な表情だ。私が足を速めると、彼女はまた誰かに話しかけられたみたいで立ち止まった。私は気にせず教室に入って席に着く。今宮の席を見ると、彼も座っていて本を読んでいる。いつもの彼の姿が見れて安心した。すると、予鈴が鳴って多くのクラスメイトが走って席に着いた。

この授業が終わったら…久しぶりの部活ができる。


職員室に行って鍵を借りて美術室の前に立った。何週間ぶりだろう、この小さくて古くさい部屋に来たのは。ここに来ると高校一年生の頃を思い出す。大会に向けて下校時間ギリギリまで必死に絵を描いた、あの頃が。鍵穴に鍵を差して右に回すとカチャと音がして、錆びた音と共に扉が開いた。

久しぶりに絵の具のツンとした独特のにおいがする。正面にある大きな窓から夕日が差し込んで部屋がオレンジ色だ。絵の具でカラフルになった木製机に雑に散りばめられた色鉛筆と消しゴム。こんなに片づけないで相当慌てていたのだろう。

「うわあ、すごい!俺、初めて入ったな。」

恐る恐る後ろを振り返ると、目を輝かせている今宮がいた。なんでいるんだと言いかけて口を押さえる。私が呼んだのではないか!彼が目を見開いている私を面白そうに見つめたので、私は大きな咳払いをした。

「来てくれてありがとう。これからよろしくお願いします。」

「こちらこそ。じっとできるように頑張るよ。」

早速椅子に座ってもらって私はイーゼルに画用紙を乗せた。カッターナイフでえんぺつを削って、ネリゴムとプラスチック消しゴムを用意する。今宮がそれを見て好奇心剥き出しに聞いてくる。

「消しゴムの種類、2つあるんだ。なんでなの?」

「こっちのネリゴムは紙を傷めないように消せるし、普通の消しゴムはエッジ…くっきり見える場所を生かして線的に消せるの。」

彼は分かったような分からないような顔をしている。私は実際に鉛筆で紙に落書きをして、2つの消しゴムで消して見せた。ネリゴムの方が鉛筆の黒が残ってぼやっとしている。彼は納得したように何度もうなずいた。私は小学生のような彼の表情に惹かれてしまう。すぐに彼から目を離し、小さな丸椅子に座った。

「今宮くんは少し横を向いているようにしてほしいから…あそこにあるイルカの絵に目線をやってほしい。」

理解の早い彼はすぐに私の思った通りに動いてくれた。

「あのさ、表情はどうすればいい?」

意表を突いた質問をされて思わず口を噤いだが、冷静を装って答えた。

「表情は…自然な今宮くんでいいよ。ありのままでいてほしい。」

「ほんとに?それでいいの?」

「もちろん。私はそういう姿を描きたいと思ってたんだ。」

彼と目が合うと彼の澄み切った瞳に吸い込まれそうになる。慌てて目を離し、鉛筆を手に基本となる十字線を描いた。久しぶりに耳にした鉛筆と画用紙が擦れる心地よい音。彼の顔を描きたいと熱望していたからか、最近彼とよく一緒にいたからか、スムーズに絵が作り上げられていく。彼はまばたきすらしないでマネキンのように固まっている。私は思わず吹き出してしまった。彼はキョトンとして私を見つめる。

「ごめんごめん。なんか…面白くなっちゃった。」

「どういうこと?」

「はいはい、すいませんでした。いいから動かないで。」

今宮は府に落ちない様子でまたお人形のように固まった。私は集中力を高めてひたすら手を動かす。

無音の時間が30分ほど経つと、今宮の顔の七割ほどが画用紙に映し出された。我ながら上手く描けたことを自負する。私が笑みを浮かべていると、彼は立ち上がって画用紙を覗き込もうとした。私は慌てて画用紙を両手に抱える。

「ちょっと!完成するまで見ちゃダメ!まだまだなんだから。」

「すごい気になるな。俺、今日はこれからバイトだから帰るね。明日も来るからさ。」

彼は椅子を片付けると床に置いたリュックを背負った。私はお礼を言って彼を見送った。少し慌てたような足取りを見てバイトの時間のギリギリまでここにいてくれたんだと胸が熱くなる。そして、画用紙の中にいる未完成の今宮に目を移す。やっぱり彼は綺麗だ。

美術室を出て昇降口に行くと、夕方なのに空はまだ明るかった。私は深呼吸して外の空気を一気に吸い込んだ。久しぶりの部活動は最高だった。下駄箱に上靴を入れて外靴を取ろうとすると、女の子の声で名前を呼ばれた。

声の方向に顔をやると、そこにいたのは明るい茶色に染めたショートヘアにパンツが見えそうなほどのミニスカート、派手なネイル、付けまつげで目を真っ黒にした女の子だった。私にはまったく無縁に思える人だ。

「久しぶりやね、志帆。元気そうで何よりやわ。」

関西弁を聞いてハッとした。彼女はゆっくりと私に近づいてくる

「男テニの奴らから頼まれたんよ。これ、志帆への手紙だから渡せって。」

彼女は不機嫌そうに緑の封筒を私に突き出してきた。そこには「東江志帆さんへ」と上手な字で書かれていてなぜか見覚えのある字だった。私がしぶしぶ封筒を受け取ると、彼女は冷たく言い放った。

「もうこれであんたとは絶縁する。さいなら。」

凪は今まで見たことのないような不気味な笑みを浮かべてから後ろを向いてスタスタと歩いて行ってしまった。彼女を一切引き留めようと動かなかった自分に驚きながらも、言葉で表せない快感を覚えている自分がいるのに気が付いた。

どうせ馬鹿げたいたずらだろう。私はため息をついて封筒を開けてみる。そこには一枚の便箋が入っていてこんなことが書いてあった。

『突然の手紙をお許しください。直接会ったことも話したこともない人にも関わらず(ごみ捨ての時に一度会ったことはありますが)、手紙を渡したいと思ったのは私の気持ちをどうしても伝えたかったからです。単刀直入に言いますと、私はあなたが好きです。一目惚れしたのです。あなたを廊下で見かけた時からずっと恋しています。困惑させてしまい、本当にすみません。でも私は本気で思っています。もし良ければ、明日の放課後に美術室にお伺いしてもいいですか…?一度でもいいのであなたと直接お話したいです。急に申し訳ないです。よろしくお願いします。』

文章を読み終えて私は最後の名前を見た。思わず声が出て、口を抑える。信じられない。まさか、どうしてこんな手紙をあの人が?直接会ったことも話したこともないって…どういうことなのだろう?

