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青海と志帆(上)

〈主な登場人物の説明〉


東江志帆ひがりえしほ:もの静かで友達も少ないが、想像力豊かで笑うのが大好きな高校2年生。趣味は読書と小説を書くこと。1年生の頃に美術全国コンクールで優秀賞を受賞した学年で1人だけの美術部員。海の近くの高校に行きたかったため、学校近くの寮に住んでいる。同クラの田辺と一緒にいる。

田辺亜香里たなべあかり:高校1年生の秋頃に都会から転校してきた美女高校生。1人でいることの多かった志帆と仲良くなった。バド部に所属しており、学年でも一目置かれる存在。明るくて誰とでも仲良くなれる性格。

今宮朝陽いまみやあさひ:2年生になって初めて志帆と同じクラスになった。静かでミステリアスな性格。事情があって男子テニス部を退部した。学校近くの寮に住んでいて、志帆の隣の部屋。色白で外国人のような瞳をしている。

関優菜せきゆうな:クラスの学級委員でしっかり者。寮に住んでいて志帆の下の部屋に住んでいる。

大塚智子おおつかともこ:意地の悪い女の子。志帆を1年生の時から良く思っていない女子のリーダーのような存在。石山流星と付き合っている。

岡崎凪おかざきなぎ:志帆の小学生からの親友。高校では違うクラスで志帆より仲良くなった友達ができたため、志帆とほとんど話さなくなってしまった。

永田直人ながたなおと:高校1年生の時から志帆と付き合っている。2年生では志帆と違うクラスになり、なかなか会えず遠距離恋愛に。サッカー部のキャプテンをしている。

猪俣智司いのまたさとし先生:2年2組の担任。みんなから「アツアツ先生」と呼ばれている。

1、

「おはよー、志帆(しほ)。今日は何の本読んでるの?相変わらず、本好きよね。」

「これは宮沢賢治の風の又三郎。素敵な世界観なんだよ、この人の本。」

「へえ〜。やっぱり志帆は亜香里(あかり)と違って大人の女性だわ。」

今は夏本番の7月。6月下旬の定期テストも終わってみんなだらけている時期だ。朝のSHRの時間まであと10分しかないのに教室には私と亜香里と学級委員の優菜(ゆうな)…それに今宮(いまみや)だけ。20人のクラスの5分の1しかいないわけだ。ほとんどの人がサボりかもしれない。

「そうだ、志帆!今週末にある夏祭り一緒に行こうよ!今日から学校のメンテナンスで来週末まで部活中止になったしさ。亜香里ね、転校してきてからこの村の行事に全然参加したことなくて行きたかったの!お願い、おねがーい!」

部活動が休止であるせいで私にとって退屈な毎日が始まった。一週間も美術室で絵を描けないなんて最悪の気分。運動部できついトレーニングをしている亜香里には同情してもらえないに決まっているが。それにしても、夏祭り…。私の好きではないワード。どうせクラスメイトも来るから私にとっては面倒くさい祭りなのだ。私は去年は(なぎ)と一緒に行けて楽しかった。だが、もうその凪とは全く話さなくなってしまったけど。とにかく、お祭りははっきり言って私の性に合わない。

私が固まっていると、亜香里は悲しそうな顔をした。転校してきてやっと友達ができたから、一緒に楽しむ時間が欲しい。JKらしい思い出を作りたい。彼女の心の声が顔に描いてあった。それを見たら、自分の心が折れてしまった。

「…分かった。一緒に行こう。」

「やった、やったー!ありがとう、志帆。志帆の分の浴衣も家にあるから着ようね!」

「なんで私の分の浴衣が!?」

「ふふーん。亜香里は4つ浴衣持ってるから1つ無料でレンタルするよ。好きな柄選んでね!」

浴衣…。これも私の好きじゃないワード。浴衣着たって動きづらいしそもそも着るのが面倒くさい。それでも私は目を輝かせる亜香里にお礼を言って笑顔を作った。

チャイムが鳴り、クラスを見渡すと猛ダッシュで教室に入ってくるクラスメイトたちが10人ほど。「遅刻だな、お前ら!」とアツアツ先生の怒鳴り声が遠くから聞こえる。

「せんせー!セーフっしょ、セーフ!もう教室入ったから良いじゃん!」

大塚(おおつか)はポニーテールの明るい茶髪をクルクルにして顔も化粧で華やか。スカートの丈も異常に短くてルーズソックスを履いている色白ギャル。毎日これだから目が慣れてしまった。大塚の周りには似たような外見の女子たちがいる。先生は教室に入って「ち、こ、く!」と大声を上げ、ようやく3人は黙った。

「今日は昨日話した通り、海辺で貝殻を拾いそれを使って写真立てを作成する時間だ。三年生の先輩に感謝の気持ちを持って作りなさい。1階の図工室での作業だ。時間内に終わらなかったら居残りだ。まず、今から海辺に行くから勝手な行動するなよ。」

先生が言い終わるやいなや、ギャル3人はすぐに教室を出ていった。他の金髪男子たちも3人を追って出ていった。先生は慌てて彼らを追い、また怒鳴り声を上げている。

教室に残った数名のいわゆるまともな人間は静かに昇降口に向かって海辺へ向かっていく。

「ここの高校は相変わらず変わってるよね。小学生がやる図工みたいなことするんだからさ。」

「そうだね。まあ、進学校じゃないから人生の経験値を上げるみたいな感じかな。」

「なるほど、亜香里にはなかった考え方だわ。…ねね、亜香里、夏祭りに水色の浴衣着ても良い?」

亜香里は本当にお祭りを楽しみにしているみたいだ。私は大きくうなずいて嬉しそうな彼女の横顔を眺める。こんなに喜んでくれたなら何よりだと私は自分の決断を肯定した。

海辺に着くと、1組の人たちがたくさん海辺にいて私はドキッとした。どこかにあの人もいるのかと思うとひやひやしてきたのだ。あの人、というのは私のボーイフレンドの永田直人(ながたなおと)。高1の夏の終わりに告白されたのだ。私も入学してから気になっていて、よく一緒に話していたのでお付き合いすることにした。噂で聞いた話だが、彼は高1の春に別の女の子に告白したが振られてしまったらしい。ルックスも体格もなかなか良い彼がどうしてだろうと疑問に思ったのを覚えている。当初は一緒にレストランに行ったり学校から帰ったりしていたが、今は違うクラスでLINEでしか話していない。だから直接会ったり見たりすると何だか緊張してしまうのだ。

「綺麗な貝、発見!志帆も早くとらないと無くなっちゃうよ?」

亜香里の言葉を聞いた瞬間、近くにあの人らしき後ろ姿を見つけてしまった。私は反射的に亜香里の手をつかんで遠くの方まで早足で移動した。

「ちょっとちょっと、急にどうしたの!?綺麗な貝あったのよ。」

「あ…ごめんごめん。なんか人が多かったからここならもっと良い貝あるかなって。」

「それならそうと言ってくれればいいのに!もう、志帆ったら!びっくりさせちゃって。」

亜香里はニヤニヤ笑ってまた貝を探し始めた。どうにか場を上手く切り抜けたが、自分でも自分の行動に驚きを隠せなかった。彼から逃げてしまった。どうしてだか自分でも分からない。海の潮風のにおいが鼻に入り、夏の訪れを改めて感じる。騒がしい声が遠くから聞こえるが、周りには私たちしかいない…と思いきや。

「志帆、あそこ見て。今宮くんいるよ。」

亜香里の指さす方向に目をやると、1人で海を眺めている今宮の姿があった。手に持った袋はパンパンで貝をたくさん採ったものとみられる。身長は低めで若干ぽっちゃりしている彼は雪のように白い肌をしていた。

「今宮くんっていっつも1人よね…。あんな風にはなりたくないな。孤立しちゃってるもの。それに、今年の春に聞いた話だとね、彼ってテニス部退部したらしいのよ。県大会を控えてた時期だったのに自分勝手な行動だったみたい。だから友達もいないわけね。」

そんなにひどく言わなくても良いじゃないか。それは他人から聞いた話で今宮自身から聞いた話じゃないでしょ。それに1人でいて何が悪いんだ。1人でいたって誰かと毎日群れるより良いじゃない。私は心の中で呟いたが、何も言えずに今宮を見つめた。亜香里は都会っ子だからそういう考えなのだろうか。人には人なりの考え方がある。でも、少なくとも根拠のないことで人を悪く言うのは良くないと私は思った。

「そろそろ図工室行けよ!そこの3人も早くこっちに戻れ〜!」

アツアツ先生が叫んだせいでみんながこちらに目線を送ってきた。私はあわてて亜香里の後ろに隠れる。亜香里が返事をして、みんながようやく図工室に向かった。私はホッとため息をついた。

「志帆…なんかおかしいわよ。そこまで恥ずかしがり屋なんだっけ?」

「えっと、その…。まあ、そうなのかも。あんまり初対面の人と話せないから。」

冷静な返答に亜香里は安心したように笑顔を作った。前には今宮が1人で歩いている。夏の日差しを浴びて輝いている海とは正反対に私の心はどんよりしていた。

図工室に入ろうとすると、1組の男子が入り口のドアにたむろっていた。私と亜香里が入り口を塞がれて立ち往生していると、茶髪で体格のいい1人の男子がこちらに近づいてきた。私たちが後ずさりすると、彼は面白そうにこちらに詰め寄ってくる。

「君さ、2組の亜香里さんだよね?写真で見るより実物の方が可愛いな。」

「やめろよ、岸田!ナンパかよ!」

周りの男子がニヤニヤして楽しんでる。亜香里はうつむいて彼と目を合わせないようにしている。私は後ろにいてどうすればいいのかよく分からないまま。周りの男子は飽きたのか図工室に入っていった。

「美人さん。お顔、上げてくれないか?…おい、聞こえてるだろ。」

震えている亜香里の肩に彼が手を乗せてきたので、私はつい彼の手を叩いた。茶髪野郎は驚いたように私を睨む。獣の眼差しだ。

「今叩いたの…お前か?あん?」

茶髪野郎の目が子ウサギを狙うオオカミの目に見える。私は思わず後ずさりした。

とその時、後ろから凛とした綺麗な声がした。

「俺だ。」

私と亜香里は恐る恐る後ろを振り向く。そこには…さっきまで前を歩いていたはずの今宮がいるではないか!

私と亜香里は目を見合わせる。オオカミは珍しい獲物を見つけて糸くずのような目を見開いた。今宮は髪で目が隠れていて表情はよく分からないが、ただただ突っ立っていた。

「何だ、このチビ。影薄くて、いたのも気付かなかったぜ。覚悟はできてるんだろうな…?」

私は今すぐ真実を伝えたかったが、亜香里が私の腕を引っ張って図工室に入ってしまった。私たちは放心状態で空いている椅子に座り、貝をテーブルに置いた。亜香里はまだ身体が震えている。私は背中を擦って彼女を落ち着かせながら、自分の心も落ち着かせるのに必死だった。

「あ…亜香里?大丈夫?」

すると、彼女は涙を流して私を見つめてきた。私は彼女の泣き顔をできるだけ隠すように彼女の肩に手を組んだ。

「志帆がいてくれてほんと良かった。私、すっごく怖くて怖くてたまらなかったの。」

「いや…私、怖くて何もできなかったよ。ごめんね、亜香里。ほんとにごめん。」

彼女は大きく首を横に振って私の肩に顔を押し当てた。ただ、私は今宮のことが気になって気になって仕方がなかった。あのままだとボコボコにされてるに違いないのだ。でも、泣きくずれている亜香里を置いて今宮のところには行けない。

「あれ、亜香里ちゃん?大丈夫?泣いてるの?」

よりによって、大塚に見つかってしまった。彼女は私に見向きもしないで亜香里に優しく声をかける。亜香里は涙を拭いて「大丈夫。」と笑って見せた。

「志帆ちゃんさ、亜香里ちゃんのこと泣かせないでよね?いつもみたいによく分からないこと言って亜香里ちゃん本当は嫌なのよ。マジでひどいわ…。」

大塚はこう言い放つと、何もなかったかのように自分の作業に戻った。私は彼女のことを人間だと思わないようにしている。彼女は人の心を持たない意地悪ロボット。不平不満しか出てこないように設定されてるみたい。

亜香里はやっと落ち着いて写真立て作りを始める。彼女は今宮のことはどうも思わないのだろうか。私は気が気でない。彼がたんこぶだらけ…いや、血だらけでいたらどうすればいいのか。全部私のせいだ。

「あのさ…もしかして志帆?」

突然前から話しかけられて私はすぐに顔を上げた。そこには…なんと永田直人がいるではないか!

私は自分の顔が真っ赤になるのを感じながら小さくうなずいた。

「会うの久しぶりだな。…新しいクラスには慣れたか?」

亜香里が不思議そうに彼と私を交互に見る。私は後ろを向き、大きく口を開けて「ともだち」を口パクで見せる。彼女は納得したようで作業に戻る。私は彼の質問にすぐ答える。

「えっと、まあまあかな。…あ、私お手洗い行ってくる。」

私は逃げるように図工室を出ていった。とにかく今は今宮のことで頭がいっぱいだ。私は廊下をキョロキョロしたが、やっぱり見当たらない。不安で押しつぶされそうになると、昇降口からゲラゲラ笑う男たちの声が聞こえて私はすり足で掃除ロッカーの裏に隠れた。恐る恐る様子を伺うと、さっきの狼男とその仲間たちが今宮を囲んでいるのだ。典型的ないじめの風景。獣たちは白兎に向かって牙をむき出しだ。今宮の顔には傷がたくさんある。私は口を抑えて泣きそうになるのをぐっとこらえた。このままじゃ今宮は本当に死んじゃうかもしれない。

「よっしゃ、あとは回し蹴りしたら血吐いて死ぬんじゃねえの。対抗すらしねえ、この弱虫デブが。」

「し、死ぬ!?」

口を抑えたが、もう遅い。つい悲鳴のような声を上げてしまった私は逃げる場所もなくただただ心に冷たい風が吹いてきた。獣たちは「誰かいるぞ。」とこちらに近づいてきている。私はいつもの冷静さを完全に失った。

徐々に獣の足音が近づいてくる。その時、「うわあ!」と男たちの悲鳴とばたっと倒れる音が聞こえた。私は何事だとロッカーから様子を見て目を疑った。なんと、傷だらけの今宮が男たちを次々と倒していたのだ!何という身のこなしよう。慣れた手つきで大柄の男たちをどんどん倒していく。白うさぎがシロクマに変身しちゃった?シロクマってオオカミより強い?…いや、そんなことはどうでもいい。私は全員の男子を瞬殺した今宮を見つめ、彼は何事もなかったかのように涼しい顔をしている。髪の隙間から今宮の目が見えた。目の下にも傷がある。彼は無言のまま早足で図工室に戻ろうとした。私のことが見えていないのか。

「今宮くん、待って!」

彼は振り向きもせずに足だけ止めた。私が彼に近づくと、彼はぼそっとつぶやいた。

「東江はケガ…ないか?」

彼の決して大きくはないのに良く通る声。私は彼の言葉を聞いた瞬間、自然と涙が頬に伝った。どうしてこの状況で人の心配ができるのか。そんな、そんな傷だらけの顔で、どうして…。シロクマはゆっくりと後ろを振り向く。私はすぐに涙をぬぐって大きくうなずいた。彼は少しぷっくらした頬を上に上げ、口元だけ笑顔を見せた。

