プロローグ:愛の代償
夜の闇が深まる中、森の小道を一組の夫婦が急ぎ足で進んでいた。女性は腕に小さな包みを抱き、男性は周囲を警戒しながら歩を進める。時折、遠くから犬の遠吠えと人々の怒号が風に乗って聞こえてくる。
「早く、レイラ。彼らが追いついてくる」
紫がかった黒髪の男性、ザイルは妻の背中に手を添えた。彼の目は暗闇の中でわずかに赤く光っている。
「でも、アルトを……このまま置いていくなんて……」
レイラは腕の中で眠る幼子を見つめた。わずか三歳のアルトは、母親の温もりに包まれ、何も知らずに安らかな寝息を立てている。その小さな額には、かすかに紫がかった産毛が生えていた。
「他に方法はない。俺たちが一緒にいれば、アルトは常に危険にさらされる」
ザイルの声は強く聞こえたが、その瞳には深い悲しみが宿っていた。彼は息子の頬に触れ、小さく震える指で愛しい顔の輪郭をなぞった。
「あの戦争さえなければ……」
レイラの言葉は途切れた。五年前、人間と魔族の間で勃発した大戦は、両種族の間に深い溝を作り出した。人間たちは魔族への憎しみを募らせ、魔族の血を引く者たちを容赦なく追い詰めていった。
ザイルとレイラの愛は、そんな時代に芽生えた禁断の恋だった。高位の魔族の血を引くザイルと、人間の女性レイラ。二人の間に生まれたアルトは、両方の世界に属しながら、どちらの世界にも受け入れられない存在だった。
「あそこだ」
小さな村が見えてきた。二人が向かったのは、村はずれの小さな家。そこに住む老夫婦は、かつてレイラの命を救ってくれた恩人だった。
「マルタさん、ヨハンさん、お願いします」
レイラは震える手で扉をノックした。開いた扉の向こうには、優しい表情の老夫婦が立っていた。
「レイラ!どうしたの、こんな夜中に……」
マルタの言葉は、レイラの腕の中の幼子を見て途切れた。
「私たちの子です……アルトといいます。どうか……どうかこの子を守ってください」
レイラの声は涙で震えていた。ザイルは黙って立ち尽くし、拳を強く握りしめている。
「何があったの?」
「追われているんです。このままでは……アルトまで危険に」
老夫婦は互いに目を見交わし、無言でうなずいた。
「わかったよ。この子を預かろう」
マルタが優しくアルトを受け取ると、レイラは最後に息子の額に口づけをした。
「ママとパパはね、あなたをとても愛しているのよ。どうか…強く、優しく育ってね」
ザイルもまた、息子の小さな手を握り、額に口づけをした。その時、彼の目から一筋の涙が落ち、アルトの頬に当たった。
「いつか、お前が自分の道を見つけられますように」
別れの言葉を告げると、二人は再び闇の中へと消えていった。彼らの背後では、松明の光が徐々に近づいていた。
「魔物どもを見つけろ!」
「魔族の血を根絶やしにしてやる!」
怒号が夜の静けさを引き裂いた。
それから三日後、村から遠く離れた森の中で、二人の遺体が発見された。レイラの手には、小さな木彫りの鳥が握られていた。アルトへの最後の贈り物だったが、それが息子の手に渡ることはなかった。
村の老夫婦は約束通り、アルトを引き取った。彼らは子供の出自について誰にも語らず、ただ「遠い親戚の子」として育て始めた。しかし、成長するにつれてアルトの特徴は隠しきれなくなっていった。紫がかった髪、時折赤く変わる瞳…それは彼が魔族の血を強く引いている証だった。
アルトは知らなかった。自分が二つの世界の架け橋となるべき存在であることを。そして、彼の血の中に眠る力が、いつか世界を変えることになるとは。
小さな村で始まる物語は、やがて大陸全土を揺るがす冒険へと発展していく。