すると後ろから小さな笑い声が聞こえてきてすぐに振り向いた。そこには三人の男子が立っていて私を手招きしている。やっぱりあいつらの馬鹿げたいたずらだったか。あんなガキたち、ぶん殴ってやる。私が怖い顔で彼らを見ると、背が高くて痩せている茶髪の男子が声を出した。

「あいつのラブレター、ダメだったみたいだな。東江さん、鬼みたいな顔してやがる。おもしろ半分で手紙渡してやったのにさ。」

例の劇で有名になったことで私の顔と名前が分かるみたいだ。今度は少し体格のいい小柄な男子が口を開く。

「ま、こんなの1年前のだからどうでもいいけどな。」

その言葉に私は目を丸くした。つまりこれは、私が高校一年生のときに渡される予定だった手紙だったのか。

「よく聞いてください、東江さん。あいつはな、俺たちがこの手紙を見つけたら部活やめちまったんだよ。まさかそこまで本気だったとは…。驚いたよ。」

眼鏡をかけて真面目そうな見た目の男子が私の手から手紙を奪って嘲笑した。

「部活をやめた?なんでやめないといけなかったの?あなたたちが勝手に彼の手紙を見つけたからでしょ?脅したからでしょ?彼はもっとテニスをやりたかったのに、強制的にやめさせられたんだよ。そんなのあまりにもひどすぎる!」

「はあ?あいつが俺らの分かる場所に置いてたのが悪いんだよ。今からでもこの手紙、ネット拡散しようぜ!なんか面白くなりそうだし。」

茶髪男が笑いながら言うと、他の2人は何度もうなずいた。眼鏡の男子が手紙の便覧を出して写真を取ろうとする。私は自分の身体から湯気が出ているような感覚になる。手紙を素早く奪い返し、真っ2つに破った。三人の男子は開いた口が塞がらず、ただただ私を見つめた。

「あら残念、これで拡散もできないね。さっさと消え失せろ、クソガキどもが!!!」

怒鳴り声が廊下に響き渡り、三人は身体を震わせて逃げるように走り去った。私は自分の声の大きさに驚いたが、心を落ち着かせて下駄箱に戻った。


家に帰ってからも頭の中は手紙のことでいっぱいだった。半分に破ってしまった手紙をセロハンテープで直しながら、思わず彼の部屋の方に目を向けてしまう。

そして、亜香里の家で劇の練習をした日に言った彼の言葉を思い出す。

”俺が掃除のごみ捨てをしていた時にね、ゴミ袋からゴミ全部を盛大にこぼしちゃったことがあって。そしたら知らない人同士だったのに、嫌な顔一つせずに一緒に拾ってくれた。会えたのがすごくうれしくて、名前を聞きたかったけど…恥ずかしくて聞けなかったんだ。”

さらに夏祭りの帰り道、彼の言葉が蘇る。

”でも…県大会の一か月前、俺の秘密があいつらにバレちゃって。退部しなかったらそれを言いふらすって脅されて辞めたんだ。”

”俺があの日、あんなところに置いてしまったのが悪かったんだけどな…。”

言われてみれば、高校1年生の時にごみを全部ばら撒いていた男子がいたのを微かに記憶している自分がいる。ただそれが今宮だったのかはさっぱり分からない。でもきっと彼だった…確実に彼だったに違いないのだ。

布団に入って目をつぶると、今宮があの男子三人に脅されている場面が頭に浮かんできた。もう少しで県大会があったのに彼が退部という大きな決断をした理由は彼の性格を考えればすぐに分かってしまう。それを思うと私は涙が止まらなかった。彼はあまりにも優しすぎる。そして私は…そんな彼が好きで好きでたまらないみたいだ。胸の鼓動を強く感じながら、ある決意を固めてようやく眠りについた。


亜香里と優菜に放課後カフェに行こうと誘われたが、私はきっぱりと断って美術室に足を運んだ。昨日のまま画用紙の中に彼がいた。本人がいなくても続きが描けそうなくらいに彼の顔を記憶している。私はカッターナイフで鉛筆を2、3本削り、部屋の窓を開けた。心地よい風が部屋の中に入り込んでくる。高校一年生の頃の自分をふと思い出した。

「この部屋やっぱり素敵だよね。きっと他のみんなは知らないだろうけど。」

振り向くとそこには今宮が立っていた。私が驚いた顔をすると彼は笑顔を作った。私は窓を閉めて画用紙の前の椅子に座った。彼も何も言わずに昨日と同じ椅子に座ってくれた。私がイルカの絵を指差すと彼は目線をそちらに向けた。

「東江。なんで…無言なの?」

恥ずかしさを隠すために鉛筆を手に取った私はようやく口を開いた。

「いや、えっと、集中してるから。今日でこの絵は完成できるんだ。」

「さすがだな。たった2日で完成するなんて。」

私が画用紙に鉛筆を当てると彼は昨日のように動きを止めた。自分の鼓動が早くなるのを感じると、無意識に手が震えてくる。消しては描いて消しては描いてを何度も繰り返した。鉛筆を持ち直して絵を眺めると、私は思わずつぶやいた。