「今宮くん…本当にごめん。ケガがひどいから保健室に行こう。早く手当てしないとばい菌入っちゃう。本当にひどい傷で…。」

「俺が勝手にやったことだから東江は気にすんな。保健室は俺一人で行けるから早く写真立て終わらせて。終わらないと今日居残りみたいだから。そんじゃあ。」

彼は階段を上って2階に行ってしまった。私はしばらく突っ立っていたが、すぐに図工室に戻った。すると、図工室にはもう亜香里と永田しか残っていなかった。2人は楽しそうに話をしていて、永田が亜香里の隣に座りだした。彼らの話し声が自然と耳に入ってきてしまう。

「なおくんは志帆とは高1からの友達なんでしょ?志帆ってほんとに大人っぽくて素敵な人だよね。」

「ああ。友達だよ。静かだからあんまり存在感はないけどね。あかりんみたいに明るくもないし地味な子。あ、今言ったことは内緒にしてくれよな?」

「ちょっと。そんな言い方、ひどいわ。冗談…でしょ?」

「あ、ああ。冗談、冗談。そんなことより、あかりん一緒に帰ろうぜ。」

「志帆…どこ行っちゃったのかな。一旦学校探してから帰ろうかしら…。なおくんは先に行ってて。」

「待って、今LINE来ててさ。バイトの時間忘れてたから先に帰ったって。亜香里に伝えてくださいって書いてるぞ。」

「そうだったのね!バイトの時間忘れるなんて、志帆にしては珍しい気がする。私、スマホの充電なかったからなおくんに伝えてくれてて良かった。」

2人の足音が近づいて2人は部屋を後にした。私は涙で濡れた顔をふせて壁にもたれ、すぐにしゃがみこんだ。立てなかった。足に力が入らなかった。

あかりん?なおくん?なんでそんな呼び方をしてるんだ。彼の言葉が脳内で何度も繰り返される。

”ああ。友達だよ。静かだからあんまり存在感はないけどね。あかりんみたいに明るくもないし地味な子。”

”待って、今LINE来ててさ。アルバイトの時間忘れてたから先に帰ってしまったって。亜香里に伝えてくださいって書いてるぞ。”

私は今日彼に一度もLINEしてない。彼はでたらめを言って亜香里と一緒に帰りたかったんだ。

友達…。私は彼にとって友達だったんだ。彼からもらったたくさんの手紙を思い出した。

ー俺は志帆に出会えて良かった。高校卒業しても一緒にいたいな。

ー志帆のこと、好きすぎてどうすればいいかな。ずっと頭から離れない。志帆は存在感があり過ぎて他の人に取られないか心配になっちゃう。ほんとに明るくて可愛い。

1か月前の手紙にもこんなことが書いてあった。それを読むたびに私の心がどれだけ弾んで鼓動が早くなったことか。彼にどれだけ会いたくてたまらなかったか。

でも…でも…ぜんぶ嘘だったんだ。

私は自分がなんて馬鹿だったんだろうと頭を抱えた。あんな浮気性なクソ男にだまされたなんて。元々私のことなんて好きじゃなかったんだ。こんな私を好きになる人なんていないんだ。悔しくて悔しくて涙が止まらなかった。もうこっちから別れを告げてやる。LINEを開くと、彼はLINE友達にいなかった。おそらくブロックされたのだろう。あっちも別れたいんだ。私はいつの間にか走り出して学校の外に出た。自転車を駐輪所から取って、涙でぐちゃぐちゃな顔で潮風を浴びながら寮に向かった。いつもはキツイ上り坂も今日は全然苦にならなかった。

いつもより早く寮に着くと、なんと寮の駐輪場に今宮がいたのだ。私よりも先に帰ったというのか。少し離れて彼を観察していると、彼は自転車の鍵を上手く刺せずに苦戦しているようだ。彼は突然背伸びして肩をぐるぐる回し始めた。私はまたまた目を疑ったが、彼はそれをすると一発で自転車の鍵を差し込んだ。

謎だ、あまりにも意味が分からない。

私は今宮を見つめていたら、また涙が止めどなく出てきた。気配に気付いたみたいで彼は驚いたように後ろを振り向いた。彼は何も言わずに号泣している私を凝視していたが、ゆっくりと私の前に来た。

「東江は毎日大変そうだよな。いろいろ苦労してるだろ。」

ティッシュを差し出した彼の手には三枚の絆創膏が貼られている。私はキョトンとして彼の顔を見る。顔にはガーゼが複数枚貼られていた。傷だらけだ。

「なんて言えばいいか分からないけど…あんまし1人で抱え込むなよ。これ、あげるから涙拭いて。」

私はティッシュを受け取った瞬間、胸が熱くなるのを感じた。今宮ってこんなにあったかい人だったっけ。こんなに慰め上手な人だったっけ。彼は手を振って部屋に行こうとしたので、私は「今宮くん!」と叫んだ。彼が首をかしげたので、私はずっと気になっていたことを聞いた。

「どうして私を助けてくれたの?そこまで仲いいわけでもないのに。別に無視しても良かったんじゃないかなって思って…。」

「俺はそういう人だから。」

オレンジ色の夕日に照らされながらぼそっと呟く。

「そういう…人?」

「傷つくのに慣れた人間。…じゃあ、俺バイトだから。」

私は呆然として彼の後ろ姿を見送った。自転車を倒しそうになって急いで駐輪場に自転車を止める。彼の口から出た意味深な言葉。私は自分の部屋に入っても今宮のことが気になって仕方がなかった。彼は目がほとんど見えないから感情が分かりずらい。声も毎日ほぼ一緒だし。それは当たり前か。私は一体何を考えてるんだろう。

とりあえずあいつからもらった手紙をはさみで切ってゴミ箱に捨てた。毎週日曜日に楽しみにしてた手紙たち。家のポストを見ても自分がニヤニヤしながら手紙を受け取っていたのを昨日のように思い出す。

もう二度と恋愛なんてするものか。私は心にこう誓った。

それと同時に…私は三年生に向けての写真立て作成を完了していないことに気付いてしまった!今日居残りしてでも完成させないといけなかったのに。もうこんな時間で学校は閉まってしまった。何もかも上手く行かない。私はテーブルに突っ伏して夕食も食べずにそのまま眠りについてしまった。


2、

翌朝、寝坊した。髪に寝癖がついているがそんなのはどうでもいい。どうせ誰も見てないから。写真立ても完成させていないのに加えて遅刻までしたらいつもは私には甘いアツアツ先生も大爆発するだろう。私は自転車を力強く漕いで、なんとかギリギリ教室に入ることができた。

「志帆、今日寝坊したでしょ?バイトで疲れすぎたんじゃない?」

息を上げながら私は亜香里に苦笑して椅子に座った。教室には10人弱のクラスメイトしかいない。珍しく学級委員の優菜もいない。今宮の髪がいつもよりもボサボサなのが不自然だ。すると、アツアツ先生が入ってきていつものように大声をあげた。

「今日はパソコン学習をした後、野外活動に行く予定だ。休みが目立つが、クラスメイトのほとんどが漁師生活体験学習に行ってるから今日は少人数だ。…東江!今宮!2人、ちょっと廊下へ。」

私は先生から何を言われるのか予測できていた。だが、今宮と一緒となると昨日の騒動だろうか。そしたらなぜ亜香里を呼ばないのか。反省した顔色で廊下に出ていくと、先生は白い歯を見せて大爆笑した。目を最大限に開けて先生を見る私と無表情の今宮。

「2人とも。なんで俺が呼び出したか分かってるようだな。」

今宮に目をやるが、彼の目元が見えないので私は様子を伺うことができない。

「えっと…写真立てのことですよね?昨日は作成しないで帰ってしまってすみませんでした。」

お辞儀して謝罪すると、先生はキョトンとして私を見ている。今宮も私の方を向いている。動揺を隠しきれない。写真立てのこと…じゃないのか?それ以外に何があるというのか?先生が今宮に視線を送る。

「野外活動のことですか?」

今宮の問いかけに先生は満足したように大きくうなずく。私は2人を交互に見て目をぱちくりさせた。先生は「写真立てね。もう数が足りたから気にすんな。」とウィンク。私は苦笑するしかできない。

「2人は俺のクラスの中で1番信頼できる生徒なんだ。そこで、2人に重大な任務を頼みたいんだ。」

「重大な…任務?」

「これからの野外活動で海辺の清掃をしてくれ。」

私はまるで大阪の芸人のようにずっこけるところだった。隣の今宮は至って冷静だが。先生はなぜか嬉しくたまらないらしく「よろしく!」と言って職員室に入ってしまった。何が重要な任務だ。やっぱり写真立てを作らなかった罰ではないのか。教室から亜香里が出てきて気の毒そうに私たちを見つめた。今宮は相変わらず無言のまま教室に戻った。


「パソコンの授業楽しくてあっという間に終わっちゃった。」

「あーあ、これから志帆は今宮と2人でゴミ拾いか…最悪だね。志帆と野外活動したかったな。」

亜香里は悲しそうにため息をつく。でも、私は全然最悪だと思ってない。今の状況では亜香里と野外活動をする方が最悪だ。昨日のことを思い出すと吐き気がしてくる。

「それよりさ…昨日のことなんだけど、私のことを今宮が助けてくれたんだよ。すごく強くてあの男子たちを一瞬でやっつけてたんだ!」

「ええ、あのちょいぽっちゃり今宮が?ありえない!それ絶対見間違いよ。」

「はあ…?本当だって、本人に聞けば分かるよ。」

「亜香里、今宮とは話したくもないない!じゃあ、今宮との二人きりの時間を楽しんで。」

ほんとに自分勝手な女。あんなチンピラ男から今宮が助けてくれたからあなたは無事だったのに。私は諦めがついて彼女に手を振った。

学校の昇降口の隣にある倉庫から大きなゴミ袋を数枚とトングを持って海辺に向かった。平日のお昼に海に来る人はほとんどいない。いや、今は私しかいない。あの今宮ももしかしたら来ないかもしれない。太陽の光を浴びて蒼さを引き立たせる大海原。引いたり押したりを繰り返す波の音。この大きな大きな海を私1人で独占しているような、何だかこの世界の支配者になったような錯覚を覚えた。ダメだ、そんなの自分の身の丈には合わない。こんな地味な女子高校生、どこにいるんだろう。こんな孤独な女子高校生、どこにいるんだろう。全国を歩き回っても、世界を見渡しても、きっといないだろう。私はどこまでも続いている水平線を眺め、潮風の匂いが私の想いをより一層素直にさせてくれることに気付いた。

海の前に立つと自分の弱さをさらけ出したくなる。その理由はよく分からないけど。

「東江…?」

後ろから鈴のような綺麗な声。潮風が今宮の髪をたなびかせて彼の片目が見え隠れした。彼の目は透き通っていた。目の奥まで純粋に透き通っていた。一瞬見ただけでも彼の茶色の瞳が彼のすべてを語っているように思えた。それを知って心から安心している私がいる。涙が出てきそう。

「あのさ…ゴミ拾いするとこ、役割分担した方が効率的かなって思ったんだけど、どうかな?」

風が収まりいつもの目なし今宮に戻る。私は小さくうなずく。彼は「じゃあ俺、右側行くから東江は左側からよろしく。」とクールに呟いて早速歩いて行った。昨日の優しさ全開の今宮はどこに行ったのか。まるで別人みたい。私はあまり気にしないで左側に歩いて行った。浜辺にゴミなんてあんまり見たこと無い。じーっと砂浜と睨めっこしていると、思った以上にゴミが多くて驚いてしまった。お酒のビン缶、プラスチックの破片にペットボトル、使う目的のよく分からないロープ、潮風で飛ばされたまま壊れてしまった帽子らしきものまで…。あっという間に大きなゴミ袋が満杯になってしまった。今宮はどうしてるんだろう。横目で見てみると、彼はもうすでに大きなゴミ袋3袋を満杯にしていた。彼のごみ拾いのスピードと言ったら!まるでゴミ自身が居場所を教えているかのように無駄なく拾っている。私は居てもたってもいられずに彼の元に走っていった。

「今宮くんって…ゴミ拾いのプロ!?こんな短時間で3袋なんて。」

「俺がすごいというより、落ちてるゴミがそうさせるんだ。あまりにも多すぎて。ゴミなんてほとんどないと思ってたのにな。」

横顔から彼の鼻の高さがよく分かる。私がつい見つめてしまうと、彼がこちらを向いたので目線をそらした。彼ははるか遠くを見るように空を見上げた。雲一つない快晴だ。

「人間の心もこの空みたいだったらいいのに。永遠にとは言わなくても。せめて、一瞬だけでもさ。」

彼の言葉を聞いたらまた声をあげて泣きたくなった。今宮は独り言を言ったみたいだ。私もこれでもかと美しい青空を眺める。私と今宮はしばらくの間何も言わなかったけど、無言でもそれで良かった。無言でも一緒にいられたのだ。いい雰囲気だったのに、私のお腹がグルグルと大きな音を出して極度の空腹であるとバレてしまった。今宮はふふっと笑って私に言った。

「東江は腹の中に怪獣でも住まわせてるのか?」

唐突に少年になった彼に目をパチクリしてしまったが、慌てて返答する。

「今宮くんったら、何言ってんの。お腹空いてるの今まで我慢してたんだよ?」

「実をいうと、俺も腹ペコだった。いいもん知ってるから付いてきて。」

「でも…ゴミ拾いまだ終わってないでしょ?」

「いいから。先生に怒られたら俺のせいにすればいいんだよ。」

特別楽しい事をしているわけでもないのに彼はニコニコしながらそう言って、ゴミ袋を持ちながら海辺を去っていく。仕方なく私も付いていくことにする。でも、何だか胸がざわざわしてそれがどんな感情なのかよく分からなかった。彼は海辺の駐輪場に自転車を停めていたらしい。ゴミ拾いが終わったらすぐに帰れるようにしてたみたいだ。彼はゴミ袋を樹木の陰に置いて、自転車の鍵をポケットから出した。彼は自転車にまたがり、私を見た。私が首をかしげると、首だけくいっと動かして「乗れ。」と言わんばかりにしている。私は何につかまって乗ればいいのだ。まさかドラマでよく見るように前の人に抱きついて乗るというのか。私がためらっていると、彼はかごに入っていたヘルメットを私に差し出す。

「いや、そういう問題じゃなくて…。」

「東江、自転車乗るの怖いんじゃないの?」

「二人乗りしたらダメじゃないかなって思って。何というか、色んな意味で…。」

「たしかに法律的にはダメかもだけど、そんなに長い距離じゃないから大丈夫。俺にちゃんとつかまって乗れば落ちっこないから。」

これ以上話をしても彼には何も伝わらないような気がしたので私はヘルメットを被って彼の後ろに乗った。お腹が減って仕方がなかったから。俺にちゃんとつかまれば…その発言で私の言いたかったことを分かってくれ、この鈍感な少年め。今宮が自転車を漕ぎ始めて恐る恐る彼にしがみつく。こんな自分が役者さんがドラマでやってることをする日が来るなんて。彼のウエストがかなり太く感じられて私は目を丸くした。彼は私に触られて嫌じゃないのか。逆に…私は今宮を触って嫌じゃないのか。私は何だか平気みたいだ。

夏の熱い風が私たちを優しく包み込む。彼は無言でただただ自転車を漕いでいる。私は彼の自転車の漕ぎ方が好きだ。私たちは海から離れ、森の近くの小道に入っていく。こんな道があるのを初めて知った。