「かっこいい…。」

今宮がキョトンとしているのを見て私の口は止まらなかった。

「今宮くんって本当にかっこいいよね。」

彼は一瞬固まったが、首を大きく横に振った。

「いや、それは東江がかっこよく描いてくれたってことだよ。自分に自信はないから。」

「自分に自信がない…?」

彼は諦めたような笑顔を浮かべて肩を落とした。

「俺は人に好かれないタイプの人間だから。仲良くなるにも時間がかかるし、他の人を半信半疑で見る癖がついてるんだ。」

「私は今宮くんが好きだよ。」

大きな声を出すと、彼は目を丸くして私を見つめる。私は机に鉛筆を置いてもう一度言った。

「私は…私は今宮くんのことがずっと前から好き。今宮くんは私のことどう思ってる?」

彼は私から目を離してうつむいたが、すぐに顔を上げた。

「俺にとって東江は…その…。」

彼は一瞬言葉に詰まってからはっきり告げた。

「親友なんだ。」

一気に頭の中が真っ白になった。あっという間に自分の胸が締め付けられるような感覚に襲われた。彼は私の目を見つめながら話を続ける。

「高校2年生で初めて同じクラスになってから、こんなに何でも話せて俺の話もたくさん聞いてくれて本当にありがたく思ってる。でも、親友だからこそこんなに話せるというか…。東江は親友の中でも特別な存在なんだ。」

親友の中でも特別な存在…。

理解できない。意味が分からない。頭の整理が追いつかない。

「…そうだよね。」

私の頭の中では大洪水が起きているのに、私はなぜか笑顔を作ってつぶやいた。

「ごめん、変なこと言って。そんな存在になれて私は…何ていうか…。嬉しいよ。」

私の口は私の心に全くない感情を彼に伝えた。どうにかこの張り付いた空気感を良くしなければならない、そう思ってただただ必死だった。彼は安心したような表情で私を見つめた。私は慌てて鉛筆を持ち、絵の続きを描き進める。手の震えが私の絵を、彼の顔をゆがませていく。


とんだ思わせぶりだったじゃないか。

あの日の夜はどんな心境で私のことを元カレから助けてくれたのだろうか。あの日の夜はどんな心境で私と一緒に寝たのか。あの日の夜はどんな心境で私を抱っこして家まで送ってくれたのか。劇の練習でのダンスシーンで彼が顔を真っ赤にして目をそらしていたのはなぜだったのだろうか。

あの時は?あの時は?彼は私を、全ての私を親友として見ていたのか?

彼は私の心を弄ばせた…。無意識に私を裏切ったんだ…!


ポキッ!

大きな音を立てて鉛筆の芯が折れた。思わず力を入れすぎた。この状態でカッターナイフを持ったら私はきっと危ないだろう。私は立ち上がって背伸びをした。彼が不思議そうに私を見上げる。

「あーあ。今日、私かなり疲れちゃったみたいだわ。また今度完成させることにするね。今まで来てくれてありがとう。」

「あ…分かった。また今度完成させるときも来るよ。」

今宮は納得したようで椅子からすぐに立ち上がる。とりあえず私は早く独りになりたかった。

彼は荷物を持つと、手を振って美術室から出ていった。扉が閉まった瞬間、私はその場で泣き崩れた。悲しさと怒りがごちゃまぜになって今までに感じたことのないほどに胸が苦しかった。

私は真っ赤な目で絵の中にある彼の横顔を見つめた。相変わらず、ただただ美しい透き通った瞳を持っている。

無性に腹が立った。

こんなの破いて粉々にしてやる!私の目の前から、私の記憶から消え去ってほしい。

勢いよく画用紙を手にして両手に力を入れかけた。

でも…でも…。

私は画用紙を手から離した。画用紙が床に落ちて、何も描いてない白い面がこちらを向いている。

許せないのに、こんなに許したくないのに、やっぱり私は…。

私は彼に恋している。


10、

「志帆?ちょっと、志帆!おーい! き・こ・え・て・るー?」

ハッとした。前を向くと亜香里と優菜が恐怖に怯えた顔で私を見つめている。

「あ…ごめんごめん。えっと、何の話だっけ?」

私は苦笑して慌てて頭をかいたが、2人は心配そうに私の顔を覗き込んだ。

「志帆、何かあったの?前からずっとボーっとしてるけど。」

「そうだよ。あんまり部活もやってないみたいだし。変だよ、志帆ちゃん。」

あの日からあっという間に3か月が経っていた。あれ以来、部活も手が付かず彼とは以前ほど話をしてない。彼の絵の完成は未だにできていないまま。2度ほど彼に尋ねられたが、他の作品に時間がかかっていると嘘の口実を作り続けていた。彼から来る連絡はあったが、自分からは全くしなくなった。

「最近疲れちゃってて今はリフレッシュ期間なの。心配かけて悪いね。」

私が笑顔を作ると、2人は安心したようなまだ不安が残っているような表情で顔を見合わせた。

ただ、今日はどうしても今宮と話さないといけなかった。次の道徳の授業で同じ班になってしまったからだ。ちらっと彼を見ると、相変わらず本を読んでいる…と思いきや、斎藤が彼に何かを話しかけた。ああ、そういえば斎藤も同じ班になっていたんだった。あの劇のおかげで跡部と斎藤と今宮の3人は親睦が深まったみたいだ。

昼休み終了のチャイムが鳴った。アツアツ先生が教室に入ると、生徒が一斉に席に着いた。

先生は何も言わないまま、黒板に”人間関係”と書いた。いつも騒がしい生徒も黙って先生を見つめている。

「今日の話し合いのお題はこれだ。これから君たちは高校三年生になって就職を考える時期に入る。もちろん、今までの学生時代だってこのことで悩んできた人も多いと思う。今まさに悩んでいる人だっているかもしれないな。まあ、前置きはこれくらいにして事前に決めていた班を組んでくれ。場所はどこでもいい。」

私たちは少しザワザワしながら班ごとにまとまって席に着いた。私の班には今宮だけでなく、斎藤と大塚もいた。速やかに班を作った私たちに満足した表情でアツアツ先生は驚きの発言をした。

「よし。じゃあ、班ごとで自由に人間関係について話し合いなさい。先生はあえて質問を提示しない。君たちが話し合いたいことを話して、授業終了の20分前になったら班ごとに発表してもらう。はい、開始!」

先生はそう言うと、教室を出て行ってしまった。なんという自由な先生なのだろう。私がキョトンとしていると、後ろの席に座っていた斎藤が声を出した。

「じゃあまず、1人ひとり人間関係についての考えを発表することにするか。言いたくなければパスでもいいから。言い出しっぺだし、俺から言うね。」

さすが真面目でクールな斎藤だ。私たちはうなずいて、彼の話に耳を傾けた。

「正直に言うと、俺は昔からあんまり人と関係を持ちたくないタイプなんだ。最小限の関わりで十分って感じ。だからそこまで深く人間関係で悩んだことはない。あんまり気が合わない人とは自分からは関わらないし。」

何も隠さずに淡々と語る斎藤がいつもにも増して大人びて見える。斎藤は話し終わると、大塚に話を振った。彼女は長い茶髪を一本結びにしてから口を開いた。

「私は自分を強く見せたくて自分の居場所がなくなるのが怖くなっちゃう性格だって自覚してるわ。だから今までは自分にとって目障りな人は仲間外れにして自分を確立したかった。」

彼女の眼は真剣そのものだった。

「でも最近になって気づいたの。いろんな人と関わってその人がどんな考えを持っているのか吸収することが大事だなって。だから悩みは多くなるけど、私は出来るだけ多くの人と関わりを持ちたい派だわ。」

斎藤の影響を受けたのか大塚の意見も大人だった。大塚の後は、男子バスケ部の田中くんと石山くんが話をした。2人とも「自分と価値観の合う人とできるだけいたい。」という似たような意見だった。2人が話し終わると、みんなが私を見たので私の番になった。いつの間にか両手に汗をかいているのに気づいて、スカートの裾を握りしめた。

「私は…。私は…その…。」

うまく言葉が出ない。言いたいことはきっと山ほどあるのに。

「その…なんというか…。」

「東江。」

斎藤の声だ。顔を向けると、彼は笑顔で私にうなずいて見せた。とても優しくてかわいらしい笑顔だ。

「もし話すことが頭に浮かんだら話してもらっていいからさ。今宮は話せそう?」

今宮は小さくうなずく。私は自分の心に冷たい風が吹いているように感じた。

「俺はあんまり人を信じられない。たとえ仲良くなっても裏のことを考えてしまう。だから、自分が関わるとその人を不幸にしてしまうと思うんだ。誰だって疑われるのは不快なことだし。俺は斎藤と似てて、最小限の関係でいる方が俺にとっても相手にとっても良いことだと思ってるかな。」

彼の話を聞いた瞬間、私は自分の胸が苦しくなるのを感じた。今宮の変わらず澄んだ目がさらに私を苦しめる。

「志帆ちゃん、顔青白いけど大丈夫?」

大塚が私の手を取る。彼女は驚いたようにその手を離した。私の手が汗でびっしょりだったからだ。私はずっとうつむいたままだ。

「東江、保健室行こう。」

今宮が言ったが、私は目を合わせられない。

「いや、俺が行くからみんなは発表することを簡単に紙にまとめてほしい。東江、立てるか?」

斎藤がしゃがんで私に話しかける。私は小さくうなずいて立ち上がった。すると、斎藤は私の腕を優しくつかんでそそくさと教室を出た。教室が少しザワザワしたのを感じたが、どうでもよかった。

廊下に出て階段まで歩くと、斎藤はハッとしたように腕を離してつぶやいた。

「悪いな、急に触って。」

「全然気にしてないよ。ごめんね。」

私が謝ると、彼は立ち止まってキョトンとする。

「東江は何も悪くない。本当に顔色悪いよ。今宮が男子テニス部の人を見つけたときの顔みたいだよ。」

私は彼の目を見て何も言えなかった。

「何かあったんだろ?今宮と。」

「別に何もないよ。」

私が食い気味でつぶやくと、斎藤はゆっくりと首を横に振った。

「一人で抱え込むなよ。もうまさに今、身体にボロが出てきてるじゃないか。」

「そう言ってくれてありがとう。でも大丈夫だから。」

やっぱり食い気味で言ってしまった。どうして私は斎藤に八つ当たりしているのだろう。これは8つ当たりなのか?いや、違う。これはきっと…恥ずかしいからだ。

私ってなんて最低な人間なんだろう。なんてちっぽけな人間なんだろう。

視界が徐々に歪んできた。この3か月間、何があっても泣かないで過ごしてこれたのに。

両手で顔を覆ってうつむいた。どうしよう、涙が全然止まってくれない。大洪水だ。今まで我慢してきた全てが一気に出てきたみたいに。

斎藤は私を階段に座らせた。声を出さずに泣き続ける私の隣で彼は何も言わずにただそばにいてくれた。

ようやく泣き止むと、彼はポケットから新品のティッシュを取り出して私に渡した。

「俺は別に根掘り葉掘り聞こうなんて思ってないよ。もちろん、東江が言いたいなら聞くけど自分から深くは聞かない。でも、抱え込んではほしくない。この気持ち、分かってくれるか?」