「今宮くん。ここって…立ち入り禁止じゃないでしょ?」

「俺は入っていいって許可されてるから。この森の主に。」

なんだこの少年は。高校二年生が言うセリフじゃない。森の主ってまさか動物のことじゃないよね。私は彼の後ろ姿を見つめることしかできなかった。

彼は小道がなくなったところに自転車を停めた。四方八方、背の高い木しかない。私が自転車を降りて不安げに彼を見ると、彼はいつもの無表情で真っ直ぐ歩き始めた。森の中を早足で付いていくも不安は高まるばかり。声を掛けようとすると、一気に道が開けた。今宮は前を指さした。

「着いた。ここが俺の本当の家。」

指先に合ったのは…何本かの竹で出来た手作り感満載の小さな部屋だった。絨毯、布団、料理キット、ちゃぶ台、たくさんの本、オレンジ色のランタン、ラジオ、スケッチセット。まるで秘密基地みたいだ。私は部屋に近づいて彼に目をやった。

「今宮くん…私も住んでいるあの寮じゃなくてここに住んでるの?」

「平日は学校あるから寮に住んでる。でも、休みの日とかはここに来るよ。」

「これは自分で竹を持って来て…?いつからここに?」

「バイト先の人が優しくて竹をくれたんだ。それで自分で設計して作った。多分、高1の夏だよ。…いや、絶対そうだった。」

彼は今まで見たことないほど嬉しそうだった。あどけない少年そのものだった。すると、私の足の下にもこもこした感触を覚えた。私が驚いて下を向くと、そこには可愛らしいこげ茶色のリスが一匹立っていた。私はハッとして彼に叫んだ。

「も、もしかしてこのリスが森の主?」

彼はためらいもなくうなずいてリスを抱き上げた。リスは今宮に随分慣れ親しんでいる様子だ。彼は部屋からドングリを二個取ってきて、リスに与えた。まさか森の主がこんな小さなリスだなんて。しかもそれを全く恥ずかしがらずに言っちゃうのか。笑顔でリスをなでる彼まで小さなリスに見えて、慌てて目をこすった。

「あ、食べもんならあるから安心して。俺が作った具なしラーメン。」

「具なし…?というか、いつの間にラーメン作ってたの?」

「ゴミ拾いに行く少し前。スープだけ作ってたんだ。」

「ああ…だからちょこっと遅れてきたのか。」

私の声なんて気にせずに彼はラーメンをどんぶりによそって割りばしと一緒にちゃぶ台に置いた。私は違和感を感じながらも「お邪魔します。」と言って彼の部屋に入った。部屋の真ん中に置いてあるオレンジ色のランタンがムーディで気に入った。私は麺と黄金のスープだけの寂しいラーメンを見つめた。湯気の臭いをかぐと昆布のだしの良い香りが鼻を通った。彼も前に座って「いただきます。」と手を合わせる。私はちぢれの細麺をすすって思わず言葉を失った。なんだこのラーメンは。具なしとは思えない味の深さ。このおいしさは食べてるこの空間のせいなのか。それとも…。

「そんなに高くないバイトの給料だからこんなもんしか作れなくてさ、悪いな。」

必死にラーメンを食べていると、今宮が頭をかいてそう言うので、私は大きく首を横に振った。

「ううん。ラーメン減らしちゃってこっちこそ悪いよ。このラーメン、最高に美味しい。一番かも、今までのラーメンの中で。」

「お世辞がうまいな。でも、俺もこれうまいと思う。我ながらこのスープは頑張って作ったなって。」

「…これ、今宮くんが一から作ったの!?市販じゃなくて?」

驚く私を見て彼は恥ずかしそうにうなずいた。私はますます彼が分からなくなった。とりあえずラーメンを食べ干して私は一番気になっていたことを聞いた。

「ねえ、どうしてここに私を呼んだの?ここは今宮くんにとって秘密基地でしょ?」

彼は一瞬ためらったが、無表情のまま答えた。

「東江に知って欲しかったから。」

意外な言葉に私は何と返答すればいいのか分からない。なんで私に知って欲しかったのか。気になって仕方がなかった。でも、それを聞いていいのかそれすら判断できない。少し沈黙ができると、彼は突然うつ伏せになった。小鳥のさえずりが聞こえて、木の葉がこすり合う心地よい音が聞こえる。

「ここ、気持ちいいでしょ?何もかも忘れられるよね。」

確かにこの場所は空気が澄み切っていて雑味一つもない。ただここにいると自分が悩んでいた全てのことがちっぽけなものに思える。

「あの…どうして私なんかに知って欲しいと思ったの?」

私が言いづらそうに質問すると、彼は身体をあげずに即答した。

「こういう場所があるって伝えたかったからね。」

どういうことなのかさっぱり分からない。私の質問の答えになっていない。私はどうしても今宮の言うことをすぐに飲み込めない。今宮でなく、私が鈍感すぎるのか。私が悔しくて黙っていると、彼は話をつづけた。

「人間ってさ、何からも束縛されないで解放される場所がないと生きていけないと思うんだ。毎日変わり映えのしない毎日を過ごして、本当は一緒にいたくない人たちとも一緒にいないといけなくて、ストレスばっかり。それぞれ自覚はなくてもね。」

こんなに今宮が話をするのは初めてだ。彼は表情も声色も変えないでまた話をする。

「現実逃避してはダメって言うけど、1人で考える時間は大事だと思う。自分自身を見つめ直すんだ。今自分が何を思って、何で悩んでるのか。乗り越えるためにはどうすればいいのか。はっきりした答えが見つからなくても、方法を探すことはできる。」

彼はようやく体を起こして私に微笑みかけた。

「人生は正解のない問題だらけだからな。」

今宮はおそらく高校生じゃない。彼は一体何者で何を経験してここまで生きてきたのか。私は初めて見えた彼の両目を凝視した。彼の茶色の瞳。外国人のようなキリッとした瞳があまりにも透き通っている。今まで会ってきた人たちには一回も見たことがない瞳だった。彼には何も敵わない気がした。

「東江も辛いときはここに来なよ。ここはいつでも東江を待っている場所だから。」

自分でも分からないもやもやした感情が生まれていた。彼は私が人間関係で悩んでいることも孤独を感じていることも生きることに疲れ切っていることも全て分かってるみたいだ。そこまで私のことを、人前で感情をあまり上下させない私のことを知り尽くしてるなんて一周回って恐怖を感じる私がいた。私は次第に彼といるのが怖くてたまらなくなった。今すぐここからいなくならない、と。私は震える声で彼に言った。

「私に…私にこれ以上近づかないで。」

私は今宮の顔を見ることができずうつむいていた。彼の悲しい顔を見たくなかったから。でも、彼に何か言われる前に最後に思いもしないことを大きな声で言った。

「今宮くんは…変だよ。私、なんか怖い。信用もできない。だから…私もう帰る。追いかけてこないで。」

立ち上がって部屋を出て、しばらくのろのろと歩いた。どこからかカモメの鳴く声が聞こえる。今宮は私を止めなかった。何も言わなかった。止めに来て欲しかった。行かないでそばにいてほしいと言って欲しかったのに。いや、自分から彼との関係を絶つようなことを言ったのに私は何を考えているのだろう。これでいいのだ。

だって私、もう少しで今宮のことを…。彼のことを…!

森を出て猛ダッシュで海辺に向かった。こんなに走ったのは久しぶりだ。彼が自転車で走ってきたらと思う恐怖と自転車で来て欲しいという期待が入り混じっていた。ゴミ袋を置いた場所につくと、アツアツ先生が立っていて目を丸くした。思わず絶句してしまう。先生は険悪な表情で私を見た。

「今宮の奴、信頼してたのにゴミ袋捨てなかったみたいなんだ。お前はお腹が痛くなって家に帰ってたみたいだから仕方ないが、あいつは叱らないとな。…ところで、今宮はどこだ?一緒にいなかったのか?」

頭の整理が追い付かない。お腹が痛い?家に帰った?今宮がゴミ袋を捨ててない?知らないことだらけだ。

「あの…先生。その話は誰から聞いたんですか?」

「亜香里からだ。今宮がゴミ捨てをサボって、ガールフレンドらしき女と遊んでたらしい。少し前に二人の様子を見ようとして来てみたらそうだったってよ。今宮も年頃の男の子だからな…。」

唖然として言葉も出ない。亜香里はなぜそんなでたらめを言ったのか。

「先生、それは誤解で…。」

「まあまあ、東江は家に帰ってゆっくり休みなさい。先生は1回学校に戻る。他の生徒はみんな帰ったから、もし今宮に会ったら伝えておいてくれ。今日はほんとに助かったよ。2人の荷物はそこに置いておいたから。じゃあな。お大事に。」

私は動揺したまま先生の背中を見送った。許せない。今宮がそんなことをする人に見えてるなんて。今宮より亜香里なんかが言うことを信じるなんて。今宮は毎日学校に来て真面目に授業を受けてバイトもして…必死に生きている誠実な人なのに。それなのに、なんでみんな今宮を信じないんだ。なんでみんな彼を嫌うんだ。私には全く理解できない。

力が抜けて膝から崩れ落ちた。悔しくて悔しくて泣いて泣いて泣いた。声を殺して泣いた。どうしてこんなに彼のせいで泣いてるんだろう。自分には何一つ被害もないのに。でも…今宮のことになると自分のことのように、いや、自分のこと以上に悔しくて悲しくなる。

「東江…?今度は何で泣いてるんだ?」

ハッとして振り向いた。彼は来てくれたんだ。ヘルメットを脱いで少し乱れた髪形で不思議そうに私を見ている。突然彼を抱擁したくなったが、ぐっと我慢して涙を拭く。

「さっき先生にここで会ったの。そしたら、亜香里が…今宮くんがゴミ捨てサボって女と遊んでたって先生に嘘ついてたの。私はお腹痛かったから家にいて仕方なかったって。今宮くんが全部悪いことにしたんだよ。先生、すごく怒ってて…。」

私がさらに泣きそうになると、彼は私の肩に手を乗せた。

「良いんだよ。そんなの気にしないから。俺がサボるように仕向けたんだし…。」

「バカ!」

私の怒鳴り声に彼は口をつぐむ。

「分からない?亜香里は今宮くんが彼女と遊んでる人だって他の人に言いふらすに決まってるの!そしたら、大塚たちもそれを知って、クラスのみんなであんたのこといじめるかもしれないんだよ?それで、学校来れなくなったらさ…。」

私はここまで言ってついに認めてしまった。

私は彼のことが気になり始めている。気になって気になってたまらなくなっているんだ。彼のことが心配で仕方がない。彼に会えなくなるのが嫌だ。彼が悲しむ姿を見たくない。でももう私は心に決めたんだ。恋愛などしない、と。まだ失恋したばかりじゃないか。しかも、あんなに好きだった人にひどい別れ方をされた。死ぬほど心が痛んだではないか。死ぬほど彼を恨んでいるではないか。もし今宮を好きになってしまったら同じ末路を迎えることになるかもしれない。友達ですらいられなくなるかもしれない。そんなのは絶対に嫌だった。

私が黙り込むと、彼も何も言わなかった。大人な彼は私の思考が全て分かっているのだろうか。いや、恋愛には全く興味がなさそうだ。過去に彼女はいたのか、それとも今いたりして…。

「帰ろう。もう夕方だ。明日も学校あるから休まないと。」

今宮は良く通る声で呟いて、ヘルメットを私に渡した。私は荷物を持って彼の後ろに乗った。

彼は無表情のまま自転車をこぎ始めた。潮風が横から吹いて私たちの髪をたなびかせる。夕日の温かなオレンジ色が私たちを包んでいる。海は私たちのすべてを知っている。すべてを聞いていたから。

彼と一言も話さずに寮まで着いてしまった。私は自転車を降りて今宮は駐輪場に自転車を置いた。私はようやく口を開くことができた。

「今宮くん…。」

彼は私の方をちらっと見た。心臓の鼓動が速くなるのを感じながら私は小声で言った。

「なんか、今日はひどいこといっぱい言っちゃってほんとに…。」

「ありがとう、東江。」

「……へ?」

「俺のことあんなに心配してくれてる人がいるなんて思ってなかった。俺って、知らないうちに消えても誰にも気にされない存在だから。別に学校に行けなくなってもいじめられてもいいかなって思ってたんだ。」

今宮はやっぱりバカだ。自分を何だと思っているのか。彼もまた大きな闇を抱えているようだ。クラスで毎日一人でいる彼は今までそんなことを感じていたんだ。

「でも、俺のことは心配しないで。俺は不登校にならない。そんなことしたら、それこそあいつらに負けたみたいで悔しいだろ。」

彼はそれだけ言うと、「じゃあな。」と急いだ足取りで部屋に入っていってしまった。

彼がいなくなってから、私はしばらくその場に立ちすくんでいた。今までの時間がまるで夢のよう。今日は一日が長かった、いや密度が濃い一日だった気がする。彼は私に謝らせなかった。「ごめんね。」を言わせなかった。ふと空を見上げれば雲一つない夕焼けの快晴。時より吹く強い潮風に負けじと根を張って生きている寮の前のススキ。この空も、このススキたちも、きっと今宮そのものなのだとそう確信した。


3、

「ねーえ、みんな。今宮に彼女いるってガチ?あんなやつのこと、好きになる人もいるんだな。」

「マジそれな。どこも良いとこないわよね。まず、口のテープ剥がすことから始めないとしゃべんないもん。」

「目立たないし、デブで孤独だし…。最悪だわ~、あんなのが彼氏なんて。その彼女、あいつにはめられてんじゃないの?」

掃除が終わって先生を待っている時間。大塚の言葉にドッと笑い声が上がった。今日は朝から放課後までずっと今宮の話で持ちきりだった。デマ噂の始まりの犯人、亜香里は体調を崩してお休みだった。学校に来るのが怖くなったのだろうか。LINEの既読はつかない。あの亜香里がスマホを見ないわけがないから無視しているのだろう。全く…分かりやすい人だ。

それにしても大塚とその仲間たちのひどいところは、今宮が教室にいるにも関わらず、大声でこの話をしていること。本人に聞こえるようにわざとやっているのだ。このクラスでまともな人間は私を含め、学級委員の優菜と今宮と…三人しかいない。他の人たちは大塚にいじめられるのが怖くて嫌でも悪さをしている。私はそういう連中が1番嫌いだ。でも、それと同時に大塚たちに何も言えない自分も嫌になる。

「しかもさ、今宮ね、ゴミ捨てサボって彼女と何してたと思う?」

大塚がわざと間を作って周りの手下たちに聞く。みんな首をかしげて彼女を見つめる。すると大塚は彼女の彼氏である金髪チンピラ男、石山流星(いしやまりゅうせい)に口づけした。みんな悲鳴を上げて今宮の方を向いた。

「きもっ!想像するだけで寒気する。あんなやつの顔が近くに来たら…警察呼ぶかも!」

「それなそれな。いつも優等生ぶってるくせにきもいんだけど。マジで無理だわ。その女の子が可哀そう…。」

私は少しずつ耐えられなくなってきた。あいつらは今宮の人格を完全に否定して彼に根も葉もない汚名を着せている。世間の人が俗に言ういじめ…よりも残酷なことかもしれない。私は教科書を見ていた目を今宮に向ける。彼は1番前の席で相変わらず本を読んでいた。顔は見えないが、全く興味がない様子。想像できぬほど辛い思いをしているはずなのに平然を装っている。こんなことになったのは全て亜香里のせいだ。私は彼女への恨みが募って仕方がなかった。

「ねえねえ、志帆ちゃん。」

後ろから小悪魔のような声がした。私はいつも通り振り向かないで「何?」と尋ねる。面倒くさい女だ。

「今宮に聞いてくれる?誰が彼女なのか。今宮、志帆ちゃんとなら話すでしょ?」

「悪いけど、興味ないから。」

舌打ちをされたが気にしない。いつもこれ以上話しかけてこないから。しかしその時、大塚が目の前に来て低い声を出した。

「あなた…私の言うことが聞けないって言うの?」

その言葉で大塚の仲間たちも私を囲んできた。それでも私は絶対にひるまない。彼女の化粧が歌舞伎役者みたいで変なのを心の中で嘲笑って彼女を見つめる。

「自分がやりたくないことなら、人に言われても断るのが当たり前だから。」

「てめえ…大塚に向かってなんちゅう口きいてんだよ!」

石山は私の教科書を乱暴に床に落とし、机を蹴ってきた。こうなることは予想していた。亜香里がいない今、私の味方はクラスに誰もいない。大塚に特段嫌われている私を攻めるには好都合だ。今宮の話をしたのも私を攻撃したかったからだったのかもしれない。私は唇が震えてきたが、絶対にひるまない。

「やめてよ、りゅうちゃん。こんなにか弱い人にやったら死んじゃう。殺人罪で捕まるわ。」

周りのみんなが一気に笑い出す。

「髪を引っ張るくらいなら泣かないだろ?ほーら!」

椅子から床に落ちた私を見て、また笑いが起きた。笑え。そうやっていつまでも笑ってろ。顔を引きつらせてるのは分かってる。お前らは永遠にそんな寂しい人生を送ってやがれ。

身体を起こそうとして、石山と誰かに手を引っ張られ投げられそうになったその時。

「やめろっ!」

よく通る綺麗な声がした。石山と誰かは驚いて私の手を離し、声の主を見る。私はすぐに立ち上がった。すると、大塚が今宮の方にズカズカ歩いて行った。

「今宮くん。黙っててくれる?急にそんな大きな声出してどうしちゃったの?そんな声出るなんて驚くわ!」

大塚は彼が机においてた本を彼の身体に投げた。今宮は何も言わずに本を拾う。大塚とその仲間は今度は今宮を囲みだした。自然と涙が頬を伝っていく。教室を見渡すと座っていたはずの優菜が机の下にもぐって震えている。また今宮に目をやると、今宮が左手に一切れの紙を持っているのに気づいた。そこには太いマッキーペンで文字が書いてあった。

”関と東江は2人で遠くに逃げろ。俺が強いって知ってるよな?”

ハッとした。今宮は私が読んだのが分かったのかその紙を手で握りしめてポケットに入れた。

「てめえな、二度とその面見せんじゃねえぞ?この太っちょ豚!」

「今日が最後の日になると思え!」

私は今宮の言うことを聞いた方が良いと直感的にそう思った。私は目を濡らしながら机の下にいる優菜を引っ張り出して教室を出て昇降口に向かった。もうとにかく走るしかなかった。

「志帆ちゃん…。」

何も言わなかった優菜が息を切らしながら私にささやいた。

「ごめん…私、あなたも今宮くんも助けられなくて。」

階段を降りて昇降口に着き、やっと足を止める。私は彼女も大号泣していることに初めて気付き、無意識で彼女を抱き締めた。

「私こそ申し訳ないよ。今宮のこと助けられないでここに来ちゃったから。今宮が二人で逃げろって…さっきそう言ってくれて…言われた通りに来ちゃったの。」

彼女を離すと、優菜は目を丸くした。今宮がそんなことを言ったのかと言わんばかりの顔だ。

「今宮くんはね、あの人はあまりにも優しすぎる。ただ”優しい”んじゃなくて、”優しすぎる”んだ。あの人は自分自身を何だと思ってるんだろう。私は、私は今宮くんが分からない。」

優菜は私がまた涙を流すと、ポケットからハンカチを出して涙を拭いてくれた。彼女は遠くを眺めながら小さくつぶやいた。

「私、二年生の時からずっと思ってるの。なんでこんな高校来ちゃったんだろうって。今、クラスに不良しかいないじゃん。まともなの、今宮くんと志帆ちゃんくらいしか…いないよ。」

「優菜だってまともだよ。」

「私は…!!」

優菜の大声が昇降口に響く。立ち上がった彼女を私は見つめた。

「私はあいつらと一回も話したことないの。学級委員なのにクラスが破滅しているのを見過ごしてる。怖くて怖くて…私は自分を護衛して他の人たちのために動いてない。私はただの臆病者なの…だから人間としてまともじゃない。他人を思いやる心が消えてるんだから!」

彼女の言葉を聞いて私は自分の愚かさに気づいた。私は自分はまともな人間だと思っていた。自分は健全な判断力もあって考え方も割と大人っぽくて普通の人間だと信じていた。でも…。私も自分が中心だった。あいつらに立ち向かう勇気を持てず、クラスなんてそっちのけで自分の安全を第一にしていたんだ。優菜は自分が臆病者だと自覚して、自分は人としてダメだと嘆いている。彼女こそまともな人間の鏡ではないか。私は自分がいかに幼稚だったか思い知らされた。私が黙り込んでしまったその時、慌てた様子でアツアツ先生が階段から降りてきて叫んだ。

「ちょ、ちょ、ちょっと二人とも!教室でやんちゃ野郎たちが全員倒れてるんだ!いいから、来て来て!」

私と優菜は顔を見合わせて先生と教室へ走った。すると、クラスの不良男たちが床に横たわり意識を失っていたのだ!不良女たちは怖くなって逃げ出したのかもしれない。

「これって…全員を今宮くんがやっつけたってこと!?」

優菜が小声で言うので私は大きくうなずいた。ただ、今宮の姿がどこにも見当たらない。先生は生徒を起き上がらせて椅子に座らせている。

「二人には何があったのか教えて欲しいんだ。こんなにこいつらを倒せる人が外部から侵入してきたとなれば…事件になっちゃうしな…。このクラスでこいつらを倒せるやつなんていないもんな、不審者なのか?」

どうして今宮はいないのか。どこに行ってしまったんだろう。私は一刻も早く彼を見つけ出さなければならない気がした。

「あの…先生。私はちょっと用事があるので帰ります。優菜ちゃんから話を聞いてください。優菜ちゃん、よろしくね。」

「おい!東江、待てよ!」

先生の言葉も無視して猛ダッシュで昇降口に戻り、靴を履き替える。今宮がいるならあの場所ではないだろうか。私は自転車にまたがり、漕いで漕いでこぎ続けた。夕日が横から差し込み、空は相変わらず美しい。海は相変わらず青くて日の光を浴びてキラキラしている。こんな何も変哲もない一日なのに。私は森に入って自転車を置いた。彼の秘密基地まで必死に走っていると、木の根っこに足をつまずかせ派手に転んだ。膝から出血しているがこんなのは大した怪我でない。立とうとすると、足に力が入らなかった。今宮は本当にこの先にいるのだろうか。いや、そんなことはどうでもいい。とにかく彼の元に行くのだ。私は最後の力を振り絞って足を一歩一歩前に踏み出した。すると、前に誰かの人影が見えた。薄っすらと人らしき影が見えてくる。私は歩幅を大きくして必死に歩いた。

「…今宮くん?今宮くん?」

やっと人がはっきりした。目の前にいる彼が現実にいる人だと思えないほど神々しく美しく見えた。

「黙っていなくなってごめんな。なんでここにいるって分かった…?」

無意識…いや、反射的に私は彼を腕の中に抱えて泣いた。彼の柔らかな身体をじかに感じる。彼のにおいがする。彼の温かさを感じる。彼はしばらく固まっていたが、私の背中をとんとん叩いてくれた。

「大丈夫だよ。俺は強いって知ってただろ?あいつら、外見だけ粋がって本当は弱虫だからあっという間にやっつけちゃったよ。手加減したんだけどね。あいつらの驚く顔と言ったら…。」

彼は途中でくすくす笑って話を続けた。

「女子には流石に手出さなかったけどさ、すぐに悲鳴上げて逃げてたから当分学校来ないかもな。まあ、俺はそれで良いんだけどね。」

私は彼から離れて彼の顔を見つめた。彼の顔にはかすり傷一つなかった。私たちは部屋まで歩いてやっと座った。私は擦りむいた傷を隠すように足を伸ばした。

「空手…やってたの?」

「うん。全国大会で準優勝したこともある。」

「そんなに強いなんて!だからあんなに簡単にやっつけちゃうんだ!」

今宮は背伸びをして遠くを見るように空を見上げた。

「懐かしいな…まだ両親が生きてた頃。」

背中に電気がかかったような衝撃が走る。彼は私の膝を見て目を丸くした。

「東江、転んだのか。血出てるけど…。」

「あ…気にしないで。それより、今宮くんのご両親亡くなってるの?」

彼は部屋の棚から救命ボックスを持ってきて消毒セットと絆創膏を取った。彼が近くに座って私の膝に消毒液を垂らした。傷に染みて痛いのを我慢しながら彼の返答を待つ。彼は消毒液を拭き取って、大きめの絆創膏を貼ってくれた。

「小6の時にね。海にのまれて死んだ。」

今から五年前ーあれは確か、小学校の卒業式前日だった。大地がこれでもかと長時間横に大きく揺れて多くの人の命が絶たれたあの日。海が町を襲い、人を襲い、希望を飲み込んだあの日。私がいた小学校は海沿いじゃなかったから少し強い地震だけで大きな被害はなかったが、海沿いの地域はかなり悲惨な被害を受けた。

「俺の家は海沿いの地域にあった。あの日は俺の誕生日で、俺の両親は誕生日を祝おうと準備してた。でも…俺が家に着いた途端、地面が揺れてサイレンが鳴り響いた。俺は両親と屋根に上ったけど、波は屋根なんて軽々超えて俺はいつの間にか記憶を失った。気付いたら、がれきの上に横たわっていて夜空の星がキラキラしてた。」

あの日が誕生日だったなんて…。私は言葉を失い、彼の切ない横顔を見つめた。

「避難所生活を始めて両親を探したけど全然見つからなくて。途方に暮れていた時に遺体安置所に行くことになって、そこでやっと両親に会えた。顔の面影がほぼ残ってなくて絶対に認めたくなかったけど、服とかほくろの位置とかで分かっちゃったんだ。」

今宮の見た光景を想像するだけで胸が苦しくて息が出来なくなる。私が中学生になってから聞いた話だが、遺体安置場では一人一人遺体の顔を見て自分の親族を探すのだ。他人の死に顔を見ながら自分の死んだ親族を必死になって探す。その辛さは想像すらできない。私は掛ける言葉がなかった。

「そんで、俺は施設に預けられて里親に引き取られた。友達とも会えないまま、海から遠く離れた中学校に入っていじめられた。なんか、クラスの子が海のことバカにしてたのが許せなくて。」

「海のことを…バカにした?」

彼は救命箱を片づけて床に座った。

「総合の時間に海の汚染について考える授業をしたんだ。その時、クラスの子が海なんて汚くてもどうでもいいって大爆笑したんだ。そしたら…俺、その子に怒鳴っちゃったんだ。ふざけるなって。」

今宮が怒鳴るなんて相当頭に来たんだろうと私は想像した。

「それからクラスでいじめられるようになった。感情的になった俺が悪かったんだけど。」

「でもさ、海は今宮くんにとって…憎たらしいものじゃないの?」

私は前のめりになって彼を見た。彼はふと空を見上げる。

「俺にとって海は両親との思い出が1番詰まった場所なんだ。海は俺の故郷。俺が俺らしくいられる、そういうところなんだ。」

頭の中に幼少期の今宮が浮かんだ。母と父と手をつなぎながら、はしゃいで笑って泳いで…。三人の影が砂浜に伸びている。少年は浮き輪を持って海の中へ進んでいく。それはそれはまぶしいほどに輝く思い出だった。

我慢していた涙が一つ、また一つと私の頬に伝わった。

「だから…この高校を選んで海の近くに来た。俺から全てを奪った海が好きだから。広くてどこまでも続いている美しい海が俺を苦しめて、それでも支えてくれてるんだ。」

憎いはずだ、両親を殺した海が。大好きなはずだ、両親との思い出が詰まった海が。

矛盾しているような変な感覚が私の心に残っている。今宮の顔がまた大人になったように見えた。彼は今まで見せたことないような笑顔を作ってこっちを向いた。相変わらず口元だけだが。

「俺の話はもういいよ。…そろそろ学校戻ろうか。関が待ってるからね。」

私は胸の鼓動が早くなるのを感じて目をそらした。小さくうなずいて立ち上がった。

私たちはそれぞれ自転車に乗って海沿いの道を戻っていった。もう空は薄暗くていくつかの星が輝きを放っている。横から吹く生ぬるい潮風が心地よかった。

「今宮くん。」

彼は前を向いたまま、どうしたと言った。

「ありがとう。隠さずに話してくれて。今宮くんの話、聞けて良かった。」

今宮は黙り込んでただただ自転車をこいでいた。私は横目で彼を見たが、色白の頬がピンクに染まった気がして目を丸くした。たぶん、自転車をこいで熱くなっているだけだろう。

私たちは何も言わずに駐輪場に自転車を停めた。そして早足で教室に向かった。学校はギリギリ開いている時間。部活もやっていないので生徒は見当たらず学校は静かだった。私たちのクラスの教室だけ明かりがついている。私と今宮が走って教室に入ると、優菜が一人席に座って爆睡していた。私たちのことを待っていてくれたのだ。

「優菜ちゃん!私!志帆だよ。こんなに待たせてごめんね。」

彼女の身体を揺すると、彼女はゆっくりと目を開いた。切れ長のつぶらな瞳が私を見つめた。

「志帆ちゃん。それに…今宮くんも。二人とも来てくれるって信じてた。」

彼女は私たちの分の荷物をまとめてくれていた。私と今宮はお礼を言って、3人で教室を出た。

「今宮くん、無傷なんてすごいよ。私たちを逃がしてくれてありがとね。意外と男前なんだね。」

優菜が靴を履いて今宮を見る。今宮はそんなことないよと頭をかいた。私たちは自転車に乗って寮に向かう。

「嘘の噂を流した亜香里は今何を思ってるのかな。」

私が怒りに満ちた声を出すと、二人は驚いたように私を見つめた。私が漕ぐのをやめると、二人とも自転車を止めた。

「亜香里がこんな人だと思ってなかった。私と気が合うかというと微妙だったけど、こんなに冷淡で残酷な人だとは思ってなかった。どうしてこんなひどいことを…。」

「志帆ちゃんのためだったんだよ。」

優菜の言葉に私は唖然とした。彼女はうつむいて小声になる。

「ごみ捨てやってないので、先生に怒られてほしくなかったんだよ。だから、全ての罪を今宮くんに負わせたの。それにしてもこれは流石にやり過ぎだとは思うよ。でも…亜香里ちゃんにはそういう気持ちがあったんだじゃないかな。」

信じられない。亜香里はそこまで私のことを思っていて、亜香里はそこまで今宮のことを嫌っていたのか。いや、まさか。私のことを思ってたんじゃなく…今宮をただいじめたかったんだ。そしてクラスで目立ちたかったんだ。私は耳をふさいだようにただただ自転車を漕ぐ。