私はまだウルウルしている目で彼を見つめ、小さくうなずいた。彼は安心したような笑顔を作る。大きなたれ目と涙袋が彼の笑顔を可愛くしていることに気づいた。

彼に全てを話したらどんなに楽になれるだろう。でも、それはできない。私のせいで斎藤と今宮の間柄を変えたくない。私はティッシュで涙を拭いて微笑んだ。

「ほんとにありがとね、斎藤くん。さっきより心がスッキリしたような気がする。」

彼は頭を掻いて少しはにかんだ。

「話したくなったら話してくれればそれでいいから。とりあえず保健室行こうか。今日は早めに帰って休んだ方がいいよ。」

私と斎藤は立ち上がって、1つ下の階にある保健室に向かった。


亜香里に荷物を持ってきてもらって、私は保健室からそのまま早退した。

自転車を押しながらゆっくり歩いて家に帰っていると、どんよりと厚い雲が広がってきてやばいと思った時にはもう遅かった。一気に大雨になった。1つ1つ体に当たる雨粒が何となく気持ち良く、歩くペースを変えなかった。車が通り過ぎると、不思議そうな目で運転手が私を見ていることに気づいた。でも、そんなことはどうでもよかった。遠くの方で大きな雷が鳴っている。

自転車を置いて、家の扉の前に立った。頭の先からつま先までびしょ濡れだ。

「ハクション!」

案の定、風邪を引いたようだ。風邪を引いた…か。私は思わず微笑んだ。これで家に引きこもる口実がようやく作れる。くしゃみが止まらなくて、私はまた笑った。

試しにおでこを触ってみる。これはかなり熱い。言われてみれば、頭がぐるぐる回っているようで重苦しい。身体がふらふらしているように感じる。よし、これで当分家に1人で引きこもれるぞ。

私は家の鍵を取り出すために、リュックのポケットを探した。リュックのポケット…ってどこにあるんだっけ?

あれ、今、私…立ってる?今、どこにいる?今、何しようとしてたっけ?


「はあ…。これだから子どもなんて産むもんじゃなかったわ。」

「だから言ったろ。おろせば良かったって。俺はお前と2人で居れれば十分だったんだよ。」

「おろすのだって簡単じゃないのよ。あなたのご両親、孫が見たいって騒いでたし。産まなかったら結婚させてもらえなかったかもしれないわ。」

「それもそうだな。ま、俺たちも結構楽しんでたから。お前はもう不妊治療したし、また楽しめるってわけよ。ささ、もう横になろう。」

「まったく、あなたは相変わらずね。もう何歳だと思ってんのよ、若くないんだから体力ないわ。」


嫌な夢を見た。目をぱっと開けると、陽の日差しが入ってきて思わず目をつむった。森のいい匂いがする。身体はまだ多少濡れているが、腕にモフモフの何かが当たっている感触がした。

見ると、そこには一匹のリスがいた。見覚えのあるリスだった。

「もしかして…森の主さん…ですか?」

彼のくりくりとした目が私を凝視する。胸の鼓動が速くなり、何だか緊張してしまう。

「久しぶりだな、東江。俺のこと、覚えていたか。前来た時よりもっと元気じゃなさそうじゃないか。」

やっぱり彼は高めの男性の声で私に話しかける。私はまた森の主と話せるようになったみたいだ。

「ちょっと…まあ、いろいろありまして。そういえば、今宮くんは?」

「ああ。今宮ならそろそろ来るぞ。東江が高熱出してるから氷枕を取り替えてくるってさ。」

「やっぱり…また助けてもらっちゃったんだ。もう私帰るよ。」

私は立ち上がろうとしたが、身体全体に力が入らなかった。モフモフの森の主は私の太ももに乗ってきた。

「おい待て、まだ帰るなって。今宮が久しぶりに明るい顔して東江を看病してたんだから。あいつ、最近はずっと切なそうにしてたんだよ。」

「ずっと…切なそうな顔?」

「3か月前からずーっと。それが今日、明るくなってたんだぞ。だからまだここにいてくれ。」

3か月前…。自分の胸が一瞬にして締め付けられる。

「あ、東江。まだ横になってないとダメだと思うよ。」

見上げると、目の前には片手に大きな氷枕を持った少年がいた。彼の声も瞳も変わらず透き通っていて、私は無性に泣きたくなる。森の主は私の太ももから降りて、素早く森の奥に戻ってしまった。

「何もかもびしょ濡れだったから、太陽の日差しで乾かすのが1番だと思ってさ。」

「あ…ありがとう。でも、もう大丈夫だよ。」

私は彼に顔を向けられなかった。どうしてこんなに彼を見れなくなったのだろう。告白して振られたから?

なんて心が狭い女なんだ。私は自分自身に呆れてしまう。

「東江、ごめんな。」

不意に今宮が謝ってきて、私はようやく彼の目を見た。彼の目は真っすぐに私のことを見据えている。

「俺、初めてのことだったんだ。他の人から告白されるのが。」

信じられない。私からの告白が彼にとって初めてだったなんて。私は目を丸くした。彼は私から目を離さずに話を続ける。

「だから、その…。自分の恋愛感情がよく分からなくて。何て言えばいいんだろう。好きっていう感情がどういうものなのか分からないって言えばいいのかな。恋愛観がおかしいのかも。」