「関。それが1番の理由では…ないかもしれない。」

しばらくして今宮が口を開いた。優菜はどうしてと言わんばかりに彼を見る。

「田辺は俺のこと嫌ってたから俺を標的にさせたかったんだよ。いじめられて欲しかったんだよ。」

「今宮くんを?亜香里ちゃんが嫌ってたの?」

「だよな…東江。」

彼の言葉に私は気まずくなる。小さく首を縦に振ると彼は納得しているようだった。今宮には何でもお見通しのようだ。優菜はかなり衝撃を受けているが。

「田辺は俺のことよく睨んでたし、悪口も言ってたの聞いたことあるし。俺は何もした覚えはないけど。」

「亜香里はね、今宮くんの悪い噂を聞いてそれをすごく信じてた。そういうのが好きな人なんだよ。ちっぽけでバカな人なんだよ。」

私はぶっきらぼうに言い捨ててスピードを上げて自転車を漕ぐ。二人は慌てて私を追いかける。私たちはそれから無言でいて、寮の駐輪場まで走ってきた。私の隣に自転車を停めた優菜が突然大声で叫んだ。

「女って面倒くさーい!!」

彼女からの思わぬ言葉に私も今宮も顔を見合わせる。彼女は何かをやり遂げたような清々しい顔をしていた。彼女の言葉に私は大賛成の気分だったので、自分もつられて何か叫びたくなった。そうすれば私も少し楽になれるのかな。そんなことを思っていたら、今宮がすっかり暗くなった空を見上げてこんな言葉を呟いたのが聞こえた。

「明日は今日より少しでも良い日でありますように。」

髪の毛が風に揺れて彼の両目が久々に見える。やっぱり彼の外国人のような目はよどみのない透き通った濃い茶色。

彼の横顔を今すぐ絵に描きたいと感じた瞬間だった。


4、

翌朝、亜香里は涙目で学校に来てアツアツ先生にこっぴどく叱られた。大塚たちは学校にすら来ないで何をしているのか分からない。亜香里は泣きながら私に何度も謝ってきたので、私は仕方なく彼女を許すことにした。本当は絶交したい気持ちだったが、後から逆恨みされても怖いという気持ちが勝った。

「志帆。」

昼休みに入って亜香里は気まずそうな表情をした。首をかしげると、彼女は言った。

「今宮くんに話しかけられない…。どうしよう。」

「…は?」

「だってだって。亜香里、今宮くんのこと苦手で一回も話したことないのよ。近づくのも緊張して…。」

「いつまでそんなこと言ってるの?まだ謝ってないなら今すぐ行って来な。」

私は低い声で若干怒鳴るような口調になった。彼女は肩を縮めて、ゆっくりと今宮の方に歩いた。彼は食べ終えたお弁当を捨てに行こうと立ち上がった。

「待って、今宮くん…!」

亜香里は彼の腕を掴む。彼は足を止めて、亜香里を見た。彼女はしばらく黙っていたが、彼は彼女の言葉を待ってくれている。

「あ、あの…。えっと、その。昨日は本当にごめんなさいっ!」

直角にお辞儀をして早口で謝った。私は呆れて言葉も出ない。私にじゃなくて今宮に泣いて謝って欲しかった。なんだ、あの謝り方は。全然反省してないじゃないか。

「別にいいよ。気にしないで。」

今宮が即答すると、彼女は慌てて彼の腕を離した。彼はゴミ箱に向かって歩き出す。亜香里はすぐに私の方に来て安堵の表情。なんであんな謝り方で許せるのか、私には今宮の感情が分からない。彼の心はあまりにも寛大過ぎないか。まるで海みたいに心が広い。でも、それはいいことなのだろうか…。

「今宮くんって案外いい人ね。…そんなことより、前に話してた祭りのことなんだけどさ。」

彼女の頬がほのかにピンクに染まった。彼女のワクワクしている顔。”そんなことより”?あんなことをやったのに、頭の中は祭りでいっぱい?今宮なら何したって簡単に許してくれるんだって思ったのか?私はパンを食べながら、彼女から目をそらす。今宮が自分の席に戻っているのが見えた。

「永田直人とも一緒に行ってもいーい?」

パンを飲み込みそうになって慌てて持ちこたえる。永田直人…私を裏切った最低男だ。何も言わないでいると、彼女は照れた様子で話を止めない。

「私さ、なおくんと付き合ってて…でも、2人きりだとまだ緊張しちゃうの。私が志帆と祭りに行くって約束してたって言ったら、なおくんが志帆もいてくれたら嬉しいって。2人は親しい友達みたいだから良いわよね!」

途端に頭の中が真っ白になる。永田直人は一体何を考えているんだ。…いや、その前に私の目の前にいるこのイカレ女に強い憤りを感じて胸が苦しくなった。昨日のことはもうなかったことなのか。謝って許されたからと言って反省の色がなさすぎる。目を輝かせて話している彼女を見て思わず殴り倒したくなった。私は我慢できず椅子から立ち上がった。勢いのあまり、椅子が大きな音を立てて倒れる。クラス全員、私に注目した。

「志帆…どうしたの?」

この女は私がこんなに怒りに満ち溢れていることにまだ気付いていない。やっぱりバカだ。

「ふざけるのもいい加減にしてよ。」

私の口は勝手に動き出す。まるでプログラミングされたロボットみたいに。

「あんた、全然反省してないでしょ。今宮くんのこと、なんだと思ってる?なんでそんなに平気でいられるわけ?あんたは自分がしたことがどれだけ卑劣なことだったか分かってない。あんたみたいな人間は自分も今宮くんと同じ目に遭わないと分からないんだよ。想像力の欠片もない人間なんだから!」

亜香里はしばらく呆然としていたが、号泣しながら教室を出ていった。ざまあみろ。私は彼女の背中を見て冷笑していた。クラスの人は何も見ていないふりをしているのかやけに静かになった。元々登校人数が少ないのもあるが。しばらくして、力なく椅子に座った私の元に優菜が駆け寄ってきた。

「志帆ちゃん。あんなこと言って良かったの?」

「良いの。私はあの子と絶交する。すっきりしたよ、言いたいこと言えて。」

私は恐怖心を隠しながら冷静を装った。横目で今宮を見ると、彼は耳栓でもしているように読書をしている。

「私も志帆ちゃんの意見に賛成だったけど、言い方が強すぎたんじゃない?亜香里ちゃんも大塚たちの方に行っちゃうかも…。」

「優菜ちゃん。」

私は怒った表情で彼女に言った。

「あんな人はもうどうでもいい。私の知ったことじゃないからそれ以上何も言わないで。」

優菜の顔に暗がりが見えて私は彼女を直視できなくなった。この教室に私の居場所がないように感じて、いや、どこにも私の居場所がない気がして何も言わずに席を立った。優菜は私を追いかけてこなかった。

教室を出てもどこに行けばいいのか分からなかった。階段を下りていると、二人で楽しそうに話している女子やカップルと思われる男女が仲良く歩いていた。いつも見ている光景なのにその人たちだけが色のある世界に住んでいるように感じてならなかった。結局昇降口まで来てしまった。亜香里はどこに行ったのだろうか。彼女が絶対にいない場所に行かなければならなかった。そうなると、あそこしか思いつかない。私は自転車にまたがり、海沿いの道路を漕いだ。海は毎日青い。毎日広い。私は海が羨ましい。太陽が真上にある時間帯だから頭のてっぺんが焦げてしまいそう。このまま焦げて蒸発してしまいたい。そうさせてほしかった。

私はまたここに来てしまった。木漏れ日が美しく、幻想的な雰囲気を演出していた。自転車を乱暴に漕ぎ棄て、私は無断で部屋に入った。どうしてここに来てしまったのだろう。家に戻ればよかったものを。今になって後悔してしまう。でも、何かを期待している自分がいる。この森の主が私の部屋、いや、彼の部屋にやってきた。大きいふわふわの尻尾と満月のようなお眼目を見開いて私を見ている。

「おい。」

聞いたことない高めの男の声がした。私は慌てて辺りを見渡すが、誰もいる気配はなかった。隣にいる森の主を見つめると、バシッと目が合った。

「俺だよ、俺。聞こえてるだろ。」

また同じ声。どこから聞こえてるのか全く分からない。私はとうとう幻聴まで聞こえるようになったんだ。この声がだれなのかなんてどうでもいいや。私はゆっくりと座って誰かと話をすることにした。

「聞こえてますよ、誰かさん。何でここに来たか聞きたいんでしょ?」

「そうだ。お前は俺の許可を得てないだろ?この森に入る許可をな。」

恐る恐る隣を見た。小さなこげ茶の森の主が私を凝視している。なるほど、私は今この子と話してる設定なんだ…。声の正体がわかって少し安心する。

「そうですよね。怒ってますよね。…あの、なんで今宮くんには許可が下りたんです?この森に貢献でもしたんですか?それとも餌をくれるから?」

「ははーん、全部はずれだ。あいつに許可をあげたのはな。」

短い足で小さな耳を掻いている姿が愛らしい。白色が混ざったふわふわの頭を撫でたくなる。

「他の人間と違って、心が澄んでるからだ。」

昨日久しぶりに見えた彼の目を思い出した。あの透き通った美しい茶色の目を。

「あいつが森に来ると、樹木たちも動物たちも元気になる。生き生きするんだ。あいつは雑味のない人間だ。」

「…私もそう思います、森の主さん。彼はあまりにも美しい。私と正反対の人間です。」

「正反対?俺はそう感じなかったぞ。」

意外な返答に黙り込むと、ふわふわな足が私の太ももに乗ってきた。何だか少しくすぐったい。

「お前さんたちは瓜二つだよ。だから俺は東江にも許可を下す。いつでもこの森に入っていいと。」

「瓜二つ…?っていうか、今さらっと私の名前言いましたよね?」

それから森の主の声は全く聞こえなくなってしまった。いくら話しかけても何も言ってくれなかった。今までの時間がまるで夢のようであった。しばらくして、私の太ももに乗ったまま茶色のもふもふは眠りについた。私は彼の頭を撫でた。起こさないようにそーっと優しく。可愛い寝顔を眺めていると、自分の瞼も重くなってきた。森の匂いと心地よい小風に眠気を誘われ、目をつぶってしまった。


ー気付くと私は教室の前の廊下にいた。登校してきたばかりのようだった。

前に見えるのは…凪ではないか!クラスは変わってしまったけど、私の昔からの親友だ。高2になってからタイミングが合わず会えてなかったので久々の再会。心の底から嬉しかった。

彼女は3人の女子と話しながら横に並んで歩いてくる。

「おはよう、凪!久しぶり、元気しとる?」

彼女のたれ目が私を見つめる。その目は今まで私の知っている凪の目ではなかった。他の女子三人が怪訝そうに小声でつぶやいた。

「何、この子。こんな地味な子が凪の友達なの?」「知ってるの、こんな子?」

凪は明るい茶色に染めたショートヘアを触りながら首を大きく横に振った。手をよく見ると派手なネイルを施している。

「全然知らん子。多分、人違いでしょ。凪なんていっぱいいるから。」

彼女の声には今までになかった冷淡な響きがあった。つけまつげを付けた黒い目で睨みながら私の横を通っていく。私は引き留めようと思ったが、そこまで勇気がなかった。凪は別世界の人間のように見えた。この事実を受け止めるのにどれだけ苦労したか。ショックを受けたか。上手く言葉に言い表せない。でも…やはり引き留めてちゃんと話をしたい。私はくるりと振り返り、走って凪の腕を掴んだ。

「待って、凪!そっちの世界に行っちゃあかん!私はあなたとまともに生きていたいんよ!」


びっしょり汗をかいて目を覚ますと、すぐ前に人が立っていた。私は驚いて後ずさりしてしまう。

「東江。大丈夫?熱でもあるのか?」

一回聞いたら二度と忘れないほど綺麗でよく通る声。自分の身体が熱くなるのを感じながら私は顔をあげた。

「びっくりした。今宮くん、いつからいたの?」

「それはこっちのセリフ。昼休みに学校抜け出して何やってんだ。」

理由は聞かなくたって分かるはずだ。だって今宮は教室にいて私がどうなっていたか全て知っているのだから。私は口をへの字にして黙り込んだ。今宮は私の前に座って答えを待っている。彼の肩に茶色のもふもふが乗っかっている。いつの間に移動したのか。

「今宮くんって…そのリスと話したことある?」

「話を変えないで。俺が質問してるんだ。」

彼の眼は本気だ。髪がかかって見えないけど、多分本気の眼差しだろう。仕方なく一言だけつぶやいてやる。

「1人になりたかった、ただそれだけ。」

すると彼は安堵の表情を見せた。この言葉を待っていたかのような顔つきだった。森の主も納得した表情になったように見えた。気のせいだろうが。

「じゃあ、今日は東江の話を聞かせてくれ。」

「私の…話?なんでそんなの聞きたいの?」

「人に話すと楽になるでしょ。ほんの少しでも。」

何なんだ、この人は。私に対してあまりにも優しすぎて恐怖を感じてしまう。もしかして今宮は私の話をもうすでに知ってるんじゃないのか。そんなことないはずだけど、ありえそうな話だ。まあ、そんなことはどうだっていい。素直に従って、とにかく話を聞いてもらうことにしよう。私は彼が隣に座ってきたので鼓動が早くなったが気のせいだと言い聞かせる。

「私ね、親に愛されてないんだ。暴力を受けてるとかでなくて、愛情がないんだよね。私に全く関心がなくて心配もしてくれなければ怒りもしない。何でも肯定する。離婚する前にいた父親もそんな感じで。私がどんな悪事を働かせようとしても止めないんだよ。」

自分が母子家庭であることは凪にしか伝えていないことだった。

「だから、幼いころから消極的で物静かで人の気持ちをいい意味でも悪い意味でも推測しやすい子に育ったんだ。地味で影みたいな存在の人に。昔から友達も少なくて人間関係の悩みも多かった。そんな中、凪っていう女の子に出会ったんだ。」

「さっき寝言で出てきた名前だね。」

今宮は無邪気に笑って私は顔を真っ赤にする。

「小学生の頃は六年間ずっと同じクラスでね、あの日もあの子と一緒にいたの。凪とは何でも話せて一緒にいると落ち着いたんだ。家族と居るよりもね。凪からの愛情を感じることができたから。」

あの日、というのは今宮が両親を亡くした日のことだ。

「凪と同じ高校に来れて嬉しかったうえに高1の時は同じクラスになれて…昔と変わらず一緒に登下校して楽しかった。去年は家族から離れて一人暮らしもできて、人間関係も安定してて部活も良い成績残せて最高だったな。それに、高1の時には…。」

私は彼に言うか言わないか迷い、唇をなめた。今宮はリスを手に乗せて首をかしげる。昔から気づいてはいたが、彼には愛嬌があった。

「高1の時には彼氏もできて。」

今宮は意外にも驚く表情を見せない。心配をする様子もない。私は何だか残念に思った。気を取り直して冷静に話を進める。

「だけどね、高2になったら何もかも上手くいかなかった。凪とも彼氏とも…部活もはかどらなくて。それで今日もこんな最悪な日になっちゃった。」

ダメ。泣いたらダメだ。これは自分が選んだ道ではないか。自分で蒔いた種なのに、泣いたってしょうがないじゃないか。私はわざと上を向いて今宮に背を向けた。

「東江。」

彼の声は私を弱くする。そういう力を持っているみたい。こんな考えをするなんて、今の私の脳みそは正常じゃない。堪えていた涙がゆっくりと地面に落ちた。声は出さなくても、肩の震えを止めることはできない。