今宮は眉にしわを寄せて難しい顔をした。私は黙って彼の話に耳を傾ける。

「だから、勘弁してほしいっていうか…俺の気持ちを分かってもらえたら嬉しいなって思う。でも、俺は今まで通りの関係でいたい。東江が良かったらなんだけど。」

私は心が少し軽くなったような重くなったような理解できない気持ちになる。それでも彼が苦しそうな表情をしていることが辛くて見ていられなかった。

「今宮くん、謝らないで。私こそ困らせちゃって申し訳ないと思ってる。これからも友達として仲良くしていけたら嬉しいよ。」

彼の無邪気な笑顔を見たのは三か月ぶりだ。私は胸が締め付けられながらもニコッと笑って見せた。頭がまだズキズキするのはたぶん高熱のせいだろう。

「まだ休んだ方がいいと思うけどな。体温、計ってみてよ。」

彼は体温計を消毒してから私に渡して、私は素早く右脇にはさんだ。さっきの大雨はどこにいったのか、空を見上げると綺麗な青空が広がっていた。

隣でタオルをたたんでいる今宮の後ろ姿に目をやった。私はまた彼に嘘をついたのだ。私はどうしても彼のことを友達としては見れていない。

「今宮くんっ!」

胸が苦しくなって、私は無意識に彼の名前を呼んだ。シロクマは顔だけこちらに向けて首を傾げた。

やっぱり…やっぱりちゃんと伝えよう。ちゃんと私の真心を彼にぶつけてみよう。

私は覚悟を決めて思い切って口を開いた。

「私ね、嘘ついてるの。ずーっと嘘ついてるんだ。私の…私の本心に。」

彼はキョトンとして私を見つめる。彼の目は真剣そのものだった。私は涙を目にためながら話し続ける。

「私、親友という存在になれて嬉しいって言ったし、これからも友達として仲良くしたいって言った。でも…でも本当は、そんなことできない。だって私、今宮くんのこと友達として思えなくなっちゃったんだもん。

…だから、1つだけ聞いておきたくて。」

彼の顔を見る勇気がなくて、私は目をつぶって叫んだ。大粒の涙が一気に頬を伝う。

「今宮くんのこと、これからもずっと好きでいていいですか…?」

この瞬間、私の心がスーッと軽くなるのを感じる。そのまましゃくり上げて泣いてしまったけど、心の中は晴れやかだった。今宮はゆっくり近づいてきて、私の左肩に手を乗せた。

「もちろんだよ。こんな俺のことをそんなに想ってくれてありがとな。その気持ちに応えられなくて申し訳ないけど、何というか…すごくありがたいよ。」

「ほんとに?迷惑じゃない?しつこいって思わない?」

泣き声のまま聞くと、彼は口をへの字にした。

「俺は大丈夫。ただ…東江が辛くなっちゃうんじゃないかなって。だって今後、俺が東江の心に応えられるかははっきりと分からないし…。」

私は涙をぬぐって彼の手を取った。体温計が脇から抜けてしまったが、そんなことはどうでもいい。

「辛い。今だってすごく辛くて、苦しくて、切ないよ。胸が引き裂かれそうなほどに。…でも、恋愛は痛みを要するものだし、何かを選ぶことは何かを妥協することだから。今宮くんが他の誰かを好きになるまで、私はきっと、あなたを待ち続ける。それくらい、私の気持ちは固いものなの。今宮くんを束縛するわけではないけど、それだけは分かっていてほしい。」

彼は私の手を握り返して大きくうなずいた。私は自分で言った後になんだか恥ずかしくなったが、自分がどれだけ彼を想っているのか再確認できた気がする。

私は彼の手を放して体温計を拾い、もう一度脇に挟んだ。身体が熱いのは熱があるからなのか、それとも話し過ぎたからだろうか。

今宮はまたタオルをたたみ始めた。彼の背中からでさえ、優しさが溢れ出ているように見えた。

体温計が鳴り、数字を読むと36度5分だった。すっかり熱が下がっていた。

「良かった、平熱になったね。」

彼はタオルを部屋に片付けながら喜んだ。私は彼を見上げながらつぶやいた。

「本当に良かったよ、私。この世に生まれてきて。」

「どうしたの、急に。」

心配そうな彼に私は微笑んだ。さっきの悪い夢を思い出して。

「昔、親が言ってたの聞いたから。本当は子どもを産みたくなかった、子どもなんて作らなきゃよかったって。だから私は産まれない方が良かったんだなって思ってたんだ。でも、今宮くんと出会えて、一緒に居れて幸せだから、生きてて良かったよ。」

今宮はしゃがんで目線を私と同じ高さにした。

「俺も東江に出会えて良かった。両親と死ななくて良かった。この世に価値のない命なんてないんだよ。」

私が大きくうなずいて見せると、彼も微笑んだ。

「今宮くん、いつか言ってたよね。花火みたいに一瞬でもいいから輝いてみたいって。でもね、今宮くんはいつも輝いてるんだよ。知ってた?」

彼が目を大きくしたので、私はいたずらっぽく笑った。

「そう、それだよ。いつもキラキラしてるの、その瞳が。」

「え、どういうこと?褒められてるんだか馬鹿にされてるんだかよく分からないな。」

「ほんとだってば。褒めてるに決まってるでしょ?」

反応に困ったように、彼は頭を掻いてうつむいた。私は何だか面白くって声を出して笑った。

私は気づいていた。出会った時から彼の瞳には光が宿っていることを。

その光を信じて生きていきたい。私はそう心に強く誓った。


今宮の自転車に乗って寮に戻った。戻る途中、夕日を浴びて輝く海がいつもにも増して青かった。私はきっと海を見たら、この日々を思い出すだろう。甘酸っぱくてほろ苦い青春の日々を。そして…。

私は腕に力を入れて彼をぎゅっと抱きしめた。

彼のにおいを。彼の白くて膨らんだ頬を。彼の澄んだ美しい瞳を。



11

「皆さん、本当に本当にお疲れ様です!それでは、かんぱーい!」

「かんぱーい!」

私たちはジュース…ではなく、生ビールを天井に突き上げた。ジョッキが当たる心地良い音が夜の居酒屋に響き渡る。

「志帆さ、あの劇が終わった後も乾杯の音頭取ってたじゃん?さっきのほぼ同じセリフだったよ!」

亜香里が大爆笑しながら言うので、私はビールを一口飲んでキョトンとした。

「そうだっけ?よく覚えてるね、六年くらい前の話なのに。」

「そっか、もうそんなに経つのか。あのシンデレラの劇、ほんとに大変だったよな。」

跡部が遠くを見るような目つきになると、優菜が何度もうなずいて枝豆を1つ口に入れた。

「あれはすごい苦労したよね。でも、あの劇があったから私たちこうやって集まってるんだけどね。」

「そうそう。今日大塚ちゃんと石山くんが来れなかったのは残念だけど、アメリカにいるのに呼び出せないもんね。」

おつまみを食べながら伊藤が苦笑したので私たちはみんな納得した。(伊藤は高校卒業後、保育士の資格を取って保育園で働いている。最近は消防士の彼氏ができたみたいだ。)大塚と石山はあの時からずっと交際を続けて昨年結婚し、2人でファッションブランドを立ち上げて国内外で成功を納めている。あんなにヤンチャだった2人がまさかこんな人生を送るとは思いもよらなかった。

「それにしても跡部と亜香里、婚約おめでとう!結婚式は来年の春だっけ?」

斎藤が相変わらず冷静な口調で言うと、亜香里と跡部は顔を赤らめた。優菜と伊藤がヒューヒューとはやし立てると、母の沙織に似てモデルのような美女になった亜香里は「やめてよ!もう!」と怒りつつ笑った。幸せ絶頂と言わんばかりの表情だ。

亜香里は短大を卒業してから大手化粧品メーカーに勤めているし、跡部は(相変わらず黒縁メガネをかけているが)スポーツ選手のトレーナーになった。どちらも真面目に働いているし、十分に蓄えもある。あの劇をきっかけに高校2年生から付き合い始め、ゴールインしたわけだ。

「ありがとう。来年の春に予定してるの。みんなのこと、招待していいかしら?バリ島で挙式しようかなって思ってて。」

「バ…バ…バリ島!?」

亜香里と跡部以外で同時に叫ぶと、お店にいた客全員が一斉に私たちに目を向けた。しかし、そんなこと構わずに私たちは話を続けた。

「オーシャンビューで結婚式挙げるのが夢だったの!大ちゃんも賛成してくれてね、それで…。」

「大ちゃん!?」

またまた私たちが声を裏返して叫ぶと、亜香里は「ちょっと!最後まで話聞いてよ。」と苦笑する。跡部は耳まで真っ赤にして生ビールを飲み干した。

「もういいよ、俺らの話は。もちろん招待するけど、都合が合えばでいいからさ。」

「大丈夫!何が何でも行くから安心して。」

優菜がウィンクして言うと、斎藤が目を光らせてつぶやいた。

「優菜。バリ島に行きたいだけだろ…?」

優菜が申し訳なさそうにうなずくと、ドッと笑いが起きた。亜香里は「生ビール、三杯おかわりください!」と叫んでから、私と今宮を交互に見た。お酒に強い亜香里、跡部、優菜の三人はもう生ビールを飲み終えている。

「志帆と今宮くんは最近どうなの?」

ずっと静かに話を聞いていた今宮はビールを少し飲んでから口を開いた。

「俺は前と変わらずIT企業で働いてるよ。あ、でも最近課長になった。」

「さすが今宮。今宮の勤め先は本当に安定してるよな。」

斎藤が羨ましそうに目を細めると、今宮は肩をすくめた。

「いやいや、斎藤こそ市役所で働いてるんだから安定してるだろ。職場恋愛までしちゃってるし。」

「おい、その話は今関係ないだろ。今宮こそ、ずっと独身のままでいるのか?」

お酒に弱い斎藤はもう酔っているようで頬が赤く染まっている。今宮が返答に困ったので私はあわてて話を戻した。

「私も特に大きな変化はないな。社会福祉士の資格取れて今は安心してるくらいで。」

「国家試験、大変そうだったもん。合格できて本当によかったね。頑張った頑張った!」

伊藤が私の背中をさすってくれたので、私は微笑んで彼女にお礼を言った。

「あーあ、志帆ちゃんにも彼氏できればいいのにね。こんなにいい子なのに。」

こう言う優菜は高校卒業後に看護学校に行ったのち、看護師として働きながら小学校教師の男性と交際している。私が彼女の言葉に苦笑していると、酔った斎藤がニヤッと笑った。相変わらず、たれ目で可愛らしい笑顔だ。

「俺さ、人生で初めて交際してるけど、やっぱり支えてくれる人がいるって良いことだと思うんだよな。東江は職場で気になる人とかいないの?今宮もだけどな。」

私がちらっと今宮を見ると、彼と目が合ったので慌てて目を反らした。恥ずかしくなってビールを口に運ぶと、亜香里が2杯目の生ビールを飲み終えてから言った。

「きっとご両親も志帆が結婚したら喜ぶんじゃないかしら?ようやく仲直りできたんだし。」

「そうだね。でも…だからといって、無理して相手を探したくはないから。」

「志帆ちゃん。もう私たち23歳だし、結婚しないと高齢出産になっちゃうかもしれないよ。誰かいい人、紹介しようか?」

優菜が眉毛をへの字にして尋ねたので、私は大きく首を横に振った。「じゃあ、今宮くんに紹介する?」と今度は今宮に尋ねるので、彼も首を横に振って笑った。すると、跡部が腕時計を見て目を丸くした。

「やばい、もう十時半じゃん。亜香里、もう帰らないと。」

「そうね、明日大ちゃんは朝から仕事だから。じゃあ、みんな元気で。今度集まる時はチームシンデレラ全員でもっと長くお話ししましょうね。」

彼女は三万円をテーブルに置いて立ち上がった。私たちは驚いて彼女を見上げる。

「今日はおごらせてちょうだい。それくらいあればたぶん足りるでしょ?」

「悪いね、亜香里ちゃん。ありがたく使わせていただきます。」

伊藤がハイボールを飲みながらお辞儀をした。彼女に続いて全員お礼を言うと、跡部と亜香里はお店を後にした。2人で並んで歩く亜香里と跡部の後ろ姿はもうすでに夫婦のように思えた。