「東江は何も悪くないよ。」

今宮は私の目の前に座り直す。私はかぶりを振ってしゃくりあげた。

「私…私が嫌い。大っ嫌い。両親が愛してくれなかったのも、昔からの親友に見捨てられたのも、初恋相手に裏切られたのも…全部私が悪いからだ。私なんて…私なんて!」

ー死んでしまえばいいのに。

心の中で呟いた言葉を声には出せなかった。今宮が私の手を取ったからだ。彼の手は大きくてほんのり温かい。彼の小指は少し短くてかわいかった。

「東江は東江のままで良いんだよ。」

彼のはっきりとした声に私は思わずキョトンとする。優しい風が吹いて彼の綺麗な目がはっきり見えた。その目は赤く充血していた。彼のことだから、私が言いかけた言葉を予想してしまったのかもしれない。

「何も変えなくていい。そのままで良い。だから…自分を責めるのはもうやめて。ダメな自分も許してあげよう。俺の言葉を信じて。」

今宮は私に言ってるようでもあり彼自身に言っているような口調で話していた。余計に涙があふれてくる。私は涙を拭きながら、最近ほぼ毎日泣いていることに気付いた。茶色のもふもふが尻尾を下ろして私の太ももに乗ってくる。私はうつむいてボソッと呟いた。

「今宮くん。…どうして私は私のままで良いって、そんな優しいこと言ってくれるの?」

彼は私の手を離して、お餅みたいにぷくっとしている白い頬をピンクに染めた。珍しく返答に困っているみたいだ。また心地よい風が吹いて私の長い髪と今宮の長い前髪がたなびいた。風が吹くたびに彼の瞳を見るのが私の癖になっている。しばらくして彼は口を開いた。

「東江は自分の人生を全うしている人だって思ってるからだよ。」

「人生を…全うしている?私が?」

「その証に今たくさん悩んでたくさん泣いてるでしょ。」

私は首を傾げて彼を凝視する。彼は私の太ももに乗っている森の主の頭を撫でる。

「テキトーに生きてたら悩みなんてない。泣くこともない。それが人間だよ。」

森の主は今宮の足に飛び乗って尻尾をフリフリする。私が彼の言葉に感銘を受けていると、彼は急に無邪気な笑顔を見せた。

「ほら。森の主も賛同してるってさ。俺はこの子と話せるんだ。」

「え!?私もさっき話した!」

私は自分の顔がパッと明るくなるのを感じた。大人な彼もリスと話すことができるなんて。今宮は「本当に?」と疑ってくる。私はさっきの話を正確に伝えた。私は自分が自然と笑顔になっていくのを感じた。彼は私の話を聞くと満足げな表情をする。

「良かった、東江が笑って。」

「それは…今宮くんのお陰だよ。こんなに人前で毎日泣くなんて、なんか恥ずかしいけど。」

「そんなの気にしなくていいんだよ。話聞かせてくれてありがとな。」

私の胸がじーんと熱くなるのを感じた。私は今宮に出会う運命だったのかもしれない。今宮と出会わないといけなかったのかもしれない。私は立ち上がってすっかり夕方になった空に両手を突き上げた。

「昨日も一昨日も…この時間一緒だったね。」

彼も立ち上がって上を見上げる。かわいいモフモフは森の奥まで走っていってしまった。彼は小さくうなずいて少しの間黙っていたが、そろそろ戻るかと言った。私は仕方なく同意して乱暴に乗り捨てた自転車を起こした。

彼の自転車のかごの中には私のバックも入っていた。私は彼にお礼を言ってバックを自分のかごに移す。

森を出て海沿いを進んでいくと、隣の今宮が何か思い出したように、あっ!と声を出した。私は驚いてシロクマを見た。

「今日俺、夜バイト入ってたんだ。すっかり忘れてた。あぶな。」

「待って!わ…私も夜バイトだった!」

私も大きな声を出すと、彼は突然吹き出した。何がそんなに面白いのかよくわからなかったが、彼の笑いが移った。私たちはスピードを上げて家に向かう。

ようやく寮に着いた頃には二人ともへとへとだった。だが、ボーっとしている暇はない。着替えてすぐにバイト先に行かなければならないのだ。今宮と別れようとすると、私のお腹がまた鳴ってしまった。しかも、ぎょるるっと変な音だ。私は赤面してお腹を抑えたが、今宮は声を出して大爆笑した。笑い方があまりにも少年なので何だか安心した。

「もう、そんなに笑うことないでしょ。…っていうか今日無断で学校早退しちゃった、私。」

「大丈夫。俺が言っといた。お腹の怪獣が黙らないので帰ったってね。」

今宮が唐突に冗談を言ってくると反応に困ってしまう。私は何も言わずにただ彼を睨んで手を振った。シロクマは大きな手を振って部屋に入っていった。やっぱり彼には愛嬌がある。


今日のバイトはいつもよりはかどって私は上機嫌で家に帰ってきた。駐輪場に行くと今宮の自転車はもう置いてあった。扉の前まで来ると、足に何か当たった。驚いて下を見ると、そこにはお菓子の袋がある。一枚、花柄のメッセージカードも刺さっている。そこにはこう書いてあった。

『志帆ちゃん。今日はあんなこと言っちゃって本当にごめんなさい。志帆ちゃんは勇気を出して亜香里ちゃんに正しいことを伝えたのに何もしてない私が口出ししちゃって。あの後、亜香里ちゃんとしっかりと話したらすごく反省してたよ。学校に来てくれることを願っています。優菜』

今すぐ優菜の部屋に行きたくなったが、もう夜の九時。明日も学校だから迷惑だろうと私はお菓子を手に部屋に入った。すぐさまシャワーを浴びて髪を乾かし布団にダイブした。今までは隣に今宮が住んでいることをそこまで意識していなかった。でも、今は隣に彼がいることが嬉しくて考えるだけで二やついてしまう。

「ダメダメ、志帆。もう恋愛は禁止って決めたでしょ。デジャブになっちゃう。」

慌てて自分の顔を叩く。とその時、机に置いてあったスマホが通知で光った。見てみると、亜香里から不在着信が三つも来ていた。LINEでもメッセージが届いてる。見なかったふりをしようと思った。まだ彼女のことを完全に信頼できない。許す気持ちにもなれなかった。私がスマホから目を離すと、スマホが振動して電話がかかってきた。きっと亜香里からだ。かなり心配しているのだろう。一言だけ言って切ろうと、相手の名前を見ずに応答ボタンを押した。

「もしもし、私だけど。明日学校で…。」

「もしもし。」

背中に寒気が走る。危なくスマホを手から落としそうになった。顔が一瞬にして青ざめていくのを感じる。

「もしもし、志帆。聞こえてる?俺だ。直人だ。」


5、

朝から亜香里の二度目の涙の謝罪が始まった。演技をしているのではないかと最初は疑いの目を向けていたが、これが演技だとしたら彼女は一流女優になれるだろうと思うほど泣いていた。彼女は既に今宮にもう一度謝りに行ったらしい。それを聞くと絶対に許さないと決めていた私の心も次第に解けていき、友達を続けることにした。それと、彼女に重要なことを伝えると決めていたのだ。

昼休みになり、相変わらず人の少ない教室で亜香里とおにぎりを食べる。私は今がチャンスと口を開いた。

「亜香里。あのさ、明後日の夏祭りのことなんだけど…。」

「ああ!今日の放課後に私の家に来てほしいわ!私のお母さんが志帆に似合いそうな古い浴衣を見つけたからリメイクして新しい浴衣を作ってくれたの。アイロンもかけて。サイズは多分大丈夫なんだけど、一回着てみてほしいって!」

彼女の言葉に私は目を丸くする。わざわざリメイク!?それにアイロンかけまでしてくれた!?

これでは私の言いたかったことを言える状況じゃない。私はお礼を言って放課後にお邪魔することにした。

「ねえ、志帆…。提案したいことがあるんだけどさ。」

落ち着いた口調で話す彼女を不思議に思っていると、彼女は意外な発言をした。

「今宮くんも誘わない?」

「…はあ?」

眉間にしわを寄せると彼女は慌てふためいた。

「興味本位で言ってるんじゃないわ。亜香里ね、かなり申し訳ないことしちゃったし、今宮くんとちゃんと話してみたいっていう気持ちになったの。勝手に彼についての悪い噂を信じてた自分が恥ずかしい。だから、話す機会として誘いたいの。怒らないで。」

亜香里は本当に反省したんだとやっと確信を持てた気がする。私は納得はしたが、今宮が行きたがらなければ無理強いはできないと言った。彼女は大きくうなずく。

「志帆、今から一緒に誘おう。」

今宮はいつも通り椅子に座って本を読んでいる。私が返事をするのを待たない内に彼女は私の腕を引っ張って今宮のところまで歩いた。彼は私たちに見向きもしない。亜香里は深呼吸してから今宮の名前を呼んだ。ようやく彼がこちらを向いた瞬間…私は目を疑った。彼の両目がはっきりと見えるではないか!

「い、い、今宮くん。か…髪切ったの?」

私が素っ頓狂な声を出すと、彼は小さくうなずいた。やっぱり外国人のような不思議な瞳をしている。亜香里はそんなことお構いなしに本題に入った。

「明後日の夏祭り、一緒に行かない?私と志帆となおく…いや、直人っていうサッカー部のキャプテンしてる子の三人なんだけど…どうかな?」

私は心のどこかで今宮に来てほしいと願っている自分がいるのに気付く。亜香里は前と違ってゆっくりと今宮に話しかけた。今宮は無表情のまま黙り込む。そりゃそうだ。だって、謝られたとはいえあんなことをされた亜香里に誘われて行きたいと思うわけがないだろう。どう断るべきか迷っているのかも。

「俺、直人っていう人と一回も会ったことないんだけど彼は平気なの?」

今宮の問いかけに亜香里が即答する。

「直人は全然大丈夫って言ってたわ。彼は私と志帆の友達で、すごく良い子だから安心して!」

私は亜香里の言葉に顔を曇らせてしまう。今宮だって夏祭りなんか行きたくないと思ってるのではないか。そう思うと私は彼に申し訳なくなってきた。私が口を開こうとすると、彼は意外な言葉を発した。

「その子が大丈夫なら一緒に行ってもいいよ。」

「ほんと!すっごく嬉しい!ありがとう。ほんとにありがとう、今宮くん。」

亜香里は飛び跳ねて子どものように喜び、私は目を見開いて彼を見た。絶対に断ると思っていたのに。内心嬉しいと思う気持ちを抑えるのに必死になっていると、今宮は後ほど集合場所と時間を連絡してほしいとだけ言って読書に戻った。相変わらず表情は変えずに。

私たちは席に戻ってからしばらく沈黙した。亜香里は今宮と話すのに緊張して、私は今宮が来ることが信じられなくて黙っていたのだろう。食べかけの昼飯を食べ終わると彼女は隣のクラスの永田直人のところに行き、私は急いで優菜を探す。朝に見かけたから、学校には来ていたはずだ。教室を出て廊下を見渡すが見当たらない。トイレにもいないので違う階にいるのかもしれない。階段を降りると、久しぶりに美術室に行きたくなった。部活動中止期間のせいで最近は全く絵を描けていない。描きたいものは見つかっているというのに…。私が高1の時に全国大会で優秀賞をもらった絵は美術室前の壁に飾ってある。題名は「青海」。海と青空を描いただけの絵だが、何度も違う色を重ねて我ながら独創的な作品ができたものだと思う。そんなことを考えていると、自分の絵の目の前に誰かが立っているのにようやく気付いた。凝視すると、それは関優菜であることが分かった。

さりげなく近づいて隣に立ってみた。彼女は真剣に私の絵を見つめている。何かを考え込んでいるようだ。

「私の絵…好きなの?」

優菜はまん丸の目をさらに丸くして私を見る。やっと私の存在に気付いたようだ。彼女はすぐに笑顔になってうなづく。

「好きじゃなくて、大好きだよ。この絵は私に力をくれる。だから、毎日見に来てるの。」

「毎日?…ありがとう。何だか自分にファンができたみたいで嬉しいな。」

彼女はふふっと笑ってまた絵を眺める。力をくれる、か。この絵を描いていたころの私は何もかも絶好調で力強く絵を描けたのかもしれない。今の私はどうなのかは分からなかった。ハッとして本題に入る。

「昨日、お菓子とメッセージ置いててくれてありがとね。お陰で亜香里と仲直りできたよ。」

優菜は謙遜して首を横に振った。目は私の絵から離れない。

「私は何もしてないから。二人は多分、切っても切れない仲なんだよ。いい意味でね。女友達は作ると面倒なこと多いけど。」

彼女が前に叫んでいた言葉を思い出す。私は気になっていたことを彼女に聞いてみた。

「ねえ。優菜ちゃんが女はめんどくさいって思うのはなぜ?」

この問いかけに彼女の目が少しばかり泳いだのを私は見逃さなかった。彼女は黙り込んで絵を見ているフリをしているようだった。彼女の横顔が突然寂しく見えてくる。

鐘が鳴った。もう昼休みが終わろうとしている。私は彼女の答えを待っていたが、一緒に教室に戻ることにした。階段を上り終えて、廊下を歩いていると優菜が口を開いた。

「私は1人でいるのが楽だって感じやすい人間だから。」

これが彼女の言える精一杯の答えだったのかもしれない。でも、これは彼女の本心ではないように私は感じ取った。彼女の言葉に何も言えないまま、授業が始まってしまった。


放課後、私は亜香里の家に初めて行った。さすが都会から引っ越してきた家庭だけあって、二階建てで屋根裏部屋付きの大豪邸だった。屋根は紺色で、壁は白色。置いてある家具も紺と白で色が統一されている。天井にはプロペラも付いているし、いかにもリゾートにある家という雰囲気だ。

「志帆ちゃん、ずっと会いたかったのよ。亜香里がいつもお世話になって。」

彼女の母親は見た目がかなり若かった。ロングの茶髪で毛先にカールがついている。鮮やかな青色のタンクトップドレスを着て、金色のピアスをしている。化粧もネイルもばっちりで濃い赤の口紅を施していた。亜香里と似て涙袋があるぱっちりとした目で頬骨が高い美女だった。名前は沙織というようだ。

「じゃーん!これ、志帆ちゃんに似合うと思って勝手に作らせてもらった浴衣。着てみて、着てみて!」

亜香里と私より、沙織が一番テンションが高かった。私は来てすぐに広い更衣室に入れられ、着替えをすることになった。親子は似ているとつくづく実感する。私の家は例外だが。

浴衣は水色で朝顔の花が濃い青色で散らばっていた。触り心地がとても良い生地で、どれだけ高級なものなのかと緊張してしまう。

「帯の付け方、あってるか分からないんですけど一応着れました。」

ようやく更衣室を出ると、沙織も亜香里も悲鳴に近い声を出した。

「美人ねえ、志帆ちゃん。モデルさんみたい。着丈も丁度よくて安心したわ!」

「これはスカウトされちゃうわよ、志帆!」

私は頭をかいてとりあえずお礼を言った。二人ともお世辞がうまい。私は鏡の中の自分を見た。小さなころからお祭りにはほとんど行ったこともなく、ましてや浴衣など着なかった私は自分の姿に驚いてしまう。そして今宮の顔が浮かんでくる。彼も来るとは夢にも思ってなかったのに。彼は私の浴衣姿を見たらどう思うのかな。なんて、私は何を考えてるのだろう。我に返って浴衣から着替え始める。

リビングルームに戻ると、沙織は私が見たこともないような高級なお菓子と立派なティーカップに入った紅茶を用意してくれていた。亜香里は当たり前のようにそのお菓子を口に頬ばっている。

「お父さんは海外に出張しちゃってて来年まで会えないのよ。ここに引っ越ししたのはお母さんがどうしても海が見える場所が良いって言ったからなの。私は都会の高校に行きたかったのに。」