それから私たちは1時間ほど昔話や思い出話に花を咲かせて終電の電車に間に合うようにお店を出て行った。外には酔っ払いがたくさんいて、お店の近くに住んでいる優菜と伊藤以外は近くの駅まで向かった。

斎藤が千鳥足になっていたので、今宮は彼と肩を組んで歩いた。

「やっぱりお酒弱いな、斎藤は。」

今宮が苦笑しながら言うので、私は肩をすくめた。

「今宮くんだって弱いくせに。まあ…私もだけど。」

「そうだな。まあでも、強いより弱い方が良い気がするけどな。」

彼が微笑むと自然と私も笑顔になった。彼はあの時に比べてかなり大人びて男前になった。ぷっくらしていた体格もすらっとして、白い頬はもうぷにぷにしていない。外国人のような目は変わらず、綺麗に澄んでいる。髪型も高校時代と同じだった。

「東江、大人になったな。なんか全然違う人に思えるよ。」

彼に見つめられて鼓動が速くなるのを感じる。私は前を向いたまま怒った口調で言った。

「もう23歳だもん、大人になってないとおかしいでしょ?あの時と違って髪の毛も茶色にしてるし。」

「何というか…美人になったよ。」

彼の意外な発言に私は言葉を失う。しばらく沈黙が続いたが、いつの間にか駅のプラットホームに着いた。

私たち以外は仕事終わりのサラリーマンがいるくらいだった。今宮は寝てしまった斎藤を椅子に座らせて両腕を高く伸ばした。私はなぜだか身体が熱くて、プラットホームに吹く秋の涼しい風が気持ちよく感じた。

「俺、今でも持ってるんだ。」

私が彼の方を向くと、彼はニコッと笑った。あどけない少年の笑顔だ。

「東江が描いてくれた肖像画。ナルシストみたいだよね。でも、あの絵は俺にとって大切だから。」

「え、ほんとに!?他の作品は私の大ファンの優菜ちゃんに全部あげたんだけど、あの絵だけは今宮くんに渡したかったの。お蔭様で、全国大会でも入賞できたから。」

今宮の肖像画をコンクールに出したところ、県大会で優勝して全国大会に出場できたのだ。コンクールの結果がスマホに届いた瞬間、美術室で今宮とハイタッチして大喜びしたのを今でも覚えている。

「東江。」

相変わらず、彼の凛としたよく通る声は聞き心地が良い。私が首を傾げると、彼は一回深呼吸してから叫んだ。

「俺と結婚してくれないか?」

私は思わず口に手を当てて固まってしまう。これは夢?それとも現実?

頬を強くつねったが、とても痛かった。変なことをしている私を気にせず、彼は真剣な表情のまま話を続けた。

「実を言うと、高1のときに一目惚れしたんだ。東江が告白してくれた時に応えられたら良かったんだけど、自分に自信もなかったし恋愛感情がよく分からなくなってしまって。でも、俺はずっと東江のことしか考えられなかった。高校卒業して離れてからも、就職してからもずっと。俺は東江のことが好きなんだってはっきりと気づいた。だから、これからそばにいてほしいし、そばにいさせてほしい。」

私が溢れ出る涙を手のひらで拭ってから勢いよく彼に飛びつくと、彼は両腕で私を強く抱きしめてくれた。

彼の顔を見上げると、彼は目に涙を浮かべながら無邪気な笑顔を作った。やっぱり彼の瞳にはあの時と変わらない美しい光が宿っていた。

信じ続けてよかった、彼の光を。あの時からずっと変わることのなかった、この想いを。

「間もなく一番線に列車が参ります…。」

アナウンスが鳴ると、私たちはあわてて離れて斎藤を起こした。

「あ…あの、私は2番線の列車だから、2人ともまたねっ!」

私がぎこちなく手を振ると、斎藤は私と今宮の手を取ってゆっくり重ねた。

私と今宮が目を見開いて斎藤を見つめると、彼は幸せそうな笑顔を作った。

「2人とも、高校の時からお似合いだと思ってたよ。おめでとう、幸せになるんだぞ。」

「斎藤、起きてたのか?いつから…。」

「そ、そうだよ、起きてたなんて。全然気づかなかったからつい…。」

私たちが顔を真っ赤にして動揺すると彼は声をあげて笑った。強い風と共に列車が駅に到着する。

私が2人から離れようとすると、今宮が私の腕をつかんだ。

「東江、帰ったら電話するから。愛してるよ。」

彼は手を振って斎藤と一緒に列車に乗ってしまった。私は顔から湯気を出しながら、後から来た2番線の列車に乗り込んだ。

私が乗った列車から遠くの方に海が見えた。夜の街の光を反射してキラキラ輝いている。

ー愛してるよ。

彼の言葉が何度も脳内再生されている。私は列車の窓に反射して映った2やついている自分を見つめ、あわてて顔を叩いた。

やっぱり海の前では自分の心をさらけ出したくなる。

あの時みたいに。私も彼と同じで全く変わっていないみたい。

「さすが東江。あいつを信じていれば間違いないって分かってたんだな。君たちは幸せになる、絶対にね。」

聞き覚えのある高い男性の声。下を向くと、見覚えのあるモフモフの森の主が足元に座っていた。

私ははにかみながらリスを手に乗せて頭を撫でる。

私は列車の席に座って、光を放つ海をいつまでもいつまでも眺めていた。




人と関わるということは、悲しく苦しく切ないものであり、優しく楽しく美しいものでもある。

そして自分自身と関わることは、残酷でありながら歓喜なことでもある。

何事にも影と光があって、どちらも欠かせない要素なのです。

困難に直面したとき、人生に絶望したとき、全てを放り投げだしたくなったとき。

どうか見逃さないでください。そこから産まれる『幸せのカケラ』を。


読者のみなさま、長い長い作品に目を通してくださり本当に本当にありがとうございました!

感想もお待ちしております。他の作品もぜひぜひご覧ください♬

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