沙織は呆れたような顔で彼女を見つめた。まつ毛にはばっちり付けまつげがついている。

「全く…まだ根に持ってるのね。志帆ちゃんに出会えたんだもの、良かったじゃない。」

「確かに。良い事と言ったら、志帆に出会えたことしかないわ。」

私は苦笑して紅茶を口に入れる。茶葉の香り高く、非常に繊細な味の紅茶だ。私は感動して目を丸くした。

「あら?気に入ってくれたようね。この紅茶はマリアージュフレールっていうブランドよ。」

「マリア何だかかんだか…?すごく美味しいです。」

今度はお菓子に手を伸ばす。外側の生地が薄茶色、内側のクリームが濃い茶色のマカロンだ。口に入れると外側のカリッとした生地に中のトロッとしたクリームが口の中をチョコの甘みでいっぱいにした。こんなお菓子は人生で一回食べられるかも分からないのではないか。

「このマカロンはピエール・エルメ・パリのものなの。お父さんが送ってくれたわ。」

亜香里の言葉に思わず吹き出しそうになる。出た出た。またよく分からないカタカナのお店。とにかくかなり高級なものであることは理解した。

「志帆ちゃんのご両親にもぜひお会いしたいわ。」

私は自分の心に冷たい風が吹いたような感覚になり、少し間を空けて小さくうなずいた。沙織は嬉しそうに笑顔を作る。くしゃっと笑った顔も亜香里にそっくりだった。


亜香里の家から自転車で寮に戻り、部屋に入ると身体がいつもにも増して重かった。沙織がつけていた香水の匂いが鼻に残っている。自分が住んでいる世界とかけ離れた場所にいる人たちと話すのは気疲れするものだ。あんなに素敵な浴衣をわざわざ作ってくれたことには感謝しているが。

ふと今宮の自転車が駐輪場に置いてあったのを思い出した。彼はどこにも行ってないのだろうか。隣の部屋にいるのだろうか。私がベットの上でそーっと壁に耳を当ててみると、微かに音楽の流れる音が聞こえた。彼は部屋にいるみたいだ。何の音楽を聞いているのだろうか。耳を澄ましたが、薄い壁とはいえ流石に分からなかった。

「今宮くんって…音楽聞くんだ。」

こう呟いて私は自分の顔を叩いた。自分のやっていることが恥ずかしく思えてくる。

とその時、ピンポーンとドアの呼び鈴が鳴った。私は驚いて壁に頭をぶつけてしまったが、恐る恐るドアスコープを覗く。なんとそこには…永田直人がいるではないか!昨夜の電話を思い出し、私は寒気がした。

『電話切らないで聞いてくれ。俺はお前が今でも好きだ。だから亜香里ちゃんに近づいたんだ。いつか直接伝えに行くから。じゃあな。』

いないフリをしよう。私はゆっくりと部屋の奥に戻ろうとしたが、呼び鈴は鳴りやまない。頭が痛くなる。ピンポーンピンポーンピンポーンと連打して全く諦める気配がなかった。私が恐怖で震えながらドアを開こうとしたその時、突然呼び鈴が鳴り終わった。その代わり、聞き覚えのある綺麗な声が聞こえる。

「あの…この部屋の人なら今日は留守ですよ。」

ハッとした。今宮の声だ。慌ててドアスコープを覗くが、かなり苛立っている永田の姿しか見えなかった。

「そんなはずない。彼女の自転車が置いてあるんだからあっちが無視してるだけで…!」

「今日は友達の家にいると言ってました。なので、もう帰ってください。」

私は思わず口を手で押さえた。おそらく今宮は読書をしながら私と亜香里の会話を聞いていたのだ。意外にも今宮の言葉に永田の返事はない。歩く音がだんだん遠くなり、ようやく永田が帰ったのだと分かった。

私が扉を開けようとすると、今宮の鋭い声がした。

「まだ開けちゃダメ。」

私はドアノブから手を放す。驚いたことに、彼は私が家にいることに気付いていたのだ!

三十秒ほど経つと、扉をノックする音が聞こえた。私はゆっくりと扉を開いた。そこには初めて見るような恐竜のキャラクターがプリントされた半袖の紺色シャツに色あせたジーンズ姿の今宮が立っていた。私は彼を見ると、突然身体の力が抜けて倒れそうになった。彼は玄関に入って私の身体を支え、床に座らせた。手の震えが止まらず、さらには涙も出てくる。

「怖かったよな。でも、もう大丈夫。心配いらないよ。」

今宮はしゃがんで同じ目線の高さになる。彼の優しい言葉はいつでも私の心の緊張を溶かす。私は赤い目で彼を見つめるが、呼吸が整えられなかった。

「深呼吸しよう。吸って、吐いて…もう一回。」

しばらくして、ようやく息が整った。涙でぼやけていた今宮の顔がはっきりと見えるようになる。私が彼に何度もお礼を言うと、彼は頭をかいて笑った。目元が見える彼にはさらに愛嬌があるように思えてならない。

「驚いたよ。あんなに何回も呼び鈴鳴らす人がいるなんて。俺の勘だったけど、嫌な予感がして扉開けてみたら鬼の形相で呼び鈴押しまくってる人がいてさ。男子高校生っぽかったけど…知り合い?」

私はため息をついて小さくうなずいた。今宮は目を光らせて探偵のように言った。

「もしかして彼氏さん?」

「違うよ!」

大きな声を出してしまい、慌てて口を押える。今宮は勘も鋭いようだ。彼はキョトンとした顔で次の言葉を待っている。しかし、私は今宮が自分の部屋に入っていることに気づき、ハッとして部屋を見回した。幸いにも、洗濯物も干してないし床に物も散らばってなかったので胸をなでおろす。というより、高校生の男女が密室で二人きりになるのはいいものなのか。しかも女子の部屋に男子が入って!いや待て、今宮とはただの友達関係だ。そんなこと気にしなくたっていいじゃないか。彼は一人で首を横に振っている私を不思議そうに見た。

「今宮くん。と、とりあえずここで話すのもあれだし…中に入ってよ。」

私たちはまだ玄関にいるままだった。この言葉に対する彼の反応はいかなるものか、やはり躊躇するのか…!

「悪いな。ありがとう。」

まさかの即答。私は一瞬固まってしまったが、慌てて座布団を2枚出した。彼は表情を変えずに小さなテーブルの近くに座った。彼が自分の部屋に来る日がこんなに早く来るとは…。私はコップに冷たいお茶を入れ、テーブルに置く。彼はお茶を少し飲んでから私に視線を送った。話をしてほしいと言わんばかりに。私は遠くを眺めるような目で口を開いた。

「あの人は元カレ。最近別れた。高2になってから遠距離になっちゃったからね。仕方がなかったのかもしれないけど、あの人が自分から私を捨てたんだ。」

私はLINEブロックされた日の話やあの人と亜香里の関係、昨夜の電話について全て話した。今宮はうなずいて話を聞いているだけだったが、何かに気付いたようで片方の眉毛を上に上げた。

「今日の話に繋がるね。夏祭りに一緒に行く永田直人が東江の元カレで亜香里の今の彼氏ってことか。」

私は言葉が出ない。今宮は推理がバッチリ当たってしまうし、話の飲み込みが早すぎる。夕日の光が窓から差し込んできて、彼の白い顔がオレンジ色に染まった。

「亜香里には元カレって何だか言えなくて…。せっかく幸せそうにしてるのに邪魔したくないんだ。」

私が呟いても、彼は何かを必死に考え込んでいるようで石像のように動かない。私はお茶を注ぎながら口を開いた。

「あの人、私のことキープしてるんだよ。自分で私を突き放したくせに亜香里を好きになって、でも亜香里が彼女になる保証がないから私に気があるようなフリしてしつこく関わってくる。面倒な人だったんだな。」

「東江。」

彼の低い声に身体が飛び上がりそうになった。彼の透き通った茶色の瞳。瞳孔が震えている気がした。

「彼はキープなんかしているんじゃなくて、まだ東江が好きなんだよ。」

「そんなことあるはずないでしょ。亜香里と付き合ってるんだから。」

「彼は東江を試してたんだ。つまり、構ってほしかったってことだよ。自分が他の女の子と一緒に仲良くしてたら彼女は嫉妬してくれる。それで自分を前よりもっと意識してくれるだろうって。」

反論しようとしたが、彼の言ってることは筋が通っている。一回突き放してまた気持ちを伝えてきてるし、彼自身の昨夜の言葉にも納得がいく。だとすれば…私は胸の鼓動が大きくなるのを感じる。

「それって…亜香里の気持ちを利用して私の気を引いてるってことだよね?」

「悪く言えばそうなる。でも、彼はきっと田辺とそこまでの関係になる気はなかった。思いがけず付き合うことになってしまった、そういう感じじゃないかな。」

今宮は至って冷静に返答する。それでも私の中で直人への怒りは収まらない。亜香里は本気で直人を好きになっているというのに簡単にフレばいいと思っているなんて最悪過ぎる。とんでもない野郎だ。

「東江はまだ好きなのか?永田くんのこと。」

今宮の単刀直入な質問に私は一瞬戸惑ったが、私の心ははっきり決まっていた。

「ううん。もう…恋愛なんてしたくないくらい。」

私の言葉に彼はぷっくらした頬を掻いてうつむいた。今宮の前でなんてことを言ってしまったんだろう...!

今までにないほど胸が痛んだが、私はこれで良かったのだと自分に言い聞かせる。

「ごめんね、こんなどうでもいい話聞かせちゃって。」

少しばかり長い沈黙の後、気まずくなって話を変える。今宮は何かに動揺しているようだったが、いいんだよと小さく首を横に振った。

いつの間にか太陽もすっかり沈んでしまったので今宮は家に戻ることになった。家に戻ると言っても隣の部屋なのだが。

「ノートパソコン、持ってるんだ。結構立派だね。」

帰り際、彼が私の部屋の奥を見て呟いた。私は慌てて口を開く。

「そうそう。えっと…美術のこととか、そういうの調べるのに必要で。バイトのお金で良いやつ買ったんだ。」

「自分のお金で買うなんてえらいな。俺も貯金するタイプだよ。別に食べ物にしか使ってないけどね。」

今宮が貯金するタイプであるのは言われなくても想像がつく。彼は靴を履くと、また何かあったら言ってと優しい言葉をかけて去っていった。

扉が閉まると私の肩の力が抜けた。パソコンで小説を書くのが好きなのだなんて誰にも言えないんだから。でも、今宮には何でもお見通しのようで不思議な気持ちになった。洗い物を済ませて、カップラーメンを食べながら彼の困惑した表情が何度も頭によぎった。私が恋愛したくないと言った途端に彼の表情が一気に変わったように思えたのは気のせいだろうか。自分に都合よく考えたいからそう見えただけなのか。私は首を大きく横に振り、両頬を強く叩いた。私は一体何を考えてるんだ。気をしっかり持たなくては…。

私はアツアツの麺を勢いよく啜った。


6、

スマホのアラームが鳴り続ける。私はパッと目を覚まし、自分がベッドの上でなく床にいることに気付いた。

バイトを1日中やっていたのに昨日の夜はなかなか寝付けなかった。今日が来てほしくないという気持ちが疲労よりも勝ったのだろう。スマホのロック画面を見ると…もう正午ではないか!

飛び起きたが、まだ亜香里との約束の時間まで3時間もある。歯磨きをして朝ごはん…ではなく、昼ご飯を食べる。簡単に焼いた目玉焼きと炊飯器に余っていたご飯を口に運ぶ。食欲はあまりない。

亜香里から10件もLINEが来ている。メッセージを確認すると、彼女は私が起きているか不安らしかった。一分前にも、志帆さーん起きてます?というメッセージが。私は苦笑しながら、ずっと起きてたよとバレバレの嘘をついた。とその時、呼び鈴が一回鳴った。途端に冷や汗をかき始めるのを感じた。前の件があってから、呼び鈴が鳴ると恐怖を感じるようになってしまった。これがトラウマというものか。すり足で扉の前まで行ってドアスコープを覗くと、そこには今宮が立っていた。私は胸の鼓動が速くなり、すぐに扉から離れた。寝巻のままだから光のような速さで適当な服に着替え、髪もくしで軽くとかす。ミニーマウス並みの早着替えができた。5分くらいかかってやっと扉を開ける。

「ごめん、お手洗い行ってて。何かあった?」

彼の茶色の瞳を見つめていると、紺の無地のポロシャツに薄茶色のチノパン姿の彼は突然笑い出す。キョトンとしていると、彼は笑いを我慢しているのか震える声で言った。

「今日の祭り行くときに一緒に神社まで行けないかって聞きたくて。」

「私、亜香里の家に寄ってその足で彼女と神社に行く予定だったの。一緒に行くなら、亜香里の家で少し待ってもらわないといけない。それでもいい?」

彼はすぐにうなずいたが、また笑い出した。人の顔を見てそんなに笑うなんて失礼過ぎる。彼にしては珍しいようにも思えるが。

「なんなの、さっきから。私の顔がそんなに面白いですか?」

嫌味たっぷりに聞くと、彼は何度もうなずいてまた笑う。嫌な予感がして手鏡を持って自分の顔を見る。

なんということだ。両頬にまっすぐ長い直線が入っているではないか!床で寝ていたせいで顔に跡がついてしまったのだ。自分の顔が茹でタコのように一気に赤くなる。私はむきになって彼をにらんだ。

「今宮くんったら…笑ってないではっきり言ってよ。恥ずかしいじゃん!」

「寝起きのところ、悪かったな。おやすみなさい。」

無邪気な笑顔を浮かべる彼が憎たらしいが、可愛くて仕方がない。彼はやっぱり十七歳の少年なのだと安心してしまう。私は赤面したまま扉を閉めるのだった。


今宮と亜香里の家に着くと、亜香里の母は彼を見て目を丸くした。志帆ちゃんの彼氏じゃないのとしつこく聞いてくるから面倒だった。今宮は無言なので私だけで何度も否定するしかない。何はともあれ、亜香里と私は浴衣に着替える。一回着ていたお陰でスムーズに着替えることができた。今宮は亜香里の家のリビングルームで沙織と待っている。豪邸に来ても彼は冷静沈着だった。

「なんか緊張するな…。」

亜香里が頬をピンクに染めて小声で言った。彼女の髪型も化粧もかなり気合が入っている。永田の気持ちが亜香里でなく私に向かっていると知ってしまった以上、彼女が気の毒でならなかった。私は亜香里に髪型も化粧も全てやってもらった。いつもロングヘアを下ろしているだけなので髪を結うと自分じゃない気がした。化粧なんて一回もしたことがない。亜香里は慣れた手つきで私には未知のメイクセットを器用に使いこなす。途中で説明なんかも交えるが、私はうわの空だった。目にアイシャドウを付けた時にくすぐったくて笑うと、亜香里にじっとしていろと怒られた。私は笑いをどうにか我慢して化粧を終えた。

ようやく準備が出来て私たちは今宮の元に行った。私は彼の前に出ると顔が強張った。緊張しているみたいだ。

今宮は浴衣姿の私たちを見て似合ってるねと一言言って立ち上がった。沙織はそんな彼を見て面白そうだ。今宮と彼女は意外にも色々な話をして打ち解けたのかもしれない。沙織は家を出るときも、

「朝陽くんもまた遊びに来てね。」

とウィンクして見せた。私と亜香里は顔を見合わせる。今宮を下の名前で呼んでいる人を初めて見たからだ。彼は礼を言って笑顔を作っている。

永田とは神社の鳥居の下で待ち合わせだ。下駄で歩くのに苦戦しながら神社に着くと、親子連れや学生、おじいちゃんおばあちゃんが大勢いた。この村にはこんなに人がいるのかと思ったが、それでもこれくらいしかいないのかとも思ってしまう。赤い提灯が石段の両脇に沢山飾ってあって夕方の美しいグランデ―ションの空に映えていた。この風景を見ると私は祭りに来て良かったと思ってしまう。屋台のいい匂いがしてきた。

焼きそば、フランクフルト、綿菓子、焼きりんご、チョコバナナ…。どれも祭りの王道だ。

「3人とも。悪いな、待たせて。」

紺色の浴衣姿で永田が走ってきた。亜香里は目を輝かせて彼を見つめている。心なしか頬が赤くなった気がする。永田は今宮に目をやると、一瞬目を泳がせたがすぐに冷静を装った。呼び鈴の件で話しかけてきた人が今宮だとは夢にも思っていなかっただろう。私は永田と目を合わせないように下を向いていた。

「二人の浴衣、素敵だな。色もそれぞれ似合ってるぜ。」

私と亜香里を交互に見て彼は何度もうなずく。私は苦笑したが、亜香里は天にも昇るような嬉しい顔をした。今宮は提灯の明かりを見つめている。横顔がオレンジ色に照らされてより美しかった。

人が多くなってきたので大塚たちもいるかもしれない。私は周りに目をやるが、見当たらなかった。

「みなさん。××神社夏祭りにお越しいただきありがとうございます。今から最初の打ち上げ花火をあげるので空にご注目下さい…。」

アナウンサーのような女の人の声が神社に響き渡る。このアナウンスで神社がさらに混雑した。まだ空は完全に暗くなっていないのに花火を打ち上げるのは気が早いように感じるのは私だけだろうか。

「私、焼きそば買ってくるわ。お腹ペコペコで動けないから。3人も食べる?」

永田はうなずいたが、私と今宮は首を横に振った。私は単純に食欲がないが、それは昼飯が遅かっただけが理由ではない。亜香里は二人分買ってくると言って、人混みに消えていった。早く彼女に帰ってきてほしかった。私はできるだけ今宮の近くに立つようにしていた。すると、永田が今宮に衝撃的な発言をした。

「こいつ借りるから、お前はここにいろ。追っかけてくんなよ。」

彼の低い声は残酷な響きを持っていた。私は拒否しようとしたが、彼は強引に私の腕を引っ張って人混みの中を歩いていく。今宮は本当に追いかけてこなかった。永田の手の力が強くて腕が悲鳴をあげそうなほど痛んだ。

「打ち上げ花火まで5、4、…。」

カウントダウンが始まり、他の人たちは夢中で空を見上げた。助けてと叫んでも誰も気づいてくれないだろう。私は本殿の裏にある森の中に連れてこられた。ここだけに静寂があったが、不気味な雰囲気だった。彼はやっと私の腕を離した。今すぐ逃げ出したいが、無駄な気がして私は立ちすくんでいた。彼はこちらを見ないままかすれた声を出した。

「俺は…お前が好きだ。今までもずっと、そしてこれからもずっとな。なのに…。」

彼の声がだんだん大きくなって荒くなる。彼が振り向くと私は自分の顔が青ざめていくのを感じた。鬼の形相…というより、鬼そのものの顔をしていた。彼のつぶらな瞳は吊り上がり、鋭い眼光をしていた。まるで獲物を見つけたオオカミのようだった。こんな顔は今まで見たことがなかった。私は身体が硬直した。

「なのに、お前は俺から離れようとしてる。お前はもう俺のものなんだよ。誰がなんと言おうとな。」

「直人…落ち着いて。私はもうあなたを好きじゃないの。別れましょう。」

正直に自分の気持ちを伝えてみたが、無意識に声が震えてしまった。彼は一歩一歩近づいてくる。

「2,1…打ち上げでーす!」

さっきの女の人の声だ。花火の爆発音が聞こえた。その瞬間、永田は私の肩を強く掴んで木に押しやった。私は大きな悲鳴を上げてしまったが、誰も気付きやしない。彼は人間の顔をしていない。顔の血管が浮き出て目が飛び出るほどに見開いていた。彼は何度も私を揺さぶってきた。勢いよく木にぶつかった背中に痛みが走る。

「そんなの認めるものか!お前はずっと俺のものなんだ。直人が好きだ、直人を愛してると言え!」

恐怖のあまり声の出し方を忘れてしまった。私はただ呆然として彼を見ていた。涙も出てこない。永田はさらに腹を立てて私の肩を握った。肩が取れそうなほどの力だ。痛くてたまらなかった。

「なんで何も言わないんだ。この口なし女が!」

彼は私を地面に投げ捨てた。私はすぐに死を覚悟する。このまま殺されてもおかしくない状況だ。うつ伏せになって倒れた私の両腕を素早く掴んで彼は言った。

「もう一度チャンスを与えてやる。今すぐ好きだと言わなかったらどうなるか…。」

これは完璧に脅迫だ。彼は私の泣きそうな顔を覗き込むと満足げな笑みを浮かべた。

「お前は可愛いから心配なんだよ。俺がいないと変な男に捕まっちまうんだ。この子犬ちゃんの飼い主はこの俺だ。分かるだろ?」

訳の分からない言葉を並べて気味の悪い笑い声をあげた。私は体全体が大きく震えるのを感じる。花火は思ったより長く打ち上げられているようで周りに人の気配がない。私は相変わらず声を出せなかった。するとオオカミは私の背中を何度も蹴った。こんなに苦しいのに助けを求める声すら出せない。私はこのまま死ぬのだと諦めかけたその時、どこからか男の声が聞こえた。

「おい。そんなところで汚いやり方をするな。」

凛とした良く通る声だ。永田はようやく足を止めた。私の腕を乱暴に離し、声の聞こえる方向を探った。

「さっさと姿を現せ。この臆病者が!」

永田が怒鳴ると、声の主がゆっくりと姿を現した。両手をポケットに突っ込んで悠々と歩いてくる。

「ちっ…またお前か。邪魔すんじゃねえよ。この女は俺のものだ!」

彼の姿をみるやいなや、オオカミのように彼を襲っていく。シロクマは俊敏な動きで彼の攻撃を避け、永田の前に出てから回し蹴りを決めた。オオカミは痛そうに声を上げ、その場に倒れ込む。今宮は叫んだ。

「東江、下駄を脱いで逃げろ!」

「そうはさせるか!」

永田はすぐに立ち上がり、今宮の背後から何かを振りかざす。私は涙で視界がぬぐんで前がはっきり見えなかった。おそらく太い木の枝か何かだろう。思わず目をつぶったが、しばらくしてゆっくりと開けるとオオカミは恐怖に満ちた表情でシロクマを凝視して倒れていた。この勝負も今宮に旗が上がったのだ。

とその時、プラスチックの容器が勢いよく落ちる音が近くで聞こえた。そこにはいつの間にいたのか亜香里の姿があった。せっかく買ってきた焼きそばが足元に転がっている。彼女はその場でしゃがみこんで大号泣した。

私たちは無言のままうつむくしかなかった。


夏の空はもう真っ暗で多くの星が輝いて見えた。提灯の明かりも一段と綺麗に映える。さっきよりも人が増えて食べ物のいい匂いがより一層漂っている。私たちは人っ気の少ない神社の裏にある公園のブランコに座っていた。あの後、永田は全速力で走ってどこかに逃げてしまったから三人でここまで来たのだ。私は自分と永田との関係、今まで起きたことを全て話した。亜香里には気の毒な思いをさせることになるが、隠すことなく赤裸々に明かした。彼女も今宮もただ黙って私の話を聞いてくれた。

「…っていうことだったの。亜香里、本当にごめんなさい。それに、今宮くんにも迷惑かけて申し訳なかった。心の底から反省してる。ちゃんとあの人とも話を付けておかないといけなかったし、亜香里にも早く伝えるべきだった。私にあれほどの執着心があったのは想像もしなかったけど、そんなのただの言い訳だから。私が全部悪かったんだ。」

深く頭を下げると、すぐに亜香里が口を開いた。

「志帆…本当に大変だったのね。あんな男にからまれて。気付いてあげられなかったのが申し訳ないわ。」

予想外の言葉だった。私は亜香里の人格が今宮の噂の件で反省した時から大きく変化したように思えた。今宮もそう思っているのか目を丸くして彼女を見ている。亜香里が私を抱きしめてきたので、私の目に涙が貯まり始めた。背中をさすられると自然と涙の粒がこぼれていく。

「亜香里もあんな男とは別れてやるわ。志帆が分からせてくれたんだから。あんなに恐ろしい人だなんて思わなかった。しつこくされたら警察呼んでやる。」

彼女は私を離すと、身を震わせてつぶやいた。私も同感だとうなずく。隣で夜空を眺めている今宮に亜香里は目を向けた。

「今宮くんってほんとに勇敢で強いわよね。それに、なんであそこに二人がいるのが分かったわけ?今宮くんに教えられて行ったとき、あんなところに人がいるなんて私は思えなかったけど。」

彼は透き通った茶色の瞳で私たちを見た。服はさっきの戦闘で茶色く汚れていた。

「途中まで尾行してたんだ。でも、大塚たちに捕まっちゃって。横から頭を叩かれて反射的に相手を蹴り倒したら一瞬で逃げて行ったけど、そのせいで目で追ってたのが分からなくなった。勘だったけど、あそこにいそうだって感じて、田辺に伝えてから行ったんだ。」

「そんな...大塚たちに叩かれたの?」

私は彼の頭を観察すると、右上に大きめのかさべたができているのを発見した。彼は平気だとほほ笑んだ。彼が平気でも私が許せないのだ。そして、申し訳ない気持ちが胸いっぱいに広がる。

その時、誰かのスマホの着信音が聞こえた。亜香里はバックから取り出してすぐに応答した。内容的に母の沙織からのようだ。神社に戻ってこいと言われたらしい。

「亜香里、お母さんのところに行ってくるけど…二人はもう帰る?」

私はスマホの時計を見てもう8時半過ぎであることが分かった。夜の花火は9時から上がるらしいが、花火などどうでも良い気がしてきた。私が首を縦に振るのと今宮がそうすると言ったのが同時だった。それを見ると、亜香里は顔をくしゃっとして笑った。

「二人とも、ほんとに気が合うのね。兄妹に見えてくるわ。」


亜香里は浴衣はクリーニングに出さずに明日返してもらえばいいと言ってくれた。永田の襲撃のせいで浴衣に汚れがついてしまったのに、彼女は寛大だった。いつか恩を返すと言ってお言葉に甘えることにした。

帰りは今宮と一緒だった。そのお陰で何も心配することなく夜道を歩くことができる。

「本当に怪我してないんだよな?あの人、随分興奮してたみたいだったけど。」

あの人、永田のことだ。私は肩と腕が少し痛んでいるが、そのことは言わずに大丈夫だと伝えた。彼は少し安心したように顔を前に向けた。彼の横顔を大きなキャンバスに描きたいと改めて感じる。

「悪かったな、東江。もっと早く行ければ良かった。」

今宮の目に涙の膜が張っているような気がして私は慌てて言った。

「お願い、謝らないで。私はいつも今宮くんに助けてもらってばかりで、それに私のせいで怪我させてばかりで…もうどうすればいいか分からない。何も恩返しできないし…。」

途中で泣き声になってしまう。今まで抑えていた感情が一気に溢れ出てきた。今宮は足を止めて私の背中を優しく擦る。そういうことをされるとさらに涙が止まらなくなる。

「今宮くん…。どうしてそんなに優しいの?そんなに助けてくれるのはなぜ?」

息が上がりながら彼に尋ねると、彼は瞳孔を全く動かさずに即答した。

「傷を負う気持ちがどんなに辛いものか理解できるからかな。」

彼の声はいつもよりはっきりしているようだった。しかし、彼の顔には諦めたような笑顔が作られている。私は腫れた目で彼の次の言葉を待つ。彼はぷっくらした白い頬を掻きながら夜空に目をやった。

「俺はテニス部を退部させられた。たぶん、他のみんなは俺が勝手にやめたとでも思っているだろうけど。」

海辺に貝を拾いに行ったときの亜香里の話が頭で再生された。今宮の横顔が街頭の光に照らされて寂しげに見える。周りには誰もいない。閑静としている中で彼の綺麗な声が響く。

「部員たちは最高の仲間だったよ。何でも話せたし、一緒にいて楽しくてさ。気の置けない友達だった。これは俺の本心。でも…あいつらは違った。高1の秋…俺だけが県大会出場を決めた瞬間、全員敵になった。表向きでは仲良しごっこしてたけど、部室の中ではいじめ放題…。」

今宮は突然言葉を詰まらせた。首筋に汗をかいている。相当ひどいことをされたに違いなかった。私が顔をのぞかせると、彼はまた話し始めた。

「それでも、負けたくなかったから部活は続けた。県大会も出たかったし、とにかく頑張った。でも…県大会の一か月前、俺の秘密があいつらにバレちゃって。退部しなかったらそれを言いふらすって脅されて辞めたんだ。今年の春に。先生にもコーチにも止められたけど、仕方がなかった。」

「…秘密?あの災害で両親を亡くしたこと?」

私が聞くと、今宮は首を横に振る。

「前にもいじめられた経験があるってこと?」

「そういうことは既にあいつらに言ってたんだ。まだ信頼してた頃にね。」

彼はかぶりを振って苦笑した。じゃあ他にどんな秘密があるのか。私は気になって仕方がないと言わんばかりの顔で彼を見つめた。彼は私の目を見ると、頭をかいた。

「ごめん…東江にも言えないことなんだ。」

「そんなに大変な事情なの?私にも言えないくらい?」

「いや、まあ、俺にとってはかなり重大なことなんだ。俺があの日、あんなところに置いてしまったのが悪かったんだけどな…。」

彼は悔しそうに唇をかんだ。県大会にも出場できたものをその秘密を言われることだけで諦めてしまうなんて。よっぽどの秘密に違いない。沈着冷静な今宮がそこまで追いやられてしまうほどの大きなことか…。

私は肩を落として歩き出した。

「その秘密を聞いてあげられたら、やっと今までの恩返しできそうなのに。」

「恩返しなんて俺は求めてない。東江が笑っていればそれで良いんだ。」

彼の言葉が胸に突き刺さる。心拍数が途端に増えたように感じてしまう。私は返答に困って黙り込んだ。

その時、ドーンと大きな爆発音が後ろから聞こえた。2人で振り返ると、そこには夜空を彩る夏の風物詩が高く打ち上げられていた。遠くから興奮する人たちの声も聞こえてくる。スマホの時計は9時だった。

止めどなく光を放つ夜空の花びらを見つめ、彼は言った。

「一瞬でもいいから輝いてみたいな。」

キョトンとした顔を向けると、彼はほほ笑んだ。

「あの花火みたいに。」

そうつぶやく彼の笑顔には強い哀愁が漂っていたー。


(続く)


自己への問い、人間関係、孤立、噂、心の葛藤…。

激動の青春時代に私たち人間はこのようなことで大きな壁にぶち当たることが多いでしょう。

主人公の志帆ちゃんも今宮くんも、この小説に出てくる人物全員が多くの悩みを抱えながらも自分の人生を全うしていきます。これから明かされる今宮くんの知られざる”秘密”も見どころです。

〈下〉の方も、楽しみながら少し感動しながら読んでいただけたら嬉しいです♬


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